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第5話・前編:無味の日常と、スパイス香るエキゾチックなムース

 今日の「味覚の記憶」は、朝から穏やかな空気に包まれていた。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いが、店内にふんわりと漂い、カウンター席では常連客たちが、淹れたてのコーヒーを片手に、静かに新聞を読んでいる。


 彼らの「味」は、温かいミルクティーのような、じんわりと広がる「日常の満足」の甘みだ。

 俺の舌にも、その穏やかな甘みが心地よく広がり、心が落ち着くのを感じた。


 カラン、カラン。


 そんな静かな午前のひととき、ドアベルが、どこか頼りない、微かな音を立てた。

 顔を上げると、そこに立っていたのは、50代くらいの女性だった。


 彼女の服装はきちんと整えられているものの、全体的に地味で、まるで風景に溶け込んでしまうかのような印象を受ける。

 その表情は、感情の起伏がほとんどなく、まるで能面のように無表情だ。


 彼女の姿を捉えた瞬間、俺の舌に、水のように薄く、何の個性もない、無味の「味」が広がった。

 それは、驚くほどに感情の気配がなく、まるで色を失った絵画を見ているような感覚だった。


 微かな甘みも、苦味も、酸味も、辛味も感じられない。

 ただ、ひたすらに「無」。


 女性は、ゆっくりとカウンター席に腰を下ろした。

 その動きは機械的で、まるで感情を持たない人形のようだ。

 彼女の視線は、ショーケースのケーキにも、店内の装飾にも向けられることなく、ただ虚空を見つめている。


「ご注文は……」


 俺は、いつものように穏やかな声で問いかけた。

 彼女の「味」が、あまりにも無味であることに、俺は戸惑いを隠せない。


 女性は、メニューを手に取ったものの、その指先は震えることもなく、ただページをめくる。


「……何でもいいわ。甘いものでも、甘くないものでも。特に、希望はありませんから」


 彼女の声は、抑揚がなく、まるで感情を読み上げる機械のようだ。

 その声に、やはり何の「味」も感じられない。


「何か、お悩みですか?」


 俺は、彼女の「無味」の感情の奥に、何か隠されたものがあるのではないかと感じ、そっと問いかけた。


 女性は、俺の言葉に、ゆっくりと顔を上げた。

 その瞳には、何の光も宿しておらず、まるで深い海の底を見ているような感覚に陥る。


「悩み、ですか……。そうですね」


「毎日、同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ仕事をして、同じ時間に帰る。食事も、いつも同じようなものばかり」


 彼女の言葉は、まるで日記を読み上げているかのようだ。

 その言葉一つ一つに、感情の「味」が乗っていない。


「夫も子供もいますし、特に問題があるわけでもありません。平穏、と言えば平穏です。でも……」


 そこで、彼女の言葉が途切れた。

 その沈黙の中に、ほんの、ほんの微かに、「虚無感」の、薄い苦味が混じった。


「でも、何でしょう? 何を食べても、何を見ても、何の感動もありません。美味しいと感じることも、嬉しいと感じることも、悲しいと感じることも……。まるで、感情が、どこかに消えてしまったみたいで」


 彼女の声は、相変わらず抑揚がないが、その言葉の奥に、微かな「諦め」のニュアンスが感じられた。


 彼女の「味」は、薄い苦味が、さらに薄い「無味」の中に溶け込んでいく。


「まるで、ロボットになったみたい。毎日を、ただ消化しているだけ。生きている、という感覚が、もう何年もありません」


 彼女は、自嘲するように、微かに口元を歪ませた。

 その歪みにさえ、感情の「味」は感じられない。


 俺は、彼女の言葉に、深い衝撃を受けた。

 感情の「味」を感じ取る俺にとって、「無味」は最も恐ろしい状態だ。


 それは、生きているのに、生きている実感がない。

 人生の彩りを失い、ただ時間が過ぎていくのを待つだけ。


 それは、まるで、俺自身の「味覚」が失われてしまうかのような、想像を絶する恐怖だった。


 俺自身の過去にも、似たような経験があった。

 この能力を持つことで、あまりにも多くの感情の「味」に晒され、心が疲弊しきった時期があったのだ。


 喜びも悲しみも、怒りも苦しみも、全てが津波のように押し寄せ、俺の心をかき乱した。

 その結果、俺は感情の「味」を感じ取ることに、ひどく疲れてしまった。


 まるで、味覚が麻痺してしまったかのように、どんな「味」も、薄く、ぼんやりとしか感じられなくなったのだ。

 あの時の俺の「味」は、まさに「無味」だった。


 何を食べても、何を作っても、何の感動もない。

 パティシエとして、それは死を意味した。


(このままでは、俺は何も作れなくなる)


 そう思った時、俺は、自分の中に残る、かすかな「好奇心」の甘みを頼りに、旅に出た。

 世界中の珍しい食材、新しい調理法、そして、様々な人々の「味」に触れることで、俺の「味覚」は少しずつ、けれど確実に、回復していったのだ。


 特に、異国の地で出会った、今まで嗅いだことのないような、複雑で、刺激的なスパイスの香りは、俺の「味覚」を覚醒させるきっかけとなった。

 シナモン、カルダモン、クローブ、ナツメグ……。

 それらのスパイスが織りなす香りのハーモニーは、俺の心に、忘れかけていた「情熱」と「好奇心」の甘みを呼び覚ましてくれた。


 彼女の「無味」の感情は、俺自身の過去の経験と重なる。

 彼女は、日常のマンネリの中で、感情の「味」を失ってしまった。


 だが、その奥には、きっと、かつての「情熱」や「好奇心」の「味」が、眠っているはずだ。

 その「味」を、もう一度呼び覚ましてあげたい。

 彼女の人生に、再び、鮮やかな彩りを取り戻してあげたい。


「承知いたしました。では、今日は、あなたが今まで味わったことのないような、特別なデザートをお作りしましょう」


 俺は、彼女の「無味」の感情に、新しい刺激を与えることを決意した。

 女性は、俺の言葉に、何の反応も示さない。ただ、虚空を見つめている。


 だが、その瞳の奥に、ほんの、ほんの微かに、”疑問”と”微かな好奇心”の、薄い甘みが灯ったのを、俺は見逃さなかった。

 それは、まるで、長い冬眠から目覚めようとする、小さな命の息吹のようだ。


 その小さな変化が、俺の背中を、そっと押してくれた。


 俺は、彼女の”味”を深く感じ取りながら、固く決意し、厨房へと向かった。

 彼女の心に、再び、鮮やかな”味”を届けたい。その一心だった。

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