第4話・前編:苦い嫉妬と、分かち合うチョコレートケーキ
午後の日差しが「味覚の記憶」のガラス窓から差し込み、店内に温かい光を投げかけていた。
カウンターには、午前の喧騒が落ち着き、ゆったりとした時間が流れている。
ショーケースの中のタルトやプディングが、その光を浴びてキラキラと輝いている。
焼きたてのクッキーの甘い香りが、店中に満ち、常連客たちの穏やかな笑い声と、コーヒーカップが触れ合う軽やかな音が、心地よいBGMのように響いていた。
俺の舌には、先ほどまで店を賑わせていた常連客たちの、満足げな「日常の甘み」が、まだ微かに残っていた。
それは、まるで、陽だまりのような、穏やかで、じんわりと心を満たす甘さだ。
カラン、カラン。
そんな静かで満ち足りた午後のひととき、突然、ドアベルが、どこか重苦しい、不協和音のような音を立てた。
その音は、店内の穏やかな空気を一瞬にして切り裂くかのようだった。
顔を上げると、そこに立っていたのは、俺と同じくらいの年齢だろうか、一人の若い男性だった。
彼の服装は、清潔なはずの白いコックコートだが、その襟元はわずかに乱れ、袖口には薄く粉のようなものが付着している。
その背中には、まるで目に見えない重い荷物を背負っているかのような、深い疲労と、張り詰めた緊張が滲み出ていた。
彼の表情は硬く、眉間には深い縦皺が刻まれている。
彼の姿を捉えた瞬間、俺の舌に、焦げ付いた砂糖のような、鋭い苦味と、微かな酸味が、一気に、そして容赦なく押し寄せてきた。
それは、まるで、まだ熟しきっていない、青臭いカカオ豆をそのまま噛み砕いたかのような、舌の奥に残る不快感だ。
苦味の奥には、熱を帯びた、けれどどこか冷たい「辛さ」も感じられる。
これは、ただの疲労や悲しみではない。
もっと複雑で、強く、そして彼の内側で荒れ狂っているような、激しい感情の「味」だ。
男性は、カウンター席にゆっくりと、まるでその場に崩れ落ちるかのように腰を下ろした。
その動きには、どこかぎこちなさがあり、周囲を警戒するような視線で店内を、そしてショーケースの中のケーキを、まるで敵を見るかのように見回す。
彼の視線が、ショーケースの中の俺のケーキに向けられた時、彼の「味」の苦味が一層強くなった。
その苦味は、まるで俺のケーキが、彼の心の奥底にある何かを刺激したかのように、じりじりと舌を焼いた。
「ご注文は……」
俺は、いつものように穏やかな声で問いかけた。
その声が、彼の張り詰めた空気を少しでも和らげることを願って。
男性は、メニューを手に取ったものの、視線はそこに留まらず、宙を彷徨っている。
彼の指先が、メニューの端を、無意識に、けれど強く握りしめているのが見えた。
「えっと……コーヒーを。それと……何か、甘くないものを……」
彼の言葉が途切れ、沈黙が訪れる。
彼の「味」は、苦味と酸味の波が激しく打ち寄せては引いていく。
何かを言いたがっているが、言葉にできない、そんな葛藤が伝わってきた。
彼の喉の奥で、言葉にならない感情が詰まっているのが、俺にははっきりと感じられた。
「何か、お悩みですか?」
俺は、彼の「味」から感じ取れる苦しみに、そっと寄り添うように問いかけた。
無理に話させるつもりはない。
だが、彼の「味」は、まるで助けを求めているかのように、強く俺に語りかけていたからだ。
男性は、はっと顔を上げた。
その瞳には、突然核心を突かれたことへの驚きと、そして少しの戸惑いが浮かんでいる。
「え……?いや、別に……」
彼は、慌てて否定しようとしたが、その声は震えていた。
彼の視線は、俺の顔と、ショーケースのケーキの間を、落ち着きなく行き来している。
「いえ、その……実は、俺もパティシエなんです」
彼の口から出た言葉に、俺は少し驚いた。
やはり、彼の「味」の苦味は、彼自身の仕事に関わるものだったのだ。
コックコートを着ていた時点で、ある程度の予想はしていたが、まさか同業者とは。
「そうでしたか。それは、奇遇ですね。どちらのお店で?」
俺は、彼の言葉を遮らず、静かに耳を傾けた。
彼の「味」の苦味が、少しだけ、ほんのわずかだが、和らいだように感じられた。
同業者だと知って、少しだけ警戒心が解けたのかもしれない。
男性は、少しだけ俯き、絞り出すように話し始めた。
その声には、諦めと、深い疲労が滲んでいる。
「都内の……有名店で、働いています。でも、俺、最近、全然うまくいかなくて……。
周りの奴らは、どんどん新しいアイデアを出して、お客さんを魅了して、評価されていくのに、俺は……」
彼の「味」の苦味が、さらに濃くなる。
そして、その苦味の中に、「劣等感」の、じりじりとした渋みが混じり始めた。
それは、まるで、劣悪な環境で育った果実のような、未熟で、けれど強い酸味を伴う渋みだ。
「どんなに頑張っても、あの人たちみたいにはなれない。
才能がないんだって、毎日思い知らされるんです。
俺には、独創性がない。
誰もが驚くような、新しい『味』を生み出すことができない……」
彼の声には、深い絶望が滲んでいた。
その言葉が、彼の「味」の苦味を、さらに深く、暗いものにしていく。
彼の「味」は、まるで、才能という名の光に照らされ、その影で焦げ付いていくような、そんな苦しみを物語っていた。
彼の心の中で、才能ある同僚の輝きが、彼自身の存在を焼き焦がしているかのようだった。
俺は、彼の言葉を静かに受け止めた。
彼の「味」から、過去の俺自身の姿が重なって見えた。
まだ若かった頃、俺もまた、才能ある同僚に嫉妬し、自分の能力が足枷に感じられた時期があった。
人の感情の「味」を感じ取ってしまうこの能力は、時に俺を苦しめた。
特に、他人の喜びや成功の「味」を感じ取るたびに、
自分の不甲斐なさや、劣等感の「苦味」が、舌にまとわりついて離れなかった。
あの時の、心にまとわりつくような、焦げ付くような苦い感情を思い出す。
あの苦味は、自分を向上させるエネルギーにもなり得たが、同時に心を蝕む危険性もはらんでいた。
彼の苦しみが、痛いほど理解できた。
「……甘いものは、今の気分じゃない。
でも、何か、こう、深い苦みのある、チョコレートケーキのようなものが食べたいんです」
男性が、突然、具体的なデザート名を口にした。
その声には、苦い感情を、さらに苦いもので打ち消したいかのような、切実な響きがある。
彼の「味」は、その言葉と共に、一瞬だけ、微かな「渇望」の甘みを帯びた。
それは、彼が、この苦しみから抜け出したいと、心の底で願っている証拠だった。
俺は、彼の指定に驚きつつも、なぜ彼が「チョコレートケーキ」を求めたのか、その裏にある感情の「味」を探る。
単なる苦味の追求ではない。
チョコレートが持つ「癒し」や「複雑な深み」を彼が無意識に求めているのではないか。
チョコレートの苦味は、時に心を落ち着かせ、また、深い甘みと合わさることで、複雑な感情を表現するのに最適な素材だ。
彼のこの苦味を、チョコレートの苦味と調和させ、そして、その中に隠された彼の才能と希望の「甘み」を引き出す。
それが、俺にできることだ。
「チョコレートケーキですか……。承知いたしました。
あなたの心に寄り添う、特別な一皿をお作りしましょう」
俺は、彼の指定に応える形で、彼の感情の「味」に寄り添ったチョコレートケーキを創作する意図を伝える。
男性は、俺の言葉に、再び顔を上げた。
その瞳には、まだ苦しみが残っていたが、微かな「期待」の光が宿り始めている。
「……お願いします」
彼の声は、来店時よりも、ほんの少しだけ、柔らかくなっていた。
俺は、彼の「味」を深く感じ取りながら、固く決意し、厨房へと向かった。
彼の心に、このチョコレートケーキが、確かな光を灯すことを願って。