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彼氏のフリをする怪異の求愛が今日も止まらない

作者: 月屋




寂しい。誰か。誰でもいい。誰か俺を愛して。




◇◇◇




私は幸代胡桃ゆきしろ くるみ。大学二年の20歳だ。今は電気もつけず学生寮の自室の隅で膝を抱えて息を殺している。なんでそんなことをしてるかだって?私もこんなことしたくないよ。でもしょうがないじゃない。


背後からコツっという足音がして面白いくらい大袈裟に肩が跳ねる。コツコツとゆっくり近付いてくるその足音に、咄嗟に声が出ないように急いで口を両手で塞ぐ。そのまま部屋の前を通り過ぎてくれないだろうかと心の中で願ったけれど、そんな願いも虚しく足音は私の部屋の前で止まり、一呼吸おいてからインターホンが鳴らされた。


一回、二回、そして三回目の呼び鈴にも応えずに隠れていると、次の瞬間ドン!ドン!ドン!と扉を叩く大きな音が聞こえてきた。


私の通うこの大学の学生寮にはいくつか決まりがある。赤い服を着てはいけない。合わせ鏡をしてはいけない。靴を裏返して置いてはいけない等、よく分からないけれど不気味な決まりばかり。その中でも特にタブーだとされているのが“真夜中に誰かが尋ねてきてもドアを開けてはいけない”というものだ。


みんなその決まりだけは必ず守っている。何故なら実際に夜中の内にドアが開け放たれたまま行方不明になってしまった生徒が何年かに一度は出てしまうから。だから私も初めて夜中に誰かがインターホンを鳴らしてきた時は怖かったけどなんとか耐えられた。なのに、それからというもの何度も何度も夜中の24時以降に誰かが私の部屋を訪ねてくるのだ。最初は一カ月に一度のペースだったものが段々と1週間に一度、3日に一度になり、今はもう毎日だ。恐怖で眠れない夜が続き精神的にも体力的にも参ってしまい、いっそのことこのままドアを開けてしまえば楽になれるのではという考えさえ浮かぶほどだった。


でも、ドアを開けた先にもし恐ろしい化け物がいてそのまま食い殺されてしまったらと想像するとやっぱりドアを開ける気にはならない。その日もキッチンの陰に隠れながら、はやく何処かへ行ってと心の中で祈っていた。その時。




「胡桃…?」




聞き覚えのある声がドアの向こうから聞こえ、思考が一瞬止まる。




「胡桃いるんでしょ?俺だよ」




思わず物陰から顔を出す。人影があるのは小窓から見えるけれど、誰がいるかまでは分からない。でもこの声は確かに私のよく知る彼の声だ。




「瑞季、なの?」




恐る恐るドアに近づきそう声をかけると、ドアの向こうからなんだか安心したような声色で返事が返ってきた。




「そうそう。なんだ良かった。なかなか返事がないから本当にいないのかと思ったよ」


「どうしてここに来たの?」


「どうしてって…彼女の顔が見たくなったから。ダメだった?」




本当にいつもの瑞季の声だ。私がそっと覗き穴を覗くと、そこには二年前に交際を始めた彼氏の瑞季が確かにいて彼のトレードマークである外ハネの深緑の髪と穏やかな笑みを称えながらそこに立っていた。だけど、やっぱりおかしい。




「…帰って」


「え?どうして?」


「私たち、二か月も前に別れたじゃない。それに貴方は瑞季じゃないんでしょ?」




私の言葉に瑞季と名乗った相手は何も言わなくなった。


そう、私と瑞季は二か月前に別れた。原因は彼の浮気だったけど、私はそれでも彼のそばに居たかった。だから本当は遊ばれているって知ってからもそれを指摘せずに関係を続けていたのに。街で偶然別の女の人の肩を抱きながら歩いていた瑞季と鉢合わせてしまい、そこで私ははっきりと彼から別れを告げられてしまったのだ。本当はまだ彼のことが好きだった。でも、あんな風に言われてしまったらもう側にはいられない。ずっと側にいたから分かる。もう瑞季は私の元には帰ってこないだろうって。


だから、今目の前にいるのは瑞季じゃない。彼を名乗る偽物だ。


あまりにも長い静寂に焦ったくなった私は、もしかしたらもう何処かへ行ったのかもしれないと緊張しながらもまた覗き穴を覗いてみた。すると、穴の向こうにはドアに張り付いて私と同じようにこちらを覗き込む彼が真顔から急に笑顔になって言った。




「あーあ。バレちゃった」




思わず「ひっ!」と声を上げて後退りする。至近距離でこちらを覗き込む姿に狂気を感じ、衝撃で体が震えた。




「ねぇ、お願い胡桃。ここを開けて?俺はただ君の側にいたいだけなんだ」




ガチャガチャとドアノブが回される。鍵がかかっているため勝手に開くことはないけれど、どうにかして部屋に入って来ようとする意思がドアノブの音から伝わってきて余計に私の恐怖心を煽った。




「い、いや…」


「可哀想な胡桃。ずっと一人で寂しかったでしょう?俺なら君にそんな悲しい思いをさせたりしない」


「そんなの信じられない!お願いだからもう何処かへ行って!」




私の叫び声が響くと辺りは一瞬静寂を取り戻した。叫んだことと極度のストレスから上がった息を整えていると、今度はとても落ち着いた声が聞こえてきた。




「…俺ずっと見てたんだ。胡桃のこと。あいつと一緒にいて幸せそうに笑って、大切そうに寄り添う姿。すごく羨ましかったけど、俺は見てることしかできなかった」




一体何の話をしているのだろうと怪訝に思いながらもドアの方を見つめながら話の続きを待った。




「なのに、あいつは胡桃のことを裏切った。“重い”からなんて言葉で君を傷つけるなんて」


「!」


“あー、やっぱ無理。一途な恋愛とか俺には重いんだよね”




最後に瑞季から言われた言葉が脳裏に蘇る。なんでそんな事まで知っているのだろうか。ずっと見てたって、どこから?友達には相談したこともあるけどそんな頻繁じゃなかったし、やっぱり普通じゃない。




「あんなに真っ直ぐに愛されてたのに裏切るなんて許せない。胡桃が可哀想だ。だから俺があいつの代わりになりたい。また胡桃が笑えるように、俺があいつの代わりに君の側にいたいんだ」




切実な声がドア一枚を挟んだ向こう側から聞こえてくる。この言葉が真実かどうかなんて分からない。正直嘘をついている可能性の方が高いと思う。だけど、私が大好きだった彼の姿で、声で、そんな風に求められたら揺らいでしまう。




「なんで、そこまで言えるの?」


「…分からない」


「分からない?」


「俺、誰かを好きになったことなかったから。だけど、胡桃が泣いてると落ち着かないんだ。ずっと笑ってて欲しいって思う。だからこうして毎日会いに来てたんだけど…ごめん。怖がらせたよね」




彼は本当に怖い存在なのだろうか。見た目を他人に変えられることや普通の人には知られるはずのないことまで知っていることはやっぱり不思議だけど、あんな風に誰かを思う姿は人間と変わらないのではと思ってしまう。気付けば私の中にあった恐怖心はほとんどなくなっていた。それどころか彼に対する同情のような気持ちさえ湧いていた。だって、大切な人に拒絶される痛みがどれほどのものなのか、私は知っているから。




「今まで怖い思いをさせてごめんね。もうここには来ないよ。さよなら、胡桃」


「えっ。ま、待って!」




気付けば体が勝手に動いていた。ドアノブを回し、ガチャリと音を立てて扉が開く。ドアの向こうにいたのは驚いた顔をした瑞季だった。こうして見ると本物の彼とどこが違うのか分からないほどそっくりだ。




「胡桃…いいの?」


「いい…というか。今のは咄嗟に…」


「ふふ。俺のことが可哀想になっちゃった?」


「…えっと、まぁちょっとだけ」




お人好しだね、と笑って瑞季…みたいな奴は私を抱きしめた。突然のことに驚いて叫びそうになった時、不意に鼻先を掠めた香水の香りに体が固まる。この匂いは瑞季がよく着けてた香水だ。こんなところまでそっくりに似せられるものなの?




「胡桃。そう身構えないで?俺のことは、胡桃と別れる前の瑞季だと思ってくれればいいから」


「そんな都合の良い…」


「都合が良くていいんだよ。ほら、俺を見て?あいつと何処か違う?」




その問いかけに彼の腕の中から顔を上げてよく見まわして見る。外に跳ねた深緑の髪に切れ長の青い瞳。左目の下のほくろ。顔や声、着ている服や香水。少し数の多いピアスとシンプルな腕輪に指輪。どこを取っても彼と瓜二つ。私がそっと彼の頬に手を伸ばすと彼の方から近づいてきて私の手に擦り寄ってきた。懐いた猫の甘えるようなその仕草まで一緒だなんて、もう瑞季そのものだ。




「みず、き…」


「うん。なぁに?胡桃」




ゆっくりと彼の背中に腕を回す。その感触まで記憶の通りで、懐かしさと安心感に思わず涙が溢れた。




「瑞季…瑞季…っ」


「うん」


「もう、何処にも行かないで」


「うん。ずっと、胡桃の側にいるよ」




これが都合の良い夢かもしれないと思いながらも、私は縋らずにはいられなかった。この二か月間、もう戻ってこないと分かっているのにいつか気まぐれに帰ってくるんじゃないかとそんな期待をいつまでも捨てられずにいたから。嘘でもいい。夢でもいいから、もう私を置いていかないで。


そんなことがあってから、瑞季は毎日夜になると私の家にやってくるようになった。現れるのがいつも真夜中なせいで相変わらず寝不足だけど、彼は私が眠りにつくまでずっと側にいてくれるから前よりは眠れていると思う。




「なんだか本当に瑞季みたい」


「俺は瑞季だよ?」


「いや違うよね?」


「もー、またそんなこと言って。瑞季ってことでよくない?俺かなしい」




そうやってグスングスンと嘘泣きをしながら私に抱きついてくる彼に、私は仕方ないなと思いながら頭を撫でてあげた。そういう甘えたがりな仕草も彼にそっくりで頭では別人と分かっていても混乱してしまう。




「どうしてそこまで似せる事が出来るの?そもそも瑞季って何者?」


「うーん…そういう能力としか説明できないなぁ。あんまり自分のこと話すと俺消えちゃうから」


「え?」


「正体が知られると消えるんだ。そういう怪異って他にもいるでしょ?」


「怪異…」




確かにこの世界には怪異という心霊的な不思議な事象が多く存在している。毎年各地で怪異による死亡事故や行方不明者が多く出ていて、祓い屋と呼ばれる怪異を鎮めることを生業とする人たちもいるほどだ。だから私も、彼の言う“正体を知られると消える”怪異がいることも知っていた。




「そう、だったんだ。やっぱり瑞季は人じゃないんだね。ちゃんと理解してたつもりだったけど…」




いざ言葉にされるとやっぱりショックだった。ここ数日一緒に過ごして、彼の心の温かさに触れて私の心も次第に彼に惹かれ始めていた。もし本当にこのままずっと一緒にいられるならと彼との未来を想像したこともあったのに。人と怪異が一緒になって幸せになることはない。人の都合と怪異の都合は似ているようで違うから。いつかは別れなくてはならないのだろう。


私の考えていることが顔に出ていたのか、瑞季は少し寂しそうに笑って私を見た。




「胡桃は俺に消えてほしい?」


「えっ?」


「俺は胡桃に必要とされなければここにいる意味がないから。もし本当に俺を遠ざけたいならそれでもいいよ」


「そ、そんなことない!私貴方に出会ってから毎日楽しいの。ずっと空いてた穴が埋まったみたいに楽しくて、幸せ。だからそんな事言わないで」




私が必死にそう訴えると瑞季はぱっと嬉しそうに笑って私を抱き寄せた。




「良かった!じゃあこれからも一緒に居られるね」




そうしてしばらく抱き合ったあと、不意に彼の顔が迫ってきてキスされた。こうやって不意打ちでキスしてくるところも彼らしい。私が驚いて顔を赤くするのを見て嬉しそうににまにま笑っているのだ。私が何か反論しようとするとまたキスをされて、その後どんどん深くなる。気が付けば背中が床についており、彼がシャツを脱いだのを見て思わず顔を逸らした。




「どうしたの?気分じゃなかった?」


「そうじゃなくて…その、しばらく間が空いたからなんだか恥ずかしくて」




言ってから余計に羞恥心が込み上げてきて更に頬が熱くなる。思わず両手で顔を隠そうとすると、その手を掴まれて床に縫い付けられてしまった。そして首筋を吸われ、ぴくりと反応を示した私を見下ろして言った。




「じゃあ、今から俺が全部思い出させてあげるね」




たった今、彼と瑞季は別人であると再認識したはずなのに“思い出させてあげる”とはどういうことだろうか。けれど、今まで彼が記憶の中の瑞季と反した行動をしたことは一度もない。きっと今から行われる行為も寸分違わずに再現してみせるだろうことは予想できた。元彼との行為を元彼と瓜二つの別人に再現されるという羞恥心と、また同じように触れてもらえるという期待が同時に押し寄せてきて頭も心臓もパンクしそうだった。


その後くらいからだろうか。瑞季はなんと昼にも顔を出すようになったのだ。勿論大学の講義もあるので平日はほとんど会えないけれど、休みの日は毎日だ。その分夜に顔を合わすことは減り、私もゆっくり眠れるようになった。そんな関係が続いて気が付けば一年が経ち、私と瑞季はほとんど普通の人間同士のカップルと変わらない関係になっていた。


ある日、私は映画館で瑞季とデートの待ち合わせをしていた。開場まであと少し。そろそろ瑞季も来る頃だろうとスマホから顔を上げた時、丁度映画館の前を通り過ぎようとしていた女性と目が合った。


派手な服に派手なメイク。以前の瑞季が好きそうなファッションだなと思っていると、その女性が私が瑞季に振られた時に彼の隣にいた浮気相手だったことに気づいてしまった。




「あんた…」




向こうも私の事に気付いたようですぐにこちらに向かってくると急に大きな声で話しかけてきた。




「ねぇあんた瑞季の元カノでしょ?あんときフラれてた」


「え、えーと、何のことですか?」


「とぼけてんじゃねーよ。しっかり見てんだからな。最近瑞季と全然連絡取れないんだけど、あんた何か知ってんでしょ?」




瑞季と連絡が取れない?それって、この人もフラれたってこと?元々色んな人と付き合ってたみたいだし、急に連絡が途絶えることもあるのかも。でも、なんか…気になる。




「何してるの?」




私が女性に迫られている最中、なんと瑞季が来てしまった。勿論私と待ち合わせしていた怪異の方だけれど、きっとこの女性には本物の瑞季にしか見えないだろう。何というタイミングだろうか。私が焦って瑞季を庇おうとしたところ、女性が私を押し退けて瑞季の体に触れた。それを見た瞬間、胸の内側にもやもやとしたものが広がった気がして驚く。今まで瑞季が浮気相手と一緒にいるのを見てもこんな気持ちにならなかったのに、何だか今はすごく嫌だ。




「瑞季!なんであの女といるの?意味わかんないんだけど!」


「あー、ごめん。やっぱ俺胡桃じゃなきゃダメみたいでさ」


「は…はぁー!?なにそれ!一途なのは重いとか言ってたくせになんなのよ!」




今にも暴れ出しそうなほどの怒りをぶつける女性に私も止めに入るべきか悩んでいると、瑞季は彼女の目を見て真剣な表情で言った。




「離れてから気付いた。胡桃は俺にとって特別だって。だから俺、沢山悲しませた分、今からでも胡桃のこと幸せにしてやりたいんだ」




瑞季の言葉を聞いて一瞬時が止まったような感覚になる。本人じゃないことは分かっているのに、なんだか本当の瑞季に言われたような気持ちになった。


けれどそんな感覚も鳴り響いた張り手の音で簡単に解けてしまった。




「あんた本当に最低!あんたみたいなクズが誰かを幸せになんて出来るわけないでしょ!バァーカ!」


「瑞季!」




女性は瑞季の頬を思い切り引っ叩くとそのまま怒りながらどこかへ行ってしまった。気の強そうな人だとは思っていたけど想像通りの人だったな。私には瑞季の頬を叩くなんて考えもしなかったのに。




「あいたた…」


「大丈夫?思い切り叩かれちゃったね」


「大丈夫大丈夫。それより勝手なことしてごめんね。俺が何か言わないとどうにもならなさそうだった、から…え!?ど、どうしたの?さっきの人になんか言われた?」


「え?なにが?」


「なにって、胡桃が泣いてるから」


「え…」




瑞季に指摘されて慌てて頬を触るとたしかに濡れていた。一体いつから泣いていたんだろう。思い返してみて心当たりがあったのは、やっぱり瑞季のあの言葉だった。




「瑞季がああ言ってくれて嬉しかったんだと思う」


「さっきの胡桃を幸せにしたいって言ったやつ?」


「そう。フラれた後も私ずっと瑞季が帰ってくるの待ってたから。いつか私の元に現れて“別れてから大切だったって気付いた。今度こそ幸せにしたい”って言って欲しかったんだと思う」


「胡桃…」




泣きながらそんな事を言う私を瑞季は優しく抱きしめてくれる。私はもう彼に十分幸せにしてもらった。欲しかった言葉も沢山もらった。本物の瑞季じゃなく、今目の前にいる瑞季から。だからこれからは彼に私の気持ちを返したい。私に沢山の幸せをくれた彼を私も幸せにしたいから。




“……寂しい”




「えっ?」


「どうしたの?」




突然何か声のようなものが聞こえた気がして思わず後ろを振り向く。けれど、そこには何もいない。映画を見に来た人たちが楽しそうに行き交うだけだ。




「なんでもない。気のせいだったみたい」


「そっか。じゃあちょっと遅くなっちゃったけど、今からなら本編には間に合うから映画観に行こうか」


「うん!」








◇◇◇

???視点




繁華街の雑居ビルが建ち並ぶ路地裏に今にも消えそうな人形の影がいた。俺は大好きな胡桃からのメッセージに思わず笑顔になりながら返信をしてスマホを仕舞うと、その頼りない影に近付き声をかける。




「随分探したよ。もうほとんど気配もないから追うのが大変だった」




影は黙ったままだったけど、俺は構わずに話を続ける。




「俺就職が決まったんだ。胡桃のために安定した仕事にしたかったから沢山努力したよ。彼女も喜んでくれて、このあとお祝いしてくれるんだって。どう?羨ましい?」


「……」


「まぁお前がどう思おうと今更どうすることも出来ないけどね。今日は仕上げをしに来たんだ。これでもうお前に会うこともなくなる」




そう言って無反応な影に触れると影から半透明な白いモヤのようなものを抜き取ってそれを自分の口の中に突っ込んだ。すると、頭の中に映像が流れてくる。最初はノイズが混じっていたものが徐々に鮮明になると、目の前にはベッドに横たわって眠る胡桃の姿があった。ゆっくりと手を伸ばして頬を撫でる手つきはとても優しい。




「…やっぱり俺には無理だ」




声の主は今胡桃を撫でた俺…ではなく、この記憶の持ち主である本物のたちばな 瑞季みずきだ。




「俺は弱いから。お前からもらったものを返せない。胡桃を幸せにしてやれない」




彼女を起こさないようにするためか、小さな声で続けられる独白。




「きっと胡桃にはもっといい男がいっぱいいるよ。俺には、胡桃はもったいない」




ごめん、と続けられた言葉は弱々しく震えていた。流れ込んできた感情はひどく悲しくて、本当はこんな言葉を彼女にかけたくはなかったという気持ちがひしひしと伝わってきた。


そして場面が切り替わり、今度は人通りの多い繁華街だった。隣には見覚えのある派手な服に身を包んだ女が嬉しそうに自分の腕に絡みついている。橘瑞季の心は彼女に向いているようで、そうではなかった。勿論彼女のことも快く思ってはいたが、それはいつでも関係を断てる気楽な関係であることが前提だった。心の中に胡桃への気持ちが残っていることは俺にも分かった。




「あー、やっぱ無理。一途な恋愛とか俺には重いんだよね」




そして偶然現れた胡桃に用意していた残酷な言葉を浴びせた。それが、彼女の中に自分への未練が残らないようにするための彼なりの手段だった。




「胡桃…ごめん……うぅっ」




それから橘瑞季は自暴自棄になり女と酒に溺れるようになった。こうなることも分かった上で彼は胡桃のそばを離れる決断をしていた。そして、一人で路地裏に入りえずいているその背後に、ゆらゆらと黒い影がやってきた。




“……寂しい”


「え…?」


“…愛されているのに捨てるの?”


「なんだ、おまえ…」


“いらないなら頂戴”


「なに、を?」


“………全部”




そこからは俺も知っている記憶だ。


記憶の刷り込みが終わると目の前にはまた橘瑞季だった影が現れる。そして俺の体は以前よりもしっかりとした存在感を持っていて、この状態なら祓い屋に見つかっても祓われる心配はもうないだろうということが分かった。


それにしても、最後まで俺に渡さず縋り付いていた記憶が胡桃への懺悔だったとは。俺は影を冷たく見下ろした。




「だからなんだ。俺はあの子を諦めたりしない。例え種族が違っても。お前の負けだ。大人しくそこで眺めてろ」




そう吐き捨てると俺は胡桃の待つ温かな家へと真っ直ぐに足を運んだ。








◇◇◇

胡桃視点




今日は両家の顔合わせの日だった。顔合わせは全て滞りなく進み、あとはもう家に帰るだけだ。




「瑞季のお義父さんもお義母さんも喜んでくれてて良かったね」


「うん。胡桃のご両親も優しそうで、胡桃とそっくりだなって思った」


「あはは。それを言うなら私が二人に似たんだよ」


「そっか。たしかに」




二人で笑い合いながら道を歩く。今は二人とも社会人になっていて二人で借りて住んでいるアパートに向かっていた。


そういえば、瑞季のお義父さんもお義母さんも瑞季のこと何も言わなかったな。最近はもうあまり気にしなくなっていたけど、瑞季は本人じゃない。なのに二人はなんの疑いもなく瑞季のことを本物の瑞季のように接していた。


息子が二人もいたらきっとどこかで辻褄が合わなくなるはずなのに。本当の瑞季はいまどこにいるのだろうか。




「ねぇ、瑞季。そういえば、本当の瑞季っていま何してるんだろう?瑞季は何か知らない?」




私がそう言って彼を見上げると、彼は立ち止まって不思議そうにこちらを見た。




「なに言ってるの?瑞季は俺でしょ?」


「え…」




たしかに瑞季は瑞季だけど。あれ?なんか、私おかしなこと言った?


自分の発言に違和感を感じて記憶を辿ってみる。大学二年生の頃、瑞季は二か月ほど音信不通になっていた時期があった。でも結局戻ってきてくれて、今まで浮気していたことも謝ってもう二度としないって約束してくれた。連絡が取れなかったのも今までの関係を精算していたからだった。


それからは瑞季もいつも通り優しかったし、浮気もしなくなった。何故私はあんなおかしなことを言ったのだろう。瑞季は一人しかいないのに。




「…ごめん。そうだよね。瑞季は瑞季だもん。変なこと言っちゃった」




私が恥ずかしそうに笑いながらそう言うと、瑞季は嬉しそうに笑って私の手を握った。




「そうだよ。俺は一人しかいないよ。今日は忙しかったから疲れちゃったんだね。帰ったら一緒にお風呂入ろう」


「えー。二人は狭いよ」


「大丈夫。俺は湯船の外から胡桃のこと眺めてるから」


「それじゃ瑞季が風邪ひいちゃうでしょ」


「じゃあ一緒に入ってもいい?」


「しょうがないなぁ」


「やったー!」




無邪気に笑って繋いだ手を掲げる瑞季になんだかおかしくて笑ってしまう。ああ、こんな日がこの先も続けばいいのに。




「瑞季」


「うん?」


「いつもありがとう。瑞季のおかげで私いま幸せだよ」


「俺も胡桃がいつも笑ってくれてるから幸せ」




自然と顔が近づいてキスをする。この先も彼が隣にいてくれるなら、きっとこの幸せが壊れることはないだろう。








◇◇◇




人通りの多い繁華街。その雑居ビルの路地裏を真っ黒な影が彷徨っている。


凍えるような寒さを感じて温かな光の漏れる建物に近寄るものの、寒さを和らげることは出来なかった。




“…ここはどこだろう。なんでこんなところにいるんだろう”




記憶のない影は自分が何者なのかも分からず街を彷徨い続ける。けれど弱々しい影を気にかける人間はおらず、ふらふらと風に流される紙切れのように浮遊するだけ。やがて元いた路地裏へと戻ってきてしまった。


しばらく眺めていると、ぴったりと寄り添いながら歩く男女の姿を見た。二人の幸せそうな表情を見て、寄り添える誰かがいれば自分も温かくなるだろうかと考えた。


けれどいくら探しても、彷徨っても、影を愛してくれる人間どころか気付いてくれる人間すら現れなかった。


影は一人凍えながら今日も路地裏で行き交う人々を眺めている。




“…寂しい。誰か。誰でもいい。誰か俺を愛して”








END

怪異×人間。ホラー×恋愛。いいですよね。もっと増えてほしくて勢いで書きました。

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