龍の峡谷⑩
――アルが龍と出会うのとほぼ同時刻。
「――真実の目を求める者よ」
声が頭の中に響き渡る。
左目は瑠璃色、右目は真紅。
その表皮は美しい純白の鱗に包まれている。
大きな翼を折りたたみ、目の前に佇む、その圧倒的存在感を放つ巨躯。
峡谷の岩山の乾いた大地の上で寝袋に包まり、アルと共に眠っていたはずだったエルは、気付けば知らない場所に居た。
周囲を見回してもアルの姿は無い、ここにいる人間は自分一人。
そして、目の前には“龍”の姿が有る。
足元は先程までの乾いた大地ではなく、絵本の中の世界の様に草葉と花々が生い茂り、水の流れる音も聞こえてくる。
ここは峡谷のどこかの洞窟の様な場所らしい。
上を見上げると、天井の空洞から見覚えの有る月と星明りが降り注いできていた。
ふと自分の身体に目を落とすと、いつもの『認識阻害』のローブを羽織っていないし、昨日着ていた服とは違い、森の中でいつも着ていた見覚えの有る白いワンピースを着ていた。
そこでやっと、ここは現実世界ではなく、自分が夢の中の様な、心象世界に居るのだと理解した。
通りで誰も龍の住処を見つけられないはずだ。
峡谷をどれだけ歩き回って探しても無駄なのだ。
普通は龍の心象世界へ入り込むなんて思いつきもしないし、不可能だろう。
偶々自分は峡谷で眠り、夢の世界を彷徨う内に、龍の世界へ誘われたのだろう。
「わたしの問いに、答えてくれますか」
やっと龍に会えた。
エルは目を輝かせて、龍に確認をする。
目の前にいる白い龍、おそらく峡谷に住むと言う“真実の目を持つ龍”だろう。
であれば、その元へ辿り着いた自分にもその真実の目を使う権利が――龍へ真実を問う権利が有るはずだ。
しかし、龍からの返答は、
「――権能の行使は一人につき一度までだ」
という物だった。
龍に会えた嬉しさに胸を高鳴らせていたところに、突きつけられる龍からの拒否の意志。
浮きたつ心が冷や水を浴びせられたように、急に萎んでいくのを感じた。
「待ってください、わたしはまだ、何も――」
「――誓約は絶対だ。例外は無い」
エルの反論を意にも介さず、龍はその姿勢を崩す気はない。
おかしい、エルがこの峡谷へ来たのも、龍に出会ったのも初めてのはずだ。
既に権能の使用権を使用済みだなんて事、有るはずがない。
だと言うのに、この龍はエルが真実の目を使う事を許さない。
エルがもう既に使用権を行使したのだと、そう言うのだ。
――いや、一つだけ可能性が有る。
大魔法の触媒として失われた大災厄以前の記憶。
もしかしたら、エルは失われた過去の記憶のどこかで、龍に出会っていたのだろうか。
しかし、記憶が無いと言ってもそれは思い出の部分に該当する記憶であり、知識に該当する記憶は保持したままなのだ。
家族や兄弟、友人や恋人、もはや居たのかすらも分からないそんな人たちとの思い出は、もうこの世界のどこにも無い。
完全に失われたそれらの記憶は、真実の目を持ってしても、もう知る事は出来ない。
しかし、知識は残る。
仮にエルが過去にこの龍の峡谷へ訪れた事が有るのならば、“峡谷へ訪れた”という思い出は消えても“龍の峡谷”についての知識は残るはずなのだ。
どこで得たのか分からないただの知識、情報の一つとして。
しかし、商会の会長から話を聞いた時に、エルは心の底から本当に初めて聞いた話だと認識していたし、龍の峡谷自体を絵本の中の創作の物語の一つだと認識していたのだ。
今ある状況証拠からして、過去にエルがここへ来たとは考えにくい。
しかし、もしエルが過去にここへ来ていて、その上で今のエルが覚えていないとすれば、それはエルの使う『読心』の魔法の応用の様な、記憶を塗り潰す、出鱈目に継ぎ接ぎにする、そんな何らかの魔法が作用している可能性がある。
「わたしは、過去にここへ来たことがあるんですか?」
エルは龍へ問う。
しかし――、
「――質問は一人につき一つまでだ」
やはり、龍は答えてはくれない。
やるせなさと歯がゆさがエルを襲ってくる。
今はその、白い龍の真紅の右目が憎たらしい。
(――ああ、わたしが“真実の目”を持っていれば良かったのに)
意識が遠のく。
夢から覚める時間だ。
薄れ行く意識の中。
エルは未練からか、無意識に左手を龍に向かって伸ばしていた。
その左手の薬指には、アルから貰った簡素な指輪が鈍く光り輝いていた。




