龍の峡谷⑥
――もう結構な時間歩いた気がする。
足場の悪い峡谷の谷間を進んで行くも、角ばり岩肌と乾いた大地、大体同じ景色だ。
岩肌に手を添えながら歩いていると、ふと違和感を覚えた。
手を添えた所の近くに、岩の色とは違う――、
「エル、これって――」
赤い点の様な跡、これは血痕だ。
岩肌の血痕、それには見覚えが有る。
おそらく、ここは先程エルが指先を怪我した場所だ。
「わたしたち、ぐるっと回って戻ってきちゃったみたいですね」
分かれ道を適当に進んでしまったのが失敗だったか。
どうやら俺たちは谷間を岩肌の壁沿いに沿って歩いていると、一周して元の場所まで戻って来てしまったらしい。
そんな事をしていると、日も落ちてきて、辺りは赤く染まりつつあった。
「今日はあの辺で休もうか」
そう言って俺は岩山の上の方を指す。
『永遠』の魔法によって理論上は無限に稼働できる肉体でも、これだけ動かせば精神的に疲れが出てくる。
休める時に休んでおいた方がいいだろう。
夜闇で足元が見え辛ければ危険も有るだろうし、何より暗く見通しが悪ければ龍なんて見つかるはずもない。
谷間は足元が不安定でがたがたとしていて腰を落ち着け辛い地形だが、岩山を登ればその上は平らな地形で、そこでならキャンプが出来そうだ。
俺たち旅人にとって野宿なんてのは日常茶飯事だ、問題ない。
それに、今から近くの街へ向かって宿を取るなんて事をしていると、陽が沈み切ってまた昇って来る程の時間がかかってしまう。
岩山の壁は角ばった形をしており、ロッククライミングの要領で登る事も可能だろうが、俺たちには魔法が有る。
『物体浮遊』の魔法を自身にかけて、ふわりと浮けば良いのだ。
「――わあ、アルさん! みてください!」
先に岩山を登り切ったエルが嬉々とした声で指す方向に視線を向ける。
俺も後を追い登りきると、視界一杯に広がる朱。
「――ああ、綺麗だ」
夕日の朱で染まった、広大に連なる岩山。
その自然によって生み出されたこの神秘的な光景だけでも、この峡谷へ来た価値が有るだろう。
エルの方に視線を向けると、その横顔と風に靡かせている黒髪は夕日の朱に照らされ、輝いていた。
その紫紺の瞳も夕日の朱を照らし返し、いつもと違った表情を見せている。
出来ればこの一瞬の美しい光景を切り取って、思い出として残しておきたい。
しかし、この世界にはカメラなんて俺の知る限り存在しないし――。
と、そこまで考えて一つ思い当たった。
「そういえば……」
俺は懐から一つ、“黒い板”を取り出した。
「なんですか? それ」
「スマホっていう前世の便利道具みたいな物なんだけど、何とかこれを動かせないかな?」
俺が異世界転移した際の数少ない持ち込み品の内の一つ、この世界には決して存在しえない文明、スマートフォンだ。
財布、鍵、スマートフォン、この三つが俺の元居た世界から持ち込めた私物たちだ。
財布の中に有った硬貨は、今では『形状変化』の魔法によって作られた少し歪な指輪の形で、隣にいるエルの左手薬指に嵌り、鈍く銀色に光っている。
鍵はキーホルダーでまとめられて、いくつかの鍵が束になっている。
この中に家の鍵が有ると言うのは分かるのだが、記憶のあやふやな今ではどれがどこの鍵なのか分からない。
そんな訳で、今手元にあるこのスマートフォン。
もちろん通信回線なんてこの世界には通っていない。
しかし、これ単体でもカメラ機能は使えるはずなのだ。
もちろん、充電さえ出来ればの話だが。
「すまほ……? これが、動くんですか?」
エルはこの謎の黒い板に脚が生えて歩き出すとでも思ったのか、不思議そうな顔でスマホを摘んで眺めていた。
「電気で動くんだ。ほら、ここから充電するんだけど……」
とエルの持っているスマートフォンのお尻の部分にある充電用の接続部を指す。
すると俺のざっくりとした説明を聞いたエルは「ああ、なるほどです」と言うと、おもむろにその接続部へ人差し指を伸ばした。
エルがその接続部へ指を触れると、指先に魔力が集まり、魔法の光が輝きを放つ。そして、バチリと一瞬音が鳴ると――、
「わっ、なんか、光りました……?」
「おお!」
エルの『電気』の魔法によって充電されたスマホの画面が光り、メーカーのロゴマークが浮かび上がった。
自分でやると加減を間違えて壊しそうで出来なかったのだが、エルはそれを一発でやってしまった。
早速エルの手から久方ぶりに息を吹き返したスマホを受け取り、画面に触れた。
しかし――、
「パスワード、か……」
残念ながら記憶を失ってしまった俺には、過去の自分がどんなパスワードを設定していたのかが分からない。
知識は有っても、そういった記憶は無いのだ。
このパスワードを思い出さない限り、このスマートフォンで写真を撮るという目的は果たせない。
ひとまず、適当に数字のゼロを四つ連打してみる。
流石にこんな適当なパスワードな訳が――、有った。
過去の自分の危機管理能力の低さを嘆くべきか、今はその杜撰さを喜ぶべきか。
ともかく、いとも簡単にロックは外れて、スマホを使用する事が出来た。
中を確認すると、エルの魔法による大胆な充電の後でもその機能自体には問題は無さそうだったが、大魔法の触媒として“名前”を失った所為か、世界を転移して越えてきた所為か、はたまた魔法で無理やり充電をした所為か。
中のデータは失われていて、アルバムの写真は全てモザイクの様になっていて、電話帳やメモ帳も同じく文字化けしていた。
少し期待していただけに残念だ。
しかし、目的のカメラ機能は生きている。
今はそれで十分だ。
「エル、こっちこっち」
俺は手招きして、エルを傍へ呼んだ。
「うん……?」
エルは頭にはてなを浮かべた様にきょとんとしている様だったが、言われるがままに、とことことこちらへ寄って来た。
そのまま二人が画角に収まる様に、肩を抱き寄せる。
そして、夕日の朱に染まった龍の峡谷の岩山を背景に、ぱしゃりと一枚、思い出を切り取る。
ついでにもう一枚、景色だけの写真も。
再びぱしゃりとシャッター音。
「ほら」
エルに撮ったばかりの写真を見せてあげる。
「絵がこんなに一瞬で! 凄いです! アルさんの世界には、こんな技術が有るんですね……」
すると、目を輝かせながら、興味深そうにスマートフォンを覗き込んでいた。
「写真って言うんだけど、これから、これで旅の思い出を残して行こう」
「はい! しゃしん、いっぱい集めましょう!」
きっとその内、スマートフォンとまでは行かなくとも、この世界でもカメラくらいは開発されるかもしれない。
まあ、それが何十年後何百年後かは分からないが。
しかし、『永遠』の時を生きる俺たちならばそれを――この世界の進歩を、見届けられるであろう。




