温かい涙
無駄に広くて豪華な部屋にわたしの泣き声が木霊する。
何だか物凄く虚しい気分だった。自分と言う人間が全くの無価値になったようなそんな気分。
(実際は平民から王族になったのに、皮肉なものね)
『必要だ』と言われている筈なのに、寧ろ『必要ない』と言われている気がする。何ならこんな風に泣いていること自体が馬鹿らしい。だって、わたしという人間の意思は必要ないんだもの。唯一の王位継承者として人形になれと言われているようなものだ。
(っていうか無理よ! わたしが王位を継ぐなんて)
おじいちゃんにとっては他に選択肢が無いのかもしれないけど、十六年間も平民として過ごしてきた人間が王位を継ぐなんて馬鹿げている。
必要とされる知識も考え方も礼儀作法すら、わたしは何一つ持っていない。今から身に着けるにしても、本当に一からのスタートだから物凄く時間が掛かってしまうし、その辺の貴族を後釜に据える方がよっぽどマシだ。薄くても王族の血が流れている人間は居るだろうし、わたしじゃなきゃいけない理由は見つからない。
「バッカじゃないの」
思わずそんな言葉が口を吐いた。こんな風に吐き出さなきゃ、怒りで頭がおかしくなってしまう。心と身体は既にどす黒い感情に侵食されて、ずどんと重くなっていた。
「そのようなこと、軽々に口にすべきではございません」
その時、部屋の片隅からそんな言葉が聞こえた。感情の抜け落ちた、至極冷静な声音。先程紹介されたばかりの騎士――――アダルフォだ。
「状況次第ではございますが、姫様でも不敬に問われる可能性がございます。御身を大事になさらないと――――」
「大事よ! 大事だからこそ、こうやって吐き出してるの!」
気づけばわたしはそんなことを叫んでいた。胸のあたりがムカムカと気持ちが悪い。ほんのりと目を見開いたアダルフォを尻目に、わたしは再び口を開いた。
「教えてよ、アダルフォ! 貴族は皆こんな風に扱われても平気なの⁉
十六年間も存在を隠してきた癖に、後継者が居なくなった瞬間『おまえは王族』だなんて手のひら返すようなこと言われて! 家に帰れなくなって! 挙句の果てに王位を継げだなんて……! ねぇ、アダルフォだったら平気? 貴族なら――――普通の人なら『はいそうですか』って受け入れるものなの?
感情を殺して、王様の言うことなら何でもイエスで答えて、ただの駒として生きていくの? これまで平民として生きてきたわたしにまで、いきなりそれを求めるの?」
言いながら涙が零れ落ちる。
初対面の人に当たり散らすなんて最低な行為だ。それでもわたしは、自分自身を止められなかった。
(本当は心のどこかで分かっている)
もう、どうしようもないんだって。受け入れるしかないって分かっているからこそ、こんなにも苦しい。気持ちの遣り処が見つからなくて、辛かった。
「…………ごめんなさい、アダルフォ」
だけど、これ以上自分を嫌いになりたくはない。謝罪の言葉を口にしたわたしに、アダルフォは先程よりも大きく目を見開いた。
「酷いことを言ってごめんなさい。本当に、ごめん」
あまりにも申し訳なくて、段々と言葉が尻すぼみになっていく。
(きっとアダルフォは、わたしのことを嫌な人間だと思っただろうなぁ)
これからしょっちゅう顔を合わせるであろう護衛騎士だというのに、初っ端から軋轢を作ってしまった。完全なる自業自得。穴があったら入りたい気分だ。
わたしの場合残念ながら、王の資質がどうだとか、そういう次元にすら辿り着けそうにない。人としてダメダメ。そう思うと大きなため息が口を吐く。
沈黙に耐え兼ねてチラリと顔を上げると、アダルフォは醒めた瞳でこちらを見つめていた。表情からちっとも感情が読み取れない。わたしは思わず目を逸らした。
「――――お願い、アダルフォ。絶対にこの部屋から居なくなったり、逃げたりしないから、今は一人にしてほしいの。さっきみたいに酷いこと、言いたくないから。……本当は自制できなきゃいけないんだろうけど、今はどうしても無理そうで」
そう口にしつつ、自分が情けなくて堪らない。
別に、元々人間が出来た方じゃ無かった――――ごくごく普通の町娘だったけど、実は王族だったって言うからには、特別な何かがあっても良いじゃない?
聞き分けが良くて、何でもできて、何があっても全く傷つかない――――そんな風に生まれていたら良かったのになんて思って、すごく嫌になってしまう。
「――――先程はすみませんでした」
その時、アダルフォが思わぬことを言った。わたしはハッと彼を見上げつつ、そっと首を傾げる。
アダルフォはゆっくり、深々と頭を下げた。流れるような――――寧ろ時が止まってしまったかのような綺麗な所作。知らず背筋がピンと伸びる。アダルフォはそんなわたしをまじまじと見上げつつ、徐に口を開いた。
「姫様が罰せられたらいけないと――――そう思って口にしたのですが……少なくともそれは、今お伝えすべきことではありませんでした。
ここには俺と姫様しかいないのに……姫様はここでしかご自分の感情を吐き出すことができないのに――――混乱の渦中にある姫様がそれすら許されないのはあんまりです。
完全に俺の配慮不足でした。本当に、申し訳ございません」
アダルフォはそう言って、もう一度ゆっくりと頭を下げる。相変わらず口調は淡々としているし、表情だって冷たいというか無というか、何とも表現しづらい顔をしている。
だけど、彼が本当に申し訳ないと思っていることだけはひしひしと伝わってきた。
「ううん。悪いのはわたしの方だもの。アダルフォは何も悪くないわ」
そう口にしつつ、気持ちが随分浮上していることに気づいた。
(アダルフォは本当に何も悪くない)
アダルフォは自分のすべきことをしただけ。
その上で、彼はわたしの気持ちに寄り添ってくれた――――そのことがあまりにも嬉しい。
「姫様――――これから姫様は、色んな場面でご自分を押し殺して生きていかなければならないと思います。だけど、俺の前では今の――――ありのままの姫様で居てください。
今度からはきちんと受け止めます。隠す必要も、一人で苦しむ必要もございません。
俺が護るべきはあなたの身体ではなく心なのかもしれないと、今気づきました」
そう言ってアダルフォは、わたしの目の前にハンカチを差し出す。刺繍も何も施されていない、素朴なハンカチだった。手に取ったその瞬間、涙が再びポロポロと零れ落ちる。
「――――――ありがとう、アダルフォ」
だけどその涙は、さっきまでとは違う温かい涙だった。