どうか、誰も聞かないで――――
(どうしよう)
考えながら、足がすくむ。心臓が変な音を立てて鳴り、頭がちっとも動かない。
と、アダルフォが勢いよく駆け出した。すれ違いざま、鋭い眼光が目に入る。
「アダルフォ、待って!」
ランハートには聞こえない程度に声を絞り、わたしはアダルフォを呼び止める。
「止めないでください、ライラ様」
アダルフォの表情は真剣だった。彼はランハートを問い詰める――――というか、襲撃する気満々なんだろう。
ダメ。
王太女への即位は目前だもの。それなのに、城内で刃傷沙汰を起こすなんて。
そんなの、絶対ダメだ。
「落ち着いて。わたしなら大丈夫だから」
言いながら、段々と冷静になっていく。大きく息を吸いながら、わたしはアダルフォの肩に手を置いた。
「しかし、ライラ様」
「逢引だと決まったわけじゃないでしょう?
第一、彼を選んだのはわたしだもの。彼がこういう人だってわかっていたんだもの。問い質すのも、文句を言うのもおかしいでしょう?」
それは、アダルフォというより、自分に対して伝えたい言葉だった。
元々、ランハートの女癖が悪いってことは知っていた。シルビアやヴァルデマーから、何度も忠告を受けてきた。
だけど、それに耳を傾けなかったのはわたしだもの。
ランハートを責めることはできない。
絶対、できっこない。
「しかし」
「命令よ。本件の追及は許さないわ」
きっぱりとそう口にすれば、アダルフォは静かに頭を垂れる。
(ごめんね、アダルフォ)
彼がわたしのために憤ってくれたこと、動こうとしてくれたことはわかっている。
もしもわたしが『ただのライラ』だったなら、きっと嬉しく思っただろう。
だけど、わたしはこの国の姫君で、もうすぐ王太女になるんだもの。
色恋に心を揺らしちゃいけない。そんなことを理由にトラブルを起こすのもご法度だ。
おじいちゃんやランハートだって、この程度でわたしが腹を立てたら驚くだろう。もしかしたら、幻滅してしまうかもしれない。
そんなの嫌。
絶対に嫌。
だからわたしは前を向く。
私室への道のりを悠然と歩きながら、なんでもないふりをする。
王族っていうのは誇り高い生き物だもの。そうあるべきだって教えられたもの。
わたしも、お父さんやおじいちゃん、ゼルリダ様みたいに生きていかなきゃいけない。
それが正解だってわかっている。
だけどダメね。
一歩歩くごとに胸がズキンと痛む。
所詮わたしは平民王女。他の皆みたいには生きられないのかもしれない。
アダルフォはそんなわたしの姿を見て、かける言葉が見つからなかったんだろう。何度も口を開け閉めつつ、黙ってわたしの後ろを歩いていた。
正直今は、どんな言葉をかけられても、返答に困ってしまうだろう。
一緒になってランハートを責めることもできなければ、擁護することだって難しい。慰められたところで、悲しくなるだけだ。
とても情けないことだけど、わたしにだってプライドはある。こういうときはそっとしておいてほしい――――そんなことを思ってしまった。
「お帰りなさいませ、姫様」
私室に戻ると、エリーをはじめとした侍女達が温かく出迎えてくれる。
努めていつもどおりの笑みを浮かべつつ、わたしはソファに腰を下ろした。
「ただいま。悪いんだけど、お茶を運んでくれる? 一息つきたいの。できたら、少しの間一人にしてもらえると嬉しいんだけど」
次の予定まで、少しだけど時間がある。一人きり、誰にも見られない場所で心の整理をさせてほしい。
そう思っていたら、侍女や文官がそっと顔を見合わせた。
「実は、姫様がお出かけになってすぐ、バルデマー様がいらっしゃいまして。控えの間で姫様のお戻りをお待ちだったのですが」
「バルデマーが?」
バルデマーの名前を聞くのは随分と久しぶりのこと。以前はわたしの婚約者候補として、よくご機嫌伺いに来ていたし、彼が『待つ』と言うなら無碍に帰すわけにはいかなかったのだろう。
「勝手なことをして申し訳ございません。バルデマー様には事情をお話しし、また改めて来ていただきましょう。元々お約束をしていたわけではございませんし」
「ううん。せっかく待っていてくれたんだもの。部屋に案内してくれる?」
最後に会った時、かなり厳しいことを言ったから、これでも結構気にしていたのだ。ようやく会いに来てくれるようになったのだし、関係は良好に保っておきたい。
たとえわたしの婚約者にならずとも、彼は国にとって大事な人材には違いないのだから。
「承知しました」
エリー達がそう言って、部屋から一斉に下がっていく。
アダルフォは一瞬だけもの言いたげな表情をしたけど、わたしの気持ちを優先してくれたらしい。黙って部屋から出ていった。
(疲れた)
束の間の静寂が部屋を包む。
バルデマーが来るまでの僅かな間ではあるけれど、部屋には今、わたししか居ない。
そう思ったその瞬間、目頭がじんと熱くなった。どうやら気が緩んでしまったらしい。
(ランハートのバカ)
心の中で悪態を吐く。
ランハートの意地悪な笑みが脳裏にチラついて、たまらない気持ちにさせられる。
違う。
違うわ。
馬鹿なのはわたしの方。
別に、嘘を吐かれたわけじゃない。
彼は出会ったときから正直な人だった。
王族で、おじいちゃんの覚えもめでたくて。顔が広くて腹黒で、嘘は決して吐かない人。
もしもわたしが『結婚以降も浮気をする?』って尋ねたら、ランハートはきっと『はい』って即答しただろう。
わたしのことが好きだから求婚されたわけじゃないし――――っていうか、そもそも求婚すらされてないし。
(それでもわたしは未来の王様だから)
国のために、最善の選択を重ねていく。
これで良い。
間違っていない――――そう思いつつ、涙が一筋頬を伝う。
きっとわたしは、自分が思っていた以上に、ランハートのことが好きだったんだ。
そして、それと同じぐらい、ランハートにもわたしのことを想ってほしいと願っていた。
だからこそ傷ついた。
傷ついてしまった。
(ダメだ。全然、止まりそうにない)
どうか、誰も聞かないで――――
わたしは声を押し殺して泣いた。




