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貴婦人の嗜み

 王位継承者が修めるべき学問は多い。礼儀作法や語学に文学、歴史、伝統文化、法律や乗馬、兵法に剣技なんかも学ぶ。

 それだけでも十分大変なのに、わたしの場合は女だから、妃――――高貴な女性の嗜みなんかも追加されてしまった。



「ねぇ……刺繍、本当に出来るようにならないといけないの?」



 右手に針、左手に触り心地の良い布を手に、チラリと顔を上げつつわたしは尋ねる。



「もちろんですわ。貴族の――――王族の女性として、刺繍は出来て当然。姫様にもしっかり覚えていただきます」



 講師の女性がそう言ってグッと胸を張る。おじいちゃんよりも少し若いぐらいの、年配の女性だ。美しい刺繍の施されたベールを被っている。



「その……大事な嗜みだっていうのは分かっているの。分かっているんだけど…………」



 昔からわたしは、超がつく程の不器用だった。紙を綺麗に折るとか、切るとか、線を綺麗に引くといったことすら上手にできない人間が、美しい刺繍を作り上げられるはずはない。一針指す毎に絶妙に布がズレ、糸がもつれ、思ったような模様に育ってくれないのだ。

 オマケに大層大雑把な性格をしているもので、細かく刺さねばならないと分かっているのに、一直線に大きく縫ってしまいたくなる。繊細さが売りの刺繍には向いていないのだ。



(大体、王様になるならお妃教育は要らないんじゃないかなぁ……)



 そりゃあ、わたしだって綺麗なものは好きだし、見ていて幸せな気持ちになるし、『わたしも欲しい』って思うけど、どうしても自分で出来なければならないのだろうか。苦手なものはどうしようもないし、得意なことを伸ばすために時間を使っても良いのではないか――――そんな後ろ向きなことを考えてしまう。



(いや、努力します……。努力しますけどね…………)



 人間だれしも、弱音を吐きたくなる時はある。わたしにとってはそれが今だった。



「姫様――――勉強だと思うから苦しくなるのです。刺繍というものは素晴らしい。我が国の文化の象徴ですもの。姫様はもっと、刺繍を楽しむ必要がありますわ」


「うん……そうね。分かってはいるんだけど」



 極力声は上げないようにしているけど、先程からもう何回も、針で自分の指を刺している。包帯を巻くような傷じゃないけれど、地味に痛いし心が荒む。己の才能の無さを痛感するのは、結構堪えるのだ。



「…………そうですわ! 姫様、そちらの作品、どなたかにお贈りになっては如何でしょう?」


「えっ……?」



 その瞬間、わたしは思わず顔を引き攣らせた。



(贈る? このヨレヨレのハンカチを?)



 絶望的な気分のわたしとは裏腹に、講師の女性は満面の笑みを浮かべた。



「姫様に今必要なものは目標とモチベーションです。大切な人に贈ろうと思えば、心を込めて針を刺せますし、刺繍をしている間、幸せな気持ちになりますでしょう? 

それに、贈られた方だって、刺繍を見る度に姫様を思い出します。姫様の掛けられた時間を、想いを感じ、温かい気持ちになれるのです。素敵だと思いませんか?」



 女性の勢いは凄まじく、とてもじゃないけど『否』と言える雰囲気ではない。



(だけどなぁ……)



 わたしはそっと手元のハンカチを見つめる。ガタガタに縫われた糸を撫でると、恥ずかしさと情けなさで笑えて来る。



(あっ)



 それでもわたしは『頑張ったね』と唯一一緒に笑ってくれそうな存在がいることを思い出した。その途端、心の中が温かく、穏やかで優しい気持ちになる。



「――――先生のおっしゃる通りですね」



 自然と唇が綻び、わたしは大きく息を吸う。

 気持ちを新たにわたしは布へと向き合った。



 

 とはいえ、一朝一夕で作品が仕上がるわけもなく、また刺繍の講義を他より多く取ることもできない。だからわたしは、空き時間を刺繍のために充てることにした。




「姫様、ここはこう縫った方が仕上がりが良くなりますわ」



 そう言って微笑むのはシルビアだ。

 しばらくは一人で黙々と縫っていたものの、数日で心が折れかけた。そんな時、事情を知ったシルビアが「一緒にやろう」と声を掛けてくれたのだ。

 シルビアは可憐な見た目に違わず、刺繍がとっても上手だった。わたしの数倍の速さでチクチクと針を動かし、あっという間に作品を仕上げていく。習い始めたのは最近だし、比べるのもおこがましいって分かっているけど、羨ましいなぁなんて思ってしまう。



「……っと、こう?」



 言われた通りに出来ているかイマイチ自信が持てないまま、わたしは大きく首を傾げる。



「…………少しだけ貸していただけます?」



 シルビアはそう言って優しく微笑むと、正しい縫い方を実演してくれた。感嘆のため息を漏らしつつ、わたしはひっそりと眉間に皺を寄せる。シルビアから布と針を受け取り、彼女と同じように手を動かしてみるけど、やっぱり何かが違っている。めげずに数針縫ってから、額に滲んだ汗を拭った。



「姫様は案外負けず嫌いですよね……」



 その時、アダルフォが半ば呆れたような表情でそんなことを言った。



「えっ……そう? そんなことないと思うけど」



 ムッと唇を尖らせつつ、わたしは小さく首を傾げる。

 正直言って、今のわたしとシルビアじゃ勝負にならない。天と地程の差がある上、勝てない戦に挑むようなタイプじゃないと自認しているし、今まで誰からもそんな風に言われたことが無いのだけど。



「シルビア様に対してってことじゃありません。姫様はご自分に負けるのが嫌いなのでしょう?」



 アダルフォの言葉に、わたしははたと目を見開いた。



(そんなこと……考えたことも無かったわ)



 とはいえ、思い当たる節が無いわけじゃない。アダルフォとシルビアはそんなわたしを尻目に、顔を見合わせて微笑んだ。



「姫様はきっと、刺繍が得意になりますわ。苦手と仰いつつ、こんな風に努力を続けられるのですもの。わたくし、少しでも姫様の力になれるなら、本当に幸せですわ」



 そう言ってシルビアは瞳を輝かせる。途端に物凄く恥ずかしくなって、わたしはふいと顔を背けた。



(シルビアの評価は間違ってる)



 刺繍のことだけじゃない――――わたしは本当はいつだって、嫌なことからは背を向けて逃げ出したいって思っている。

 王位を継ぐことだってそう。昨日は『頑張ろう』って思っても、翌日には気合が萎れることもしばしばだし、何でわたしが? って日々自問しているんだもの。



「ところで姫様、そのハンカチ、どなたに贈られるのです?」


「えっ? ああ、両親……わたしを育ててくれた二人に贈りたいの。二人なら下手糞な刺繍でも、心から喜んでくれるだろうから」



 言いながらわたしはそっと目を細める。


 ここに来て以降、数日おきにわたしは両親に向けて手紙を書いている。だけど、未だに二人からの返信は届いていない。

 聞くところによると、王族宛の手紙っていうのは検閲があるらしいので、そこで止まっているのかもしれない。……そう思ってはいるものの、寂しいものは寂しい。もしかしたら二人は、わたしのことを想っていないんじゃないかなぁって不安で、胸が押し潰されそうだった。



「まぁ! わたくしはてっきり……」


「てっきり?」



 シルビアは頬を染め、気まずそうに視線を逸らす。わたしは首を傾げつつ、シルビアの返答を待った。



「そのぅ……婚約者候補のどなたかに贈られるのだとばかり思っておりましたわ」


「えっ、何で?」



 どうしてそんな風に思われたのか、その理由がちっとも解せなくて、わたしはそっとアダルフォに目配せをする。



「――――講師の女性が吹聴しているのです。姫様が刺繍入りのハンカチを誰かに贈ろうとしている、と。貴族たちの興味関心は今、姫様が誰とご婚約なさるかに集まっていますから……自然、相手は婚約者候補の誰かだろうということに」


「嘘っ…………」



 善良そうな顔つきの講師を思い浮かべつつ、わたしは唇を尖らせる。

 余計なことを――――そう口を吐いて出そうになったけど、多分彼女が悪いわけじゃない。恐らくはおじいちゃんから敢えてそうするよう指示をされているんだろう。



 わたしに与えられた時間はほんの数か月――――。


 

 その間に、配偶者として相応しい人を選ばなければならない。

 王太子殿下の喪が明けて、晴れて王太女としてわたしがお披露目されるその時に、未来の夫が並び立つ――――それがおじいちゃんの描いた未来図だ。



「一体、どうなさるおつもりですか、姫様?」


(さて、どうしたものか)



 今の段階でバルデマーとランハート、どちらの方がより優れているとか、好みってことは無いし、他に婚約者候補として名乗りを上げようって人も思い当たらない。正直言って身内以外に渡せるような刺繍の腕じゃないし、知らんぷりをするっていうのも手だと思う。



「――――考えとくわ」



 答えつつ、わたしは再び手を動かし始める。面倒なことになったなぁって心から思った。

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