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あれはレナがまだ幼い…歳は9つを数えたばかりの頃のことだ。
リオンがよく懐いていた老人ケリーが亡くなってまだ一月も経っていなかった。
表情に出すことはないけれど心の内で悲しんでいるだろうリオンのことを思うと、居ても立ってもいられなかったレナは毎日のようにリオンの元に訪れていた。
リオンが「僕は大丈夫」と言って寂しそうに微笑むたびに、レナは酷く心が痛んだ。
リオンだってまだ子供なのに…
どうしてリオンはいつも感情を押し殺しているの?
ケリーが亡くなった時もリオンは泣くこともなく、凛としてただ真っ直ぐ前を見据えていた気がする。リオンの出生も、両親のことも、このアルディダの街に来るまでリオンが何をしていたのかも、レナは何一つ知らなかったけれど、ケリーを本当の肉親のようにリオンが慕っていたことだけは知っていた。
だからこそリオンの心境を考えるたびに、レナは心臓を鷲掴みにされたような気分になるのだ。リオンの為に何も出来ない自分が歯痒くて、レナの方が泣きそうになった。
その日レナはリオンに会いに行く為いつものようにアルディダの森を小走りで抜けようとしていた。
葉々の合間から覗く灰色の空は、どんよりと重い。今にも雪が降り出しそうだ。
ひんやりとした空気がレナの頬を掠めていく。
「嫌な空…」
レナは立ち止まって空を見上げた。
長年の勘…とは言ってもまだ9年しか生きていないが、何だか良くない事が起こる気配がする。
背中がぞくりと震え、早くリオンの元に行こうと足を再び動かした矢先のことだった。
ドオォ…ン…ッ!
突然大きな衝撃音と共に地響きが起こった。
みしみしと木々が揺れ、降り積もっていた雪が音を立てて勢い良く落ちていく。
「な、なに…!?」
レナは咄嗟にその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。
爆音のようなものは、どうやら街の方で起きたらしい。
バサバサと黒い鳥の群が飛び立ち空を渡っていく。
嫌だ、…一体今何が起きてるというの!?
こんなことは9年アルディダにいて、レナにとって初めてだった。
思い出したようにレナは顔を上げる。
そうだっ…!リオンは…
リオンは無事なの!?
「くそ!お前ら、早くしやがれっ」
「おいっ!こんなところに子供がいるぞ!」
レナはハッとして後ろを振り向いた。
木陰からいきなり現れたのは黒いフードを被った30代ぐらいの男。
まんまるに目を見開いたレナと視線が合った男は、ちっと舌打ちをして仲間と思われる集団に向かって声を上げた。
「おいっ、この子供どうする!?」
「顔を見られたんだ!念の為だ、そのまま生かしておくわけにはいかないだろ」
突然のことに思考が停止していたレナだったが、段々と頭が回り始める。
ガタガタと震え始める身体。
嘘っ…もしかして私このまま居たら殺される?
逃げなきゃ。
上手く働かない思考に咄嗟に浮かんだのは、ただそれだけだった。
逃げなきゃ、死んじゃう…!
身体をもたつかせながら、必死に雪を蹴っていく。
「逃げたぞっ!」
「おい、こらっ、待ちやがれ!!」
いくら慣れている森とは言え、所詮は子供1人と大人の集団。レナが子供の割に俊足の持ち主であったところで、足の速さにも体力にも限界がある。
レナが彼らに捕らえられてしまうのも時間の問題だろう。
やだ、やだ…
彼らが一体何者だとかそんなことはレナにとってどうでも良かった。
ただ今はこの場から逃げて生き延びることが最優先だ。
あっ、とレナが思った時にはもう遅かった。
身体が一瞬宙に浮かび上がり、そのまま顔から地面に倒れこむ。
「へへ、お嬢ちゃん…悪く思うなよ。すぐ終わりにしてやるから」
霞む視界に映る汚い靴。
下品な笑いを浮かべている男達の様子が顔を見ずとも目に浮かんだ。
私、死んじゃうのかな…
揺れる思考の中、レナはぼんやりとそんな事を考えた。
…せめて最後に、お母さんとお父さん…リオンに会いたかった、な。
涙がレナの頬を静かに伝っていく。
やってくるであろう痛みを覚悟し、レナは身体を硬くしてぎゅっと目を閉じた。
「……」
―――けれど、それはいつまで経ってもやって来なかった。
「ぐあっ!」
「うわぁ」
代わりに聞こえてきたのは、男達の呻き声。
おそるおそる目を開けたレナが見たものは、伸された男達の姿だった。
その光景に思わずレナは目を瞠った。
い、一体誰が…?
レナは傍に、剣を右手に男達を見下ろすようにして佇む1人の少年の存在に気が付いた。
少年は剣を鞘に収めると、レナの方に振り返った。
息を呑むほどの美少年―――……
肩にかかる程度の艶やかな黒髪。はっきりとした目鼻立ち。深い秘色の瞳は見る者を忽ち魅了してしまう妖艶さを秘めていて。
この世のものとは思えない造形にレナは言葉を失った。
「あなたは一体……」
彼が何者なのか聞きたかったのに…
ダメ…頭が…
少年にふらついた身体を支えられる。少年が何か自分に話しかけているのは分かったが、レナは答える事が出来なかった。
意識が朦朧とするのに抗うことが出来ず、レナはそのまま身を任せるようにして気を失った。
後に2日後、自分の家の寝台で目覚めたレナは、母親のカリアから事の詳細と顛末を聞くこととなった。
どこかの国の悪党の者達がアルディダの噂を聞きつけ、爆物のようなものを仕掛けて塔から数少ない貴重な文献を持ち出そうとしたこと。
被害はそこまで大きくならずに済んだこと。不思議なことにすでに何者かが彼らを斬った痕跡があり、森の奥の方で気を失った男達は木にロープで括り付けられていたこと。男達は全員捕えられ、牢へと引き渡されたそうだ。ついでに文献も特に損失もなく無事返ってきたらしい。一応、城からの調査隊も送り込まれてくるそうだ。
―――そして、レナを背に抱えてリオンが家まで運んできてくれたこと。
…どうやらレナは森の中で男達の逃亡中に出くわしてしまったようだ。
あまりの運の悪さにレナは自分を呪いたくなった。
でも、どうしてリオンが自分を?
カリアに尋ねると、あっさりとその疑問は解消された。
いつもならばレナがやってくる時間帯なのに一向に姿を見せる気配がないので、逆に心配になったリオンが外に出て様子を見に行ったところ、森の中でひとりで倒れているレナを発見したらしい。
自分の家では介抱するスペースも医療手段も持ち合わせていなかったため、慌ててレナを自分の背に負ぶさるようにしてレナの家まで運んできたそうだ。
後でリオンにちゃんとお礼を言わなきゃ…とレナは心に誓った。
でも…
結局、あの人が誰だか分からず仕舞いだったな…
レナはこっそりため息をついた。
せめて命を助けて貰ったんだから「ありがとう」ぐらい伝えたかったのに…
それから1年、2年……もうすぐ16の歳を迎えようというレナだったが、その少年のことを片時も忘れることはなかった。夢でだって何度彼の姿を追ったことだろう。
あの時の少年に一度でいいから会いたいというレナの気持ちはむしろ強まっていく一方だった。
何がこんなに心に引っ掛かるのか…レナ自身この思いを持て余していた。
―――――そしてある日、街で配られている広告を目にしたのだ。
『剣術公式大会』
もしかして彼なら、と。
レナがそう閃いたのは瞬間的だった。
あれほどの見事な剣の腕の持ち主なのだ。大の男達を一振りで薙ぎ倒してしまったあの時の少年も、もしかしたらこの大会に参加するかもしれない。
蜘蛛の糸を掴むような小さな可能性…だが、レナはそんなほんの一握りの可能性を信じ心を決めた。