少年期 十三歳の晩春 マスターシーン
これほど座り心地の良い椅子に身を投げ出して、その感覚に不快さを覚える人間は実に希であろう。
「……半世紀ぶりか」
皇帝の執務机に座り、仮面の貴人、もといマルティン・ウェルナー・フォン・エールストライヒ公爵は心底より不愉快そうに鼻を鳴らした。
「アレで死なねぇってのも難儀だよなぁ、吸血種ってやつぁ」
「うむ。ヒトであれば普通は自ら終わりを懇願する有様であったが」
「他人事だと思って好き勝手ヌカしおって……」
暫く前の構図が一人分ズレた立ち位置で三重帝国の明日を決める、三皇統家の重鎮達が皇帝の執務室に居並んでいる。
貝紫の皇帝装束に着替えたマルティン公。数ヶ月後にはマルティンⅠ世として返り咲き、四選目を務める皇帝。
そして、皇帝位を辞するがため、同じく数ヶ月の後には大公――生きたまま譲位した皇帝の尊称、あるいは三重帝国隷下の衛星諸国の王が持つ位――と位を改める前皇帝アウグストⅣ世。彼は貝紫の装束と一緒にストレスも脱ぎ捨ててきたのか、眉根の皺も薄く装飾のない平服に着替えて佇む。
最後に他人事のような気楽さで此度の狂奔、実体的には重大なお家騒動を眺めていた人狼はやれやれとでも言いたげに首を回した。昨日の騒動で消えた次期皇帝予定の娘を探すため、陣頭指揮を執っていたのは他ならぬ彼であったのだから。
久方ぶりの椅子に座ったマルティンⅠ世は指を鳴らして虚空から上質な羊皮紙を呼び出した。数枚の羊皮紙を圧着して作った分厚い用紙の合間には、複雑精緻極まる魔導術式や神への宣誓文が刻み込まれており、記入そのものが一つの儀式として成立する代物であった。
長い犬歯を用いて指の腹を割き、マルティンⅠ世は羽ペンで以て自身の血液をインクとし一枚の書類を認める。
即位に際して必要となる、選帝会談を申請する書類だ。譲位を希望する新皇帝が書類を作り、前皇帝が承認し、残った皇統家当主が同意した場合、この書類は即座に燃え上がり各地の選帝侯へ“物理的には全く同一の書類”が転送されるようになっている。
研究者らしい几帳面な筆致で迷いなく書類が仕上げられ、最後にサインへ添えて血液にて印象指輪が捺される。あとは前皇帝と立会人がサインと捺印を終えれば、申請の準備は整う。
「ん、できたぞ。確かめよ」
「かしこまって御座います、陛下」
「誰がだ誰が。まだ正式に承認されておらんというに」
ぶつぶつ文句を宣う吸血種を余所に、全く老いを感じさせぬ前皇帝は書類を眺めて瑕疵がないことを確かめた。
この手の書類は仰々しさの割に書式は極めてシンプルなのだ。それもこれも開闢帝リヒャルトが選定と継承の儀を考えるにあたり「あんま複雑にしていると後世で妙な解釈されて、要らんステップ足されたり変形して断絶したら困るよな……」と頭を捻った結果である。
故に申請書本体に凄まじいコストがかけられ、書式自体は迂遠と煩雑に難解のオンパレードになりがちな三重帝国の書類らしからぬシンプルさと相成った。簡便な内容は理解も確認も楽であり、手続きも円滑に進むため文句の付けようもない。
この事実を知ったなら、数多の官僚貴族達は「どうして俺達の書類もこうじゃないんだ……」と頭を抱え、嫉妬に狂うことであろう。
「問題ないな。後は会談を済ませるだけか」
「フツーに根回し済んでるから、通らないとかありえんがなぁ」
前皇帝と立ち会った皇統家当主のサイン、捺印が済むと同時に申請書は虹のような複雑な色彩の炎を上げて燃え落ちた。制約を見届ける神々の加護と魔導術式が並列して動くという、希有な事象によって引き起こされる幻想的な光景も三人にとっては今更どうということはないもの。三者三様にやっと片付いた、とばかりに興味を示しすらしなかった。
「さーて、次は同窓会の準備だなぁ」
「流石にこればかりは陛下のお手を煩わせるのも酷か。後でどちらが幹事をやるか決めねばな」
「お、じゃあ久しぶりに一局指そうぜ」
「飲み比べでなくてよいのか?」
「いやぁ、侍医に止められててよぉ」
「曲がりなりに皇帝を決める会談なのだから、同窓会扱いはよさぬか諸兄ら」
気どころか魂まで抜けそうな軽いやりとりで次代の皇帝就任が通るか否かの場を用意する相談を始めた二人に、当の皇帝になる筈の吸血種が呆れたように嘆息した。
とはいえ、三重帝国を三重帝国という形で正しく継承しようとするならば、システム上の制約が国体の成立に伴い固められているため無理もないが。軽率な――単純な弑逆による反逆など――下剋上が難しいよう考え抜かれ、さりとて皇帝が堕落した瞬間に首をすげ替えられるよう練りに練られた構造は絶妙な緊張と弛緩を作り出した。
回転サイクルの早いヒトと人狼、そして非定命ながら肉体的にも内面的にも欠陥を抱える吸血種。そしてそれらを監督する多様な種の選帝侯家という構造は本当によくできている。
成り上がることはできる。婚姻、養子縁組、相続など手段は少なくない。されど邪に帝国を専横することに関し、制度はあまりに厳しい。その上、皇帝の椅子に付帯する多くの業務からは“誓約によって”逃れることができない寸法になっている。
帝国を総攬する者には相応の義務と権利が付きまとう。この世において神に宣誓し、魔導で己を縛ることは決して軽いことではない。
なればこそ、斯様な親戚づきあいにも似た帝国運用が成り立っているのであった。
「それにしても、割とすんなり受け容れたなぁ陛下」
「む? それがどうした」
いそいそと幹事を押しつけ合うため兵演棋の準備を始めた友から視線を外し、問を投げかけた人狼に吸血種は眉を潜めた。散々お前らが押しつけようとしたのに文句でもあるのかと。
「いや、もっとゴネるかと思ったぜ。それにエールストライヒの血脈は広いだろ。どっかから適当なの拾って来ることだってできたんじゃねぇか?」
「そんなことか……」
あまりにもあまりな物言いであるが、マルティンⅠ世は別に腹を立てるでもなく一つだけ鼻を鳴らして姿勢を乱し、執務机に足を乗せるという余人が見れば卒倒しかねない体勢をとってみせた。
「権力を欲する者が権力を握るに値するとは限るまい。今の二才衆は位を譲るに値せんのでな」
「そりゃまた辛辣な」
「我とて皇帝位は兎も角、父祖が育てた帝国を愛している。傾くのも潰れるのも見るに忍びない。まだ不死を陽導神に返上する予定もない故、この国の最期を見届けるのは我慢ならぬ」
吸血種として帝国成立以後の五〇〇余年で広まった己の血族内で絶えず政治闘争が繰り広げられ、次代の当主位や権勢を争っていることを道楽に浸りながらもマルティンⅠ世は当然のように把握していた。
その為に彼は高い諜報能力を自信の最高傑作である“しろいゆき”に持たせたのだ。
当主として執務をこなしながら三重帝国の公爵として片付けねばならぬ公務を果たすのは、生半な実力ではあっと言う間にすりつぶされる激務である。その上、血族は非定命の傲慢さと寿命では死なないという厄介さを持つ吸血種であり、誰も彼もが忠誠心に厚いわけでもないときた。
元より吸血種というのは、そういった種でもあるのだ。起源からして主神格を騙くらかした野郎の連枝なのだから、さもありなん。
だが、世の摂理というべきか“権力志向”の持ち主が“権力者の器”であるかどうかは一致しないものだ。彼の伯母が自身の直系血族や他の血族から後継を選ばなかったように、その時その時で時流に見合った皇帝の器というものがある。
半世紀近く皇帝として君臨した彼には、時流を見る目がしっかりとあった。なればこそ皇帝として選出され、海千山千の皇統家当主や選帝侯家から“資格無し”と断ぜられず、この椅子に座ってサインと捺印を繰り返しつづけられたのだ。
ならば一体どうして「やりたくないから」の一つだけで、責務を果たせぬ者へ仕事を投げつけられようか。
「悲しいかな我が血族には権力者になる才能の持ち主は数人生まれたが……」
「権力を正しく使う才能はないと」
駒の箱を空けながら、興味が無さそうに宣うヒトの言葉に吸血種は悲しげに首肯した。
よくある話だ。簒奪までは見事な手腕を見せ付けるが、いざ即位した後には坂へ放られたように転落を遂げる為政者というものは。
そんな血族の中で彼の娘だけは、親の欲目を抜きに見て為政者としての才があった。
権力や金に興味が欠片ほどもなく、庇護下にある者や庇護されて然るべき者の存在には情が厚く、しかし確実に一線を引いて自分ができる範囲で手を差し伸べる。神殿の者、紛れ込ませた配下から送られてきた報告にあった娘の人格は、今正に三重帝国が欲する平時の統治者に向いていた。
大きな戦乱は落ち着き、東方交易路を塞いでいた邪魔な小国連合は先帝が蹴散らして戦後の処理も安定した今、必要なのは獲得した権益を以て国の土台を更に固める内政向けの皇帝である。
無意味に慈悲深いだけではない娘であれば、未成熟な部分を己と血族でカバーすれば十分以上に責務を果たせると判断したからこそ、マルティンⅠ世は当主位の譲位を決断したのだ。
これがただ喜捨という善意によって立っていることも忘れ、花をばらまくだけの阿呆であったなら、マルティンⅠ世は娘を僧会とのパイプとしてのみ見て政治には関与させなかっただろう。
されど、暫くは機能しなかった遺伝が働いてしまっていた。あの子はどうあっても高い位に行くだろうと、皇帝としての任期、三選四五年を満了した経験と感覚が嘯く。
渡りに船とばかりに今回のお家騒動を引き渡したが、単に皇帝が嫌で嫌で仕方ないだけではなく、理由もあるにはあったのである。
末は大僧正か聖堂総監か。親馬鹿にありがちな夢想であればよいが、どうせならば後を継いで欲しいと思うのが親心。阿呆な発言に紛れ、彼はちょっとした欲を見せていたのだった。
まぁ、それも全て怖ろしき女帝の介入で無と帰した訳だが。
「それにだ、我にも多少の矜持はある。格好悪い父親で終わる訳にはいかんのでな」
「なんだそりゃ」
疑問に首を捻る人狼に答える気は無いと溜息で答え、新皇帝は腹の上で手を組み瞑目する。娘に皇帝位投げつけて自分が実務を片付け、時間をかけて全てを譲る野望が絶えた今、少しは真面目にやって喪った父親の威信と信用を取り返さなければならない。
なに、焦ることはない。あの場面において自分に対抗できるコマを引き寄せる剛運と、必要とあらば大伯母という特級のリスクを背負う覚悟を決められる胆があるのだ。
彼女はきっと政治の舞台に立つ。いずれ、必ず。当人が求めようが求めまいが、為政者の器を持つ者は表舞台に引き摺り出される定めにある。
なんといっても、血は水よりも濃いのだから。
なれば、伯母から言いつけられた百年ほどはそっとしておいてやれ、という厳命も受け容れることも難しくはなかった。
「しかし、言を返せば俺なら全部上手くできるってのも、すげぇ発想だよな」
「であるな。実に非定命らしい傲慢さが滲んでおる」
「諸兄らほんっと嫌なヤツだな!! 手打ちにしてやろうか!!」
「残念でしたー! 三皇統家は帝権侵犯か大逆罪でなければ死罪にはできませーん!」
「っかぁー! 俺もなぁー! 陛下の命とあらば酒杯に毒を垂らすのもやぶさかではねぇんだがなぁー! 開闢帝がお定めになったこったからなぁー!!」
「なんっだと! 分かった! じゃあ軍のコストをがりっがりに削って、竜騎兵の充足数は半分にしてやる! 暫く戦をやらかす気はないからな! 余計な予算はバンバン削っていくからそのつもりで震えておれ!!」
「「はぁ!?」」
ぎゃあぎゃあと俄に執務室が喧しくなり、聞く人が聞けば毒杯を呷って現世から辞したくなるであろうやりとりは、最終的に予算獲得兵演棋トーナメントが開催されて“暫くは例年通り”という結果に落ち着くのであった。
「しかし、魔導院の予算をどうしたものか……」
マルティンⅠ世は面倒臭そうに魔導師の駒を弄びながら呟いた。銀細工の精緻な駒はフードを被り長杖を担った魔導師の似姿を取り、今のマスから動かず一から二マス先の駒を取れるというトリッキーながら強力な存在である。
政治の妙手である彼は、兵演棋においてもこの手の駒を上手く扱う嫌らしい指し手であり、まだ幼い娘に手ほどきをしていた頃は手筋の嫌らしさから泣かれたこともあった。これがトラウマだったからだろうか、娘が正統派なストロングスタイルの指し手になったのは。
「何を悩む。皇帝となったなら多少は優遇し、陛下の趣味に予算を割いても我らは口を挟まぬぞ。皇帝に許された多少の贅沢ではないか」
「そーさな。竜舎を各領邦に増やして、二個飛行連隊規模で拡充させたのはどーかと思うが」
「やかましい、東方征伐では大活躍であったろう。航空支援がやってきた時の兵子共があげる歓声は今も思い出すほどにな。あと、それをいうなら卿の親父殿の時も大概であったぞ。猟兵隊の拡充まではよいが、何を思ってあそこまで兵器廠の新規建築をやったのか」
「……まぁ、諸兄らのは普通に国策として使えるからよいが、我が下手に予算に触れると身内贔屓扱いされるのでな」
駒をくるくる弄びながら、マルティンⅠ世は教授会に居並ぶ怪物共の面を思い出して憂鬱な気分になった。
一人一人と付き合うのはいいのだ。何奴も此奴も度し難い変態性癖揃いであるが、塔に引きこもって人類廃絶を誓ったり、人間を生きたままバラして溶接するような害のある変態ではない。
が、混ぜると途端に始末が悪くなる。どいつもこいつも我を張って、議論なのか口舌を以て殺し合いをしているのか分からなくなる有様。最終的には手袋が乱舞して死屍累々の学閥紛争もあり得るのだ。
それも、下手すると国が滅ぶ規模のものを、帝城の鼻先でやられるのだからはた迷惑具合は筆舌に尽くしがたい。
いっそ遠方に移封してしまえば楽だが、それはそれで不便というのが何処までも始末が悪かった。
これが普通の皇帝ならばよかった。喧嘩を仲裁しながら予算を国策に従って、贔屓にならない程度に分けてやればいいのだから。
だが、残念ながらマルティンⅠ世はガッチガチの関係者である。古巣といって良い場所に縁故は深く、学友や僚友、研究仲間に何より面倒くさいことに頭が上がらない先輩も少ないながら在籍していると来た。
上と下と同期から挟まれて予算争いをされると死ぬ。肉体的にはなんとでもできても、精神的に死ぬ。会議前に根回しが死ぬほど来て、その上で結果を出しても多分向こう数百年は愚痴を言われ続けては貯まったものではない。
かといって政治的折衝を任せる名代を立てようにも、魔導に精通し魔導院に詳しいほどの人物となれば閥に属していない訳もなく、当然に閥の干渉は不可避であって……。
「あ」
弄んでいた駒を見て彼は一つ思い出した。
丁度良い緩衝材を用立てられるのではなかろうかと。
何だっていままで研究者止まりであったのか不思議な程魔導の造詣が深く、閥との繋がりは然程深いようではなく――何より閥の主宰から不良扱いされていたし――外国貴族の出身ということもあって国内貴族政治からは遠い。
その上、簡単に殺されるような脆弱さはなく、ボケも病も怖ろしくない種族と来た上、鼻薬を嗅がせようと思えば所領の一つ二つじゃくらりとも来ない金持ち。
まるで輪転神が「頑張れよ」と応援してくれいるかのような人物。これは最高のメッセンジャーになるのではなかろうか。
「なぁ、バーデン公」
「如何した陛下」
「ぐぁっ!? ちょっ、その竜騎待った! それ見逃してた!!」
「待ったは無しだグラウフロック公」
「そうだ、見苦しいぞグライフロック公。ただ、そこの弓箭兵を一歩前に出せばいいと我は思う」
「あ、なーる、したらこっちの近衛が効いてっから、騎兵を垂らして頭を叩いてやりゃぁ……」
「今のは無粋では? 陛下……」
じっとりした視線を無視して魔導師の駒をカツンと執務机に下ろし、皇帝は暫く政務より離れて忘れていた知識を先帝に請うた。
「外国貴族の子弟を叙爵する例外規定とは、法典のどの辺りにあったか?」
【Tips】過去、選帝侯より承認を受けられなかった皇帝は数少なく、また同様に政治の失策によって退任に追いやられた皇帝も片手の指を越えることはない。そして、国家に重大なダメージを負わせる大逆罪の適用は皇帝にも及ぶよう規定されているが、これにより首を晒された皇帝は幸いなことに未だかつて産まれていない。
休んで仕事が片付くなら幾らでも休むけど片付かないから休めないジレンマ。
が、上からは休めと言われ納期と観光日に胃を抉られる私です。
ということでマスターシーンのエンディング。
そしてキャンペーンのエンディングは次回のキャンペーンのために。次の次のキャンペーンのために。




