十三歳の晩春 二〇
高級な服に物怖じしなくなったのをフォン・ライゼニッツに感謝すべきか。はたまた、慣れるほど彼女の性癖を充足させてきた自分を恥じるべきか。
実に甲乙付けがたい命題を前に、私は鏡の中に佇む自分を見てとりあえずの満足をした。
襟丈の高い黒いサテン地のダブレットと、すらりとした白いタイツに重ね履きした半ズボンの組み合わせは、上質ながら簡素に纏まった見た目からして従卒の装束であろう。それも相応の格好をさせ、貴人の応接もできる上級使用人のお仕着せだ。
決して見窄らしくなく、さりとて主人より目立たず一目で従僕と分かるよう繊細に気遣われたデザインは「こいつら金持ってんなぁ……」としみじみ思わされる。
だって、こんなブツが必要になって家にストックしておく理由は一つしかなかろう。必要だからだ。このレベルで身を飾った従僕に応対させる必要がある客が来るからに他ならず、重ねて斯様にハイレベルな使用人を抱える力があることに通ずる。
ほんと、どれほどに高貴な名家なのだろう。家名に貴族位がついてなかったが、政治的な理由で貴族位を辞し、今も尚高い権勢を誇る名家というのは実在するからなぁ。後は長年の奉公が認められて家名を名乗り帯刀を許された、江戸の地頭みたいな家も少数ながら存在する。
「おや、様になっていますね」
衣装室から出ると、クーニグンデさんが少し意外そうに私を見ていた。この手の装束は簡素な平民のシャツやダブレットと違って色々“絞める”部分があるから、慣れていないとキチンと着こなせなかったりするのだ。
「まぁ、色々ありまして」
「このまま当家の従僕としてもやっていけそうな佇まいでございます」
先導されながらたわいもない会話を楽しんだ。ただ残念ながら私の家格では上級使用人をやるには障害が多すぎるのでどうにもならないだろうけど。
因みに雑談の中でぽろっと聞いた限り、この家だと上級使用人であれば下っ端でも給金では金貨が基準になるらしい。この調子だと大家の家令は下手な田舎領地の男爵より金持ってるってのは嘘じゃないのかもしれないな。
雑談を楽しみながら歩くこと暫し。廊下でさえ絨毯を行き渡らせるあり得ない金持ちっぷりに感嘆させられつつ、辿り着いたのは細い渡り廊下の先に作られた温室だった。
鳥かご状の支柱を持ち、高価なガラス――均等な板状のガラスは、この文明レベルでは宝石に等しい――を張り巡らせた温室は植物を飾るよりも、冷え込む冬でも暖かく外を眺めながら茶会を催すための場所と思われる。
ただ、不思議なのはガラスに覆われているのに中が真っ黒で様子が窺えないことだが。
「では、暫しここでお待ちください」
通された先の空間を上手く認識できなくて、私の脳は暫く活動を放り投げた。
夜だったからだ。
芝が植えられた温室の中には夜が切り取られていた。見上げれば丸い月が同胞である星々を引き連れて煌々と輝いていた。空気までが心地良く冷えた静謐な空気に満ちた温室の中は、優しい夜だけが満ちている。
「……いやいや、どんな高位の祝福だよ」
深く考えるまでもなく、奇跡だ。語弊もなく誤解もなく、正しく神が意図的にもたらした奇跡。夜に本領を発揮する吸血種が真に安らげるのも夜であり、これはきっと夜陰神が昼でも穏やかな一時を過ごせるように贈った聖遺物の一種だと思われる。
私でも感じられる神威の名残は相当に旧く、これがかなりの依怙贔屓によってもたらされた奇跡の残滓であることが分かった。
こんな奇跡の恩恵を受け続けられる人間の連枝なのか、ツェツィーリア嬢……。
気を取り直して温室の真ん中に用意された円卓の下座に座った。
さぁ、一旦落ち着いて思考する時間ができたから現状の再整理……。
ではなく、溜まった熟練度を確認いたしましょう。
現実逃避するなと冷静な自分から石を投げつけられているが、もう事態が色々混濁し過ぎて訳が分からんのだ。死にかけていた興奮のせいで助けられた時の記憶は曖昧だし、起きた後もびっくりの連続で行為判定が驚きの低空飛行だ。今日私にダイスを振らせたら、期待値はきっと5を割るぞ。
だから少しくらい楽しい事に意識を反らしたっていいじゃない。
「おっ」
権能を呼び起こしてみれば、思わず感嘆するほどのポイントが蓄積されていた。日々の鍛錬や仕事の積み重ねに加え、普通に死にかける規模の冒険をこなしたからか貯蓄の量は最初にアグリッピナ氏によって放り込まれた館をクリアした時さえ上回る。日を跨いで色々やったから、キャンペーンクリアみたいな扱いだったのやもしれぬ。
この量は嬉しいな。これだけ経験点が貰えるなら、GMが明らかにバランス間違えたとしか思えないエネミーを何度も叩き付けられたことも許せるかもしれない。
まぁ、実際にやられた時は「詫び石かよふざけんな! もっとやれ!」と卓の全員で煽り倒して最終的に笑って許したが。
次の卓? エンジョイ気味だった方針を投げ捨てて全員が最適解で物理的に強化されたから、全ての陰謀を筋力判定で薙ぎ倒して終わったよ。この世の全ての陰謀というものは、脳味噌まで筋肉に染め上げた怪物的暴力の前では無力なのだ。
これは素晴らしい。悲願であった<神域>と<寵児>に<器用>と<戦場刀法>のいずれかに手が届き、その上でまだ十分な経験点が残るのでコンボの発展もできるし、他の方面に手を伸ばすことだってできる。
……あとなんか、これ見よがしに<信仰>のスキルで夜陰神の高位奇跡がアンロックされているけど、これはアレだろうか、信徒を助けたことへの返礼か。はたまた、夜陰神の関係が深い血族に関わったが故の忖度か……。
まぁ何にせよ保留だな。慈母の神格だけあって防御的・回復的な奇跡が多く、私のビルドとは正直言ってかみ合わせが良くない。眠りの質を上げたり夜目が利くようになる常時発動型の祝福には惹かれるものの、それだけが目的で信仰するのもなんだかな。
この世界で捧げる信仰は、受験期だけ道真公の神社に足繁く通うのとは訳が違う。リアルに神託として電波が投げつけられる世界で、実用一辺倒で神を信仰するのは、最終的に行為そのものが不敬に感じられてくるから困る。
いや、ここで贅沢にブチ込むのもいいが冒険者になる準備を始めるのも悪くないかもしれない。<基礎>で留め置いた<野営術>をミカに簡単な建築知識を教わったことで解禁された<簡易陣地構築>にアップグレードしてもいいし、<野営料理>や<応急手当>や<簡易医療>といった遠出するなら知っていて絶対に損はしない手頃なスキルを拾っても楽しそうだ。
それに将来的に冒険者として自立し、一党を率いるようになれば人心掌握系の特性やスキルはあってもいいよな。一つ数百円のCG集に出てきそうなお手軽なのじゃなくて――そも、そこまで便利なスキルはないし、魔法で似たような術式を構築するなら幾らかかるやら――少人数を指揮するとか陣形構築に関するようなので。
<交渉>はどれだけ伸ばしたって腐ることはなく、信頼感を与えるような特性の数々もきら星の如く魅力的だ。
あと、今より幼い頃になかったアレな情動が擽られるスキルも沢山……。
「待たせたの」
頭が悪い方向に傾きかけた思考に一瞬で冷や水、いや、液体窒素がぶちまけられた。椅子を背後に跳ね倒さずに立ち上がれたのは、多分なんかのご加護に違いない。どうしてこの人は先触れもなにもなしに現れるんだよ。ライゼニッツ卿でさえ一応は従僕が入来の報告くらいさせるってのに。
「おお……」
が、その憤りは一瞬で霧散した。
豪奢な娘衣装に着替えたツェツィーリア嬢の優美さに目を奪われ、余計なことに回す思考の余剰メモリが存在しなかったからだ。
「その……あまり見られると恥ずかしいのですが」
「うむ、この姪御の愛らしさに免じて許すがよい。装束選びに些か手間取ってなぁ。やれある訳も無い僧衣がいいだの、体の線が出る服は絶対駄目だのとやかましく……」
「だって! おお……伯母様が奨めてくる服は流行から遅れているんです! 今はあんなに肩を露出しませんし、スリットもいれません!」
ツェツィーリア嬢の身を飾るのはクラシカルな午餐服だった。肩が膨らみ、大仰に広がる裾が特徴的なドレスと聞いて真っ先に想像する形の装束は、濡れたような光沢を放つ言不色の色彩が黒髪を美しく引き立てていた。
同系色の糸で刺繍された小花柄は大輪の美華を前面に押し出す流行系ではなく、落ち着いた小ぶりな華を全体に散らしたもので、彼女の奥ゆかしい雰囲気を一層強くする。フランツィスカ様の装束を借りているだろうに、まるで最初から合わせて仕立てたかのような嵌まり具合であった。
「そうは言うがなぁ、汝は此方とよく似て豪奢に飾るのが似合う目鼻立ちをしているというに。地味な服と薄化粧ばかりでは、継いだ血が惜しかろうよ。第一なんだ、この装束は。五〇を越えたヒトの婦人が如き装いではないか。せめて紅くらい塗らせてたもれよ」
「これでいいんですよ! 第一なんですか伯母様こそ! あ、あんなの服じゃなくて、殆ど布を紐で括っただけみたいじゃないですか! 馬鹿じゃないんですか!? あんな踝どころか太股まで露出して!」
髪も午餐に合わせて淑やかに結い上げられ、五月蠅くないほどに髪飾りで彩られた姿は正しく良家の子女。何がなくとも跪いてしまいたくなる空気がある。
何というべきであろうか。成り上がり者ではなく、産まれた時から尊き血が流れている。そんな風情だ。私も貴種系の特性を持っていれば、こんな風に人の目に映るのだろうか。
……うん、やっぱ印象系の特性は大事か。一考して覚えておこう。成人も近いしな。
「あれは東方風といって、当時はまだ通っていた東方交易路から入ってきた向こうの王朝文化なるぞ。余所様の文化を馬鹿にしてはならん」
「違う酒を同じ瓶に汲むなとも言うでしょう! あと、東方交易路は今上帝が再打貫なさっています!!」
思わず見惚れていると何やら会話がヒートアップしているようだった。とりあえず椅子を引いて二人に座っていただいたのだが、何の話題で盛り上がっていたのだろう。
「なぁ、汝も思うだろう? こんな老婦人みたいな装いよりも素材を活かした方が姪御は似合うと」
「はい?」
急に話題を振られて変な声が出た。へ? と気抜けした返事でなかったのを誰か賞賛してもいいのよ。
「長い手足は包まず晒すのが最上よ。まぁ此方の着こなしを真似るのは難しかろうが、それでも夜会服まで袖つきを選ばんでもよかろう。なんだってあんなケープまで羽織って……」
「淑女は隠してこそなのですよ! エーリヒもそう思いませんか!?」
「アッハイ」
あ、なんだ、洋服談義か。ここで素直にツェツィーリア嬢なら何着ても似合うと思いますよ、と素直に答えちゃ拙いんだろうな。前世でも似たような感想を口にして、半時間文句言われたこともあるし。
「だがな汝よ、見たくは無いか? 夜着とは違った姪御の艶姿を」
ねっとり耳に絡む色っぽい声音。まるでそんな魔法でもかかっているように鼓膜に絡みつく声が、ツェツィーリア嬢の寝間着姿を喚起させる。それに合わせて色々と脳にこびり付いた色っぽい衣装――一体何時から私の脳内は盆と年末の有明になった!?――に頬が赤みを帯びるのが分かった。
しかし私も良い大人、直ぐに笑みを作り直し「今の服装も大変お似合いかと」と麗句を作るのに遅れはない。明け透けに助平な男が受け容れられるのは、仮にイケメンであったとして酒場だけなのだから。
「ああ、それに……一番似合うのは、夜陰神の僧衣だと思いますので」
ってあれ、なんだ今の感想。最後の一文、私言おうとしたっけ? 確かに本心だけど、今の格好を下げるような発言はいただけないことくらい分かっているのだが。
不意に重い音が響き、何事かと思えばツェツィーリア嬢が額をテーブルに打ち付けていた。よくよく見やれば吸血種の血色が薄い肌が赤く、耳まで真っ赤だ。
……どうやら予期せずしてときめきイベントを踏んだのだろうか。
撃沈された姪っ子を眺めながらフランツィスカ様は扇を広げて楽しそうに笑い始めた。そして、一頻り笑った後でベルを鳴らして茶の用意をさせる。
「いやはや、茶を饗す前でよかった。しかし、汝に褒美を渡さねばならぬなと考えていたが、これはアレよなぁ」
ワゴンで運ばれてくる黒茶や喫茶台の華やかさに心が浮き立つ。三重帝国人ならお茶でテンションが上がらない訳がないからな。
「なんなら我が姪御を褒美にとらせたほうがよいやもしれんなぁ」
「伯母様!?」
それにしても空気を破壊するのが得意な御仁である。私は手に仕掛けた茶を取り落としそうになって合わせ、ツェツィーリア嬢は卓を破壊せんばかりに起き上がり、不穏な発言をした伯母に掴みかかる。
うん、最初の登場もダイナミックだったけど、色々と凄すぎる。
将来に備えてポイント備蓄、という選択肢もあるのだなと私は何ともなしに思った…………。
【Tips】流行を発信する貴種は新しい物、派手な物に惹かれる傾向にあるため、商人達は挙って他国の文化を“派手に弄くった”ものを持ち込むことが多い。それ故、正しい他国の文化・風俗が交易路を通ってやってくるとは限らない。
言不色:赤みがかった黄色。レモンイエローの彩度を落とした雰囲気。山梔子で染めます。こういった古式の色名が好きで、絶対 ? となるだろうと思っても使ってしまう病気。
そして年末は29日まで働かねば鳴らぬ予感。なお、年始も一足早い1月5日出勤の模様




