少年期 十三歳の晩春 十七
「ちょっ、まっ、これは反則であろう!? 何故貴女がここにおわす!?」
四肢を叩き落とされ、首を掴まれた状態で赤い霧から引っ張り出された公の第一声はそれであった。
「ほぉ? 相も変わらず汝は冗談の感性に満ちておるのぉ、小坊殿」
貝紫のトーガを扇情的に着崩す吸血種の女性は、牙を見せ付ける種族特有の笑いを作る。威嚇と威迫の意を込めてにんまりと。直裁ではなく迂遠に、しかし時代がかった三重帝国語の嫌な響きに公は震え上がる。
この言葉が、この響きが。なによりこの話し手が嫌いだから、彼はそこそこ旧い吸血種にありがちな、古典と化した単語や文法を使わないよう意識しているというのに。
「則に反すというならば、まず汝が詫びをいれねばなるまいよ。そこで襤褸の如く転がるヒトの小童にも、泣きながら此方に泣きついてきた可愛らしい又姪にも」
そして何より、折角の晩餐を邪魔された此方にも。撓めた目尻も擡げた口元も完璧に、しかし貴種らしく整った笑みとは正反対の圧倒的な暴力的思念と共に女性……。
三重帝国史上でも希なる女帝。テレーズィア・ヒルデガルド・エミーリア・ウルズラ・フォン・エールストライヒは自身の甥っ子の首をへし折った。
「がぐっ……」
上質なカトラリーや扇が似合いの手が首の骨を七本纏めて砕き、外見とは反比例に強力な握力で締め上げられた首は再構築を許されない。
得てして不死者を払う神の加護を得づらく、同様に諸刃として自らを傷つける銀器を持てぬ吸血種同士の殺し合いはこういったものだ。
偏に暴力。賦活を許さぬ圧で延々締め上げ、相手が根を上げるまで責め続け心を殺す。
不死の殻に収まっていようが、所詮精神という内容物は到底不死とは言い難い柔らかく儚い代物なのだから。
「第一、皇帝であったものが血縁一人呼ばれた程度で絞められる鶏の如く喚くでないわ。今の此方は隠居の劇作家に過ぎぬというにな。この細腕が握るのは専らペンばかりなるぞ」
締め上げられて血の泡を吹きつつ悶える公は、細腕が何だって? と怒鳴りたくも骨諸共に気管を潰されては悲鳴一つ漏らせない。
何より嫌らしいのは、公が魔導師として自身を高めたのに対し、この“伯母”は吸血種という生き物の有り様を行き着くところまで追求した別種の強者であり……前衛を介さぬインファイトに持ち込まれた時点で勝ち目がないほど相性が悪いことであった。
肉体を霧に変え、空間を飛び越え、血を啜って傷を癒やし尋常の枠から大きく越えた膂力を振り回す。ただ吸血鬼と蔑まれかねない種族の強みを「これが吸血種だ文句あるか」と言わんばかりに叩き付けるストロングスタイルはシンプルであるが故に怖ろしい。
骨を砕かれ、死に続ける公は術式を練ることもままならず、密航を阻まれたあの日の如く自分を睥睨する伯母を睨め付け返すことしかできなかった。そして、身を焦がすような銀色の視線を取るに足らぬものを見るかの如く受け止めた彼女は、気絶したヒト種の少年の傍らに跪く又姪に目線を移す。
「見やれよ、あの優しき子の姿を。此方も思い出すとも、リヒャルト様への恋で身を焦がした娘時代を」
ほぅっと色っぽい吐息を零す視線の先で、吸血種の尼僧は儚く絶えかかったヒトの体を抱え上げ聖印を握りしめる。
濃厚に立ち込める血の臭いに否応なく本能が刺激され、牙が伸びた。舌先に触れる尖った歯先が精神に語りかけるかのように魂を擽る。あの味が、蠱惑的な血の味が牙に残っていると錯覚し、甘い欲望が脳で囁きかける。
目の前に転がるのは晩餐だ。輪転神が運命の悪戯で自分のために仕立ててくれた最上の馳走であると。
「……神よ」
しかし、僧は自身を強く律し、縋るように神の名を口にした後、思い切り自分の舌へ牙を突き立てた。堪え性の無い吸血種の“コンスタンツェ・ツェツィーリア・ヴァレリア・カトリーヌ・フォン・エールストライヒ”ではなく、夜陰神に侍る僧、ツェツィーリアとして彼を救うため。
「御座にて我らを見守る慈悲深き夜陰の女神よ」
彼女は口の端から流れる血を拭うこともせず、為すべきことを為すため舌を踊らせる。僧位につき、赦されながらも庶幾うことのなかった秘蹟を求めて。
「我は与うるを望む者。ただ与えられるを拒む者。嘆きを癒やす慈母の手を貸し与えたもう」
厳かな詠唱に合わせ、不気味な光が払われ優しい光がどこからともなく差し込む。そは紛うこと無き月の光。暗闇の中、迷い子を照らす慈母の眼差し。
「我が身を糧に愛し子の苦悶を払い給え。御身の教えのかくあれかし」
真摯なる祈りに応え、神は自らの権能を振るい世界を“正しく”歪めた。
奇跡は一分の瑕疵無く奇跡であり、魔法でも生半に引き起こせぬ事象を瞬きの間に引き起こす。
ツェツィーリアが壊れ物を扱うように千切れ飛んだ四肢をあてがえば、最初から繋がるようにできていたかのような自然さで四肢は元の位置へ収まった。痛々しい疵痕は影さえなく、残酷な負傷が残滓すら残らず拭われ瑞々しい皮膚が現れる。
普通ではありえない事象。人類が行使できる魔法や魔術では追随できる者の殆ど居ない偉業を奇跡は成し遂げる。世界の内側を管制する神の御名において、限られた万能は誤謬なく信徒の願いを聞き届けるのだ。
が、神はただ優しき庇護者ではない。庇護者にして監督者でもある彼等は、奇跡の大きさに比して信徒にただ与えるだけのことはしない。
何故なら、それを赦せば人は人ではなく、神の家畜に墜ちるのだから。
「うっ……ああっ……うっくぁ……ひっ……!」
痛々しい音と共に僧の四肢が刻まれる。筋が、肉が、骨が、あり得べからざる事象の対価だと言わんばかりに引きちぎられていった。
四肢とは一度喪われれば戻らぬもの。遙かな未来の技術でさえ、余程限定的な事情でなければ千切れた手足はつなぎなおせぬ。
その無理を押してまで四肢の再起を願うなら、神々は相応の対価を求める。
肉には肉で、骨には骨で。
これは、他者の傷を自らに移すことで癒やしと変える奇跡。四肢再生の奇跡は癒やしの奇跡の最高位。酷い疲労や禊ぎに祈りを対価として奉納すれば赦される下位の奇跡とは訳が違う。
彼女の左腕と左足は、エーリヒの手足と“全く同じように”引きちぎられた。神が地上に降り注ぐ秘蹟の代価として。
「ふっ……はひっ……くぅぅ……」
論ずるまでもなく吸血種は四肢が失せた程度では死なない。それに奇跡の代償も、あくまで傷を移す事そのものであるが故に清算は済んだと見做されており再生も許され、他の奇跡によって傷を癒やすことさえ能う。
大きな代償が伴う肉体を再生させるような奇跡の中では、慈母の神格がもたらすに相応しい破格の奇跡と呼んでも過言ではないだろう。
それでも今まで痛みを知らず生きてきた尼僧には大きすぎた。四肢が強引にねじ切られる痛みはエーリヒが味わったものと同質の痛み。否、戦闘の高揚で痛みが麻痺していた彼が受けた苦痛とは比べ物になるまい。
傷つき、餓えた肉体が血を欲する。一度鎮めた筈の“魔種”として身に秘めた魔性が心の中で起き上がる。啜ってしまえと、命を救った対価としては安かろうと。
この横たわる体に牙を埋められれば、どれ程に気持ちが良かろうか。どれ程に甘美であろうか。
それはきっと永遠に忘れられぬであろう悦楽のはず。今生で他に得られるかも分からぬほどの甘露であると本能で理解できる。
「ひっ……く……ふっ……あ……あああ……!」
荒れ狂う種としての渇望。ヒトの身では想像さえできぬ渇きの呪いを心の裡に押し込めて僧は立ち上がった。捻れた肉をより合わせ、縺れる心に鞭を打って。
そして、若き吸血種は対峙する。帝国建国期に産まれた大伯母に首根っこを引っ掴まれた、黎明期生まれの父の前へ。
「父上、ここではっきりと意志を表明させていただきます」
血染めの僧衣を纏った娘は自分勝手な父を睨め付け、己もまた自分勝手に振る舞うことを決めた。如何に父子関係であろうと俺が良くてお前は駄目だなんて認めて堪るものかと。
自分が大伯母から押しつけられたからといって、娘に問答無用で押しつけられると思ってくれるなと。
「私は帝位になど就きませぬ。未だ成人すら迎えぬ若輩のこの身で一体どうしてエールストライヒの当主と皇帝の責務を果たせましょう。他ならぬ叔父上や初代様も苦言を呈されましょうぞ」
何か言いたげな公ではあるが、残念ながらネックハングツリーの圧は欠片も衰えておらず、家の中でも誰が逆らえるんだよと言ったレベルの巨頭を前にしては下手なこともできない。
可愛い使い魔達は全員ノックアウト中。もう暫くしたら復活するだろうが、流石にしろいゆき以外の子ではテレーズィアの前では五分と保つまい。
「それと私は神職として信仰に身を捧ぐと決めたのです。確かに切っ掛けは父上と母上が我が身を案じて聖堂へ入れたことに違いはありますまいが、今は私が私の意志で望んでいるのです」
何より、この目を見ると駄目だ。吸血種特有の鳩血色の目。不羈の意志をくべて爛々と輝く瞳は彼の妻を思い出させた。優しい女性であったが、一度決めた事は何があっても折れぬ鋼の意思を持った女傑でもあった。
嫋やかさの中に強さを。慈しみの中に厳しさを。そして何より夫を立てながらも決して己を見失わなかった不屈さが受け継がれている。
これはもう無理だ。危急とあらば役目を受け容れる事はあろうが、今だけは何があっても首を縦に振るまい。何より彼女が疎んできた面倒な親戚づきあいさえ覚悟し、中でも特級にヤバい大伯母に声をかけた時点で本気の度合いがどれ程か窺える。
「改めて宣言致します。私は帝位にも当主位にも就きませぬ」
断言され、血族内政治における鬼札まで持ち出されれば、公が首を縦に振るしかない。
諦めて頷こうとした時、公はふと気付いた。瞳の中でくべられる感情に怒りが込められていることを。
はて、娘は何にここまで怒っているのだろう。確かに当主位を黙って押しつけようとした上、国と結婚するに等しい――公務が忙しくて普通の結婚生活をしている暇がない――帝位にまで就けようとしたのに怒るのは公も分かる。他ならぬ彼自身大いに憤って、皇帝就任後も何度か伯母とガチの殺し合いをやっているのだから。
しかし、それ以外の怒りも結構な割合で燃えているような気がしてならなかった。
「あと一つ……」
何だろうか、僧会に働きかけて帝都に呼びつけたことか。それともド派手な譲位報告酒宴を企画して、娘に七度のお召し替えを予定させてワクワクしていたことがバレたのか。はたまた親族も抱き込んだ今回の企ての恨みを纏めて叩き付けられているのか……。
「もうファーティーのことなんて知りません! だいっきらいです!!」
落雷を受けたかのような衝撃が公の中を駆け抜けた。今日一番の、ああ、いや、きっと人生で一番の衝撃。銀の短剣が心臓の脇を掠めて貫通した時よりも劇的な言葉。
「す、スタンツィ!?」
思わず潰れて一言も発せない筈の口から悲鳴にも似た声が溢れた。娘の名前、自分が与えたが何故かあんまり名乗ってもらえない名前の愛称を口にし、類い希なる美貌がくしゃっと悲しげに歪んだ。
「私はツェツィーリアです! 一番のお気に入りなので、そう呼んで下さいとずっと言っているではありませんか!!」
「此方がつけてやった名の方がよいか、はっはっは、それはよい。愛いのう、愛いのう我が又姪よ。うむうむ、安心せよ、この婆が汝の望むようにしてやるからな」
ショックを受ける父に背を向け、彼女は安らかな寝息を立て始めた少年の下へ向かった。大伯母が後の仕儀を任せろというなら、ここで黙って待っていた方が良いだろうから、硬い地面に横たえておくのは哀れだと思ったのだろう。
なんといっても彼は、望まぬ帝国との結婚から彼女を救ってくれた勇者なのだから。
「な、なんで……スタンツィ……」
「おうおう、情けないのぉ……何故に男というものは、家族はどうあっても己を好いてくれるなどという幻想を抱くのか……まぁよかろう。その辺含めてじっくり教えを説いてやろうではないか小坊殿」
僧衣が汚れるのも気にせず、ツェツィーリアは地面に座り込むと彼の体を抱き上げ、上体を膝に乗せた。如何に細やかな傷まで含めて全ての負傷を引き受けたとはいえ、さしもの奇跡も喪った血液までは戻せないのだ。失血で冷えた体を冷たい石室に触れさせる訳にはいかない。
安らかに眠る顔。脱力により傾いだ頭のせいで覗く首は、初めて酒杯の血を受けて以来ずっと気にし続けていた麗しさで今日も語りかけてくる。
この人は天性の吸血種殺しなのでは、と僧は小さく笑い、風邪をひかぬよう鎧の襟元を正してやった。
本能が囁く。馬鹿なヤツだと。これほど美味しそうな獲物を前にして牙を立てぬなど。むしろ、今ならば己が“恋人”に仕立てることなど容易く、ともすれば眷族として永遠に侍らせることも能おうに。
本能に囁き返した。それでは野盗ではないかと。かつてのランペル大僧正が痛烈に批判した吸血鬼そのものではないかと。
私は吸血種にして夜陰神の信徒である。それ故、善意の奉仕に善意で返すばかりである。彼の人生を掠め取るような真似はしない。
それに彼女はちょっと楽しかったのだ。いつだか見た観劇。お忍びで街に出たお嬢様が旅の勇者に救われて面白おかしく遊び回り、ハッピーエンドを迎える有り触れたお話に似ていて。
勇者を見初めたお嬢様はそんなことをしないのだ。差し出される手を取って優しく微笑み、疲れた彼を抱き留める。
それから先は、彼が勇者としてあるため影ながらに支えていくのだ。
斯様な甘い幻想に自分を重ねて悦に入ろうと、神は咎めはすまい。今は彼が助けてくれたという事実に浸っていたい気分でもあった。
彼女の夢と有り様を肯定するかの如く、月を模した聖印がちりんと揺れた…………。
【Tips】貴種は多くの名を与えられることがあり、慣例的に父から与えられる最初の名を名乗るが、複数の名から気に入ったものを名乗ることも多い。時に同名の者が何かをしでかし、よい印象をうけなくなるなどの要因でも。
ということでクライマックスフェイズは終了。次回からエンディングに入り清算へと移ります。
一番楽しい時間ですな。さぁ黙ってレコ紙を寄越せ、経験点をチケットに書き込んでやる。