少年期 一三才の晩春 一〇
大気を裂く重い軋みを城下にまで届かせる巨船を呆然と見上げながらも、鋭敏な感覚は一切衰えることはなく異音を聞きつけた。
窓が開き、蝶番がこすれる音。
夜陰神の聖堂は皇帝からの協力依頼に応え、現在戒厳令下にある。出入りは内部に控えた衛兵に監督され、窓を開けるのにも念のため報告するようにとの達しが出ている。
普通なら独立の気風が高い聖堂は、このような無体とも言える指示を呑みはしなかっただろう。
ただ、彼等には彼等で責任があり、責任を果たせなかった事実がある。相手からの要請を呑むのは、最も分かりやすい反省のポーズ。なにより、多少の不便で下手すると大司教どころか僧正レベルで首が跳ぶ不祥事が、この程度で収まるのなら安い物だと主席大司教は判断したのだ。
それ故、聖堂内において戒厳の布告は徹底されている筈。
ならば、音が外からの干渉による物の確率は極めて高かった。
この多種族都市において、建物によじ登れる人類は幾らでも居る。爬虫人の一派は吸い付くように壁を這い、蜘蛛人を初めとする昆虫系の諸種族も登攀に高い適性を持つ。それ故に「え? ドア? 自室に一直線だから窓でいいじゃん」と無精して衛兵に怒鳴られる住民が絶えない。
彼は自身の思考と感覚に従って“飛翔”した。背中から伸びる翼を力強く羽ばたかせ、身に宿した魔法が空気を弾いて重力という名の嫉妬を振り払う。
そして、鐘楼より投げ出した身を丸めるように撓らせ、ヒトに似た肉体構造がなければ再現できない空中での鋭角なターンを魅せつけて屋根すれすれを飛んだ。曲芸という言葉さえ生ぬるい絶技は、しかして僅かなコース取りが生死を分ける空中戦を嗜む者達にとっては当たり前の技術。
凛々しい嘴が屋根瓦に掠れるほどの間際を駆け抜けた有翼人の“近衛猟兵”は、壁に張り付く“一人”の不審者を見咎めて大声を上げた。
「そこの貴様! 何をしている! 止まって外套を脱げ!!」
体格からするに恐らくヒト種、それも若い雄性体。ヒト種は有翼人である彼にとって、御しやすい生き物の中でも屈指に入る面々であった。
何故かはしらないが、彼等は揃いも揃って“猛禽”の流れを汲む自分たちが“家禽”と同じく、夜目が利かず、夜間は大人しいと種族全体で思い込んでいるのだから…………。
【Tips】種族に対する先入観というものは多種族国家において付きものである。水棲人が半日以上水に浸からないと死ぬ、吸血種は太陽に当たったら溶ける、鼠人がナッツ類を好むのは歯を削るため、有翼人は夜盲といった具合に。
同じ事がヒト種にも言われており、大凡全ての環境で生きていけるという特性を勘違いされ、暑いとか寒いとぼやくと首を傾げられることも……。
どんな判定をする時もだが、これくらいは失敗せんやろとか、ゲームの仕様上サイコロ振る必要あるだけだから安心、なんて具合に義務感で適当に判定をすることがあるだろう。
で、そんな時に限って酷い出目が見えたり、何か致命的な勘違いをしていたりするんだよな。私の人生。
多分、行為判定そのものには成功したのだと思う。<見えざる手>の多重展開で虚空に作った不可視の階段を上り、ツェツィーリア嬢はきちんと聖堂二階の窓から中に転がり込めたのだから。吸血種を名乗るなら、羽ぐらい生やして華麗に飛んでくれよと思ったのは内緒だが。
そして、自分も後に続こうとしてたらこれだよ。
「そこの貴様! 何をしている! 止まって外套を脱げ!!」
誰何の内容が一瞬理解できなかったのは、自分のアホさで見つかったことを理解できなかったせいではなく、あまり言語の発声に秀でた構造でない声帯から発される声が、ガラスを摺り合わせたような声だったからだ。
隠密に失敗、リアクションにも失敗。ご丁寧に声をかけてくれているからいいが、警告無しだったら防御判定できたか分からんねこれは。
衛兵は基本的に即実力行使に移らず、先に一言かけてから実力行使に入る。市街での警邏や行幸先での護衛を行う近衛も同様の教育を受けているのだろう。
なんつったって余裕がある。警告によって相手が臨戦態勢に入った所で訳なく蹴散らせるのなら、無警告でぶん殴って市民から不興を買うより一手間かけた方が絶対にお得だ。
顔を見せて素性を明らかにすると共に武器の不携行を示せという警告、されど相手は既に攻撃の態勢に移っていた。
至極当然、戒厳下の建物に忍び込もうなんて阿呆など、碌でもないヤツに決まっているのだから。一応の義務を果たしたらぶっ飛ばしてもいいやろ、という雑なのか丁寧なのか判断しかねる思考が、翼を大きく広げて蹴りの為に足を撓めた、正しく鷹のような威容から透けて見えた。
三重帝国民は蹄やら爪だの蹴爪なんぞ持つ種族でも靴を履く文化があるが、襲いかかろうとする彼が履いているのはつま先が露出したサンダルのような構造のブーツ。蹴りの威力を十全に発揮させるための、種族固有装備といった所だろう。あんなモンで勢い付けて掴みかかられたら、肉はレアのステーキみたいにぱっくり切り分けられて、下手しないでも骨まで行きそうだ。
まぁ、いわゆるマストカウンターな一撃。喰らったら気絶判定を突き抜けて、ともすれば生死判定まで振らされそうな剣呑さで夕日を反射する爪。
私は登攀の助けとして上体を支えていた“手”を咄嗟に掻き消し、力を抜いて自由落下に移行。最後まで足場にしていた“手”を消さずにおいたことで、ゆっくりと上体から不自然な倒れ方をすることで回避行動とする。警告によってリアクションのチャンスをもう一度くれた真面目な彼と、ほんの一瞬の隙に反応させてくれた<雷光反射>特性に無上の感謝を。
鼻先を掠めるように爪が駆け抜けていっ……コワイコワイ! 恐怖で一瞬フードを抑えてる“手”が霧散しかけたぞ!?
チビりそうになりつつも空中で猫のように身を翻し手から接地。関節を撓めて衝撃を弱めながら力を左方に受け流し、次いで肩を接地させ転倒する形で完全に落着。それでも殺しきれない落下の衝撃を回転することで散らし、受け身を成功させる。
うん、狐とガチョウで負けがこみ、ついカッとなって取得した特性群も馬鹿にしたもんじゃないね。受け身を取るのと魔法を使うのとではコストがダンチだぜ。
余裕をこいている暇はないので、回転の勢いを駆って立ち上がり路地に逃げ込む。とっ捕まって尋問なんぞされたら全部お釈迦だ。事態が事態だし、最悪“精神魔法”の使い手を駆り出してくる可能性もあるから、逃げ出せなきゃ詰みだ。
「あっ、こら、待て貴様! くそっ!!」
有翼人は空を飛ぶという能力で我々が絶対届かない領域にいるが、地べたを走るのはヒト種の方がずっと得意だ。中には有翼人にもかかわらず走る方が早いとかいう変な種族もいるが、翼のせいで路地に入りづらい彼から逃げようと思えば、初撃さえ躱せばわりと容易なはず。
「ええい、くそ、すばしっこい地べた這いが……!」
そして悪態に続いて鳴り響く警笛の音……知ってた。そりゃ警邏についてんだし、有事に他の警邏を呼び集める方法くらい持ってるわな。
潜り込んだ路地に元々居たであろう衛兵が警笛を聞いて正気を取り戻し、飛行艇に奪われていた目線がやっと地面に落ちる。
「おわっ、なんだ君……」
「ちょっと失礼!」
年若いヒト種の衛兵に肩から突っ込んで壁に叩き付け、折角だから抱えていた警杖を拝借する。この辺りは治安もいいので、通常配置の衛兵だと佩剣していても槍は持たないことが多いのだ。
「おっご!?」
壁と勢いが付いた私に挟まれて苦しそうな悲鳴を上げる彼を捨て置き、手の中で小柄な私と然程変わらない長さの警杖をくるりと回転させて小脇に挟む形で保持する。
さぁて、じゃあこれから……。
うん、どうしよっか、マジで。
ちょっと“気を遣って”から逃げ出したから、ツェツィーリア嬢には自分の未来は自分で切り開いて貰うとして、問題は手前の未来なんだよな。
これ捕まったらどうなるんだろう。
関わってる事件が事件だからなー、お腹が空いてたんです! じゃすまないだろうし、というか保護者――今のところは、アグリッピナ氏になるのか――に連絡いったら何やってんだよじゃ済まない気もする。
おっと、前から二人……奇襲は無理か、警笛で集まったから警戒している。じゃあ真正面からだな。
普通の衛兵は軍事教練を受けていたとして、未熟な私としても然程難しい相手とはいえない。伊達に最上位の一歩手前まで鍛えていないのだし、なによりあれだ。
帝都は平和過ぎる。
「がっ!?」
棒を構えることなく前傾で駆け寄れば、敢えて「打ってこい」と晒した頭へ何の逡巡もなく警杖が振り下ろされる。誘いに乗って打ってくれる一撃ほど調理しやすいものはないね。
打ったのではなく“打たせた”一撃を左半身になることで回避し、小脇に抱えた警杖を脇に挟んだまま跳ね上げる。脇を支点とし、腕の力点から伝わる力が増強されて作用点たる警杖の突端で発揮され、がら空きの顎を跳ね上げる。いわゆる第三の梃子の力を借りた一撃は、勇ましく先行した衛兵を一撃で轟沈せしめた。
「なっ!?」
同僚が一撃で昏倒させられた事に困惑している衛兵だが、そこで慌てるようではいかん。逆に荒事がひっきりなしに起こる地方の衛兵なら、今し方沈黙した同僚の体を突き飛ばして私を押し潰させようとするくらいはするだろう。
それに閉所での武器の扱いにも慣れていないようだ。振り上げようとした警杖が路地の壁にぶつかって狙いがそれ、微かに首を反らすだけで回避できてしまう。私は打突の勢いで下方へ跳ね返る警杖を抑えるのではなく、勢いを殺すことなく優しくコントロールして軌道を変更。味方を踏まぬように、という今不要な気遣いと共に踏み込まれた足を払いのける。
「おあ……がっ!?」
で、彼自身が転倒する運動エネルギーを無駄にすると勿体ないお化けがでるので、丁度顎が来るだろう位置につま先を置いて蹴りに変換。かなり荒っぽいが、きちんと意識を刈り取れた。
……うん、死んでないな。暫く硬い物を食べる時に難儀するかもしれないが、歯が砕けたりはしてないっぽいからセーフ。
さぁて、これ後何回やりゃいいんだ?
「こっちで声がしたぞ!」
「囲め! 広く展開しろ!!」
「直に増援が来る! 位置の特定を優先するのだ!!」
さてと、ではちょっと気合いを入れて狐とガチョウの遊びをやるとしましょうか。なに、マルギットと遊ぶのに比べたら軽い軽い。ちと人生掛かってるくらい大体同じだろう。
ノした二人を跨ぐと、耳飾りが私を勇気づけるようにチリンと鳴った…………。
【Tips】帝都における衛兵の練度。衛兵の基本的な仕事は犯罪の抑止であり、市街に武装して立つことが最大の仕事と言える。予備兵力という側面もあるため軍事教練も十分に受けており、帝都ではパレードも少なくないため集団行動の練度は高い。
が、如何せん平和な時期がそこそこ長く、市街で暴れるような連中の最大レベルは酔漢止まりのため、十分な実戦経験を持つ衛兵は勤続ウン十年という大ベテランか、惰性で延々と衛兵をしている長命種の種族くらいのものである。
急に窓から室内に押し込まれ、高貴な尻餅をついたツェツィーリアが事態を飲み込むのには数十秒の時間が必要であった。
表から聞こえる罵声、派手な音、響き渡る警笛。大きな瞳がぱちくりと瞬き、石のように硬い事態を思考の歯が咀嚼し、脳味噌という胃袋に飲み込んでいくうちにコトは彼女を置いて動き続ける。
ああ、自分たちはしくじって、エーリヒが見つかったのだと気付いた時には、もう警笛は聖堂から随分と遠くから聞こえるようになっていた。
いけない! そう彼女は叫ぼうとした。いや、実際に息を言葉として吐き出し、口を開いて舌を動かした。しかし、いつも当然の様に形を結んでいた自分の言葉は大気を揺らしてはくれなかったのだ。
何事かと周りを見回せば、ちらちらと淡い燐光の残滓が見える。それは、エーリヒが探査術式を妨害するときに“使役”していた存在が動くときに見え隠れしていたもの。
神の敬虔な従僕である彼女は、父譲りの秀でた魔法の目こそあれ、信仰によって目を使うことなく生きてきたために深い神秘を見る事はできない。相手が望んで姿を現すなら生来の才能で視ることも能うが、姿を隠されればどうしようもない。
ひらひらと二色の燐光が自分の周りを舞っている。この光に向かい、彼は疲れたような、それでも何処か慈しむような声を投げかけていた。
どんな存在なのか聞いたこともある。ただ、彼はそっと妖精であるとだけ言い、名前は教えてくれなかった。名前は、自分だけに許されたものだからと。
急かすかのように燐光が舞い散っているということは、妖精はここに居る。こまった状況に追い詰められたにも関わらず、彼は自分を案じて妖精をつけてくれたのだ。
彼女はできることなら、窓を開けて自分はここだから彼に危害を加えるなと叫びたかった。箱入りのお嬢様であっても、今の事態で捕まれば“穏便”に済まされないことくらいは分かる。
だが、そんな状態にも関わらず、自分にお守りを残して行くということは、彼はまだ諦めていないのだ。
そして、信じている。
自分は何とかして逃げるので、きっとツェツィーリアも仕果たしてくれるだろうと。
彼女は暫く震えた後、覚悟を決めたように拳を握ると借り受けたローブから埃を払って立ち上がった。そして、声が出なくされていることは分かっていても、周りを旋回する緑と黒の燐光に問いかける。
力を貸してくれますかと。
問い掛けがなされるなど、真逆あるまいと思っていたのだろう。燐光は礑と動きを止め、その様は人が突然の事態に当惑する様を連想させる。
果たして、姿を隠した妖精は、肯定するようにくるくると回って扉へ向かう。
導いてやるからついてこいというのだ。
僧は遠方でけたたましく鳴り続ける警笛に意識の端っこを引っ張られそうになるも、それは却って彼が健在であることを報せる灯台なのだと解釈して迷いを振り切った。
さぁ、昔やった遊びをもう一度やろう。
偉い人の行李にかくれんぼで潜り込み、怒られた思い出くらい彼女も持ち合わせているのだから…………。
【Tips】妖精は誰にでも見えるわけではない。彼女たちは姿を現したいものの前にのみ現れる。故に幼子は薄暮の丘に迷い込み、子供を探す親は妖精を見つけることすら敵わない。隠れた妖精をいぶり出せるのは、それを凌駕する魔法を視る力のみである。
大変お待たせして申し訳御座いません。
ちょっと仕事で修羅場って、月末という名のレイドボスに単独でぶつかっていたせいで毎日の帰宅が十時以降になる一四連勤というコストを支払っていたため、ずっとタップされていました。
まだ暫く忙しいのですが、多少はマシになるかなぁ、という感じですので、次の週末には更新できるよう努力したく存じます。