少年期 一三才の晩春 八
猟兵という兵科の発祥は三重帝国の始まりと共に有ったと語られている。
戦の趨勢を左右するのは、どれほど正確に敵情を知っているかにあると開闢帝リヒャルトが力説し、当時適当に選抜されていた物見や伝令が高度に組織化されたのが切っ掛けである。
そして、彼の皇帝が身を隠して静かに行動し、必ず情報を持って生還するなら猟師より優れた者は居ないだろうと猟師や狩人として働いていた者の斥候への採用が始まった。それ故、三重帝国において優秀な斥候を猟兵と呼び表し、時に高度な散兵戦や非正規戦を実施できる前線部隊としても運用されるようになっていった。
ただそれだけなら猟師や狩人に限った話ではないのでは? と思われたが、これは俗に「当時なりふり構わず戦力をかき集めていたリヒャルトが、軍への参集を条件として無罪放免を約束した“盗賊団”を表面上は猟師・狩人の集団として扱って合法的に帝国へ組み込んだから」とも言われている。
しかし、それも五〇〇年も昔の話。今となっては猟兵は、最も優秀な斥候にして探索者のみが名乗れる誉れある兵科となっていた。
まぁ、そんな誉れ在る兵科も下水道にブチ込まれては名誉もへったくれもなかろうが。
「参ったな、湿気で鼻が……」
「この匂いはたまらんなぁ。人類種はなんとも思わんのか?」
猟兵の最小運用単位は二人一組である。謎の任務で吸血種一人を探し出すのに駆り出された人狼と犬鬼のペアは、下水の中で性能が鈍った鼻を鳴らして小さく嘆いた。
人狼と犬鬼は人類の中でも有数の斥候に適した種族だ。頑健な肉体はいうまでもなく、生肉を食せることもあって野外活動の稼働時間も長く、骨格がヒトと異なることもあり低い姿勢で素早く自然に動くことができる。
その上、長い鼻腔にびっしり敷き詰められた嗅覚細胞がヒト種では到底及ばぬ感覚を彼等に与えていた。人捜しにかけては、正しく魔導師にも比肩する存在として猟兵の三分の一が彼等の種族で占められると言えば実力の程が窺い知れるだろう。
その自慢の鼻も、下水管が近い水道に配備されれば全く役に立たないのだが。
「くそ、ここの探索は俺達にはちと酷過ぎやしねぇか? 貴族の子女が通る道じゃねぇぞ絶対」
「馬鹿野郎、絶対なんてないって選抜訓練でどんだけ言われたか忘れたのかよ」
「いやお前、んでも殆どありえん可能性のためにここに来てどうすんだよ。もう姿消して三日なんだろ? もう帝都からはとっくに逃げ出したんじゃねぇの?」
匂いに辟易として愚痴をこぼす鬣犬種の犬鬼、そしてそれを窘めながら自分も辛そうにしている人狼のペアは微かな人の臭いを探って下水を彷徨い続ける。
上を探して見つからない以上、下に潜り込んでいる可能性を考えるなら、無駄に思えても人員を送らずには居られなかった上層部の事情に巻き込まれたのが、この哀れな二人だ。汚水漂う下水の臭いに悩まされながら下水を這い回る探索行は、しかして何の成果も上げられていない。
たまに人の気配を感じて追ってみれば、それは自分たちと同じく失せ人探しに来た冒険者であったり――人口こそ少ないが、一応帝都にも居るには居るのだ――魔導院の学生が整備の日雇い仕事で入り込んでいるばかり。
特に怪しい痕跡もなければ、数日誰かが潜んでいたという形跡も見つからない。
それに、正直に言えばここは人間が生きていける環境ではなかった。
酷い臭いや水気に強い獣の毛皮でさえしんなりさせる湿気もさることながら、魔導院が飼っている魔法生物が実に悪辣である。連中は水路の清掃と維持のため、時折水路を這い回って表面の汚れを食う巡回を行うのだ。
小さな個体と出くわしたら皮膚が少し赤くなる程度で済もうが、うっかり巨大な個体に呑み込まれたら目も当てられない。二度と人目に出られないような様になり、廃兵院へ放り込まれることとなろう。
臭いに敏感な種族にはキツイ環境、全く上がらぬ成果、出会いたくない存在の徘徊。これだけ嫌な要素が揃ったなら、如何に精強で忠誠心に厚い兵士でも愚痴の一つも溢れよう。
不意に二人の耳がぴくりと蠢いた。大きく分厚い犬科動物の耳が頻りに動いている様は、ヒトの耳では察知できぬ音を拾い上げた証だ。
水路に反響する二つの靴音。音の大きさからしてどちらも体重は軽く、鳴り響く間隔から推察できる歩幅より導き出される足の長さと合わせれば、足音の主が大体どの程度の背格好かを察することは彼等にとって実に容易であった。
音の主は二足歩行、体重と歩幅から逆算した上背から推察するに人類種でまだ若く未成熟。微かに混じる金属音は何らかの装具を纏っているようであり、片方の乱れない足運びには鍛え上げられた武人の色が滲む。
聞き耳に優れた種でなければ聞き逃すほど薄い足音と比して、片方の足音は乱雑で気配を殺すことに酷く無頓着。着地の癖、足運びのリズムからして恐らく雌性体……。
二人の斥候は顔を見合わせ、一瞬の迷いも無く飛びだした。
文句を垂れようと湿気で雄々しい毛がぺたんと寝て残念なことになろうと、二人は栄えある近衛猟兵だ。微塵であれど可能性がある存在を探知したなら、決して躊躇も油断も挟まない。
最高最速で駆けつけ、完璧に見届けるまで止まらぬ矢のようなものだ。
通路を駆け抜け、坂を上り、下り道を一足飛びに駆け抜けて音源に迫る。邪魔な水路は軽く飛び越え、通路を備えぬ水路は“壁面に爪を食い込ませて”走り抜けることでショートカット。一般人では目で追うことも難しい疾走を見せ付けれど、彼等は誇ることもなく当たり前だという顔で足を動かす。
この程度、単なる斥候ではなく猟兵を名乗る上で“できて当たり前”の身のこなしなのだから。
酷い臭いに混じってもヒト種の臭いは簡単に嗅ぎ取れる。彼等は気配を殺すことだけではなく、自分たちの臭いにもとんと無頓着だからだ。むしろ、目立つ臭いを漂わせて喜ぶ性癖は、彼等には全く理解できぬ文化であった。
しかし、次第に強くなる臭いを判別して彼等は首を傾げた。
漂ってきたのは二つとも“ヒト種の男児”の臭いだったからだ。
疑念を抱きつつも飛び込んだ通路には、人影が二人分。
一人は若年の少年。男性にしては長い金髪を丁寧に編み上げ、革鎧を纏った姿は駆け出しの冒険者のようでもある。帝都という土地柄武装こそしていないものの、足運び、そして立ち姿から剣士であることが窺えた。
そして、彼が寄り添う人影は魔導師が愛好するローブを纏った聴講生然としたもの。何かの液体を収めた試験管が詰まったバックを抱えており、地図片手に下水を彷徨う姿はここ数日で何度か目にしてきた日雇い仕事に精を出す苦学生のそれ。
唐突に壁を蹴って目の前に飛び出してきた猟兵達に驚く少年達だが、鎧姿の少年は目の前の兵士が纏う装束を見て即座に警戒を解いた。
一切の無駄をそぎ落とした暗色の詰め襟短上衣と同色のゆったりした脚絆の装束は、例え紋章入りの大外套がなくとも帝都市民であれば所属が一目で分かる。何者にも染まらぬ忠誠を表現する黒、そして無骨さの中に一片の洒脱を刺繍で飾った近衛府の衛兵服は、帝都に住む少年達の憧れでもあるのだから。
「こ、近衛!? なんでこんな所に!?」
きらきらした目で子供達から見上げられるのに彼等は慣れていた。心底自分たちに憧れているらしい剣士風の少年と、突然現れた自分たちを未だ測りかねている聴講生風の少年。
また外れか、と思いつつも一応の職責を果たすため、二人はできるだけ朗らかな笑みを作って誰何の声を上げた…………。
【Tips】三重帝国の軍装。軍の大部分が徴兵軍である三重帝国に正式制定軍服は存在せず、各々調達した布鎧や革鎧、ちょっと余裕があれば鎖帷子などで身を守った上で記章を描いた上衣を被るのが兵士の装いであるが、儀礼的な役割を果たす衛兵や近衛府の兵士にのみ軍装が制定されている。
人は昔から統率された行動に魅入られるもので、伊達な装束を揃いで着込み、一糸乱れぬ行進を見せ付ける近衛兵は見栄の都を守護するに最も似合いの盾といえよう。
先人が「これが俺の最推しじゃい!!」と暴れ回っただろう世界で、詰め襟軍服って一八世紀とかじゃなかったっけ? とか、二つ掛け釦の長ラン風って未来過ぎね? なんぞの無粋な突っ込みはやめよう。
か、カッコイイ……! ただそれだけで十分過ぎる。
人狼と犬鬼、どちらも犬の形質を汲んだ人類だが、それぞれ顔付きが異なるイケメンで、衛兵服の格好良さもあって滅茶苦茶テンションが上がってくる。人狼はほっそり長い鼻面が怜悧で切れ者の印象が強く、鬣犬系の犬鬼は太い首と野性的な鬣が何処までも男臭くて渋く仕上がっている。
普通に帝都で近衛を見かけた少年がするような目線を向け、適当な――適切で順当な――誰何に割り符を見せれば、彼等は不審な人影を見つけたら直ぐに声を上げてくれと言い残して去って行った。
そりゃあそうだろう。真面目に黒髪赤目の吸血種のお嬢様を探している二人に、魔導院の聴講生と、そのバイトを手伝いに来た友人を拘束しろってのは変な話だからな。
「い、行ってしまいました……?」
「しっ、まだそんなに遠くに行ってませんから」
実際、そう見えるようかなり気合いを入れたのだから。
私の隣に立つツェツィーリア嬢を見て、彼女だと気付く人間はそういないだろう。それこそ優れた魔法を見る目を持ち、思念波のパターンで個人照合してくる怪物の類いでもなければ。
「かなり不安だったのですが……これ、似合っていますかね?」
くるりと回ってみる彼女は、何処からどうみても魔導院に通う魔導師みならいの“ヒト種の少年”であった。
もーほんと頑張ったもの。そこら辺の布を<手芸>スキルでパッドに仕立てて肩を盛り、体のラインをかえる詰め物をして、どうしても目立つ女性のシンボルは幅広の布を巻いて潰す。
それからライゼニッツ卿から押しつけられた一着お幾らかも考えたくない服の中からローブを見繕い――たしか自分の弟子だったらなぁ、とかいって押しつけられた倒錯的な品だったはず――魔導師っぽい装いに。
ついで魔導区画でちょっと奮発して魔法による毛染めを購入し、どうあったって目立つ髪を淡いブラウンに染め上げた。
仕上げに口の内側に軽く綿を含ませて輪郭を変えれば、ぱっと見ただけでは誰かは分からない外見に仕上がっている。
ただ、それだけで誤魔化せるほど猟兵は、ましてや臭いで個人を識別する人狼や犬鬼は甘くも弱くもない。実際、今躱した二人組だって真正面からかち合ったら苦戦必至の実力者であった。
「ええ、どこからどうみてもヒト種の魔導師見習です」
「ふふ、そうですか。こうやって着てみると、中々面白いですね。どうせなら講義などにも潜り込んでみたかったものです」
無垢に悦び、もうちょっと追われている自覚を持って欲しいお嬢様が何かした訳ではない。
世界で一番可愛くて、将来閥を起こせるほどの偉大な魔導師になる事間違い無しの天才であった我が妹のおかげである。
追っ手の目をかいくぐるのに臭いを誤魔化すのは必須であった。既に買い出しで外を彷徨いた時、衛兵に混じって近衛や斥候が彷徨いているのが見えたからだ。当然鼻の利く種族が多く、中には分子レベルで漂う微粒子を察知することで視界を得ている変わり種もいるとくれば、臭い対策は夏の出勤時と同じくらいかかせない。
そこで頭をひねってうんうん呻っていると、エリザが一つの香袋を持たせてくれた。
なんでもヒト種の臭いに似せて精製した香が収まっているらしく、自習の中で作った物が役に立つかもと態々持ってきてくれたのだ。
わざわざ! 私のために!
失敬、ちょっとテンションが上がりすぎてるな。鼻血出てないだろうか。
最近エリザは教わりはじめた魔法の中で匂いに関する物に適性があるとかで、少しずつ色々な術式を勉強しているそうだ。その中でも落ち着く匂いがする物を作ろうとした時の失敗作を気まぐれにとっておいたのだが、私達の会話を聞いて役に立つかもと思って持ってきてくれた。
よくぞこんなピンポイントにありがたい物を作ってくれたものだ。やはり私の妹は運命に愛されているのかもしれない。
なんといってもこれ以外で匂いを誤魔化そうと思ったら、最悪下水をぶっかけ、より強い臭気で誤魔化すくらいしか思いつかなかったからなぁ。それこそ、仕事の途中で足を滑らせたのだと誤魔化すため。
……貴人に働く無体のなかでもコレ以上はなかろうよ、という無体を避けさせてくれて本当にありがとうエリザ。排泄物関係はホントタブーだからな、極東の神話でも絶許のラインとして目安になるレベルに。今度お礼でなんでもしてあげるから。
「それにしても本気ですね相手方は」
「ええ……まさか下水道で三度も出くわすだなんて」
ぶっちゃけ舐めてました。念のために変装させておいたけど、もう姿くらまして三日目なんだし地下は安地だろうと余裕かましてたら奴さん全員揃ってガチじゃない。
実はさっきの二人組が最初の誰何ではないのだ。小鬼と矮人のペア、そして女郎蜘蛛型のこれぞアラクネという見た目の蜘蛛人と家守系の爬虫人のペアにもそれぞれ一回見つかっており、都度都度割り符だの魔導院で実際に受けてきた下水の整備仕事の受注証なんぞを見せて躱してきた。
いやぁ、普通油断するよね、もう三日も凌げば捜査の主力は市外に出てるだろうって。普通なら初期包囲を抜けられたことを疑って、近くの都市に目ぇやってる時期だよ。
これはさっさと動いた方が良いな。私は普通なら粘液体が封鎖していて通れない通路を<見えざる手>で強引に掻き分けて突破し、聖堂街へのショートカットを試みる。
本当にここで脱出かまさないと、未来永劫工房から出られなくなりそうだ。
それに、ちと時間を与えすぎている。ライゼニッツ卿レベルの壊れを相手が引っ張ってきたり、上位の奇跡を扱える僧が出張ってきたら、流石にどうしようもないからな…………。
【Tips】聖堂街。帝都北方の貴族の別邸が建ち並ぶ区画に隣接した区画。三重帝国の神々全ての聖堂が建ち並ぶが、この地を本拠としている聖堂は数えるほどもなく、規模はさておき殆どが分社である。
また、この区画以外にも聖堂は市街に建てられており、主に僧職の会議や祭祀に用いられるのが聖堂街の聖堂、実務的な奉仕は他の聖堂というように役割が分けられている。
前回の魔宮探索も長くなりましたが、今回も結構長くテンポが悪くなっていないか不安。
プロット上ではテンポ良く進んでいても、いざ文章に起こすと先に申した奇病のせいでなんとも微妙な感じに……。




