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少年期 一三歳の晩春 七

 折角だしどこかの屋上で空飛ぶ船を探さないか、という魅力的なお誘いを断って工房に帰ってきたら、吸血種のお嬢様が何やら慌てふためいていた。


 私が無聊の慰めとして持ってきた中級者向けの詰兵演棋を解いて遊んでいたようだが、私を見るなり目を見開いて駒を取り落としてしまった。


 あれ? 私なんか見苦しい感じになってた?


 貴人の前に出るのだから軽く汗は拭いておいたし、服も失礼の無いように<清払>の魔法をかけておいたから臭いってことはないと思うのだが。あれだろうか、ぼちぼちアドオンか何かで<清払>をかける度に良い匂いでもするようにした方が良いのかね?


 「えーと……なにか?」


 「い、いえ! 別になにも! おかえりなさい!!」


 ともかく、よくない所があるなら指摘して貰って正そうと思ったのだが、彼女は残像が見える勢いで詰兵演棋の本を顔の前に持って行ってしまった。


 まぁ、そりゃそうか。人の変な所って指摘し辛いしな。


 「いい林檎がありまして、幾つか買ってきたのですが如何ですか? お茶も仕入れてきたのでよろしければ一服煎れさせていただきますが」


 誤魔化すように買い出した荷物を解いていると、妙に圧のある視線を後頭部から背中にかけて浴びせられた。気になって<見えざる手>でちょっと触ってみたが、なんかくっついていたりは……しないな。よかった、古典的な張り紙系の悪戯がされているようではないらしい。


 では一体何が彼女の注目を集めてしまっているのだろうと首を傾げていると、背後に気配が一つ。ひっそり隠れているつもりではあるらしいが、まだまだ甘いな。マルギット相手に私が何年バックアタックを躱してきたと思っているのか。


 「兄様、お帰りなさい!」


 ただ、可愛い妹を受け止めるのはやぶさかではないから、大人げなく躱したりはしないけどね。


 私は収納のドアをすり抜けて飛びついてくるエリザを敢えて見逃し、その重さのない体をしっかりと受け止めた。首に手を回し、肩に顎を載せ懐いてくる妹の期待を裏切るのは兄貴の所業ではないからな。


 「ああ、驚いた。ダメだろうエリザ、危ないじゃないか。転んだらどうするんだい」


 「大丈夫、兄様はエリザを絶対に受け止めてくれるから」


 マルギットは相手に飛びつくのは結構勇気が要る行動だといつだか語ってくれた。相手が反撃してくるかもしれないし、頼りなくてふらつき諸共に転倒する可能性だってある。首筋に抱きついて背中や胸に顔を埋めるというのは、する側だと相手を信頼していないとできないそうな。


 つまり、無垢な笑顔を浮かべ、身を隠しながら飛びついてくれる彼女は私を信頼しきってくれている。どうあろうと兄は自分を完璧に受け止めて、許してくれる頼りがいのある存在だと。


 兄貴冥利に尽きるじゃないか。やはり家の妹は天使だった。これはどこぞの神に嫁として召し上げられぬよう注意せねば。


 「あー、兄様汗掻いてる」


 「お外は少し暑くてね。エリザも林檎食べるかい?」


 「食べる! ね、兄様、可愛らしく剥いてくださる?」


 いいともいいとも、何だって作ってあげるよ。兎は勿論、お花や葉っぱ。お望みなら白鳥だってできるとも。


 それにぼちぼち三日目だ。話を聞かせて貰わなければならない。なら、口を滑らかにするお茶やお茶請けはあった方が良い。


 私はなにやら至極残念そうにエリザを眺めているご令嬢から意識を外し、ナイフで林檎に挑みかかった…………。












【Tips】三重帝国における匂いの文化。多種族国家である三重帝国において匂いは重要なファクターである。特に匂いに敏感な種族の前ではキツイ体臭も強い香水の匂いも害になるため、場に合わせた解答があるだけで絶対の正解が存在しないこともあり匂いの問題は実に難しい。


 ベターとされるのが汗の匂いを誤魔化す石鹸や花の香り、あとは焚きしめた香の香りが不快になる種族が少ないため無難とされる。柑橘系は難しく、犬や猫の形質が混じる亜人種や魔種を刺激するため好まれない。












 三重帝国の神々は清貧と禁欲を強制する神ではなく、重い戒律を課す訳ではないが貞淑を良しとする夜陰神の信徒であるツェツィーリアは自制心に覚えがある方だった。


 にも関わらず、上手く感情が処理できずにいる。


 いや、別にエリザが覆い被さったせいで見事な曲線と艶めかしい肌の白さが隠れてしまったのが残念だったからではない。


 玉のような汗が浮かぶなだらかなライン、日に晒されようともくすまず透き通るような白、そして向きを変えれば襟元から誘うように顔を出す鎖骨が隠れてしまったのが残念だったからでは決してないのだ。


 自分の目線を辿ったからか、それを隠すように振る舞うエリザの真意がよく分からなかったからだ。


 この三日間、彼女はできるだけエリザと打ち解けようと試みたものの、全ての行動が無為に終わっている。話しかけても反応は素っ気ないし、兵演棋に誘ってみてもルールを知らないとすげなく断られ、何をしているか問おうにも師匠からの課題だと言われれば踏み込むこともできなくなる。


 ツェツィーリアにはエリザがどうしても理解できなかった。


 彼女自身、子供が苦手ではないし、むしろ好きな方だった。夜陰神の聖堂は行くアテのない子供を受け容れることがよくあるし、荘園や街の救貧院を訪ねて子供を見舞うことが奉仕活動に組み込まれているため幼子と触れあう機会も多い。


 思い上がりでもなんでもなく、活動の中で彼女は子供達に懐かれていた。優しく活動的で、色々な知識を蓄えた彼女は、何時だって子供達が纏わり付いてきて大変なくらいだ。


 だのにエリザは全く違う。むしろ、時折じぃっと茶色い瞳でこちらを観察する目線に異質さを感じさえした。


 あれは二桁にもなっていない子供がする目ではなかった。言語化するのは難しいが、強いて言うならもっと“大人”でなければできない筈の目なのだ。


 彼女も聖堂暮らしが長いせいで、その目を何度も見た訳ではないため如何様な感情が込められた瞳なのかの判別は付かない。薄い記憶にあるものは、別邸に訪れた“父上の友人”や紹介された“貴族の婦女”がこちらを覗き見る時のような色だったのは覚えている。


 しかし、光の当たり具合なのか茶色から琥珀色、そして金色に見える瞳が尋常ならざる感情を秘めていることは確かであった。


 ほら、こうやってテーブルを挟み、本題に入る前にお茶をしている今だって……。


 彼女は言い知れぬ不気味さを黒茶の香ばしさで脳裏から拭い、咳払いを一つして本題に入ることにした。遠大にして困難の多い道を踏み越える、たった一つの切り札を明かす時だ。


 「んっ……今日、帝都に航空艦がやって来ます」


 聞き慣れぬ単語に首を傾げる兄妹。しかし、造語を構成する単語の原型を察すると、少年は手を打って蒼白の顔を輝かせた。


 「空を飛ぶ船! ああ、本当に今日来るのですね!」


 喜ぶ少年の解説で彼女は航空艦の到来が市井で大々的にでこそないが、そこそこ噂になっていることを知った。


 よくない傾向だ。目立ち、注目されては下手な動きが取れなくなる。なにせ、彼女のアテとは正しくやってくる航空艦のことだったのだから。


 「潜り込むと!? その、航空艦に!?」


 航空艦を利用しリプツィへ向かうという案を聞き、少年は期待と困惑がない交ぜになった何とも言えない表情を作って立ち上がった。首に抱きついたままお茶を啜っていた妹は慌ててカップを口から離し、香ばしい液体がテーブルクロスに染みを作る。


 ちょっとだけ面白い反応だった。ヒトが好奇心を刺激された時に見せる顔。自分が散々彼に見せてきた顔をようやく自分も見せて貰えたと思えば、腰の裏側にぞくりとした快感が走る。


 「ええ、勿論ただ賊のごとく押し入るのではありませんよ。伝手があるのです」


 奇妙で初めての感覚に戸惑いつつ、僧は自分のプランを披露した。


 「実は此度の航空艦開発には僧会も参加しているのです」


 さて、今まで航空艦の建造と技術導入は全て魔導院の主導で行われてきた。今回も勿論立案から起工まで全て魔導院の主導であることに変わりはないが、今回は僧院も開発に一枚噛んでいる。


 というのも、今まで神々の中で誰が航空艦に関わるかという、どうし……くだ……実に深遠な議論が神当人も――言うまでもなく曖昧な託宣レベルではあるが――交えて進行していたのである。


 元々神々も航空艦には関心を示していたのだ。最初に風雲神が空飛んでんなら自分の領分だなと腰を上げ、次いで船って名前ついてるならアタシじゃないのよと水潮神が異を唱え、造船分野なら当然俺だろうがと造緻神が割って入り……気がつけば関係ありそうな神々が全員自分の管轄だろうと手を挙げてえらいことになったのだ。


 小学校の学級会ではないのだから仲良くしなさいと言いたくなるも、実際神々にとっては死活問題でもあった。神格とは寄せられる信仰によって決まる物であり、豊穣神が主神格に伍するほどの神格を持つに至った理由を考えれば、神々が本気になる理由も察することができるだろう。


 要はなんぞのSNSよろしく、関係者が多ければ多いほど神の力は増すのだから。


 彼等も大いに注目しているのだ。今後の帝国の趨勢に深く関わる技術だけあって、この技術を司る神格になったならば莫大な信仰が寄せられることになるだろうと。人が生きている以上絶対に需要が尽きない神々と違い、時勢によって信徒の数に増減が激しい神格は皆自分のことで結構必死なのである。


 斯様な進行役不在の学級会が如き神学論議がウン十年続き――尚、物理的に殴り合った面子も少なくない模様――最近になってようやっと話が纏まった。


 いや、よりこんがらがったと言うべきか。結果的に主導的な神は決まらなかったのだから。


 起工段階においては職工の神である造緻神が加護を与え、船出のプロセスでは水運と物流を司る水潮神が祝福を授け、空に浮いた後の航路は風雲神が見守るという訳が分からないシステムが仕上がった。似た流れは水に浮く船にこそあれど、船舶の主体神格は結局水潮神の手にあるところを見るとこれは随分と拙い状態とも言える。


 なんといっても責任を誰が取るのか全く不明なのだから。


 物事はできるだけシンプルにするべき、と偉大な物理学者は語ったが正しく真理である。魔導院の変態共が頭を捻るのみならず、僧会の過激派共があーだこーだと口出しするせいで航空艦は正しく三重帝国の良い面も悪い面も全部ブチ込んだ闇鍋のような存在になってしまったのだ。


 「えー、そして航空艦は夜間航行も想定しているため……」


 「夜陰神も関わる事になった、と」


 「ええ……まぁ……」


 複雑そうに事情を語り終えたツェツィーリアは、停泊した後に乗り込む予定の僧は友人なのだと言った。同門の彼女は信頼できる人間であり、助けを求めたら無下には扱われないと相当の自信があるらしい。事情を説明すれば、必ず力になってくれるだろうと。


 「頼めばきっと入れ替わってくれます。夜陰神の関わり自体は然程深くないので、人数も少ないですから乗り込んでさえしまえばチェックも厳しくはないかと」


 「なるほど。では、聖堂まで案内できれば……」


 「はい。あとは航空艦に紛れ込み、巡回地の一つであるリプツィで降りれば伯母様におすがりすることができます」


 もくろみとしては捻りのない密航であり、粗も多いが一番現実的といえば現実的であった。一四〇km道なき道を歩くより、一度飛び立ってしまえば後は手出しされない航空艦の方が賭の倍率としては悪くない値といえよう。


 むしろ、正面から突っ込んで世界初のハイジャックを企画されるよりずっとずっと理性的でマシな作戦だった。


 「分かりました。では聖堂街に向かいましょう……しかし、どうしたものでしょうかね」


 幾つも残った問題の中、差し迫った問題が一つ。


 今の帝都には彼女を狙う追っ手が凄まじい数で放たれていることだ。人相書きこそ配られていないものの、むしろその方がまだ楽だったろう。


 増員された衛兵のみならず、生え抜きの探索者で固められた猟兵相手に繰り広げる“狐とガチョウ”の遊びは並大抵の難易度ではないだろう…………。












【Tips】近衛猟兵隊。優秀な斥候や元猟師ばかりで構成される偵察集団。戦の趨勢を決する決戦地の策定、敵の規模を探る偵察や逆に此方を偵察にやってきた物見を潰す影の主力。幾度となく帝国の将来を左右する戦において重要な活躍をしており、最も誉れ高き部隊の一つ。


 決して吟遊詩に取り上げられることもなく、華やかな肖像が刷られることもないが、それこそが彼等にとっての誉れなのだ。

書きたいことを詰め込むとあっと言う間に五千文字に達してしまいテンポが悪くなる病気を治せる病院は何処かにないものでしょうか。

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― 新着の感想 ―
[一言] TRPGの飛行船とか墜落するか迷宮に突っ込むイメージしかないけど大丈夫か?
[気になる点] >【Tips】三重帝国における匂いの文化。 以降の文章が三人称視点とツェツィーリア視点が混ざって戸惑いました。
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