少年期 一三歳の晩春 六
古今の神話・幻想小説において空を飛ぶ船はありふれているが、実にロマン溢れる要素として人の本能を擽るからこそ人気となった。
現代人であれば空を飛ぶことは身近なれど、残念ながらそれは管理された飛行であり、風を感じることもなければパノラマで広がる雄大な空を直下に臨めるわけでもない。気密が保たれた飛行機の中で味わえる実感といえば、精々が乱気流による揺れと気圧差による耳の痛みくらいのものだろう。
だが、どの辺が最終なのか分からん幻想物語などに登場するような、空を飛ぶ船は全く違う。甲板に出れば吹き付ける風を味わい、船縁からは雲海を心ゆくまで堪能できるはず。
もうこの単語に心躍らなければ男の子じゃないだろ!
「ちょっと講義で小耳に挟んだのだけれどね、何やら今日来るらしいんだよ、その空を飛ぶ船が」
「ほうほう、詳しく」
「まぁ僕も聞きかじりだから然程詳しくはないのだが……」
テンション高めに噂話を語る友は実に楽しそうだ。私が空を飛ぶ船というロマンにワクワクしているのと同じで、性転換にあわせてしっかりメンタルも少年になっているようだ。ロマンを共有し、夢を膨らませることができる友人のなんと得難く幸福なことか。
「なんでも皇帝肝煎りの新技術らしくて、今後の三重帝国インフラを占う品だとかで凄く気合いが入っているそうなんだ。それが国威高揚のために帝都にやってくるとかなんとか」
「ほほお! だが、何の宣伝もないのは不思議だな」
「それは決まっているじゃないか君、なにごとも突然にドバァーン! とやってくる方がインパクトがあるだろう? 前もって来るぞ来るぞと構えていれば、折角やってきたびっくりが弱くなってしまう」
なるほどな、たしかにこの手の新技術は煽りに煽って発表されるより、何の前情報も無い状態から晒した方が観衆に与えるインパクトはデカイ。空を飛ぶ船なんてものが急に帝都上空に現れたなら、全ての市民に絶大なインパクトを与えることであろうよ。
「それにだね、今日は僕の師匠も帝城での懇親会に呼ばれているんだ。大テラスでの立食酒宴だと楽しみにしていたようなんだけど、春先とはいえ帝都の夜はまだ寒いだろう?」
「寒さをおして野外立食……となると、当然その酒宴には……」
「ああ、きっと諸外国の駐在官も呼ばれているんだと思うよ」
帝都には関係各国の大使館がある。これは相互に使者を迅速に受け容れ、外交的な手続きをスムーズにするため自然と発達した制度であるが、基本は何度となく戦争を繰り広げた国々が良い加減に懲りてきたのか“戦争を穏当に終わらせる”ために用意したシステムだ。
思念伝達の魔法や魔道具こそあれ、電話どころかモールス通信も無いこの時代、戦争をおっぱじめるにも後始末をするのも手間がかかる。何より小国林立時代と異なり、どの国にも最早相手を一撃で始末し、全土を併合するだけの国力がないのだ。
となれば、小突きあって互いに少しずつ衛星諸国の宗主権だの、都市の支配権だのをやりとりするのが基本的な戦争の形となる。一度戦争が始まれば数年スパンでじりじりと殴り合い、城市を取り合って、どちらかの体力がなくなる前に落とし所を見つけて講和しなければならない。
というのも侵略を防ぐのは勿論だが、侵略するのもかなりの体力を使うからだ。勝てる時に勝てるだけ勝つのは大事だが、後先考えないで押せ押せと突っ込みすぎれば兵力と資源の蕩尽により国力は却って衰退してしまう。上手に戦争をするのは本当に難しい物である。
斯様な難事を何度も国を傾けながらやらかしてきた帰結として、互いの国に大使を置く文化が産まれたそうな。
懇親会だと言われて呼び出された場で、空を飛ぶ船なんて見せ付けられたら凄まじいインパクトだろうなぁ。どれだけの酒が噴き出されるのか、ちょっと見物であるね。
空を飛ぶことの利便性は、第一次大戦から先の歴史を見たら明らかだし、きっと目の色変えて色々な理由を付けて中座し、本国に連絡するのに大忙しになることだろう。街道を夜中からひた走らされる使者が可哀想だ。
「空を飛ぶ船を作ろうとしているという噂は何十年も前から流れていたんだけど、実際に披露されるのは初めてらしいからね。酒宴が始まる夕方が今から楽しみだよ」
「これは空を見上げながら歩かねばならないな」
ここにきて十年以上、ファンタジーな出来事に心躍らされてきたが、その中でも初めて見た魔法並にテンションが上がるな。やっぱり空は良いものだ。幼心に空飛ぶ船の甲板で風に髪を遊ばせる想像をし、自由に空を駆ける竜の背に思いを馳せ、一人で乗れる小型のエンジンを抱えた飛行機に胸高鳴らす。
やっぱり空はいいなぁ、これぞファンタジー、これぞ男の子って感じで。私も乗ってみたいものだ。どれくらい待てば一般にも普及するのだろうか。肝煎りの新技術つったって、早々簡単に量産されるものでもないし。
「しかし羨ましいな、私も乗ってみたいものだ」
「僕も憧れるね。空を飛ぶ術式は難易度が高いし、僕とは相性も良くないから諦めていたんだ。でも、いつか人生で空を飛べるかもと思えば、明日が輝かしく思えてくるよ」
相変わらず戯曲めいた言い回しが板についている友と並び、空への思いを語り合う。あれだね、こうなると空を飛べるっていう理由一つで帝国軍への仕官を望みたくなるからこまる。
ただ、この時私はきっと頭に血が回っていなさすぎたのだろう。
今日が彼女の言う三日目であるという事実。遠く離れたリプツィへ直ぐに辿り着けるという言葉。
そして、空を飛ぶという安直に速そうな移動手段を一つに結びつけられず、ただ無邪気に憧れを語っていただけなのだから…………。
【Tips】使者と大使館。個人同士と異なり、国家間での殴り合いは落とし所が肝要なれど、直にやりとり出来る訳ではないので手間がかかる。国家規模が肥大化し、さりとて交通手段が未発達な状態で、完全併合が現実的でない時代においては特に。
その為、大国間において大使館が設置され、法的な不可侵を約束された使者が常駐することとなっている。
ツェツィーリアは掛け値無しの箱入り娘であり、その人生の殆どを聖堂で過ごしてきた。
夜陰の神を仰ぎ、静謐なる聖堂にて祈りを捧げ、民に奉仕することで以て慈母の如き主神の神格に倣う生活は穏やかだが驚きに満ちたものではない。
何百何千と繰り返した聖句を唱え、箴言を学ぶ生活と、信徒や恵まれぬ者へ喜捨を配る生活は単調で決まり切った内容が延々と続くもの。
かといって、聖堂での生活が嫌いだったわけではないのだ。
帝都からも州都からも離れた帝国南方、夜陰神の本神殿が佇む月望丘――標高二,四〇〇メートルを丘と呼んで良いかは微妙だが――の静かな生活は彼女が望んで行っていたものだから。
祈り信じる生活はよいものだった。本当に心が安らぎ、神の慈悲に触れた時の満ち足りた感覚は言葉にできぬ達成感をくれる。
だが、僧として帝都にやって来た直後に父から別宅へ呼び出されて以後の生活は、新鮮な驚きに満ちあふれた目が回るような驚きの連続。
別に優劣を付けはしない。それでも、侍女達の囁きを聞いてしまって家を飛び出してからの僅か三日間で得た驚きは、僧として聖堂で祈りを捧げてきた時間の全てよりも彼女に“驚き”と“興奮”をもたらしてくれた。
追っ手を撒くために走った屋根の上。逃げ出すために潜り込んだ下水道。変装して潜り込んだ魔導区画や噂に聞いた魔導院。全てが未知で、飛び込んでくる情報の一切合切が単調な生活の中で息を潜めていた好奇心を擽った。
今でさえ、自分を助けてくれた駒売りの少年が半泣きで「頼むから大人しくしてて下さい」と詰兵演棋の本を押しつけてきたから、この昼間の庭園のような小部屋で大人しくしているが、ゆるされるなら入り込める全てを見て回りたいほどだった。
ああ、そう、あの少年だ。彼がいなければ、私はとうの昔に屋敷へ連れ戻されていただろう。あの路地で夕暮れの中に墜落し、頭を熟れすぎたイチジクのように弾けさせていた。
肉体的な滅びは吸血種の終わりを意味しないが、まだ月と陽が拮抗する時間であったため再生にかかる時間は長く、きっと担ぎ出されてお終いだった。
初めての地で初めて血を流し、そして初めて死んで、全てが終わるところだった。
しかし、そうはならなかったのだ。
優しい手に受け止められ、彼はやってきた。何度となく盤上で切り結んだ駒売りの少年。金細工の髪と仔猫のような瞳の彼、見た目に反した悪辣で非道な指し筋に何度も苦しめられたから、なにくそという気持ちで通っていたものだ。
彼はとても優しかった。指し筋からは全く想像できないほど紳士的で、縁もゆかりのないはずの自分を庇ってくれた。望まぬ結婚に非道であると憤り、貴種の政治に平民が関わればどんな目に遭わされるかも顧みず助けてくれる。
のみならず、自分の主人の工房で匿うなどという危険まで、彼は何の躊躇いもなくやってのけた。
物語の騎士のような鎧も馬もないけれど、彼こそ正しく語られる騎士なのではと手を引かれながら思った。困った人のため、悩める婦女のため全てを投げ捨てて走るなんて、かくあれと詠われる英雄そのものではないか。
無私と他人への慈愛、行き着くところまで行き着くほどの奉仕を彼は見せてくれた。
彼女は吸血種だ。“たいようをだましたおとこ”という民話として今に伝わる、太陽神を詐術にかけて不死性をかすめ取ったヒトの末裔である彼女は、詐術によって不死性を与えてしまった太陽神からの怒りで陽の下では皮膚が焼けただれる呪いを受けている。
その呪いはいい。彼女自身が崇める夜陰神が、夫である太陽神を「詐術に引っかかる方も引っかかる方だ」と窘めたことにより、彼女達は同時に月が出ている間は呪いが弱まり、完全に陽が陰れば不死性を取り戻すのだから。
重大なのはもう一つの呪い。
太陽神が罰として与えたもうた、彼の被造物である“温かなる血を流す者”の血液でなければ、本質的な渇きは永劫に癒やせないというもの。
本来ならば、逆の呪いをかけるべきでは? と考える者もいるだろうが、太陽神は直情的であったが馬鹿ではなかった。渇きを満たすための行為が葛藤を産み、彼の者達の跳梁を決定的な点において抑えることを分かっての差配であるのだから。
この縛りがあるからこそ、吸血種は為政者として穏当なる治世を望む。人類が豊かに増えねば、血が足りなくなり共倒れとなるは必定。呪いは本能にも絡みつき、その種族特有の癖や嗜好をねじ曲げて行く。
血の渇きは怖ろしい。なにせ“死なない”のだ。幾ら渇こうと、どれほど餓えようと本質的な非定命である特質を太陽神は剥奪しなかった。
その方がより苦しませることができるから。
餓えるまでの間隔は個体によって違うが、彼女のそれは夜陰神を崇めているという加護もあって随分と長い。半年は飲まずとも渇きを覚えることはなく、耐えようと思えば数年でも正気を保つことが能うだろう。
しかし、今回は時期が悪かった。前に信徒から分け与えて貰った血液を飲んでから間が開いており、本来なら別邸で父が催す晩餐で渇きを癒やすつもりだったのだ。
だが出奔してしまえば当然晩餐で相伴を預かることなどできず、無茶な運動もあって強まった餓えを抱えて彼女は匿われた。
これが実に辛い。ヒトも餓える苦しさはあるだろうが、吸血種のそれはヒト種の飢餓など比べ物にならぬほど重い物だ。飢えに飢え、目の前に差し出されるのが自身の赤子であろうと喰らい尽くすだろう極限の飢えでさえ、吸血種の飢えの前では霞んでしまう。
なればこそ、吸血種は人類種ではなく、魔種に類されるような生態となったのだ。彼等の狂気とは、正しく飢餓に集約されるのだから。
耐えているつもりであっても、聡い少年には直ぐバレてしまった。彼は魔導院に出入りしているだけあって異種族の特性にも詳しく、耐え難い渇きを抑えようと煩悶する彼女の所作から“何が起こっているのか”一目で判別してしまったのだろう。
次に目が覚めた時、彼女が寝床として借りたカウチの傍らには“新鮮な血を湛えた酒杯”が用意されていた。一体誰が、などと愚かな問はするまい。この場に温かな血を流す人間は二人しかおらず、僅かな間だけでも溺愛っぷりを重々理解できる彼が、妹の流血を認めるわけがないのだから。
何も言わず、知らぬように振る舞うのが彼の優しさと教養の豊かさを無言で語る。三重帝国における吸血種は血を啜り、呑むという行為を基本的に恥じ、隠すことを彼は知っていた。親しい者だけが同席する晩餐で、隠れるように酒杯に注いだ血を呷る。この地における吸血種の食事文化は、そういった陰鬱なものであった。
もちろん、普通の食事を摂ることもできれば、酒に酔いしれ微睡みに眠ることもできる。それでも、根源的な飢えを満たす食事は酒杯の赤色を干すしかないのだ。
濃密で実に美味な血であった。血には本人の性質が濃く表れる。食べた物、飲んだもの、吸った大気の匂いまでが移り、魔力が循環する血液の味は本人の来歴を聖堂の人別帳よりも雄弁に語る。
舌が痺れ、背筋が跳ねるほどに美味な血液であった。健康で、若く、そして豊かな魔力が溢れる血。その美味さは吸血種として生きて初めての衝撃を彼女に与えた。まるで舌の上を弾けるような柔らかながら重厚なヒト種特有の風味。多量に含まれた魔力が愛撫するかの如く舌を駆け抜け、爽やかで豊かな後味が吹き抜けるように消えていく。
酒杯に湛えられた、少年の体から流したにしては多すぎる血を彼女は瞬く間に干してしまった。清貧と貞淑をよしとする夜陰神の信徒であることさえ忘れ、はしたなく捕食器である牙を伸ばしてしまうほどに貪り、舌を伸ばし酒杯にこびり付く残滓までも舐め取って。
一生の不覚である。自分を無くし、食欲に負けてマナーまで捨てるなど、僧や貴種として以前に吸血種にあるまじき振る舞い。
これでは他国において吸血“鬼”との蔑称を受ける者達のようではないか。
三三手詰の複雑な盤面を進め、彼女はキリッと表情を整えた。未練がましく手元に残していた完全に乾ききった酒杯を押しのけ、僧としてしっかり彼を迎えねばならない。
買い出しに出て行った彼も直に戻ってくるだろう。そうすれば、自分の知る脱出の手順を説明しなければならない。頭をハッキリさせ、恥じることなき立派な振る舞いをして……。
「いやぁ、少しずつ暑くなってきましたね」
かたんと手に持っていた女皇が落ちた。盤上で忠実に控えていた従者と騎士を弾き飛ばし、堅牢な城壁を押し倒した女皇は彼女の驚きをよく表していた。
春が終わり、初夏の訪れに負けて襟を大きく開けた少年の首が、どこまでも眩しかったから…………。
【Tips】吸血行為。三重帝国の吸血種は牙で血を吸うことをよしとせず、酒杯に注いだ血液を飲む文化を持つ。これは捕食種である吸血種が帝国内において抱かれる畏れを薄めるために育まれた文化であり、帝国成立期に発生したと言われている。
ただ、吸血種が“恋人”と呼ぶ特殊な間柄のパートナーとの吸血行為においてのみ、しばしば牙が用いられる。
少しはマシになると言ったな? あれは嘘だ。
冗談はさておきすみません、何故か面倒な案件がやってきて、あらゆるトラブルの電話が担当を飛び越えて私の所にくるようになってしまいました。どうしてこうなった。
先日、また余計に歳を重ねてしまいました。そして同日にブックマーク一万五千を突破いたしました。
実にうれしく、何よりの誕生日プレゼントを戴いた心地でした。
お盆の間は流石にキーボードを触るのを邪魔されにくくなるでしょうし、もう少しペースを上げたいと思います。




