少年期 一三歳の晩春 五
三重帝国が方々に敵を抱え、文化的にも社会的にも特異な国家として半ば孤立しながらも五〇〇年独立を保ち、今尚強大な帝国として中央大陸西方に影響力を持つに至った理由は何か。
地政学上の良好な立地を抑えたこと。多種族を併合しながらも迫害政策をとらぬことで国家の地力を高めたこと。一種の官僚制度めいた効率的な――ただし当人達にとっては割と酷な――貴族制度を早期に確立できたこと。
理由を挙げさせれば無数の分野の数多の学者が数えきれぬほどの論を並べ、さもこれこそが帝国を築いたのだと声高に主張することであろう。
だが、その中で帝国を帝国たらしめる重要なピースを選っていくとするならば……彼等が偏執的な成果報酬主義者である要素は決して外せまい。
幾つもの報告書に囲まれた女は、濃い疲労が刻まれた美貌を忌々しげに歪めて魔導院からの手紙を破り捨てた。
「もっと……! もっと、こう……!」
全ての怒りを込め、一人だからこそできる悪罵を吐き捨てて彼女は上質な箔押し紙をただのゴミへと変換していく。普段は楚々と侍り、影の如く付き従い“己”という概念を極限まで殺した侍従の鑑と言える女。彼女が怒る理由は一つ。
「もっと、こう、なにか言いようがあるでしょうに!!」
手紙にはこう書き付けてあった。
未熟な弟子達がごめんなさい、依頼料は返金いたします。折角お呼びしてもらってなんなんだけど、いまちょっと研究が良い所だから、もちっと待ってね、と。
無論、相手も名誉称号を持つ教授位の魔導師である。実際にこのような砕けた文面で返ってきたのではなく、文法もマナーも様式もきちんと守られた、帝国貴族が見本とするに過不足のない見事な文面であったとも。
唯一の欠点が、どう丁寧に噛み砕こうが、好意的に解釈しようが先の文面にしかならなかったことだが。
その上、これが更に送られてきた数人の無能の言い訳を数時間も聞かされた上――妨害されたならされたで、別の手段をとれという論は通じなかったらしい――やっとのことで手に入れた返事ともあれば、怒りに注がれる油の量は推して知るべし。
だがこれが成り立つのか、と言われれば残念ながら成り立ってしまう。相手は腐っても魔導院の教授であり、血によってではなく地力によって貴種となった者。冷厳たる成果報酬主義を根底に置く帝国において、力ある者の無体と放言はある程度許容されるのだ。
それ故、どこぞかの怠惰な長命種が数年にわたる書庫引きこもりを為し、高名なる死霊が臆面も無く自分の趣味を満たせている。力を押しのけるには、更なる力がなければ能わず、さしもの侍従もそれほどの権限を雇用主から預かっているわけではない。
脳の血管が切れて卒倒するのではと心配するほどの怒りは、数度の控えめなノックで鎮火させられた。彼女は散らばった報告書と書類、書きかけの書簡を纏めて入室を促す。
「あ、あの、メヒティルトさん……」
やってきたのは尼僧服を纏った彼女の配下であった。手には温かな食事の載った盆があり、見るからに疲弊する上席への気遣いが湯気に姿を変えて燻っている。
しかし、彼女が期待していたのは食事ではなく、彼女が自分の主から何らかの反応を引き出してくることであった。だが、申し訳なさそうに影が落ちた表情と、胃に優しそうな――彼女が慢性の胃炎を抱えていることを近しい者は皆知っていた――麦粥と酒杯以外乗らぬ盆を見るに期待は虚しく裏切られたようだ。
「まだ、ですか」
「ええ、その……はい、まだでして……」
吐息が質量を持ったならば、床を突き抜けて何処までも沈んでいきそうな溜息を捻り出し、彼女は目頭を揉みながら部下を部屋に招き入れた。
そもそも、彼女の苦労は全て雇用主が元凶であった。コトの発端に至ってもそうだし、この追走劇が“三日目”に至っても、寄る辺もなく、ましてや縋るような存在にアテなど無かろう修道女一人見つけられない事態の根源は全て彼に収束する。
もう少し彼が手紙の文面に気を遣えば。もう少し自分の娘の成長に目をやっていれば。そして、その娘が“多義的に自分の血脈”であることに気付いてさえいれば。
彼女がヒト種の脆弱な身を押して、三日も仮眠と軽い休憩だけで働き続けずに済んだというのに。
「今回は、えー、そのー、かなーり興がのられてしまったようでして……終わる気配がですね、ええ、なんというか」
言葉を濁しながら報告してくる配下に侍従は手を振って「もういい」と示した。
付き合いは長いのだ。自分の主君が“どういった生き物”なのかはよく知っている。それはもう、嫌と言うほど、自らの胃腸の摩耗を以て。
彼女の雇用主は基本的に有能だ。頗る有能だ。普通の君主であれば三日で泣いて位を返上するような難事と激務を趣味の傍らこなし、大過なくどころか成果を上げる傑物である。
だが、本当に興が乗るとどうしようもない。
いつもであれば多少の興味や遊興も思念を飛ばすか手紙の一つ寄越せば切り上げてくれるが、心底から興味を擽られる話題となれば何をしようと無駄だ。仮に皇帝から呼び出されようと切り上げず――尚、本当に何度も無視した実績がある模様――ただ自身の好奇心が赴くままに行動してしまう。
手ずから授けて下さった思念を伝える魔道具は思念波を受信しない設定にされたからかウンともスンとも言わず、手紙を差し入れるもナシのつぶて。自身や帝国の大事さえも趣味の前に擲って没頭する様は、ヒトとは違う生物のあり方を嫌と言うほど体現していた。
結局、姿形が似ていようと生命としての相が違うのだ。完璧に理解することの方が難しい。
「ふぅ……街道の方は?」
「はい。衛兵隊を動員していただいていますが、それらしい姿は。市街においては近衛府の長官様がご厚意で近衛猟兵隊を昨日から動かしてくださいましたが……」
「まだ見つからない、と……」
帝都の衛兵は基本的に優秀である。各領邦の衛兵隊から数年の勤務実績を持つ者が選抜されており、外交都市らしく折り目正しく人相の判別に優れた者が選ばれる。勿論能力は個々によって差があるが、中小の都市で暇を託っている面々と比べると数段優秀だと言っていいだろう。
職責と抜擢されたという実績から自身の能力に自負を持つ彼等の仕事への熱意は高く、こういった地道な臨検や封鎖作業において比類無き活躍を見せる。
そして、皇帝の専属護衛たる近衛府が抱える猟兵隊は、成果によって推挙された猟師や斥候ばかりを集めた特級の探索者揃い。本領は会戦前の偵察戦や追撃戦にあるが、市街地での探索においても彼等は大変有能である。
彼女等が持ち得る伝手全てを使っての結果とすれば、集まった面容は実に凄まじいもの。普通、衛兵隊を一家の権限で動かすことは不可能であるし、近衛府ともなれば言うまでもない。全て今頃は帝城で過労死しかけているであろう、家宰や血族、そして好意で協力してくれた僧会のおかげである。
が、これほどのドリームチームを相手にして捕まらない息女とは一体。
優秀な密偵だろうと狩り出せる布陣をして、何をどうすれば聖堂暮らしで日々を祈りと奉仕に捧げる乙女が三日も逃げおおせられるというのか。彼女は大変理解に苦しむし、この捜索に関わっている全ての人間も首を傾げていることだろう。
俺達が探させられているのは、本当に世間知らずな貴族の子女なのか? と。
むしろ姿を隠せる精霊だと言われた方が今の手応えの無さにも納得がいくだろうに。
「捜索は続けていただいてください。私は家宰から紹介があった魔導師にお会いしてきます」
「承知致しました。ですが、もう少しで例の……」
配下の言に従者は「ああ」と呟いた。本来これの調整で大忙しだった筈なのに、後継者の出奔という大事に全て吹っ飛んでしまったイベントがあったのだ。別の人間に引き継いでいたが恙なく進行していたようだ。
なにより、これなら流石の雇用主も興味を持ち、永い永い会談を打ちきってくれるであろう。ちょっとした質問がどうして月を跨いだのかは、後で聞くとしよう。
「では、魔導師とつなぎをつけてから直接伺いましょう」
「えっ? いえ、それくらいは誰かにやらせます。ですからメヒティルト様は少しお休みに……」
「紹介して下さった方のこともあります、私が行きますよ」
空きっ腹に魅力的な誘いをかけてくる麦粥を意志の力で視界の外に押しやり、彼女は貴種の従僕らしく働くために衣紋掛けから外套を取り上げた。暗色の分厚い外套は右手をフリーにする片掛けの大外套。銀糸で丁寧に刺繍されるのは“正中より割れた酒杯”をモチーフとした家紋。
旧弊を打ち破り、家の長さより実力を重んずるエールストライヒの紋章を帯び、胃痛の侍従は席を立った。より高度な探知術式を用いる魔導師に会うため。
そして、雇用主に“航空艦”の帝都到来を報せるため…………。
【Tips】正中割酒杯紋。エールストライヒ家の紋章。初代エールストライヒ公は三重帝国成立以前の古い吸血種家系の分派の分家であり、建国戦争後に台頭した後に結局は実力が物を言うのだとして古い主家の紋章である酒杯を真っ二つに割った図案を家紋に制定した。
ここ暫くの市街を歩いているとまるでテロか何かあったのかという物々しさに少し怖じ気づいてしまう。
辻に立つ警邏の衛兵が常より倍くらいに増え、市街各地での緩い臨検が敷かれている上、終わりかけとは言え春の多い物流を多少滞らせてもやりぬく出市検閲の激しさはちょっと想像以上だ。
いや、それ以上にビビるのは「またか」くらいのノリで受け容れている帝都市民なのだが。
「まぁ、帝都ではよくあることだから」
私より数年帝都生活が長いミカはそういって、露天に並ぶ林檎を手に取った。北方離島圏発祥品種を帝国で栽培したもので、原生種より紅く、甘いため人気がある一品。
「外国のお偉方が来ると何時もこうだよ。多分また何かの謁見じゃないかなぁ」
ただ、そんなありふれた果物も、季節の移り変わりと共に装いを変えた友が手にすると、何か意味深な物に見えてくるから困る。
「って、どうしたんだいエーリヒ」
「いや……なんか林檎似合うなって」
「なんだいそれは」
快活に笑う“私より少し背が高い美少年”と林檎の組み合わせは、それはもう様になるものだった。春の青い空をバックに振り向き、瑞々しい林檎に噛み付く姿は乙女ゲーのイベントスチルかよと言いたくなる。
こうなれたらいいのになぁ、と惚れ惚れするほどの美男であった。
そう、今は性転換のサイクルが男性の時なのだ。初めてあった時は本当にびっくりしたね。少女の可愛らしい顔から見慣れた中性的な顔になったかと思えば、今度は街のお嬢様方の目を惹くすらりとした美男になったのだから。
髪の毛の癖は中性の時と比べると幾分か強くなり、意志が強い瞳は鋭さを増して一層の力強さを引き立てる。唇は薄く引き締まれど、鼻梁の高さは中性・少女の時と変わらぬ見事な造詣。それに肩幅が増して頼れる雰囲気まで身についたとなれば、同性をして嫉妬するしかない。
うーん、いよいよ以てライゼニッツ卿に会わせちゃいかんことになった。きっとドストライクだから、一体どんな羞恥プレイに巻き込まれるか分かったもんじゃない。
「相変わらず変なことを言うね君は。それより、やっぱり顔色が悪いよ、少し食べた方が良い」
何度見ても惚れ惚れする友人にみとれていると、彼は私を心配して囓りかけの林檎を放ってきた。こうやって露天で買い食いしたものをシェアするのは慣れたものだ。今更間接キスがどうのこうのと顔を赤くすることもない。
しかし、今の私の顔は白いようだが。
「妹君が寝込んだのは心配だけど、引きこもりっぱなしもよくない。僕が連れ出さなければ、君は穴蔵に三日も籠もってたことになるんだよ」
「はは、まぁそう言わないでくれよ。エリザは私にとって一番大事な妹なんだ。心配なのは分かってくれ」
さて、私が三日間をどうしのいでいたかだが、実に単純というか、説明すると一言ですむ。
アグリッピナ氏の工房に三人で引きこもっていたのだ。
理由はある。まず僧会の関係者ということは魔導師との繋がりが薄いだろうから、魔導院の内部にまでは手が伸びないだろうということ。そもそも、個人工房には反逆罪や大権侵犯罪などの大罪でなければ立入捜査権もないので、衛兵の問題もスルーできる。
次に、あの怠惰な外道は自分が色々覗き見るのは好きだが、プライバシーを侵害されるのはいたく気に入らないらしく、部屋には勉強した私でも何がどうなってるのか意味不明なレベルの隔離結界が張られているので、高位の魔導師を引っ張り出されてもよっぽどでなければ安心なのだ。
最後に引きこもり、入り浸っても誰にも怪しまれない理由を幾らでも作れるから。魔導師や魔導師見習いが工房に引きこもるのは、それこそサラリーマンが満員電車で出社するのと同じくらい普通の行動だ。ついでに住み込みの妹が寝込んだとあれば、丁稚が看病に駆り出されても不思議はないし、治療のためといって誰かを連れ込んでも怪しまれはしない。
なに、IDカードで入出来の記録を細かにとられる訳でもなし、普通にしていれば入った人間が一人出てこないなんて誰も怪しまんとも。
……まぁ、施設が施設だから“入った人間が二度と出てこなかった”なんて事件がザラにあるからかもしれないが。それどころか“さっき出てったのと同一人物が何回も出て行った”なんて噂も聞くからな。
いやはや、何はともあれ灯台の下は暗いものだし、幸運の青い鳥ってのは近場にいるものだね。
「相変わらず妹君が関わると君は人が変わる……が、そんな君でもこれには興味を持たざるを得ないと思うのだが」
林檎を囓る私の肩を抱き、彼は私の耳に口を寄せる。何やら男性になった反動なのか、こういう肉体的なスキンシップが増えた気がするな。
しかし、私が興味を持つものとは一体。
「空を飛ぶ船が帝都にやってくる……と言われれば、興味が無いかね?」
空を飛ぶ船…………?
【Tips】魔導院のセキュリティ。魔導院は研究機関であり知識の集積に関する書庫や実験区画のセキュリティは教授会を筆頭とし、魔導院そのものが組織的にセキュリティを固めているが、地下の個人工房そのもののセキュリティは最低限以外は魔導師個人に委ねられている。
ペースが落ちていて申し訳ない。負担割合が大きくなって14連勤しておりました。
流石に今週からは少し落ち着きますし、盆も休みがあるのでマシになるかと存じます。
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