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少年期 一三歳の晩春 三

 エリザは最近ご機嫌だった。やってきたのと同じ唐突さで師匠が姿を消して、大好きな兄様(あにさま)と過ごせる時間が沢山増えたからだ。


 勿論、ととさまやかかさまと会えないのも、他の兄様達や新しくできたお姉さん、前のお家の“おともだち”と会えないのはやっぱり寂しい。


 けれどエーリヒ兄様がいてくれれば、エリザは我慢できた。硬いけど温かくて優しい掌で頭を撫でて貰えれば、お日様の下でお昼寝するのと同じ心地になれるのだから。


 そんな兄様が師匠が消えてからとてもよく構ってくれる。半透明のきもちわ……恐い女の人から貰った服を着てみれば、手が千切れるほど拍手して褒めてくれる。おめかししたんだから、と外に連れ出してもらって色々遊べたのは本当に楽しかった。


 勉強を教えてくれたこともあった。師匠が読ませる歴史の本、それをもっと面白おかしく――情緒的、というんだよと兄様は言った――した本を読み聞かせてくれて、交代して上手に読めた時は沢山褒めてくれた。


 一つできれば笑ってくれて、二つできれば撫でてくれて、三つできれば抱きしめてくれる。エリザはできることが増えるっていいことかも、そう思い始めてきた。四つできたなら、五つになったなら、六つ目を果たしてしまえばと思えば小さな胸が高鳴りで爆ぜてしまいそうになるくらい。


 そして、こんな日々が続くなら師匠が帰ってこなきゃいいのに、と本人に聞かれたら何時もの笑顔で凄いことをされそうなことを思ったりもして。


 今日も師匠がいない穏やかな日だった。朝の自習を済ませたら、兄様はちょっとだけと言ってお馬さんに乗せてくれた。ポリデュウケスという黒いお馬は家のホルターよりずっと大きいけど、彼と同じくらい優しくてゆっくり歩いてくれたから楽しかった。遠くが見えるようになっただけで、世界が変わってしまったのかと思うほど世界は新鮮で鮮やかに煌めいていた。


 お昼になったら兄様はお仕事に行ってしまったけど、夜はまた来ると言ってたからエリザは楽しみに待っていたのだ。


 たのしみに、たのしみにまっていた。


 だけどゆうひがかたむいてもあにさまはこなくて、しずみきってもきてくれなくて、えりざはとてもとてもかなしくて……。


 だからエリザから迎えに行くことにした。兄様はいつも危ないことをするから。危ない物を持って、危ない魔法を覚えて、危ないことを楽しんでしに行くから。だからエリザが迎えに行かなければと思ったのだ。


 兄様のお宿をエリザは知っていた。何度か招待してもらって、兄様のお世話をしてくれている灰色のお姉さんとも仲良くなったからだ。灰色のお姉さんは兄様のことを沢山話してくれたので、とてもいい人だからエリザは彼女が好きだった。自慢するだけして帰っていく、真っ黒で真っ白で意地悪な羽虫とは全然違うから。


 仕方のない兄様だ。エリザは兄様の反応が一番よかった服で――真っ白なブラウスと黒のコルセットスカートは、初めて帝都にやって来た日のもの――おめかしして、兄様のお宿へ迎えにいくことにした。


 お土産はたっぷりと。ぶしょーでずぼらなお師匠がお部屋にため込んでいるお茶の缶、焼き菓子の小袋、あとはちょっぴり背伸びをして、つんとする臭いの乳酪と葡萄酒を一本。大丈夫大丈夫、適当に買ってきて放り込んでいるだけだから、奥から一つ二つ持ってきたってバレないバレない。何だか読めない名前の葡萄酒だけど、真っ赤で綺麗だから兄様はきっと気に入ってくれるはず。たっぷりの蜂蜜とお水で割ればエリザでも美味しくいただけるから、兄様なら必ずエリザにも分けてくれるに違いない。


 ふわふわ飛んでるお友達に助けて貰って髪を編み、バスケット片手に遊びに行ったのに兄様はいなかった。沢山の人混みを泳ぐように潜り抜けて、酔いそうになる沢山の音を浴びたのに兄様はお留守。


 とても悲しくてエリザは泣きそうになった。ついてきてくれたお友達や、家の前でぐずる自分を心配してか飛び出してきてくれた灰色のお姉さんが慰めてくれたから泣かなかったけれど、悲しかったのは本当だ。


 兄様が帰ってこなかったらどうしよう。まだお師匠が言うような、兄様を護ってあげられるような子になれていないのに。


 不安で不安で仕方なくて、我慢していた涙が流れそうになった時、兄様は来てくれた。なんでかお家の前の道に嵌まった蓋を押しのけて、とても不思議そうにエリザを見ながら。


 「一人で来たのかい!?」


 と慌てて穴から出てきた兄様は、心配そうにエリザを抱き上げてくれる。それだけで溢れそうになった涙は引っ込んで、夜なのにお日様にあたったような気持ちになれた。じんわりと温かくて、優しい気持ち。きっと“うれしい”に色があれば兄様の御髪のような色をしていて、“たのしい”に色がついたら兄様のお目々のような色なのだろう。


 そしてきっと“しあわせ”とは兄様のことなのだ。


 「あのう……出てもよいのでしょうか?」


 誰かが開け放された穴からちょこっと頭を出していた。真っ白なお洋服は、神殿で神様に祈っている人達のもの。胸元で揺れている飾りをエリザは知らなかったが、何故だかとても嫌な物のように思えた。


 ああ、この女の人も金色なのだ。けれども、その色は兄様の“うれしくなる”ような金色じゃない。


 きっと、この夜空に浮かぶ半分のお月様みたいな“金色”なのだ。


 似ているけど違う色。うれしいとは違って、たのしいとも違って、しあわせとは絶対に違う。そんな色。


 怖ろしい色。みんなから引き離される、そう知った夜のようにエリザの小さく脈打つ胸が締め上げられた。まるで誰かに握られるように、精一杯脈打つ物を潰してしまおうとするかのように。


 エリザはただ兄様に縋り付き、月色の恐い誰かをじぃっと見つめることしかできなかった…………。












【Tips】葡萄酒。三重帝国においては気候の都合で白葡萄から作られる甘い葡萄酒が主流であるが、西方においては赤く重い葡萄酒が好まれ、王室農場で生産される“高貴なる血”と王国語で銘打たれた葡萄酒は一本で館が建つという。












 実は私、結構シングルタスクな人間だったりする。


 多重併存思考なんて小器用な真似をしていて何を今更と言われるやもしれないが、同時に多数の術式を練ることと問題を解決することは全然違う。


 妹と助けたお嬢様のダブルブッキングなんて、普通に上手く処理できるわけねーだろという話だ。頼むから別のセッションでやってくれGM、面倒くさがって一話にブチ込んでくれるな。


 私の首に縋り付いて――ああ、またふわふわ浮いてる。最近治ってきたのに――じっと僧を見つめる妹と、初対面で能面みたいな無表情を向ける童女に困りはてる少女という対比。一体私にどうやって上手いこと処理しろというのだ。


 小さな陶器の擦れる音。見事に全員の死角に煎れたてのティーポットを置いていく灰の乙女のナイスアシスト。


 「あー、とりあえずお茶でも」


 「あ、はい、いただきます」


 お茶を配って一口飲めばちょっとは落ち着く……って、美味いなこれ、普通の黒茶じゃないぞ。香ばしく舌の上を踊り鼻腔に抜けて行く芳香は、私が市場で買い込む一袋一〇アスしない安物とは全く違う。どっから持ってきたんだコレ。


 「ん……おいしい」


 「ええ、美味しいですね。ほら、エリザも飲んでごらん、凄く良い匂いだ」


 ぷくーと膨らむつやつやの唇にカップを寄せてやれば、最初はぷるぷると縁を弾いていた唇が、直に諦めて縁にはぷっと噛み付くように被さった。


 うん、可愛い。やっぱり家の子は天使だ。


 「ふふ……可愛らしい妹君ですね」


 「はい、自慢の妹です」


 自分のことなら幾らでも謙るが、エリザの可愛さでは一歩も退くことはできない。何故お前が誇らしげなのだと突っ込まれてもやむない調子で胸を張り、賛辞に喜色を見せれば彼女は口元を覆い目に見えぬ柔らかな笑みを作った。


 そして、今まで深く顔を隠していたフードに手がかかる。


 「では、流石にここまで導いてくれた貴方と、何より大事にされている妹君に顔を隠したままとはまいりませんね」


 顔を隠していたフードが取り払われる様は、朧に覆われた月が爽やかな風に拭われて姿を現したかのように鮮烈で……美しかった。


 陶器の白さも霞む透明な肌は生の色を滲ませず、人間離れした白の中で薔薇の花弁のような唇を映えさせる。そして高貴なる意志とは斯くあるものだ、と強く認識させる鳩血色をした切れ長の瞳が、ぬばたまの直毛と見事な対比を描きながら剣の如き鼻梁を飾る。


 顔の造りは美しさの中に子供らしい丸い陰影を残すが、意志を反映して輝く瞳が幼さを拭い去り妖しいまでの美を醸す。これが産まれながらの形と言われても納得し難い、崇高なまでに研ぎ澄まされた美。


 ああ、なんと妖しく怖ろしいことだろう。綻ぶのを待つ蕾を幻視させる唇から溢れる、捕食者の証よ。


 「私は……ツェツィーリアと申します。親しい者はセスと呼びます」


 彼女は、ツェツィーリアは吸血種だった。神代の遙けき昔、“陽導神”を欺いて不死をかすめ取ったヒトの末裔。その戒めとして陽光の下では焼けるような痛みを覚え、温かなる血を流す人間しか糧とできぬが故、彼の神の信徒を永遠に保護せねばならぬ宿命を帯びた“不死者”の一員。


 また人外か! 私のサイコロなんかおかしくね!?


 「今は夜陰神、我らを護りし神の信徒をしております。何卒よしなに」


 口を開かず口角を微かに上げるだけの貴人の笑みを作り、高貴なる吸血種は小さく頭を下げた。


 ふぅ、落ち着け自分。人口比率でいえば魔種が少なく、力ある個体が血を吸い、同時に注ぐことで転化するか、極めて希な確率に縋らねば繁殖が能わぬ吸血種の希さが群を抜こうが存在している以上は遭遇する可能性はあるのだ。ちょっと出目が偏ったくらいで冷静さを失うな。たとえそれが人生規模での偏りだったとしても。


 咳払いをして気を落ち着け、礼儀として私も自己紹介をした。凄い美人には毎日アレを――人間性は下水以下だが――見てきただけあって耐性もついた。なによりアレだ、どうせ私と知り合ったってことは、きっと彼女もイロモノなのだろう? あの小学生ムーブを思い出せば、少しは冷静になろうってもんさ。


 「私はエーリヒ。この子はエリザ、私の自慢の妹で魔導院の研究者の弟子をしておりまして、私はその補助として丁稚を務めております」


 「まぁ! 魔導院!! 僧会とはあまり繋がりがないもので魔導院のことに明るくないのですが、常々気にはなっていたのです。不思議なことを沢山知っているとか」


 きらりと瞳が輝き、胸の前で指先が触れあう程度に手を打つ彼女。俗な例えをすれば管理者権限持ちとクラッカーといった間柄の僧会と魔導院は然程仲が良くないと伺っていたが、多分彼女の好意的な態度はシンプルに好奇心を擽ったが故だろう。


 本当に見た目の威厳に反し、中身は小学生だな。私が彼女を構うのに対し、風船のように頬を膨らませる可愛い妹と大差ないように思えてくるから困る。


 このまま下水道の時のように好奇心エンジンに突き動かされ、魔導院のことへの質問攻めに入られても困るのでさっさと話題を変えてしまおう。そして、エリザは暴発しないよう頬の空気を突っついて抜いてやり、適度にあやして機嫌をとらねば。


 なにより、相手も無能ではなかろう。追っ手は既に路地にいないことを察し、とうの昔に市街全域へ探索の手を伸ばしているに違いない。


 「魔導院の話は落ち着いてからじっくり致しましょう。なんでしたら雇用主と掛け合ってご招待いたしますとも。ささ、それより“これから”どうするかです」


 大事なのは次の一手を打つこと。この状況では正しく巧遅より拙速を尊ぶべきだろう。追走というのは準備する時間を与えれば与えるほど、逃げる側が不利になるような仕組みになっているのだから。


 相手は貴族。配下に美麗な服を着せ、見事な拵えの短刀を与えていたことから木っ端や水飲みの類いではなかろう。ならば予算に物を言わせて数百人規模のローラーを敷いてくることも予見できる。最悪、衛兵なんかも動員して市街全部が危険域になることも考えられた。


 くそう、これだからブルジョワってやつぁ……。


 妙に朱い旗が欲しくなる謎の欲求をぶち殺し、彼女の反応を見る。


 なにせ“ゴール”が分からなければ逃げようもないのだから。


 「複雑な事情がおありのご様子。深くは踏み込みますまい。ですが、行き先くらいは確定させねば」


 判断を促すよう優しく優しく問いかければ――断っておくが<話術>系のスキルはとっているが、洗脳には手をそめていないからな――彼女は暫し悩んでから口を開いた。


 「……望まぬ…………結婚、ええ、そうです、結婚を強いられているのです」


 目を伏し胸の前で手を組みながら嘆く姿は、正しく薄幸のヒロインという風情であった。これほど様になるワンショットがあるだろうか。追われる乙女、望まぬ結婚、そしてきっと相手は脂ぎった年上とくればもう“誂えた”ような展開ではないか。


 「おお……それはなんと」


 「私を僧籍から外し、望まぬ婚姻を交わさせんと……他ならぬ我が父が目論んでいるのです。他ならぬ、他ならぬ我が父が」


 ほろりと溢れる儚い滴。たった一筋落ちたそれを指先で払うと、彼女はフードを被り直して力強く拳を握った。


 「ですが、全てが敵というわけではございません。大変お世話になっているおお……んっ、伯母がおります。彼女であれば、間違いなく父をとめてくれることでしょう」


 「それは心強いですね」


 実に心強い味方がいるようだ。古来弟というものは姉には頭が上がらないようできているからな。古事記にもそう書いてある。かくいう私も前世の姉とは……うっ、頭が。


 「では、伯母上を頼ると致しましょう。伯母上のお住まいはいずこに?」


 ゴールが分かれば幾らでもやりようはある。近場なら帝都を脱して向かえばいいし、遠くとも文を飛ばせば助けは期待できる。連絡さえとれるなら、最悪帝都を逃げ回りながら伯母上の救援を待てばよいのだから。


 ただ、急に言いにくそうにうつむき、彼女は暫く指をもじもじさせてからとんでもない地名を口にした。


 「その……リプツィ……でして」


 「は?」


 リプツィ、それは帝国東方、リプツィ行政官区の州都にして、三皇統家の一画、エールストライヒ家の根拠地。


 この帝都から“直線距離”にして実に“一四〇km”もの遠方であった…………。












【Tips】州都。行政官区における政治・行政機能の中枢土地であり、必然的に有力な領主の根拠地。三皇統家、七選帝侯家、有力貴族は各地の行政官区の州都に自領を持ち、配下の貴族を管区内に配して禄を与え勢力を維持する。そして、年の内何割かは帝都の別邸に参して政治に参画するのである。

大変お待たせ致しました。先月から立て続けに自分の手が及ばぬ所で不具合が起こりまくり半泣きで火消しに走り回るという悪循環に殺されていました。


それでも感想の何気ないネタに気付いてくださった一文や、Twitterで気まぐれに書いてる ルルブの片隅 にも反応がいただけるようになったうれしさで頑張っております。土日も更新できればと思っておりますので、お付き合い願えればなにより。

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[一言] 次期皇帝!
[一言] とても面白い しかすエリザに対する描写というか妹だから可愛いのはわかるがそれを読者は感じ取れない それ故にエリザのことをウザく感じてしまった。
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