ヘンダーソンスケール 1.0 Ver0.3
さして広くもない、しかし清潔で几帳面に整えられた書斎に怒声が響き渡った。
「お師匠!!」
すわ国家権力の乱入かと勘違いする勢いでドアを開いたのは、年若い一人の少女であった。勝ち気な切れ長の瞳と、稲穂のような髪を簡素なカチューシャで留めた姿が愛らしい少女の年頃は一〇かそこらであろうか。しかし、年齢に見合わぬ丁寧な宮廷語からは、しっかりとした教育の色が窺えた。
乱雑に開かれたドアから魔法の明かりが差し込むも、無数の立派な装丁の本が壁のごとく囲む部屋に主人の姿はなかった。書きかけの書簡、半端に綴られて止まった論文、覚書を挟みすぎて紙の塊のようになったメモ。愛用品が残された書斎から、本来椅子に座っているべき主人だけが忽然と姿を消していた。
いや、もう一つなくなっている物がある。一角だけ魔導暖炉で本棚が途切れている壁面。そこに常ならば記念品のように飾ってある、一本のアーミングソードも姿を消していた。すっかり帯刀して出歩かなくなった品が消える理由は一つきり。理由を悟った来訪者は無意識に息を呑み、大きく溜を作って……。
「また勝手に冒険に行きましたね! あの放蕩教授!!」
力の限り声を張り上げ、腹立たしげに短杖を床へとたたき付けた……。
暫しの後、ローブを纏い簡素な杖を手にした魔導院聴講生と思しき弟子。彼女は不快そうに鼻を鳴らしながら昇降機より魔導院のエントランスへと降り立つ。
「やぁ、どうしたんだい? そんなに怒って。可愛らしい顔が台無しじゃないか」
「へ? あ、シュポンハイム教授!」
そんな彼女に声をかける者が一人。流麗な体のラインは、ヒト種の美という標本を博物館から引っ張ってきたかのような調和を保ち、戴く柔和な表情は性差を滲ませぬ道を過たせるような妖しい美を醸す。
魔導師の重々しいローブを纏い魔法の触媒を装身具の如くぶら下げているよりも、壮麗な舞台にでも立っているのが似合いの人物は、魔導院においてやっかみ半分で紅裙卿とあだ名される若い教授であった。
その名はミカ・フォン・シュポンハイム。二四歳にして教授位に上り詰めた若き俊英であり、三重帝国にやってきて日が浅い“中性人”初の魔導師でもあった。黎明派の筆頭学閥において教授の覚えめでたく、三〇歳を前にして議会に招聘されることも珍しくなくなった天才に若き魔導師志願は深々と腰を折る。まるで、話しかけられること自体が畏れ多いと言わんばかりに。
「ローブの裾を蹴るように歩いてはいけないよ。ここには口さが無い者が幾らでもいるんだから」
言語化しづらい中性の美をこれでもかと見せ付ける教授に窘められ、彼女は恥じるようにローブの裾を正した。魔導師のトレードマークであるローブの裾は、その長さから普通にしていれば直ぐドロドロになってしまうこともあり、如何に汚さず綺麗に保つかが格を示すことに繋がるほど。
服を防護する余裕さえないほど困窮した魔導師に、裾が汚れているよ、という煽りが定型化するくらい重要なポイントなのだ。
ただ、聴講生の彼女は、そんな重要な所がなおざりになるほど腹に据えかねていたのである。
「また“彼”かい?」
恥じ入りながら居住まいを正す彼女を見て、中性人の教授は花が綻ぶような微笑を浮かべて言った。
「そうなんです! ライゼニッツ教授がお召しなのに、あの放蕩師匠!! いつもいつも、糸が切れた凧みたいにふらふらして!!」
それに、今日は私の指導もしてくれるって約束してくれていたのに! と続け、弟子は地団駄を踏んで自分の師を詰った。
“漂泊卿”と揶揄される、払暁派随一の戦闘魔導師にして幻想種研究の大家、エーリヒ・フォン・ダールベルクを。
彼女の師は問題児揃いの払暁派の中においても屈指の問題児であった。というのも、十年前に待望の――本人は死ぬほど嫌そうな顔をして――教授位に登ったアグリッピナ・デュ・スタールの直弟子として悪い意味で有名な上、妹君であるエリザ・フォン・レムヒルト卿に関することで異常な沸点の低さを見せ決闘騒ぎを幾度も起こしているからだ。
曰くモーションのかけ方や口説き文句が紳士的ではなかった。半妖精だから研究させてくれとは何事だ。混じり物が堂々と廊下を歩くなと詰るのは以ての外。妹のこととなると、彼の手袋は矢よりも速い速度で顔面に――正式には足下に叩き付けねばならない――叩き付けられる。
由緒ある決闘の儀式で彼の前に膝を屈した男子は手足の指では足りず、最近はいっちょ名前をあげたるかな! 程度の理由で逆に喧嘩を売られるほど有名になってしまった彼は、出不精の極みである師とは対照的な放浪癖で知られていた。
ちょっと西で珍しい幻想種が見つかったと言えばスケッチしにいってくると飛び出し、北に前王朝の隠し遺跡があったと聞けば歴史資料の保護を名目に姿を消し、南に過去の財宝を積んだ沈没船の足跡を知れば予定を放り投げ、東で新しい魔宮が産まれたと教えられたなら次の瞬間には空間遷移する。
そのフットワークは最早軽いを通り越しており、教授ではなく冒険者か山師の領域。
年に魔導院へ滞在している期間は二月足らず。絶えず遠見と使い魔で講義を聴き、義務となる講師も遠見と思念に念動の板書でこなしているから除籍こそされていないものの「いっそ専業冒険者になりゃいいのに」と各所から呆れられている問題児であった。
その上、何が性質が悪いかと言えば付き合っている教授陣とのパイプが太いせいで、どうにも政治的にぶち殺しづらいのだ。また噛み付かれるまで全く無関心を貫くのに、一度剣を抜いた瞬間相手がへし折れるまで攻撃する苛烈さも悪名を高める一助となっている。
あまつさえ、仲の良い教授陣だの有望な聴講生だのを気が向いたからという理由で、彼の長い冒険に閥を問わず引っ張り出したりするはた迷惑な習性まで持っているとくれば、上の方や共同研究者から嫌われるのもむべなるかなという話であった。
実際、色々な研究会に引っ張りだこであるシュポンハイム教授もことあるごとに――本人も喜びながら――冒険に引っ張って行かれているので、用事がある人間から蛇蝎の如く忌み嫌われても文句は言えまい。
始末が悪いことに誘われてる本人達が乗り気で、彼を擁護するからどうにもし辛いというオマケまでついてくるとなればもう……。
ただ、そこまで問題児ならば、政治的な能力を超えるほどの徒党を組んで処理されてしまってもおかしくないのでは? という疑念を抱く者もいようが、これでいて彼はしっかり研究成果も残しているため、追放するとそれはそれで色々な不具合が発生するのである。
それ故、ダールベルク卿は魔導院においてある種のアンタッチャブルと化していた。気に入られたら冒険につれてかれるぞ、と一種の妖精みたいな扱いは、同じ教授位を持ち名誉称号まで得た妹君が助手の如く付きまとっていることへの皮肉なのかもしれない。
「あー……まぁ、大丈夫だよ、今回は直ぐに戻ってくるだろうから。僕は特に誘われなかったし、レムヒルト卿も講義の開講日だっただろう? ライゼニッツ卿がお呼びとあって逃げたなら、一月もしないで帰って来るよ」
「なんで自分の閥の長から逃げなければいけないんですか? 私にだってとても綺麗なお洋服を下さる、本当にいい方なのに」
納得いきません! とぷんすこ肩を怒らせる親友の弟子を前に、教授になるほどの頭の持ち主は何と答えるべきか大変悩んだ。
三〇近い男をコスプレさせようとする教授から逃げるべく、自分の弟子もほっぽって帝都から離脱したのだろうなんて、親友の師弟関係を重んじるなら口が裂けても言えないのだから…………。
【Tips】教授位。魔導院の魔導師において、自身の技術を広く教えるに値する能力を持っていると教授会から認められた者が授与される魔導師の最高位。何かしらの論文や実験で偉業と呼べる結果を出して初めて授与の審議がなされる。同時に功績が偉大であった場合、名誉称号として一代貴族の位と家名を与えられる。
がたごと揺れる露天の馬車に揺られ、暫くまともに抜けなかった愛剣を抱えていると冒険って感じがして実に良い気分だ。
「いやぁ、ありがたい。魔導院の教授先生が随行してくれるとは。巨鬼に名剣の気分ですなぁ!」
「いえいえ、むしろ此方が感謝したい所ですよ。急に訪ねていったのに私の席をご用意いただき、感謝の言葉もございません」
禿げた頭と豊かな髭が特徴の坑道人、私がたまたま帝都の近くで捕まえた小規模な隊商の主が心底嬉しそうにおべっかを使った。見たところ、随行している魔法使いも魔導師も居ないようだし、不便を覚悟した旅であったのだろう。
「粗雑な馬車で申し訳ない。ささ、ごゆるりと空でも眺めてお休みください!」
「お言葉に甘えさせていただきます。しかし、小職程度の魔法がお役に立つ時が来たらば、どうかご遠慮なくお声かけ下さい」
ごろりと寝転び空を眺めると、魔導院に引きこもってるのがアホ臭くなるほど良い天気であった。こんな天気に変態の趣味に付き合わされたら精神が死ぬぞ。というか、三十路近いおっさんになった私に何させようってのかね、あの御仁も。とても射程距離に入った見た目だとは思えないのだが……。
何はともあれ、私は例えようもない開放感に打ち震えながら体を伸ばした。
さて、大変な激務であった。社会的な地位を手に入れ、確固たる足場を作ってから冒険者になろうと思った時は、ここまで色々面倒くさい仕事だとは思いもしなかったなぁ。あの時の自分に教えてやりたい。研究者に留まろうとしていた師匠は相当賢かったんだぞと。
師匠からの言いつけで禁書庫に二週間潜って参考文献を漁り――怪物じみた本そのものと格闘したり、本から這いだした呪詛に襲われたり酷い目に遭った――そいつが終わったかと思えばコミュ障気味の妹から「兄様、講義の準備手伝って! 大講堂で数百人単位から囲まれるなんて無理!!」とギャン泣きで絡まれ、それを三日がかりでやっつけたら、今度はミカから「今度の晩餐会がタイミングが悪く女性の時でね。エスコートを頼めるかな?」とか言われたから付いてったら五日間も研究会&晩餐会巡りに付き合わされるなんて聞いてない。
長期キャンペが何回か組めるような難事をやっつけたと思った直後にライゼニッツ卿から呼び出し喰らうとか、そりゃもう逃げるよ。魂が過労死するわ。
「下手に偉くなるもんじゃねぇなぁ……」
「はい? 何か仰いましたかな?」
「いえ、お気になさらず」
年俸一,五〇〇ドラクマを数え、貴族位を得てちょっとした異名みたいな物を貰っても、実態はこんなもんだ。魔導院というのはエキセントリックにネジを飛ばした変態に、私みたいな常識を持った教授がとこっとん振り回される場所だと知ってれば、研究者のままでいたのになぁ。二四歳で教授昇格とか快挙だよ! 一緒に頑張ろうよ! と親友におだてられ、調子乗って論文を提出したのが全ての誤りだった。
よもや、ここまで気楽に冒険ができなくなる身分になるなんてね。弟子までついちゃって、益々遊びに行くのが難しくなってしまった。流石に彼女を引っ張ってくのは、まだまだ未熟だから危ないからなぁ。
等と考えていると、空間が解れて蝶の形に折った紙が飛び出してくる。アグリッピナ師の術式をまるっとコピった伝書術式だ。飛ばした先は麗しの我が故郷、宛先は勿論……。
「ああ、よかった、マルギットも暇か……湯治宿で一人ってのも不毛だからな」
幸いなことに猟期から外れているからか、我が幼なじみも時間的な余裕があったらしい。なんでも彼女は私が貴族に紹介したこともあり、有名所の狩猟場の管理を任されるようになって死ぬほど忙しいと聞いていたし、これが丁度良い息抜きになればいいのだが。
そうだ、向こうについて上手いこと<空間遷移>のマーキングができたら、折角だし一族を湯治宿に呼び寄せてのんびりしてもらってもいいな。<見えざる手>を全力稼働させれば家のことなんてちゃっちゃと片付くし、連れて行くのも簡単だろう。
よしよし、親族の見舞いと加療ってことにして外出の言い訳は立つな。とりあえず父上には重篤な腰痛になってもらって、母様には神経痛の治療ということで温泉に浸かっていただこう。いやぁ、子供としてはね、親の窮地にはかけつけて治療しなきゃだからね。
折角だし温泉を堪能したら、マルギットと一緒に近所の冒険者の同業者組合を冷やかしに行くか。高難易度で塩漬けになっている依頼を漁って行けば、研究のためにフィールドワークしてましたって誤魔化しも利くしな。湯治が終わった頃なら、ミカも忙しい時期は明けるだろうし一声かけてみるか。
さぁ、久しぶりの本職を楽しもう。帰ったらアグリッピナ師から小言とか、ライゼニッツ卿から「何故逃げるんですか」と泣き言とか色々飛んでくるけど全部無視だ無視。弟子の教育もあるからね。
あ、そうだ、忘れない内に弟子に詫びの手紙を出して、彼女も湯治宿に引っ張ってってやるか。若い内に色々な所を見て、体験して、興味を持つことが感性を養うのには必須だからな。あとは将来政治的な付き合いに引っ張り出された時、とんでもなく美味い物食わされて胃がびっくりしないよう、ちょっと贅沢なメシも食わせてやらねば。舌を養うのも教育教育。
私は肩書きから解放されて軽くなった肩を愛おしむように回し、冒険の予定を頭の中でこねくり回した…………。
【Tips】魔導院の教授は副職を禁じていない。ただ、人気の教授は相応の忙しさを誇るため、副職をしている余裕があるかは保証しない。
漂泊卿においては危険な幻獣相手でも実地でフィールドワークしてサンプルを確保し、精巧な剥製を作るほどの凝り性であるため同分野の教授や聴講生からの人気は大変高く、講義の出席率も高い。
怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。という箴言に基づき、自分も怪物もとい初期作キャラを振り回す高レベルコネクションキャラと化したエーリヒ。先の報酬で苦学生になったENDです。
ルートとしては聴講生→苦労して学費を獲得し研究者に→兼業冒険者として各地を放浪→色々書き溜めた覚書を使って論文執筆→出来が良かったため教授昇進→おもってたんとちがう
という流れを経て、自分が過去のアグリッピナと似た挙動を見せる問題児に成り果てました。尚、自分はアレ揃いな魔導院の中では常識人だと思い込んでいる模様。




