少年期 一三才の冬
あんまり寒いのはかなわないが、冬の冷えきった空気は好きだ。
「うー、さむ……」
鼻の奥が痛くなりそうなほど冷たい朝の空気を吸い、寒気を追い出すように吐き出せば肺の中を思いっ切り煤払いしたような清々しい気分になれるから。その清々しさで目を覚ませば、足首を引っ掴んでくるかのように抜け出しがたい寝床からも脱出できる。
帝都の下宿、心優しき灰の乙女が管理してくれる私の宿も、そんな寒さと暗さに沈んでいた。冬の日照は短く、普段起きる時間でも<猫の目>がなければ厳しいくらいに外は暗かった。
「やっぱこっち、明らかに地元より寒いな……」
灰の乙女が用意してくれる顔を洗う水は、肌を気遣うように温んでおり大変ありがたい。井戸から直接汲むと、皮膚が剥がれるんじゃないかと思うくらい冷たいからな。
帝都は三重帝国でも北部寄りにあり、ケーニヒスシュトゥールと比べるとかなり寒く感じられる。が、北に行けば行くほど寒い訳ではなく、南東部に位置する霜の大霊峰寄りになるともっと寒いというのだから難しい立地をしているものだ。
タオルで顔を拭えば、さっきまで手元になかった小さな小瓶がいつの間にか置かれていた。微かな乳の臭いとオリーヴの香りが混じるそれは、冬の乾燥に備えた軟膏だ。保湿して乾燥を防ぎ、不足しがちな油分も補ってくれる素敵アイテムであるが、彼女は一体これをどこから仕入れているのだろうか。庶民が安定して買うには普通に悩ましい金額のはずだが。
「今日も灰の乙女の心遣いに感謝を」
ともあれ、出所を気にしても仕方がないのでありがたく手指と顔に塗ることにする。前の住人が忘れていった曇った鏡の前に陣取り、未だ塞がっていない顔の傷を隠す絆創膏を剥がして……。
「あれ?」
見れば、鏡に映る私の顔は綺麗になっていた。こういうと語弊を招くが別にスキルだの特性だので顔の造詣に変化が現れた訳ではなく、少し前まで瘡蓋だらけだった顔がつるつるしているのだ。
それに、どういうわけかちょっと期待していた面傷が影も形もない!?
だって、ほら、顔に受けた傷って歴戦感あって格好良いじゃない。あれだけの激戦を潜り抜けてついた傷だから、ちょっとくらい残っても格好良いし、記念になるなと思っていたのだ。将来、その傷はどこで? と後輩の冒険者から聞かれた時、ドヤ顔で過去の功績を語る切欠にもなるし……。
されども、無情なことに淡い期待を抱いていた傷はさっぱり消えていた。瘡蓋が剥がれるのはいいとして、欠片も残ってないってどういうこと?
あとあれだよ、この年齢っていえば私は前世だとボチボチ髭がうっすら産毛程度には生え始めていたのだ。父も丁寧に髭を整えていたし、兄も成人直前には殆ど生えそろう程度には男衆の髭が濃い家系でもある。
にもかかわらず、つるっつるだった。顎を撫でて、違和感を全く感じないほど。
「……ウルスラ」
「はいはい、お呼びかしら愛しの君。月が顔を隠しきる前からご苦労ね?」
ちょっとした心当たりを呼び出せば、まだ暗いこともあって夜闇の妖精は最初から居たかのように部屋に現れた。今日は隠の月が満ちつつあるから、最初に遭った時と同じ頭身の彼女が鏡に映っている。我が物顔で私の寝台に腰をかけているのは気になるが、家主が客を歓迎するのは義務みたいなものだし見逃すとしよう。
「傷が消えたのと髭が伸びないの。心当たりは?」
彼女と口でやりあって勝てる気がしないので――どうして私の周りは舌戦が強い女性ばかりなのだろう――率直に聞いてみれば、おもむろに枕に顔を埋めた彼女は何でもないかのように告げた。
「あー、わたくしじゃなくってよ? わたくし、男性の傷は結構好きな方ですもの。狂奔は月の光の下でこそ映えて、狂えるほど激しく振るわれた傷の残滓は詩的な美しさがあるものですし」
なるほど、わたくしはね、わたくしは……。
「ロロット」
「はぁい~。なにかご用ぉ?」
次の心当たりに声をかければ、ふわっと頭の上にシャルロッテが現れた。風の妖精である彼女は月が満ちても頭身を高めることなく、これぞ妖精という佇まいで私の髪に埋もれるように寝そべっている。
「傷と髭、なにかした?」
「えっ? えっとぉ……そのぉ……」
「もういい分かった」
ウルスラの含みがある物言い。そして問われた瞬間言い淀むシャルロッテ。下手人は一瞬で割れてしまった。がっくり項垂れてテーブルに手を突けば、頭に乗っていた風の妖精は転げる前に浮かび上がり、申し訳なさそうに顔を覗き込んできた。
「そのねぇ、ごめんねぇ? ロロットねぇ、傷が残ったらヤかなと思ったのぉ。ほらぁ、だってみんな、お顔に傷があったら気にするからぁ。おともだちもね? みんなお顔の傷ってかわいくなーいって……」
なるほど、体の傷は全て癒えれば疵痕とならぬよう、妖精の気遣いで消えてしまったのか。ほんと色々できるのね、君たち。
「いや、うん、いいよ、別に。うん、ほんと、そこまで気にしてるわけじゃないから」
申し訳なさそうに頭を下げる彼女をみてると、なんか私が悪いことした気になるから困る。別にそこまで怒ってる訳ではないし、悪気がないなら許すとも。
ただしおやつの角砂糖は一個減らす。
南内海の衛星諸国から最恵国レートで砂糖が入ってくるから三重帝国においてそこまで高価ではないが、財布にお優しい価格でもないからな。懐が小さい? 底が浅い財布しか持ってないから仕方ないだろう。ファイゲ卿から頂いた一〇ドラクマは半分をエリザの学費に充てたし、残りは実家への仕送りと、遅くなったが甥っ子ができたお祝いに送金してしまったのだから。
口でがーんと呟いて露骨に凹むシャルロッテ。ただ、彼女の発言で気になることが一つ。
疵痕への言及はあったが髭への言及がなかった。
「となると髭は……」
疑問を声に出してみれば、びくっと後ろで驚く気配と陶器が擦れる音がした。鏡を見て後ろを確認すれば、顔を洗った桶はベッドサイドから消え、代わりに湯気を立てるチコリの黒茶が用意されていた。
いつもなら食器が擦れる音すらさせず用意される朝のお茶、それが過剰な反応と一緒に現れたと言うことは、まぁそういうことなのだろう。
「……灰の乙女」
「だって、髭って可愛くないんですもの、だそうよ」
断固として声を出さぬ彼女の代わりにウルスラが翻訳してくれた。
……ああ、そう、うん、もう分かったよ、好きにしてくれ。しかし、真面目で寡黙な彼女がこんな悪戯をしかけてくるとは。いや、むしろ家事妖精とは家人に悪戯を働くのを好む性質も持ってたっけ。
もうちょっとこう、おとなしめの悪戯がよかったな…………。
【Tips】加護も祝福も与える側の意志が必要であるが、授かる側の合意が必要とは限らない。さもなくば、金髪碧眼の子が若くして天に召されることもなく、森歩きから帰って来なくなることもなかろうて。
昨夜降ってから誰にも穢されていない新雪をさくりと踏み、雪で白くデコレーションされた街を行く。焼成煉瓦の味わい深い赤が白の下より覗き、魔晶光源を抱えた街灯の光を浴びて薄らと青いグラデーションで染められた姿は実に幻想的である。
冷え冷えとした冷水のような空気を取り込めば、未明の白みかけた夜空をそのまま吸い込んだような心地がした。冬の夜を酒にして呑んだなら、きっとこんな口当たりなのだと思う。きりっとした口当たりの中に甘さがあり、すっと消えるような淡い香りを鼻腔に残して行く日本酒のような酒だろう。
とはいえ、お勤めもあるのであんまり浸ってはいられないな。この寒さを堪能するのもオツではあるが、あまり体を冷やすと後に障る。私はポイントを使って取得した<隔離障壁>にアドオンの<選別除外>を組み込んだ結界を起こし、冷気を弾きブーツに撥水の効果を持たせた。
魔宮で溜めた経験点の使い道、その一つがこれだ。TRPGの醍醐味といったら戦闘だが、ロール中に現実世界でもコレ使いてぇなぁとしみじみ思う生活魔法も大きな要素の一つである。
流石の寒さに綿入れの上着だの革の大外套だので抵抗するのがしんどかったので、障壁系の防御手段が<空間遷移>の出来損ないだけでは不便かと思いついでの如く取得してみた。<基礎>まで伸ばした<隔離障壁>は“物理的・魔法的な接触を阻む”だけの、これぞ障壁というシンプルな構築。起点となる空間を薄紙一枚分だけ概念的に隔離することで、物と現象が乗り越えてこないようにするだけの捻りのない術式。
しかし、シンプルであるだけに燃費も効率も悪くなく、基礎レベルでは流れ矢や気合いの入ってない一撃を弾くのが精々であるが十分有用である。角度を付けて攻撃を受け流すようにすれば強度以上の性能を発揮できるし、ちょこっと弄くってやれば水を弾き、強風を受け流し、寒さの伝播を和らげてくれる雨具兼防寒具のできあがりだ。
いやぁ、良い買い物した。手袋みたいに薄く手の表面に張り巡らせれば、水仕事しても手が荒れないってのも嬉しいね。渇望の剣に触れようとしたアグリッピナ氏がやってたみたいに、物理的な実験する時にも便利だろうと思って真似したが正解だったな。
カストルとポリュデウケスの世話をし、もう恒例となった仕事終わりに銅貨を握って私の前に列を作る馬丁達に<清払>をかけて回る。近頃は私を見かけると挨拶してくれる人が増えて嬉しいものだ。
その後、朝食を用意しアグリッピナ氏を寝穢い外道から見かけだけは傾国の――尚、物理的に傾ける模様――美人にクラスアップさせ、ひっつき虫と化したエリザを膝に乗せながら宮廷語のレッスンを聞いて午前中を過ごした。
お遣い以降、またエリザの甘えたが再発してしまったのだ。泣きそうになりながら「あにさま、もうあぶないことしない?」とくっつかれたら、そりゃ兄貴として抵抗できませんよ。エリザが私を椅子にしながら講義を受けるのをアグリッピナ氏が認めたのは、間違いなく色々面倒くさくなってきたからだろう。私に放り投げれば、基本的に弟子の精神は安定するからな。
昼までエリザに付き合って、マナーレッスンとなる昼食が届くのを見計らい工房を後にする。いくらなんでも膝に乗せたまま食事はできないからな。むくれるエリザに頑張るよう言い含め、額にキスを一つ落として宥める。涙目の妹を突き放すのは良心をミキサーにかけるようだが……うん、猫の子みたいに可愛がるだけが愛じゃないのだと自分で自分を洗脳して耐えた。
「ああ、そうそう、忘れるとこだった」
部屋を出る直前、アグリッピナ氏から紙を渡される。単なるメモ書きを態々蝶の形に魔法で折って飛ばしてくるセンスはよく分からないが、なにか思い入れでもあるのだろうか。
「それ、頼まれてた分の予約取っといたわよ。私の名義でとってあるから、お遣いで実験を頼まれただけなんです~って体でよろしく」
「実験のお遣いとは一体……?」
寄越されたメモは“実験室”の予約票だった。
魔導院には魔導技術の粋を凝らしたレンタル実験室が幾つもある。シチュエーションに応えられるよう様々な環境が整えられ、端的にヤバい実験を外に漏らさないよう空間的に隔離された部屋が工房と同じく用意されているのだ。
工房そのものが高度に隔離されているわけだが、言うまでもなく軍事的な魔導研究は大がかりな結果が付きものとなるため、狭い工房だけではやりきれぬと要望が出て作られたそうな。まぁ、勝手に草原とか森で環境破壊されたらたまらんからなぁ。挙げ句の果てはバイオハザードの危険性があるなら、予算を投じてデカイ箱物を作るのもむべなるかな。
そんな代物に用があるのは、勿論新しく考えたコンボの実験のためである。ただちょっとその辺でやるのは危ないかなーと思って相談したところ、このレンタル実験室の存在をミカから教えて貰ったのだ。
そして、予約をして欲しいと頼んで今に至る。
「いつも通りエレベーターに話しかければいいから。ただ、この時期利用者が多いから共用の実験室しかとれなかったし、あんま凄いことしないように」
人を何だと思ってるんだこの外道は。節度はあるつもりだとも。というより、隣に人が居るだけで自粛せにゃならんほどえげつない術式じゃない。どっちかと言えば轟音と閃光の魔法に近い、リーズナブルでつましやかな物に仕上がったと自負している。
「ご安心下さい、自分の領分は分かってるつもりですよ」
ほんとぉ……? という猜疑の呟きを無視し、私は縋るような妹の目線を振り切って工房を後にした…………。
【Tips】実験室。魔導院地下の工房区画よりも深度が高く、禁書庫並の深度に作られた実験用のレンタルスペース。数㎡ほどに小分けされたブースが並ぶ小実験スペースから、ドーム球場並の広大な実験スペースまで様々な部屋が用意されている。強靱無比な概念隔離結界によって防護されており、外に被害を出さないよう三重帝国皇帝が威信と帝室費の半分以上を供出して“作らせた”施設。逆説的にそれまでは平然と外で実験していた模様。
尚、過去三度結界を抜く規模の攻撃魔法が内部でぶっ放され、大事故が起こったと記録されている。
成長お披露目会と新しいキャンペーンの開始期間。このキャンペーンが終われば青年期に移行する予定です。
昨日も感想と誤字報告ありがとうございました。順次反映していきます。フォロワーも増えて嬉しい限りですので、Twitterでぽろぽろ作中で書かなかった小ネタでも放出していこうと思いますので、気が向いたらつっついてやってください。