ヘンダーソンスケール1.0 Ver0.2
ヘンダーソンスケール1.0 致命的な脱線によりエンディングへの到達が不可能になる。
IFエンドそのⅡです。
エリーゼと名付けられた少女は酷く後悔していた。
家を出る前に誰が見るでもないのに髪型に凝り、出立が遅れたことを。おばあさまが狼除けだと持たせてくれた護符を忘れたことを。絶対に超えてはいけないよ、と言われた背の高い松の木の向こうに木イチゴを見つけて踏み込んでしまったことを。
それさえしなければ、いや、そのどれか一つでもなければ、今頃自分はお家でお夕飯を食べられていたのにと。
日がすっかり沈んで月明かりも殆ど届かない森の中、エリーゼは帰る道を見失い、ついには自分が〝お夕飯〟になろうとしていた。
木の根元に背を預けて縮こまり、涙を流す彼女は群狼に囲まれている。精悍な顔つきの狼たちは、似ているのに牧場で彼女が世話している牧羊犬達とは全く違った。
飢えた瞳に睨め付けられて、彼女は自分の死を悟る。同じ金色の瞳なのに、彼女を見れば顔をなめてくれる二頭の愛犬とは全然違う目だ。
小さく手頃な獲物を見つけて、暗い喜びを宿した目である。
しかし、群狼はしばらく少女の周りをうろついて、中々手を出そうとしなかった。
オオカミとは慎重な生き物だからだ。ヒト種は子供とはいえど、普段彼らが相手をする獲物と比べれば大きめだし、小さな個体はともかく、近くにいつもいる大きな個体が恐ろしいことを知っていた。
医者にかかれない彼らは小さな傷でも大きく響く。それ故、常に慎重に獲物を見定める。
結局、彼等が恐れる大きな個体が現れることはなく、おびえるばかりの獲物に反撃がままならぬことが本能で分かった。
たやすい獲物だ。こうなれば話は早い。群狼達ははやし立てるように吠えたくり、一頭がゆるやかに前に出た。
見事な体躯の雌であった。この群れにおいて狩りを主導する、頭目の番たる雌狼だ。
狩りに慣れた彼女はささやかな獲物であっても時に手痛い抵抗を見せることを知っていた。それ故、一切の抵抗を摘むべく最初の一噛みで仕留めんと飛びかかり……。
闇夜より飛び出した金色に輝く軌跡にぶつかって、空中で強烈に吹き飛ばされた。
土埃を巻き上げながら、二度三度と転がるも彼女はなんとか体勢を立て直す。折角の食事を邪魔しようとしてきた慮外者に向け、群れの皆と共に吠えかかろうとし……自身を吹き飛ばした存在の神々しさに目を奪われた。
藪から一切の気配を感じさせることなく飛び出してきた金色の光は、まばゆいばかりに美しい大狼の毛皮から発されるものであった。闇を払う光を帯びた毛皮は、夜空に輝く月のごとき色彩を帯び、思慮深く彼らを睥睨する目は真夏の空よりも尚透き通る碧。
堂々たる、明確に〝格〟が違う存在を前にして、群れは一瞬で闘争心を喪った。彼らはヒト種や人類の多くが知恵を得る課程で喪った本能を保っている。
その本能がささやくのだ。この大狼と戦うどころか、刃向かうことすらしてはならないと。
じりじりと相対しつつ下がる群狼から、大狼は決して目を離さなかった。そして、彼らが背を向けようと襲いかかることはせず、ただ去るに任せ、その背が決して戻ってこないと確信するまでぶれることなく見定め続けていた。
やがて、気配が確実に消えたことを認めると、大狼は振り返ってエリーゼと相対する。
何処までも碧い瞳に貫かれても、少女は脳の処理が追いついていないのか群狼達のように恐怖することはなかった。その雄大にして神々しいまでに美しい体躯を見上げて「きれい……」とつぶやきが零れるばかり。
あまりに存在の格が違いすぎるのだ。それを前にしては、怯えることも絶望することも最早意味がない。ちっぽけなヒトにできることなど、彼女のようにただ見たままを感じることだけなのであった。
まばゆいまでに光り輝く大狼は、月色の毛皮を緩やかにのたうたせ少女との間を詰めた。そして、剣のような牙が並ぶ口腔より舌を伸ばし、舌先で優しく涙を拭ってやったではないか。深い湖面のような〝碧〟を湛えた彼女の目から零れる感情の残滓を。
不思議と生物特有の生臭さも大量の唾液もまとわぬ舌の柔らかさに、少女の臨界を迎えつつあった緊張の糸がぷつんと切れ、あっという間に目の前が真っ暗になった。
しかして、どれほどの時間が経っただろうか。少女は奇妙な暖かさと、初めて嗅ぐ花のような甘い匂いに包まれて眠っていた。
目を開けば、繊細な色調の金が視界いっぱいに広がる。それは、あの大狼の毛皮であった。
「きゃっ!?」
大狼は丸まっていた。まるで気絶した彼女を守るようにして。いや、それは実際に守っていたのだろう。夜闇の暗さから、日が差さぬ森の寒さから、陰に潜むあらゆる悪意から。
少女が目覚めたのを認めると、大狼はのっそりと起き上がり彼女の体を解放した。冷たい夜気に小さな体が震え上がる。冷え切った夜の中でも暖かな毛皮から放り出された彼女は、世界のすべてから見放されたかのような心細さを味わった。
だが、大狼は去ることはせず、むしろ、身をかがめて少女を見つめているではないか。ひときわ地面に近づけた首へ乗れと言わんばかりに。
「たすけて……くれるの?」
おずおずと問いかける少女に対し、大狼は首肯する代わりに宝石のような碧い目を瞬かせた。
少女がおっかなびっくり跨がると、大狼は殆ど揺れを感じぬほど優美な動きで身をもたげた。一歩一歩を踏み出す歩調も優しく、父の膝に守られるようにして乗った馬とは比べものにならないほど良い心地であった。
揺るぎも迷いもない歩調で進む大狼の背で揺られることしばし。彼女は何度も求めた見慣れた道を進んでいることに気づいた。永遠に思える時間を彷徨って、もう二度と見つけられないと諦めた道。大狼の歩みは、わずか数分で彼女の冷たい永劫を踏破してみせる。
お家に帰れる! 涙で潤んでいた瞳が喜びに輝き、大狼の首を保持していた足に自然と力が加わった。
そうして、ついに彼女は帰り着く。普段ならとっくに皆寝ているはずの家には灯りが灯っており、家族がまだ起きていることが分かった。
「おうちだわ! 帰ってきた! 帰ってこられた!?」
大狼は首を下げることで喜びに打ち震える少女を立たせてやりつつ、そっと身を引いた。
彼女の声を聞いて、ドアが開く男が聞こえる。出てきたのは、先ほどまで山狩りをしていたのだろう。野良着のまま燃え尽きた松明を片手に持った父親だ。その後に泣きはらしていたのか顔を腫らした母親が続き、足が悪くなっていた祖母までもが信じられない速度で飛び出してくる。
「ああ、エリーゼ!」
「ああっ、神様! 感謝いたします!」
「え、エリーゼや! 無事なのかい!? 本当に、本当にお前なのかい!?」
駆け寄ってきた両親に抱きすくめられながら、少女は自分を連れ帰ってくれた大狼を紹介しようとした。しかし、振り向いた時、視界に移ったのは闇に煙るように溶ける優しい金色の残滓だけであった…………。
【Tips】三重帝国の広範囲に狼は生息するが、その多くは灰色と黒の体毛を持つ群狼である。
「ああ、それは送り狼だねぇ……」
「送り狼?」
両親に散々叱られ、山狩りを手伝ってくれた周囲の大人達からも散々に説教されて数日、ようやく落ち着いてきた少女は祖母にあの夜出会った大狼の話をした。今になって、あの大狼は何だったのかと不思議になったのだ。
狼が子犬に見えるくらい大きく、それでいて神々しい狼を彼女は知らなかった。そして、物知りな祖母ならば何か知っているかと思って問うてみたのだ。
やはり物知りな祖母は、その狼のことも知っていた。
「そうさ、送り狼と呼ばれている妖精だよ。この辺じゃずぅっと昔から語られている存在でねぇ……森で迷った子供や旅人、それに冒険者を助けてくれる、ありがたーい妖精なのさ」
「妖精なの? 狼なのに?」
「そうさ。その狼は妖精が連れてきてくれるからね。もう死んじまったお前のお爺さんも、四つの時に助けてもらったんだよ。その時は、黒色のかわいい女の子も一緒だったって言ってたっけねぇ」
きっとエリーゼが良い子だから、妖精が連れてきてくれたんだろうねぇ。そう微笑みながら祖母は少女の稲穂のような暗い金色の髪を撫でてやった。
「送り狼……お月様みたいな色で、とっても大きな狼だった」
「そうかいそうかい。しかし送り狼に助けて貰ったのなら、お礼をしなきゃねぇ……次の秋祭りの時は、森に氷菓子をお供えしようねぇ」
「氷菓子?」
「そうだよ。送り狼は氷菓子が好物なのさ」
狼なのに? と問う孫に祖母は笑って、きっと甘い物好きなのさと応えた。
「変なの」
そう思いながらも、少女は小遣いをため、森に氷菓子をお供えしようと堅く心に誓うのであった…………。
【Tips】送り狼、月光大狼とも。三重帝国南方で広く伝わる民話にして童話であり、近年においては実存の妖精種。主に荘園が広がる辺境の森を駆け巡り、子供や迷い人を家や街道に送り届けることで知られる。その毛並みは月のような輝きだと噂され、毛皮を求めて森に分け入った冒険者も一時期は多々あったが、誰一人帰ってこなかったことから今ではそれを狩ろうとする者は誰もいない…………。
その丘は不思議な丘だった。なだらかな丘の上では、稜線にかぶるような曖昧な月と太陽どちらも拝むことができる。そして、それはいつまでも眺めていたって暮れることはなく、永遠の薄暮を作っているのだ。
久遠の不定に彩られた優しい光の中、私は指定席となっている大木の根元に腰を落ち着けた。そして、日課の毛繕いを始める。
さて、私は一体どこで人生を間違えたのだろう?
最初の間違えは、やはり便利だろうと〝唇〟ではなく〝目〟を貰ってしまったことだろうか。
それから、私は色々と妖精から〝貰いすぎてしまった〟らしく、気がついたらこんな様になっていた。
薄暮の丘の妖精狼、それが今の私。もうどこかの荘で生まれた、ヒト種の小倅はどこにもおらず、妖精になり果てて何年生きたかも分からなくなった〝私〟が残るばかりだ。
妖精になって初めて分かったことだが、ヒト種だった頃の私が考える以上に妖精というのは面倒くさい存在だったらしい。
魂に刻まれた本能に逆らうことができず、ついつい抗えないで行動に移してしまう。
だからだろうか。森の中で子供が傷ついていたらほうっておけなくなったのは。
やり過ぎはダメ、と周囲を好き勝手に踊る同胞から窘められても私は止まれなかった。
冒険に来て迷った子供、イチゴを探しに来て帰り時を見失った子供、親から捨てられて死ぬまで彷徨うしかなくなった子供……そのどれも、どうしたって見捨てられず助けてしまう。
冒険者まで手を伸ばしたのは、憧れの残滓だろうか。反省する気はあるにはあるのだが、高位の妖精連中から叱られたって、やめられないんだよなぁ……ほんと。
「なに黄昏れてるのよ」
ぼぅっと丘で舞う同胞を眺めていると、ウルスラが腹に飛び込んできた。楽しそうに私の毛皮で戯れる褐色の姿を見ても、最早「野郎やってくれたな」という念もわいてこない。この様に落ちた頃は、結構追いかけっこをしたものだが、まぁ私のアホさも原因の一つだと悟った今では遠い昔のことのように感じる。
「なんでもないさ。少し昔を思い出していただけだ」
「あら、そう? 懐かしむほどいい昔だった? もう、その姿の方が堂に入ってるわよ?」
そりゃあ、そうだろうさ。私がこうなって、もう何百年になるのやら。
その間、三重帝国はあまり変わらなかった。いくつかの戦乱や内乱はあったが、帝国はすべて乗り越えて、版図を増やしながら厳然として存在し続けている。ヒトの営みはめまぐるしく巡れども、大きく姿を変えることもない。見慣れぬ農具や新しい術式が編み出されてはいるようだが、結局人間は何処までも人間だった。
良い意味でも、悪い意味でも。
変わらない人間の中から置き去りにされて、私はヒト種の子供から単なる〝私〟に成り果てた。もう、ヒトとしてそれを惜しむ感覚も分からない。おいていってしまった父母や幼なじみを思い出しても、少しさみしいなと思う程度で済んでしまう。
ああ、今となっては、彼等の名前さえも思い出せない。脳裏に残るのは、その髪の色、優しい声音、暖かな掌。今も耳を飾る、桜色の飾りだけ。
だって、仕方がないじゃないか。私はもう、私がどこの誰だったのかさえ覚えていないのだから。
寂寥に鼻をならせば、薄暮の丘を抜ける風に吹かれて私の耳飾りがちりんと鳴いた。
「あら、また来たのね、あの子」
この耳飾りが鳴るときは、決まって来客がある。たしか私にとってとても大事だったはずの誰かが、私と似た月色の光をまとってやってくるのだ。そして、私から〝私〟を剥ぎ取ろうとして、とてもおっかない剣を振り上げてくるのである。
とてもとてもおっかない、それなのに酷く懐かしい気がする剣を。
今日は一仕事したこともあって、彼女の相手をしたくなかった。そこまでの余裕がないのもあるが、どうしてかあの目を見ていると、心がざわざわし過ぎるのだ。そうなるととても怖くて、銀色だったり緑や蒼だったりするものをズタボロにしたくてたまらなくなるから困る。
いや、したのだっけ? し損ねたのだっけ? やっぱりしたのだったか?
どれだけ考えても分からなかったので、私は懐かしい誰かから逃げるために身を躍らせた。
送り狼は困った誰かを助ける妖精。その足は空間を超えて帰郷が能わなくなってしまった者の絶望を踏破する。そして、絶望した誰かのところに私を届けてくれる。
「うおっ!? なっ、なんだ!? 畜生! 折角異世界に来たってのにこんなのばっかりかよ!?」
心地よい月光を浴びながら躍り出たのは、何処ともしれぬ深い森。私はそこで、なぜだか郷愁の念を駆る、黒い装束をまとった男と出会った…………。
【Tips】どこかの誰かだった男は、どうあっても目的を果たすためにいる。菩薩が彼をこの世界に放り込んだ意味は、彼がどれだけ変質し、道を踏み外しても最後の最後で過たない…………。
以前にリクエストがあった目を貰い、ウルスラのお誘いに乗ってしまった世界軸。
某探索者ゲー風に言うならNPC化してしまったエンディングですかね。
ネームドキャラクターとして「これは何をどうすれば殺せるのだ」とマンチどもに頭をひねらせる側になってしまいました。
繁忙期どまんなというのもあって、中々に代休が取れずに作業が難航しております。
今しばし寛大な気持ちでお待ち抱ければと思います。申し訳ありません。