少年期 一二才の盛夏
丁稚の朝は早い。
何かのドキュメンタリーみたいな出だしだが、実際早い。農家のスタイルに合わせた脳内時計に従って起きれば、快適な寝床の外は未だ薄暗かった。
アグリッピナ氏が手配してくれた家は、こぢんまりとした二階建てで、前の住人の荷物がそのままだったせいで片付けが手間でも不便はなかった。食器とかを揃えると金がかかるから、<清払>の確かな洗浄力であれば不安も少ないので遠慮なく使わせて貰っている。
まぁ、何よりも、前の家人を追い出した存在が友好的に振る舞ってくれているから、下手すると実家にいた頃より快適なのだ。
寝床から起き抜けると、何故かそこには朝の着替えと顔を洗う水桶が用意されていた。ご丁寧なことにタオルも添えて。
「ありがとう、お嬢さん」
私は姿が見えない彼女に礼を言い、ありがたく使わせて貰う。そう、この家には家事妖精が憑いているのだ。
家事妖精は少女の姿をした妖精とも精霊とも、力が弱い善性の幽霊だとも言われている。彼女たちは総じて家に憑き、家人の代わりに家事をする、或いは悪戯をするささやかな同居人だ。勤勉な家人には手助けを、気にくわない家人は怖がらせて追い出すこともある実に妖精らしい存在。
最初、鍵を開けたときにちらっと見えた灰色の寡婦装束を纏った彼女は、きっと最初からここに憑いていたのだろう。そして、残された統一感のない荷物を見るに、何人も気に入らない家人を追い出していたと思われる。
この時代、一財産である寝台や食器さえ捨てさせる勢いで、魔導区に住まう魔導師や魔法使いを追い出すとは何という傑物だろうか。
最初は「今度は事故物件掴ましやがった!?」と憤ったものだが、幸いにも私は嫌われなかったらしく、こうやって毎日少しの牛乳を暖炉に供えるだけで甲斐甲斐しく働いて貰っているわけである。
トラブルの種にしかならなかった金髪碧眼もたまには役に立つな。
体重移動に気を付けねば酷く軋む階段を無音で降りれば、ささやかなキッチンからは竈の燻る臭いが漂ってきた。みれば、足が一本もげたせいで――近いうちに直そう――傾いたテーブルに朝食の用意が調えられている。
薄く切ったライ麦パンは見慣れた物だが、目玉焼きと白インゲン豆の煮物はこの辺りだと珍しいメニューだ。帝国人とは顔付きが異なり、頬が深い北方離島圏の面々が酒房で作っている物とよく似ていた。
香り高いタンポポの根を焙煎した黒茶と一緒に楽しみ、買ってきて食料棚に追加しておくだけで食事が出てくるありがたさを噛み締める。大事なのはきちんと美味しいと感想を告げること。好意でしたことだって、相手が当然の様に受け取り始めたら気分が悪いことこの上ないからな。
私はアグリッピナ氏から聞かされた妖精諸般の出来事から、彼女たちとの関係と付き合いを誤ることだけは絶対にしないよう、細心の注意を払い続けていた。
「灰の乙女の深い好意と、美味しい朝食に感謝を」
食べた命への感謝の後、こっそりと家事妖精への感謝を添えておく。彼女の由縁が如何なるものか知りもしないが、好意には好意で返すのが基本だから。やり過ぎると薄暮の丘でフォークダンスに連行だから、限度は測らねばならないけれども。
朝食を胃にねじ込むと、私は魔導院へと向かった。走って一〇分ほどの道行きは、朝のウォーミングアップには丁度良い。
初夏の心地良い空気と、早く顔を出す太陽の朗らかな光を浴びながら走れば、町の辻を歩き回る聴講生たちの姿が見えた。皆、揃って窓に向かって何か投げたり、魔法をかけている所を見るに目覚ましのバイトをしているのだろう。ノッカーとも呼ばれる彼等は、目覚まし時計がないこの時代、寝穢い町人達に規則正しい朝を伝える重要な役目を担っているのだ。
窓が叩かれる小気味の良い音を聞きながら、魔導院に辿り着く。朝から気合いの入った聴講生や、暇そうに散歩に出かける教授の横を通り過ぎ厩に向かった。
そこには魔導師達の騎獣が飼われており、職員として雇用された馬丁達が朝から忙しく駆け回っている。因みに彼等は魔法使いでもなんでもない普通の人間だから、危険な魔獣――魔種と同じ要素を持つ原生魔法動物――はここに飼われていない。まぁ、見事な一角馬が繋がれているので、その棲み分けも大雑把なのだが。
どこの教授に飼われているのか知らないが、あの野郎私に喧嘩を売ってくるのだ。近く通る度に髪を噛んでこようとしやがるとは実に太い野郎である。いつか飼い主が分かったら文句言ってやる。
馴染んできた馬丁に混じって、私はアグリッピナ氏の馬車を牽いていた二頭の黒馬の世話をした。
実は彼等、ちゃんとした軍馬品種の牡馬で、アグリッピナ氏が魔法で出した物ではない。曰く、金で買える物なら金で買った方が手間がない、とのことである。普段死ぬほど下らないことにえげつないほど高位の魔法を使うヤツがどの口で、とは思っても言ってはいけないのだろう。
飼い葉と水を大量に運び込み、馬房の中に<清払>の魔法をかけて敷き藁を入れ替える。そして、私では背中に届かないほど立派な体躯を自分の手でブラッシングしてやる。こうすると大変ご機嫌になってくれるので、私は“手”を踏み台としてだけ使い、丁寧に扱ってやることにしていた。
そりゃあ三ヶ月も旅をすれば愛着も湧くさ。冒険の旅には馬も付きものだし、私は実家で輓馬のホルターの世話もしていたから馬とはなじみ深いからな。
私は彼等に密かに名前を付けていた。というのも、アグリッピナ氏がそういうのにとんと無頓着で“馬”としか呼ばないから、流石に可哀想になったのである。
血統的に父母を同じにするということで、双子の英雄に肖って私は彼等をカストルとポリュデウケスと名付けた。ちょっと不穏かもしれないが、ずっと一緒という意味では悪くなかろうと思うし、その勇ましい名前を二頭はきちんと受け容れ、呼んだら機嫌良さそうに返事してくれるのでよしとしよう。
「あー、またか……」
首と鬣を梳ってやろうとした所、鬣が見事すぎる細かな三つ編みの群れと化しているのが分かった。というのも、近所の妖精共が二頭を“私の馬”と認識したのか、悪戯のターゲットに選び始めたのだ。こうなると見た目は見事なのだが、解いてやるのが面倒で面倒で仕方ないのである。多分、手を総動員しても一頭あたり半時間はとられるな。
「お前も誇らしそうにしてないで、抵抗してくれよ」
ま、当の本人は誇らしそうに「おしゃれだろ?」とでも言いたげな顔をしているので、強く出る気はないのだがね……。私も手の複雑な使用で熟練度が稼げると思って自分を納得させるさ。
カストルとポリュデウケスの世話を終え、ついでに他の馬房と馬油だの馬糞だので汚れた馬丁達に<清払>をかけて回り小遣い稼ぎをする。一人当たり二アスで請け負っているが、これでいて馬鹿にならない稼ぎだし熟練度も貯まれば、関係各所での立場が良くなると一石三鳥だ。
何処にいたって名誉点を稼いで損することはないしね。ただし潜入任務を除くが。
奢ってもらった冷えた水で一息つけ、エレベーターでアグリッピナ氏の工房へ。ドアを開ければ、驚異的な速さで反応したエリザが胸に突っ込んで来た。
「兄様!」
「こらこら、危ないから飛びながら抱きついちゃ駄目だと言っただろう?」
たった二週間で滑舌が格段に良くなったエリザが、首に絡みつくように宙を舞いながら飛びついてくるのを受け止める。結構な勢いなので、しっかり床を踏みしめ“手”で体の各所を押さえる必要があった。
「だって、だって……」
「仕方ない甘えただな、まったく」
困ったようなフリをしつつうれしさ全開で妹を構うも、私と離れてからエリザの学習速度は驚くほど速まったとマスターは嬉しそうに仰っていた。
多少無理すれば二人詰められなくもない弟子の部屋に私を住まわせず、態々家賃を払ってまで下町に詰め込んだ理由がそれだろう。
エリザは妹だ。そして、半妖精、つまり生物としての“相”が生きている概念や魔法に等しい物。それ故、概念として“妹”と“娘”という立場を何より大事にしているのだと分かる。
彼女は心の深い所で願っているのだろう。可愛い妹でありたいと、家族の皆から愛されるお姫様でいたいと。それはヒトの営みに憧れ、その胎に宿る妖精として自然な思考のはず。
だから彼女は、私がずっと側にいたが故に学びが遅かったのだ。未熟で、弱くて、頼りない方が庇護の対象として愛して貰えるから。妹としては、その方が可愛らしいから。そうあり続ける為、妖精としての何処かが知性の発達を引っ張っていたのだ。
ただ、田舎の荘で小さなヒト種の子供として生きるのならばよいが、魔法の膨大な才能を秘めた人類として、その生き方ではいけなかったのだ。なればこそ、我々は親元から離れて此処にいる。
そして、マスターはそれを見抜いていたに違いない。
私から引き離され、また一緒に暮らしたいなら一人前にならねばならない、そう発破をかけた後は凄かったとマスターは語る。それこそ、今まで何度やっても覚えきれなかったマナー本を一日で諳記し、達者にスプーンを操ってスープを飲めるようになるほどの成長速度だそうだ。夜中にぐずることもなくなり、一人で手洗いにもいけるようになったそうな。
今や彼女は宮廷語を私的に解釈すると<手習>レベルで習得しつつあった。そう遠からぬ内に、正式に聴講生として魔導院の講義に出るようになるだろうとマスターは評価する。
妹が自立の一歩を踏み出したのが嬉しいような、寂しいような。それでも、まだ懐いてくれていることもあって、ついつい構い過ぎるのが私の悪い癖だな。この可愛がりが彼女の足を引っ張っていたという事実を知れば、止めるべきだと分かっているのに。
しばしエリザと戯れつつ、何をお勉強したのかな? と聞くことで復習を促してやる。先週は辿々しかった思い出しつつの話も、たった一週間で“相手が分かりやすいよう”頭の中で整理して話せるようになったのだから、やっぱり家の子は天才だったのでは?
「それでね、兄様。初代皇帝様のお話がすごかったの。何とね、皇帝様は最初、小国の王弟様の末息子だったんだって」
彼女が語る内容からして、昨日は歴史の講義をして貰ったようだ。魔導師にはそこまで必要ない知識と思われがちだが、魔法は歴史に求められて発展してきた経緯がある。何故にこの魔法が作られ、どう求められて改良されたかの“道筋”が分からなければ、将来に繋がる魔導師にはなれないとして、魔導院では歴史教育にも力を入れているとか。
そりゃまぁ、現場を見てきたヤツがたまにいる、となれば力も入れたくなるよな……。
「ふわ……おふぁよ……」
ボリボリ頭を掻きながら寝床から這いだして来たマスターを見ても、その一五〇年という重みは全く感じられなかったが。あと、下着だけで寝床から出てくるの止めて貰えませんかね? 人間性がドブみたいだと分かっていても、目に悪いんですよ貴女。
「あふ……ねぇ、エーリヒ、眼鏡しらない……?」
「どうせまた本の中に埋もれさせたんでしょう。今探すのでお待ちください。ほら、エリザ、兄様はお仕事だからちょっと離れておくれ」
えー? と復習を遮られたことに文句を言いながら絡み続ける妹から、故郷の幼なじみを思い出しつつお勤めを片付ける。まず“手”の二本を使ってマスター愛飲のお茶を煎れ、もう二本を倉庫の方へ伸ばして眼鏡を手探りで探索、最後の二本で前日の内に用意しておいた着替えを用意。そして、残った自前の手でカウチに寝そべるマスターの髪を丁寧に整えた。
全て<多重併存思考>にアップグレードされた<多重思考>のおかげである。……うん、相変わらず物欲に弱い私を許してくれ、将来の私。だって、<見えざる手>が六本に増えた所で、普通のマルチタスクだと盛大に持て余しちゃったんだもん……。
かなりお高い買い物だったが、丁稚としての効率が上がったので文句はない。何より溢れる応用性の高さにオラわくわくしてきたぞ。これに文句を言う権利があるのは、将来の私だけだ。なにせ、仕事している今の私は楽でいいわと感謝しているのだから。
身支度を調えて自堕落な美人からきちんとした美人にアップグレードされたマスターは、優雅にお茶を楽しんでからエリザの講義に入った。今日は昨日の続き、と聞かされてテンションを上げる妹の天使なことよ。
お邪魔にならぬよう、お茶だけ用意して私は部屋を辞した。
丁稚として働きながら、思っていたよりも日々は充実している…………。
【Tips】帝都には魔導院の工房に引きこもる、もとい忙しい研究者や教授をターゲットとしたデリバリーの料理店があり、これで三食済ませる者も多いが、贅をこらした高級志向の店も存在する。尚、アグリッピナはそれのヘビーユーザーである。
助走回です。帝都での丁稚としての生活を掘り下げつつ、魔法の話をしていこうかと。
単品で帝都ガイドブックとして仕上げてもアレですからね、話に絡めて楽しく書けたらと思っております。
次回は本日2019/2/17の19:00を予定しております。




