青年期 二一歳の冬 五四
とてもとても大きな溜息であったが、アグリッピナ師のそれに落胆は滲んでいなかった。
全く以て意外なことに、私は怒られこそしたが、彼女を失望はさせなかったようだ。
「まぁ、想定はしていたのよね。この杖を持っている者がいたとしたら、人間であろうはずがなかろうと。人が人のままで持てるはずがないのでしょうねと」
「ええ、到底そう呼べる有様ではありませんでしたが……」
「知っている? 人は持ち物で変わる生物なのよ。鎧を纏ったアナタが冒険者であるように、さて従僕服を着ていた時と同じように振る舞っていたかしら」
極論過ぎねぇかと思わないでもなかったが、矯めつ眇めつ調べられている弄月の杖、その本体部分を眺めていたアグリッピナ氏は、その理屈で納得しているようだった。
「なるほど、杖の芯材は月桂樹か……考えたわね」
「その真珠色の杖が月桂樹!? なにをどうすれば、そんな有様に……」
「さぁ、そこは解析してみないと何とも」
しかし、魔導の能は本物だったようねとアグリッピナ氏は満足そうに仰った。
月桂樹は極東においては正に〝月の木〟と呼ばれており、ライン三重帝国の神群においても陽導神からの誘惑を拒むべく、自ら木と成り果てた夜陰神信徒たる樹人が末裔だという。
月の欠片を戴くには最良の素材と呼んでいいやも知れないが、何をどう加工したとすれば、ここまで悍ましく変質するのか。
艶があるというよりも、滑っているかのようだと表現するのが相応しい真珠色の表面は、一体何で表面加工をすれば、斯様な悍ましき色合いになるのか想像もできない。
「これは調べ甲斐がありそうね。さて、お偉方をどうやって騙くらか……ご納得いく書類を仕立てようかしら」
「お頼み申し上げますので、私の前で堂々と悪巧みしないでいただけますかね……」
「こんなもの、普通なら禁書庫行き待ったなしでしょ」
いやほんと、納得しかない。
月の欠片は間違いなく聖遺物として、コトが終わったあと夜陰神聖堂に収蔵されるだろうが、杖部分の処分は紛糾するだろう。
それこそ私が魔導院の偉い人であったならば、政治的な軋轢を生みたくないので、処分して欲しい派閥に加わって滅却すべしと手を上げるだろう。
なにせ、魔導にて奇跡を歪め、この世の真理に至ろうとするなど禁忌も禁忌。発想の走り書き一つ見つかっただけで、教授位だろうが弾劾されたって文句は言えぬ。
「……個人的には世の平穏のため、破壊していただきたいですね。それが物理的に不可能であったとしても、二度との陽の芽が出ないような大深度に是非とも封印していただきたいところなのですが。あるいは聖堂にお祓いをお願いするとか」
私がこんな面白い題材を、みすみす手放すと思う? そう微笑まれると、もう何も言えなかった。
恐らく、公文書には、こう記載されるのであろう。
杖の核たる月の欠片を確保するにあたって、杖本体は力を喪って喪失と。
このお人だから扱いを間違って、筆舌に尽くしがたい災害が帝都で巻き起こり、真珠色のナメクジに呑み込まれるなんてことは起こるまいが、それでも不安だ。というか、提出する相手が彼女でなかったら、私はその場で更に五等分はした上で、焼却処分していただろう。
参るよなぁ、相手が信頼できる人物であるばっかりに、こちらも期待を損ないたくないと望んだとおりに動いちゃうんだからさ……。
「とりあえず、本当は解体までやりたかったけど、術式もバッサリいかれちゃったし、これは暇な時に触る用ね」
「申し開きようもございません……」
「だから、それはもういいわよ。それより驚いたのは、ちょっと目を離した間にアナタがそこまで至っていたことね」
指を鳴らして杖を異相空間にしまったアグリッピナ氏は、豪奢な椅子の脇息に頬杖を突いて珍しそうに私を眺めてきた。
上から下まで、しげしげと眺めたあと、少しだけ俯いて片眼鏡を介さずに薄柳色の目でこちらを見てくる。あのじぃっと眺めていると、深い穴に落ちて行ってしまうような不安を抱いてしまう瞳で。
体が反射的に剣を求めてしまう。あの目は、昔から分かっていたが良くない。この世に形を結んでいること自体が不条理としか言いようがないと、魔導の知識が深まるにつれて分かってきた。
だが、理性で本能を律し、跪いた姿勢を崩さない。一山幾らの冒険者、無礼討ちにするなんて簡単だ。
彼女はその辺の領分を弁えているし、情なんてもので行きすぎた点を過たない。
ちょっとした軽口程度ならまだしも、脅えて剣に手をかけた日には、私の首は……いや、この世に存在していた痕跡さえ遺せるか分からんな。
「中々仕上がってるじゃない。うん、まぁ悪くないわ」
「お褒めにあずかり恐悦に存じます」
「アナタ、どう思う? もし私が一切の防御を擲ったら、どう? このそっ首、刎ねられそうかしら」
またこの女は何を言い出すのだと、無意識に目を眇めてしまった。
「お戯れを」
「そう、戯れよ。何と言うかアレね、化身に喧嘩売るから手を貸してくれと言うのだから、さてどの程度に至ったかと思ったけれど、ここまで来ているとは思ってなかったのよ」
「ここまで、とは?」
「完全な神格には無理でも、化身に下げ渡された下位神格くらいなら砕けそうねと」
言われ、私は理性的選択によって口を噤んだ。
実際、雌熊大神の化身を祓ったように、やろうと思えば私はやれる領域にある。
この目で直接見て見なければ分からないが、朝日の先駈けアールヴァクにも毛筋ほどの傷を立てられないとまでは謙遜するまい。
「ですが、流石に第二世代の化身です。勝負にはならないかと。不意討ちして軽い傷一つ負わせるのが限界かと存じます」
「そう? 手練手管、使える札を使い倒せば……薄い薄い一線くらいはありそうよ」
「些か、私を過大に評価しすぎかと」
「妥当な物の見方をできなければ、貴種なんてやってられないわよ」
それにしてもと、彼女は面白い物を見るように私を品定めする。
本当にヒト種は面白いと。
意図を聞いてみれば、彼女は深紅の爪紅を塗った指を魔導照明に翳しながら、淡々と振り返るように語った。
最初、私と彼女が出会った時、この身は魔法も使えない田舎の四子に過ぎなかった。
それが今や冒険者として氏族を束ね、僅かにだが〈空間遷移〉にさえ指を掛けている。
「私だって安全に空間を渡ったり、攻撃に転用できるようになったのは、結構歳を重ねてからだったわ。えーと、いくつくらいだったかしら?」
「かしら、と聞かれましても」
「それが高々、一〇年そこらで不完全とはいえども形にするとはね。定命は尺が早くて見ていて面白いけれども、やっぱりヒト種は面白くて良いわね。正に賢愚にして可能性の種族ってだけあるわ」
「尺て……人の人生を歌劇か何かと言わんでくださいよ」
アグリッピナ氏は楚々と扇子で口を隠しながら、人生が劇以外の何だというのだと笑った。
誰にでも役割があり、それは配役とも言える。その中で淡々と歯車として稼働するか、主機として全てを動かすか。立場の違いはあれど、それは劇の端役と主役の違いと同じようなものだと仰る。
「エーリヒ、アナタはその中で、間違いなく事態を面白おかしく転がすために配置されているわ。まるで、輪転神や試練神といった、この世の作劇家共が狙ったようにね」
「その二柱の名前は、あまり聞きたくないものですがね」
その上で、間違いなくアグリッピナ氏が観劇している数多の劇の中で、私は主役と言っても良いのかもしれない。
何にしたところで、私だってここまで来たら、取るに足らない農家の小倅とは言わないさ。背負った命、刈り取った命、そして積み上げてきた実績にそれを吐き捨てることは侮辱に他ならないからだ。
ただ、面白半分で揶揄われると思うことだってある訳でして……。
「さてさて、舞台は整ったわね。私の席は勿論一等席でしょうね?」
「え? お帰りになられるのでは?」
「世紀単位で引き籠もっていた化身の恋愛劇よ? これを見逃せるわけないでしょ。況してやアナタが大きな役を貰った劇ともあればね」
くすくす声を溢す彼女は、椅子の脇に置いてあった小さな卓を指で叩いた。
これは酒を持ってこいという合図だな。
面白くて仕方がないのだから、これを酒のアテに一杯やらないと勿体ないとでも思われたのだろう。
私は内心で小さく溜息を吐きながら、酒を並べている棚に足を向けた。
彼女が愉快さ故に酒を欲している時は、白よりも赤の気分であらせられる。酒のアテがある時は渋く重厚感の強い銘柄がお好みではあるが、人の行き方を肴にする最悪の呑み方をなさる時は、軽妙で抜けるような味わいを好まれることは忘れようもない。
まぁ、辞めて結構経っているとはいえ、長く仕えた主人だ。それくらいの趣味は脳髄に染み込ませていなければ、従僕なんてやってられんよ。
「また軍艦なのに矢鱈と充実させて……」
「名目上は私の船よ。文句は言わせないわ」
それに、良い働きをした船員に下賜する目的もあるのだからと、尤もらしいことを仰ってはいるが、長い付き合いなんだから知らない訳ないでしょ。貴女が絶対に安酒を飲むどころか、持ち物に加えることさえ嫌がることくらい。
「王国のロワール流域産、ルージュ・デュ・ロワで如何でしょう? お好きでしたよね」
「ええ、結構よ。それ、親戚付き合いで送ってきた新酒なのよね」
ニヤニヤと笑う元主人に薄い薄い玻璃の酒杯を恭しく寄越しながら、見えざる手で栓を抜いた。滓の一つ落とすことなく、瓶の底に溜まった澱を揺らすこともなく引き抜いて、天然コルク樫に染み込んだ香りをたしかめる。
新鮮で、鮮烈な透明感ある絞りたての葡萄を思わせる香り。かつて渋みと重さがある葡萄酒は品がないとされていた――技術的に未熟で、美味しく作るのが難しかった時代だ――時に隆盛したセーヌ王国の旧い歴史を持つ修道院の逸品で、なるほどたしかに良い酒だ。今でも日常酒として王室が愛飲するのも分かる、軽い飲み口が香りだけで理解できた。
給仕するため瓶を正しく持ち、左手に専用の布巾を掛ける。
この辺りの礼儀は、叩き込まれていたこともあって体に染みついている。窪んだ瓶の底に指を差し込み、指で掬うように支えて附票がよく見えるように持つのは、体温を酒に移さないためだ。また、相手に間違った葡萄酒を出していないと確認させる意味もあるが、帝国では附票を含めた意匠が美しいとされているから、それを見せるように持つのは礼儀の一つ。
机上の酒杯に辛うじて触れぬほど瓶口を近づけ、あくまで無音で、流麗に、気泡を立てぬよう静かに薄い赤の葡萄酒を注ぎ込んだ。口酸っぱく教えられたっけな、泡が立つと味と香りが変わるから、絶対に気を付けろって。
三分の一程注いでから、瓶を軽く捻って雫が垂れぬよう気を付けて口を持ち上げた。
毒味はしない。彼女が張り巡らせている恒常式の方が正確だし、私は葡萄酒管理者ではないので専用の薄皿なんて持ってないからな。それに、彼女が自分の酒棚に毒酒を潜り込む余地など残しているはずもなし。
静かに瓶の口を拭って、彼女の後ろへ静かに侍る。従僕として仕えていた時の所作に錆び付いていないことを喜びつつも、鎧姿でこれをやるのは、何と言うか変な絵面だなと思った。
「ご苦労、従僕」
「冒険者にございます、魔導宮中伯閣下」
くいっと一口含んだ彼女は、直ぐに嚥下せず舌の上で踊らせて味をたしかめているようだ。そして、納得したように呑み込むと、私に今期の物を二樽ほど仕入れるように命ずる。
「ですから、冒険者ですよ私は。態と忘れたように振る舞うのはおやめください」
「いやね、手元から離した方が面白いかと思ったけれど、中々どうして別の可能性も見えてきて、今になって惜しくなってきたのよ」
この私が惜しむなんて滅多にないわよ? 悪戯っぽく笑う彼女に、さて私はどう答えるのが無難なんでしょうね。
とりあえず、恐悦ですと頭を下げておいた…………。
11巻下! 一年ぶりの発売までカウントダウン10日!!
続刊で好き勝t……色々できるか、そもそも出せるかの瀬戸際です!
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