青年期 二一歳の冬 五〇
自称、切り捨てられた正気の残り香が言う〝人が人のままで帰って来られる領域〟から踏み出した我々を出迎えたのは、壮大な飾り硝子が四方を囲む円筒形の空間であった。
「……おかしい。階段はちょっとしか登っていないのに、何で来た方面も透けてるんだ」
「今更?」
ジークフリートに正気であることを笑われたが、結構気になるじゃない。外見こういう建物だったはずなのに間取りどうなってんだよとか。
「しかも、四方から光が入ってきているよエーリヒ」
ミカが言う通り、色鮮やかな飾り硝子に包まれた空間には四方から光が入ってきている。それも、月の光だ。
「この意匠、全て月ですわね」
「月の満ち欠けを象っているんでしょうか」
見回せば、壮麗で美麗な聖堂にでも填まっているのが似合いのガラス細工は、全て月齢を模した物であった。入り口正面に満月があり、背後には黒い月、つまり新月がある。
ぐるりと一回転すると、丁度月齢が一巡するような造りは、よほど創造者が月に魅せられていたであろうことを窺わせた。
「でもこれで行き止まりですか? あの正気さんの言っていた物は何も……」
「待って、セス。これ、大きいけどボタンだ」
周りを見回しながら、心の中の小学五年生が突き動かすがままにあっちやこっちを見て回っていたツェツィーリア嬢の肩をミカが掴んで止めた。
何事かと覗き込めば、あと一歩でセス嬢が踏み抜いていたであろう場所は一段高く盛り上がっており、踏めば如何にも起動しそうな感じになっている。
「……ああ、なるほど、この空間自体が巨大な昇降機か」
「凝り過ぎだろ……」
手を打って納得していると、この仰々しさに呆れたのかジークフリートが溜息を吐いた。
まぁ、彼は分かりやすい方が好きだからな。絵一枚から色々な考察ができそうな要素が無数に散りばめられた迷宮を見たとしても、良いからさっさとラスボスを殴らせろと言ってしまう気質だ。そりゃ面倒にもなってくるか。
「よし、じゃあさっさと昇ろうぜ。ここは陰気くさくてたまんねぇよ。殴って奪って終わりにしてぇ」
「おっと、みんな、その前に貰った眼鏡をかけよう」
じゃあ私が踏みます! と人間が優に二人から三人は乗れそうなボタンに飛び乗ろうとしているセス嬢をおさえて、貰った物を装備しようと私は皆に呼びかけた。
改めて自称正気氏から貰った箱を開けると、私の眼鏡は黒縁でホッソリとした地味な造りの物だった。薄い形状は兜の下にかけても邪魔にならないように設計されているのが有り難い。
「あの方から貰った物をかけるのって、結構抵抗ありますわねぇ」
マルギットが取りだした眼鏡は、可愛らしい丸眼鏡だった。しかも彼女が好きそうな宝石飾りの鎖が備わっており、耳に引っ掛けることで激しく動いても落ちるのを防ぐ構造になっている。
「全員形が違うんだね」
ミカの眼鏡は、下方にだけ骨格のある洒落たもので、透鏡が納まっていないこともあって頼りなさがあるが、それ以上に彼の知性を引き立たせる。正にデキる学者様といった風情で似合っていた。
「私、眼鏡なんて初めてです!」
全く抵抗なく眼鏡をかけたセス嬢の顔にあるのは、縁が太い黒縁眼鏡。何と言うか、委員長という肩書きが似合いそうな実に真面目そうな眼鏡だった。
「そういえば、お母様が書き物の時に使ってましたね。伝来の眼鏡を使わないと読めない墨で手記を書いてらしたので」
続いてカーヤ嬢がかけた眼鏡は丸みのある眼鏡。たしか前世ではウェリントン型と呼ばれていた形状で、下方が広い楕円形になったそれは知的な彼女に似合っていた。それも、磨き上げた飴色の木製というのが尚のこと雰囲気と意匠に似合っており、無意味なほどに考えて寄越したのだなと窺える。
「……なぁ、おい、流石の俺でも喧嘩売られているの分かるぞコレ」
「って、どうしたんだいジークフリー……ぶふっ」
私は名前を最後まで呼ぶことができなかった。
何故なら、怒って震えている戦友の手に握られているのが〝鼻眼鏡〟だったからだ。
ずり落ちて鼻に引っかかるようにかけている眼鏡ではなく、文字通り飾りの鼻が付いている、身に付けるだけで馬鹿であることを強調してくれる例のアレだ。
「ちょっと戻ってぶん殴ってやろうかアイツ……」
「おっ、おちつ……ぶふっ、ごめん、ちょっと待って」
「テメェからどつき倒すぞエーリヒ!!」
怒りに合わせて彼が眼鏡を握り込むと、鼻はあっさり落ちた。どうやら洒落のつもりだったようで、流石にそのまま戦わせようというつもりはなかったらしい。
しかし、大袈裟なまでに大きい四角型の眼鏡はジークフリートには、それだけでちょっと笑えるくらい似合っていなくて、また吹き出さないようにするのが大変だった。
くそ、こういう時、悪友って一人だけ矛先が向くから損だよな。ミカとセス嬢だってクスクス笑っているし、顔を逸らしているカーヤ嬢だって笑いを噛み殺し切れてないのが見えているぞ。マルギットも面覆いの下でニヤついているのがバレバレだ。
だのに殴られそうになっているのは私だけなんだからさ。
「よーし、落ち着いた」
「お前、ホント俺にも限度ってもんがあるの忘れんなよ」
私が寄越した訳じゃないんだから、怒りをこっちに向けないでくれ。
しかし、あの自称正気氏、本当に各員に似合った眼鏡を用意できたのは何故なんだろうな。顔を見てパッと映えそうなのを作るならまだしも、ジークフリートがお笑い担当であることを一発で見抜くのは中々できまいに。
いやでも、決戦の前に適度に力を抜くことができてよかった。ガチガチで挑んでは、無駄な力みが出るからね。
「よし、行くか」
「じゃあ、踏みます!」
待ってましたとばかりにツェツィーリアがボタンの上に飛び乗ると、ガコンと心地好い音を立てて沈み込み、そしてややあって鎖が巻き上がる重い音が響いた。
ゆっくりと上昇する昇降機。しかも、ただ昇っているのではなくゆるやかに回転しているようで目の前を月の満ち欠けがゆっくりと巡って行くではないか。
本当に凝った演出だ。これがゲームであればロード時間を稼ぐための演出だろうと思うところなのだが、どうにも魔導的な、そして神聖な意味もあるように感じる。
「一回転……」
同じことを感じたらしいミカとセス嬢は回転の回数を数えている。
「長ーな、どんだけ昇るんだよ」
一方でそんなことに興味がないジークフリートは槍にもたれ掛かって、早く終われとばかりに上を眺めている。また、開けた所が落ち着かないマルギットは私の影に隠れながら、弩弓の装填を確かめていた。
たしかに非常に長く、もう黒茶でも煎れて一服してしまおうかと言いたくなるほど回転と上昇が続き、やがてその回数が一二回を数えた時、昇降機は重々しい音を立てて止まった。
「やっぱり一二回」
「ですね……」
「年月の流れを意味しているのか」
予測できていたことだが、昇降機がゆるゆる回転した回数は一二回。今では廃れた太陰暦の一年と同じ数。一二月を持って一年とするのは太陽暦でも同じだが、ただ単に同じであるだけではなさそうだ。
「一周するのにきっかり二九五秒ちょっと。これは間違いなく、この昇降機自体が何らかの魔導具だね」
「数えてたのかい?」
「僕は造成魔導師だよ? こういうのは気になる気質なんだ」
私は回転まで数えていても、そこまで気が回らなかった。なるほど、回転の時間が公転周期を意味しているとなると、益々意味深長だ。
そう、この昇降機を起動させること自体が、何らかの鍵を開けているような……。
「ねぇ、何か聞こえてきませんこと?」
「ん?」
警戒して耳をそばだてていたマルギットが懸念に眉を潜めて言った。
私達は息を殺してそれぞれ音に集中すると、たしかに音がする。
音楽の音色だ。鼓笛、横笛と太鼓が奏でる旋律は一時として調和せず、狂った音を重ねて満月を描く飾り硝子の下に空いた虚の向こうから響いてくる。
変調が細やかに繰り返されすぎて、聞いているだけで脳が変になりそうな音楽とも呼べない音の羅列は、されど何を意味しているのかが不思議と理解できた。
これは子守歌だ。狂ってねじ曲がった、この狂気に足をどっぷり漬けた物だけが喜び眠りに誘われる歌。
「……行こう。マルギット、団体で動いた方が良さそうだ」
「……そうですわね。ちょっと、独りで動くとどうなるか分からない予感がしますわ」
普段なら斥候役に先導して貰うところだが、全員が感じていた。独りになってはいけない。深く考えてはいけない。
より詳細に理解しようとしてはいけないと。
恐らく塔の果て、最上に繋がっているであろう虚を超えた先に広がっているのは、広々とした空間でも月見台でもなく、しっかとした大地のある庭であった。
閑静な庭だ。緑の芝生と白い名前も知らない花が敷き詰められるように咲いている様は、これまで昇ってきた塔の悍ましさが嘘のように麗しい。
然して、その中央に座す物が全てを穢していた。
巨大な獣が転がっている。名状しがたい両生類を思わせる体躯の上部には、女性の会陰めいた口が広がっており、そこから太く膨大な量の触手がはみ出している。白く脂ぎった粘液がてらてらと不気味な皮膚は、光の層の下に水死体の如き青黒い地肌が覗き、見ただけで怖気の走るだろう触感を想起させる。
だが、それは死んでいる。狂った鼓笛の音色の下で、永遠の沈黙を讃えて眠っていた。
「ああ、ウルゾホート、あるいはノードブーガートよ、何故私の問い掛けに応えてくれないのだ。何故目覚めないのだ」
そして、獣の上に人影が一つ。天を見上げ、月に向けて平面天測具と向き合っている。
歳は若い。まだ二十の半ば、三十路には達していないだろう、あの斬り捨てられた自称正気とよく似た姿。
着ている長衣は、ハッキリ言って目に五月蠅く悪趣味とも呼べる、濁った七つの原色でバラバラに染められたもの。泡のような刺繍は何を思って施したのか想像もつかない奇妙な造りをしていた。
それから、空いた左手には杖がある。ねじくれて細さがまちまちのほの白い光を放つ本体の上に、光の当たることがない月の裏側をはめ込んだような異形の杖が。
あれが弄月の杖。鼓笛の根が子守歌であると皆が何ともなしに察したように、全員が一瞬で理解した。
なるほど、ああ、なるほど。
ダメだ、あれはダメだ。
直視しては、人間が最も頼り分かりやすい形の視覚という情報で理解してはいけないものだ。
本質的に理解ができたならば、してしまったならば人のままでいられない。
否、いてはならないナニカ。
この眼鏡を貰ったのはやはり正解だ。これなしに突入していたならば、私達はここで終わっていただろう。
「おや、客人かな?」
警戒を促し、戦闘態勢に入ろうとした時、それは天に向かって嘆くのを止めて、首だけをぐるりと曲げてこちらを見た。
冒涜的な角度だ。人間の可動域を明らかに超えている。その様は、人間だったものが人間だったころの残滓を拭いきれず、人間の〝フリ〟をしているとしか思えない狂気を宿していた。
「戦闘態勢。全員、言葉を交わすな。眼鏡を落とすな」
鯉口を弾き、〝送り狼〟を抜きながら続ける。
「それと、人と思うな」
「それこそ無茶な注文だぜ、おい」
戦友の軽口を聞きながら、私は初撃を見舞うべく全力で跳ねた。
踏み込みに合わせ〈見えざる手〉を展開して空中に足場を作り加速。そのまま首を刎ねるべく飛びかかったが……。
「ああ、歓迎せねば、お茶を、いや、華を添えるのが先だろうか……」
また冒涜的な角度で首がぐねりと曲がったかと思えば、そのまま頭に手を添え……手を向けてくれば、触手の束がぞぶりと嫌な音を伴って飛びだした。
その初速は凄まじく、矢や弾を軽く超えていた。あの生理的嫌悪感を感じる挙動を攻撃準備の動作だと見抜いていなければ、貫かれていたかもしれない。
私は空中で〈見えざる手〉に首根っこを引っ掴ませて急静止をかけ、その勢いのままに剣を振り抜いて触手を切り払った。
すると、漏れ出すのは真珠色の液体。明らかに地上の如何なる生命体にも流れていない、流れていてはいけない色彩に背筋が粟立った。
そして、触手の束は、ただ突き出されたのではない。
瞳孔が同じ真珠色をした眼球を握っていた。
直撃する軌道は頭部にあった。よもや、これを……埋め込もうと?
自分でもどうかと思う推察に吐き気がした。
これは、果たしてこの世の術理で殺せる存在なのか? 血が出るなら殺せるはずだと、今まで数多の敵を殺してきたが、逆に血を流させたから殺せなさそうな気がしてきたのは初めてだ。
「ん? ああ、知識を賜りに来たのかね? それとも踊りか? いや、どちらも似たような物。我々はこの世の影、地上で踊る一時の月光に紛れた木の葉に過ぎない」
動作一つ一つにぬるりという擬音をつけてやりたくなる不気味な動作で怪物の巨人から降りると、男……かつて月の欠片を盗み取り、この世の深淵を解き明かそうとした狂奔の魔法使いは静かに嗤った。
「故に知恵を授けよう。盲目にして白痴であることこそ、最も知恵深いという第一の真実を……」
いや待ってくれ、これクエスト的に考えるとミドル戦闘なのってマジ…………?
【Tips】天測は太古より神々の知恵を借りるために行われてきたが、一時は知識を得て〝神々に近づく〟べく行われてきた歴史を持つ。
更新に大変間が空いて申し訳ありません。
でもね、まだミドル戦闘なんだ……。
そして、ヘンダーソン氏の福音を 11巻上 本日発売です!!
今回も書き下ろしてんこ盛り! HS1,0も完全書き下ろしの上、ストーリーもボチボチイジっているので、原作既読の方でも楽しめるように仕上げました!
ランサネ様の素晴らしい挿絵も光る逸品になっておりますので、是非に! 是非に!!




