青年期 二一歳の冬 四九
今までとは趣の異なる次階層への扉が現れたことで、我々は慎重に索敵しつつ階段を登った。
先頭の斥候にマルギットを置いて罠を確かめながら登ったのだが、意外なことに仕掛けは何もないという。
階段に偽装した感圧版も、壁に触れれば反応する機構も、魔導的な仕掛けも一切なし。
今までの悪辣さが嘘のように何もない階段を随分と登った。四半刻も登り続け、そろそろ太股が痛くなってきた頃、急に景色が晴れるように移り変わる。
そこは塔の広さを加味しても有り得ないほどに広大な空間であった。
天井には月がない星空が投影されて幻想的に瞬き、本や巻物を詰め込みすぎて傾いだ本棚や、床に積まれた幾つもの本の山や書類の山脈が奇妙な地形を作り出していた。
典型的な整理が苦手な――あるいは、これが最適な配置と自称する――研究者の塒という風情。せめてもの救いとして飲食系のゴミが転がっていないのはいいとしても、ここがボス部屋という雰囲気はしない。
軽いのだ。空気が。あまりにも。
「……おや、来客か」
そして、全く威圧感を感じさせぬ汚部屋、その中央に一人の人物がいた。
人種は恐らくヒト種。しかしながら、その顔付きを見ても男なのか女なのか判然としない。露骨な性差が出るはずの喉元や手首を晒した、魔法使い風の長衣を纏っているというのに、どうにも分からない美貌が恐ろしく気味が悪かった。
月色の瞳をした人物は、読んでいた本を閉じると優雅な仕草で立ち上がり、両手を広げて朗々と声を響かせる。
「ようこそ、最後の階層一歩手前。人が人のまま帰ることもできる限界地点に」
「人が……人の、まま?」
油断なく〝送り狼〟に手を添えながら問うと、彼は一切警戒していない様子で我々の前に立った。
「そう、ここは塔の主、月の光がもたらす狂気に触れた魔法使いが邪魔な物を棄てていった廃棄場だ」
性別が分かりかねる男は衣装を翻しながらくるりと自分を見せ付けると、堂々と言った。
「即ち、正気だ。煮凝ってしまった〝当たり前〟を持ったままでは盲は開けないとしてやつは私を置いて行ってしまった。啓蒙がどうのこうのと抜かしてね」
「では、なんだ、貴方は弄月の杖を作った魔法使いの……」
「正気だった部分だよ。知識の深淵に触れるには邪魔だとして斬り捨てられてしまった」
悲しいことにね。そう言いながら自称正気の人間は、先端に触媒の収まっていない杖をコツコツ鳴らしつつ座席へと戻っていった。
どういうことだ? 切り離す? 自分自身の一部、それも正気の部分だけを選って?
払暁派の精神魔法、その秘奥には記憶を消す技術もあったが、あくまでそれは封印するに近い処置であって、完全に拭い去るものではなかった。記憶一部でも完全になくしてしまえば、正気に響くとして、それより先に魔道士達も踏み込めなかったのである。
にも拘わらず、人格の一部を丸っと切除したというのか? 一体どんな技術があれば……。
いやさ、どんな人間性をしていれば、そんなことが可能だというのだろう。
「ここまで来られたと言うことは、私が用意した全ての試練を突破したようだ。大した物だよ。称賛ものだ」
「とても〝正気〟の人間が考え出した〝出し物〟ばかりだとは思えませんでしたがね」
この問答も罠なのだろうか。斬って捨てるべきかと悩んでいれば、自称正気部分は足を投げ出して脇息にもたれ掛かり、書見台に置いてあった本の頁を捲り出す。
「正気だったからこそ、何が何でも世界の深淵を覗こうとした結果、本気で月に触れすぎてイカレた、あの男に接触させる訳にはいかないと判断してのこそさ。大のための小なる犠牲さ。大業を為すための小さな犠牲として斬り捨てられた僕が言うんだから間違いない」
「その割に随分な人間が囚われていましたが」
一階層、蠱惑的な本を収めた本棚の迷路でさえ、三桁近い死体を見てきた。これを小さな犠牲と呼ぶのは如何な物か。
形が残っている死者だけであの様なので、塔全体で一体何万人死んでいるかも分かった物ではない。
そこまでして弄月の杖は秘匿する価値があるというのか。
「基底現実が崩壊するより幾分マシだと思うけど? 今、この惑星状では概算でー……あー、ちょっと待ちたまえよ?」
自称正気の塊は書見台の脇へ乱雑に積んであった本の数々を崩しながら捜し物をしたかと思えば、あった、と呟いてて古ぼけた古紙の巻物を手に取った。
そして、破れないように慎重に開いたかと思うと、内容を確かめるように指でなぞって読み上げる。
「えーと、現在の惑星人口が大体十六億人ってところか。うん、やっぱり誤差だよ、0.1%未満の損失で現実が保たれているのだから」
「十六億って、何を根拠に言ってやがるんだ」
ジークフリートが吐き捨てるように言うと、彼はニヤッと笑ってパピルスの巻物を見せ付けてきた。
「分かたれる前の僕が集めた神代の書物だ。神皇の国の神々が世界を管理するために作った特別な人別帳だよ」
「じ、神代の書物!?」
ミカがその法外さに驚いた。
かつて、神々が今よりずっと人類と近かった時代、今とは数え切れないくらいの神器が地上にはあったという。月明かりの額冠や盈月の鏡台とは比べものにならない、この世界の構造自体を弄れるデバッグツールのような物と言った方が近いだろうか。
その殆どは神々が地上を去る際に〝人には過ぎたる物〟とご尤もなことを仰って引き上げてしまったが、回収から漏れたり、不遜にも盗まれた物もあったという。
その内の一つが、自称正気の塊が握りしめている物なのだろう。
「まぁ、こんな古ぼけたものはどうでもいいんだ。今や重要なものじゃない」
「ああっ!?」
人類史的に大いなる意味を持つ書物が雑に投げ捨てられたことに研究者たるミカが甲高い悲鳴を上げたが、そんなこと知ったことかとばかりに、斬り捨てられた正気は杖を弄びながら言った。
「ここで取引しないかい、冒険者諸君」
言って、彼がコツコツと杖を鳴らすと部屋の脇に扉が現れた。誰が触れるでもなく、微かに軋む音を立てて開いたそこには、外の光景が映し出されているではないか。
「君達の正気のため、大人しく引き返して欲しい。元はあの阿呆臭い杖を作った男の正気だった部分は、こんなことをしてはいけないと警鐘を鳴らし続けていた」
「……そして、邪魔だから棄てられた、と」
「そゆこと」
私が言うと、彼は指を鳴らして冴えてるねーと笑った。見た目の荘厳さと比べると、雰囲気が軽すぎて言葉が脳味噌の上を滑っていくような感じがする。
何だろう、こう、折角神秘的なお姿をしていらっしゃるんだから、もうちょっとこう……なぁ!?
「あ、勿論、無駄に長い塔を登らせたんだ。無料でとはいわない」
「それはそれは、大層な物をいただけるんでしょうね」
半ば呆れたマルギットの物言いに対し、自称正気の具現は両手を広げて雑然とした空間を誇示するように告げる。
「この場にある物、何でも一つ進呈しよう! 神代に失われた神々の書物! 写本しか残っていないものの原典! 今の魔法使いが触れるには百年待たねば早い魔導! 何でもござれだ!」
あ、僕はケチ臭くないから、六人で一冊とは言わないよ。一人で一冊きちんと進呈しようと言う彼に、少しだけ皆が揺れたのが分かった。
まぁ、ミカは研究員だから優れた魔導書は欲しいだろうし、セス嬢も熱心な神学者でもあるため、失われた聖典が手に入るなら欲しかろうよ。
ただね君達、本来の目的を忘れちゃいかんよ。
「何でも、と仰いましたね、自称正気のお方」
「ああ、ここにある物それから“僕の頭に詰まっている物なら”なんでも!」
あまりに飄々としているが、罠の臭いは感じない。
実際、望めば彼は欲している書物を我々に渡して追い返すつもりなのだろう。今まで感じていた、べっとりと張り付くような悪意が――他ならぬ、この塔の罠を考えた人物だというのに――感じられない。
しかし、我々だってガキのお遣いで来た訳じゃないんだ。小遣い一つチラつかされたくらいで帰るんじゃ、今までの難行を熟してきちゃいないんだよ。
「では、最後の試練に臨んで正気で帰る方法を」
「……ありゃ」
望みを口にすれば、しばしキョトンとした上で気の抜けるような声が響いた。
「あっさり正答を口にされちゃったか。いやまぁ、正気でなくなった僕に挑む……本気で弄月の杖を欲するなんていう、狂気に溢れた行いに対する正答ではあるんだけども」
彼は言った。この頭の中にあることであれば何でも教えると。
そして、正気だった自分が警鐘を鳴らし続けたからこそ斬り捨てられたとも。
ならば、知っているはずだ。狂気に対抗する手段を。人として最上に登り、また帰って来る手段も。
「えー? でもさぁ、オススメしないよ? あんな物手に入れて何に使うって言うのさ。神々の逆鱗に触れるだけじゃない?」
「その神の御意向に従ったことに使うのでご心配なく」
「あーね、なるほどね、そりゃ殊勝なことだ。力を欲するのではなく、神器として扱って返還するとか? その発想は中々なかったわ」
偉い偉いと揶揄うように口ずさみ、彼は立ち上がって杖を掌で弄びつつ我々の周りをゆっくりと歩き始めた。
「みんな、それでいいの? ほら、一杯あるよー、失われた知識が。そこのお嬢さん、失われた夜陰神礼賛韋編の外典とか欲しくない?」
「うっ……こ、心惹かれますが、私のために皆頑張ってくださっているので」
「えー? じゃあそこの少年! シグルスの剣を如何にして作るかの製法とかどう? なんだっけ、アレだ、そう、瘴気祓い! そういうの好きそうな顔してるし」
「いや、作り方だけ教わっても」
んー、手強いなぁと狂った魔法使いの断片は色々な提案をしていくが、我々は悉く否を突きつけた。
ここにやって来たのは稀覯書を求めてのことではない。朝日の先駈け、アールヴァクに「この勘違い野郎が!」と怒鳴りつけてツェツィーリア嬢の将来を守るために来たのだ。
ケチな本の五冊や六冊で釣り合いが取れるかよ。
一冊持ち帰ればアールヴァクが引き下がるような物があれば話は別だが、恋に浮かれた童貞のことだ。どうせ結婚祝いとか曲解して真面に受け取ることはあるまい。
だから我々にここで引き下がるという選択肢はない。
正気のまま、人のまま帰還する方法を探り、そして弄月の杖に使われた月の欠片を持ち帰る。
ただ、それだけのことだ。
「マージか、ここまで来ただけでも結構な狂人の集まりなのに、更にイカレてるとか久方ぶりだよ」
「大業に臨む冒険者にとって、それはむしろ褒め言葉ですよ、自称正気殿」
「ふーん、まぁ、なら仕方ないか。行って絶望するなり、死ぬなりすればいいよ。僕はあくまで正気の部分が杖に関わらせまいとしているだけであって、あんなもんこの世になくなるなら悪くないとも考えているんだし」
仕方ないなぁと椅子の周りをゴソゴソ漁った彼は、古ぼけた小箱を幾つか取りだしてきた。
「じゃ、これあげる。かけてごらん」
「眼鏡?」
箱の中に入っていたのは眼鏡だった。しかし、縁に術式陣が刻んであるだけで透鏡は嵌まっておらず、お洒落な伊達眼鏡という風情だ。恐らくかけることで光を屈折させて、使用者が見えている物をねじ曲げるつもりなのであろう。
「いやしかし賢いね、君。僕の言葉尻からあっさり正解を掴むなんて。それがないと盲が開けて世界が変わっちゃうところだったよ。文字通り劇的にね」
「……見えない方が良い物もある、ということですね」
それは魔導院時代、嫌というほど味わった。
下手に開いた瞬間、人間が知るべきではない知識が脳髄に染み渡って発狂する本というのが禁書庫にあって、それをアグリッピナ師がご所望だった時は、選りに選って私に取りに行かせるかと思ったもんだよ。
然しながら、その経験がこんなところで役に立つとはな。
「ま、生還は期待しないで待っているよ。僕は要らない物として棄てられ、進んでここに封をした者だ。弄月の杖が壊れたならそれでよし、要らぬ知識を持って帰る者がいなければ、それでよしってところなんでね」
じゃ、頑張ってとえらく他人事めいた見送りの言葉を贈って、自称正気の残り香は再び元の座席に戻って本を読み始めた。
しかし、これが〝正気〟だっていうのなら、元のヤツはどれだけヤバかったのだろう。あんまり想像したくないのだが……。
「それに今から会いに行くしかないのか」
「元は気さくな人だったんだし、思ったよりマシ……ってことはないよねぇ」
希望的感想を口にした後、そうだったら苦労はないかとミカは後頭部を掻いた。
何せ弄月の杖なんて神々を大激怒させた挙げ句、消滅させるのではなく〝世界の一部を折りたたんで放逐する〟他なかった人物だ。
どうせ碌でもないに決まっている。
「さぁ、行こうか」
私達は臨戦態勢を取りつつ、塔の最上階に向かって口を開ける、広々とした階段に足をかけた…………。
【Tips】この基底現実において普通にしていれば見えない物は、見ては碌なことにならないため、神々が優しく隠してくれている物に他ならない。
また間が空いてすみません。できれば週一更新したいのですが、作業に追われているとの、小説を書く息抜きに小説を書くという最悪のクセがまた出てしまっておりまして。
次回から弄月の塔、クライマックスです。




