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青年期 二一歳の冬 四四

 碌でなしが考えた碌でなしの迷宮は、果てしなく碌でもなかった。


 第四層に上がった瞬間、我々を待ち受けていたのは闇であった。


 完璧な暗闇の中では一切の(よすが)がなく、しかも善人を取り込む忌まわしき第三層から続く扉を潜った際にバラバラに飛ばされたのか、合流に酷く難儀させられそうじゃないか。


 いや、それ以前に自分を保つのに精一杯な現状を認めるべきだな。


 広間に湛えられる暗闇はただの黒ならざる正しく無明。いつまで経っても目が慣れることはなく、発光する魔法の光源も燧石も役に立たなかったから、五分ばかし孤立しただけで気が変になりそうだ。


 「誰かっ……」


 声さえ呑まれていると錯覚する闇の向こうに答えはなく、痛いほどの静寂が脳を揺さぶる耳鳴りを運んできて、足下が覚束ない。


 私は今、ちゃんと立てているのか?


 自己の位置、それすら愛妹にさせる深い深い暗黒が、じわりと滲むように精神に食い込んでくる。前世の宇宙飛行士は宇宙の深淵に耐えるため、音も光もない空間に数時間閉じ込められる訓練を行っていたと聞くが、よくぞこんなものにたった一人で耐えられたものだとあらためて驚嘆させられた。


 「くそっ……誰か、誰か……」


 平衡感覚はおろか上下左右、自己認識さえ呑み込みそうな深い深い闇の中で膝を突いても地面が揺れているように思えて気持ちが悪い。


 あまりにも何もなさ過ぎて、自分が自分を破壊しようとしている。


 気持ち悪さに耐えながら魔法を必死に練り四方に伸ばした〈見えざる手〉で、小さな温もりを捕まえた時は、涙が一滴零れるくらい安心した。


 「マルッ……ギッ……ト……」


 「エーリヒ!? そこにいますの!?」


 ああ、暗闇は本当に恐ろしい。本能的に人間がどう足掻いても抗うことのできない感覚で、文明によって立ち向かうことができないともなると正気がゴリゴリ削れた。寄る辺ない感覚というのは、人間をここまでちっぽけにしてしまうのか。


 それは〈暗視〉を持っていて暗闇に親しむ種族であれば尚のこと強烈に効いていたようで、伸ばした〝手〟で触れたマルギットの目が少し腫れぼったくなっていたことに、私は気付かないフリをした。


 「静かすぎて耳が痛い」


 「ええ、でも、こうしているとお互いの形が良く分かりますわね」


 何とか再開できた私とマルギットは抱き合ってお互いの位置を喪わないように気を付けながら、その場に座り込んでひたすらに魔法の手探りで時を待つ。


 フラフラ動き回って転びたくなかったし、偶然探知網に引っかかった仲間を見落とす危険性を嫌ってのことだ。


 「すべすべしてる」


 「足の甲殻、節目につま先、分かりまして?」


 「うん、今、右の二本目を触ってるね……私の形は、分かる?」


 「ええ、とてもよく。鼻筋から唇、顎の輪郭、それから首筋……細くて、柔らかくて……」


 気が狂いそうな静寂を打ち消すよう、お互いの体温を感じながら耳元で囁き合って、耳鳴りを生むような無音を追い払う。


 一切の視界を断って互いの体をまさぐり合うと、形が、熱が、香りが普段よりも鮮明に感じられた。


 首筋に顔を埋めて、一杯に息を吸い込めば斥候の作法として体臭を殺す香袋を懐に呑んでいても消しきれない、ほんの僅かな彼女の匂いがした。この世に確固として存在している、そう安堵させてくれる感覚は暗闇の中で正気を保つ縁として、私の心を確実に癒やしてくれる。


 「ん……?」


 「どうなさいまして? 今、何かに触れ……」


 瞬間、後方に伸ばしていた〝手〟が強く弾かれた。


 「マルギット!! そこにいるのかい!?」


 それと同時、聞こえてきたのはあろうことか〝自分の声〟ではないか。


 私は反射的に〝騎士団〟を展開し、遮二無二に振り回して空間を刃にて斬攪(ざんかく)する。


 「エーリヒ!? 今のは……」


 手応えは薄いが、何かを断った感覚。弱い弱い、儚い手応えは幻覚か何かを断ち切ったのであろう。


 クソ! マジで碌でもないな!? 暗闇で絶望に突き落とした後で幻覚と再会させて、その場に繋ぎ止めようというのか!!


 「マルギット、今、私の幻影を斬った」


 「でも、何の匂いもしませんわね」


 「多分、血が通わない声と触覚だけの幻覚なんだと思う」


 「なら、私が幻覚でないと証明した方が安心できるかしら。それと、貴方が偽物でないことも証明して欲しいわ」


 証明? と首を傾げようとした次の瞬間、唇に柔らかく甘い触覚が堕ちてきた。


 この艶やかな、しっとりした口当たりを間違えるはずがない。


 ぬるりと軟体生物めいた、不快ではない人間の生暖かさを伝える液体を纏った肉が唇を這い回り、ノックするように啄んでくるので、私は自然と口を開いていた。


 すると、伝わるのは濃い濃い血の味。舌と舌を絡め、歯列をなぞれば感じられるのは鋭く尖った糸切り歯。


 ああ、彼女だ、紛れもないマルギット。


 私も安堵を伝えるように血の味がする接吻に答えて、糸切り歯に舌先を強く押し当てて舌先を斬り、血を交わす。


 疑いようも、忘れようもない濃い味がお互いが本物であることを証明してくれていた。


 「ぷはっ……はぁっ……はぁっ……」


 「ふー……ふー……ふぅ……」


 五感を殺す暗闇の中で交わす口づけの密度と深度は凄まじく、お互いに呼吸を忘れていたことに苦しくなってやっと気が付いた。顔に吹き付ける熱くて荒いお互いの呼吸が、幻覚ではない、独りではないという強い実感を与えてくれる。


 「ふふ」


 「うふふ、ちょっと楽しみ過ぎてしまいましたわね」


 お互いに面白くなって抱き合いながら寝転べば――背嚢が背中に食い込んで、私が下になっていると始めて分かった――遠くから何かが聞こえてきた。


 「……何だろ」


 「歌ってますわね」


 「歌ぁ?」


 この状況で歌って言うのは何とも間抜けであると同時に恐ろしい。幻覚のやり口は魅了し、迷わせ、体力を消耗させること。


 何処か遠くで仲間が気を紛らわせるために歌っていると錯覚させるのであれば……。


 「不壊の……リート……か……ヘクトーリウスか……」


 「この調子っぱずれの歌は」


 「剣友会賛歌?」


 が、しかし、この絶妙な音痴具合は簡単な幻覚術では再現できまい。


 誰かが歌い始めた行軍の際に捧げられる剣友会の独自曲は――言うまでもないが私は関わっていない――行進曲であるため歩く際に調子が合って心地好いのだが、我が戦友、ジークフリートが歌うとどうにも半音ズレて微妙な感覚に陥る。


 「死なず……リュッサンディアと人は言うも、全世界の英傑も我等の絆と比べるもない」


 「古の英雄……剣の絆を知らず。衆寡に……剣を知らず」


 続くは鈴の転がるような、ちゃんと旋律を護ったカーヤ嬢の歌声。


 ああ、うん、間違いない、我が戦友達だ。賢いな、自分の正気を守ると同時、知らなければ歌いようのない剣友会固有の隊歌で所属を示すと同時、個性を押し出して幻覚ではないと教えてくれている。


 「これは返答で歌った方が良いのかな」


 「まぁ、ノリって大事だと思いますわよ?」


 クスクス笑うマルギットであるが、どうにも歌詞が壮大すぎて私好みじゃないんだよな。過去の英雄達に並んで自分達を讃えようとするのは、ちょっと行き過ぎているというか、あと金の髪のエーリヒに率いられる頼もしさを知らぬとか小っ恥ずかしい一節もあるし……。


 「普通に話しかけて幻覚と間違われたら嫌だから、歌おうか」


 「そうですわね」


 「ごほん……防柵を破れと指示下らば、剣の友は群れを成し」


 「恐れを全て捨てて吶喊す」


 続きの部分に唱和しつつ立ち上がり、声の元に行けば姿は見えないがお互いが認識できる距離まで辿り着ける。


 「「「「いざ唱えよう、剣の友の会を」」」」


 丁度最後の小節を歌え終える瞬間、我々はぶつかった。


 「よぉ……本物、みてぇだな」


 「お互いにね。君らはどうやって最初の識別を?」


 「カーヤが嫌がらせみたいに名前だけ呼んで周りをウロチョロする訳ねぇから、こりゃ狐狸の類いだなと思って歌ったんだ。煽ってんのかとキレながら走り回ってたら会えたぜ」


 「地元じゃ怪異避けに歌を歌うと良いって、昔から伝わってるんです」


 カーヤ嬢の忍び笑いで、彼女が調子外れの隊歌を聞きつけて相方を見つけたことを悟った。まぁ、これは真似しようがないものな。


 「で、お前らは?」


 「触れあって、ね」


 「ええ、触れあって、ふふふ」


 悪戯っぽく微笑みつつ言えばマルギットも合わせてくれた。ジークフリートは、そりゃ運が良かったなと軽く受け流しているが、見えなくてもカーヤ嬢の息がひゅっと甲高かったので、何を想像したのかは良く分かる。


 うん、昔から何となく察してたんだけど、この薬草医殿は頭の中、結構ピンク色してらっしゃるよな。ただ、想像より過激なことはしてない――というか、それだけの時間はなかったろう――なんて無粋は言うまい。想像するのは自由なのだから。


 「よし、後はミカとセス嬢……ってうお!?」


 六人中四人が合流できた。後は歌を歌いながら練り歩きつつ〈見えざる手〉を張り巡らせて探索をと思っていると、俄に足下が動いて、私は思わず蹈鞴を踏んだ。


 何かを踏んだとか、そういう可愛らしいものではない。地面自体が石を投げ込まれた水面のように蠕動しているではないか。


 揺れは二度、三度と続き頻度が増して、ついに二つ足の私達では上手く立っていられなくなった時に収まった。


 「見つけた!!」


 「ミカ!?」


 「地面を揺らして、その感覚で探してたんだよ!!」


 わ、我が友、またなんつー力業をと呆れさせられたが、やっていることは私の〈見えざる手〉と大差ないと言えば大差ないか。


 「最初は焦ったよ。でも、冷静になれば地面があるなら僕にはどうとでもできるなって思って」


 仰る通りではあるが、それでこの迷宮の構成物を操作できる力量は凄まじいの一言に尽きるぜ我が友。真逆地面を電探の如く揺らして、違和感を頼りに探しに来るとは。触覚を持っている〈見えざる手〉をベタベタ這い回らせていただけの私が、何だか凄く低次元に思えてきた。


 「途中で何度か声だけ聞こえてきて、コレおかしいなと思って揺らしたら案の定だったよ」


 「ほんっとここ作ったヤツ性格悪いな……」


 「そうでなきゃとっくに破却されていただろうからな」


 この階層では色々と試されすぎている。


 闇の恐怖を克己する心の強さ、仲間を仲間だと確実に確認する絆と術、バラバラにされても合流する技術、どれか一つ欠けても闇の中に孤立して衰弱死か餓死を待つだけとは。


 本気で敵を撃退したいなら悪辣な分からん殺しと初見殺しを仕掛けろなんて、前世の創作物を揶揄する時に散々言ってきたものだけど、いざぶつけられると堪った物じゃないな。


 我々は本当に奇跡的な面子が揃って、辛うじて全滅せずにいられている。


 「よし、後はセス嬢を……」


 「エーリヒ、アレは」


 くいとマルギットに裾を引かれた。しかし、アレと言われてもこの闇の中では何を指さしているかなんて分からな……。


 そう思うと同時、私は見えていないはずなのにマルギットの指が差しているものが見えた。


 遠くからチラつく一筋の光は月光を思わせる柔らかなもの。揺れる絹を思わせる光は、間違いなくセス嬢が被っていた花嫁の面覆い(ヴェイル)から放たれているものであった。


 「マージか」


 「さしもの迷宮も、あの神聖な光だけは殺せなかったようですわね」


 言われてみれば、アレは夜陰神自らが用意した嫁入り道具。放たれる光は月光そのものを編んで生み出されていることもあって、神格が持つ権能から言って完全に相殺できるとは思えない。


 それにしても、正に奇跡的な組み合わせだな。


 私はマルギットと深い仲に至っていなければ安堵できず、ジークフリート達はたまたま誰かが隊歌を作っていなければ今も迷っていたかもしれないし、ミカは造成魔導師としての腕を磨いていなければ闇に溺れたままだったかもしれない。


 セス嬢は額冠がなければ〈暗視〉を取り上げられて苦労していただろうから、何か一つでも要素が欠けていれば一刻とせず合流することはできなかった。もっと消耗し、物資を喪っていたであろう。


 「あの~みなさーん! どこですかー! 暗いです! こんなに暗いの人生で初めてなんです! みなさーん!! 正直、今ちょっと泣きそうです!!」


 おっと、関心している暇があったら、セス嬢を迎えに行ってあげなければ。これだけ遠くから見えるような光であっても、本人には足下を照らすだけの物でしかないのだろう。吸血種として闇の中でも昼間と遜色なく、いや昼間よりよく見えてきた種族が明かりを奪われる心細さは想像するだけで胸が痛い。


 私は奇跡的な差配に感謝しつつ、戦友達の手を取った…………。


【Tips】剣友会賛歌。行軍に際して歩調を一定に保つため歌われ始めたもので、次第に歌詞が統一され旋律も携行が容易な小太鼓と横笛で纏まった。


 作詞者は複数人が歌い始めたこともあって厳密には不明だが、その一人は詩歌神の思し召しであると称していた。

元ネタ:英国擲弾兵


また暫く間が空いて申し訳ない。10巻作業が「なんや結構流用できるやんけガハハ! 今回は余裕やな!!」と笑っていたら、ミドル戦闘までに16万文字くらいいってて「ん……?」と首を捻っておりました。


あと、縁あって完全暗室と無音体験に参加したことがあるんですが、私の限界は三分でした。人間って存外早く気が狂うんやなって……。

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― 新着の感想 ―
見えない中、指はさしてないと思います。 顔を掴んでその方向に向けたと思います。
[気になる点] 一人で挑んでいたら、自分の声が聞こえるだけなんだろうか?
[良い点] 転生のせいか、わりとSAN値は低いなエーリヒ ディーくんはアイデアも低いから頼りになる
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