※少年期 一二歳の晩春・四
最早この館が何時誰によって建てられたかも忘れ去れるほどの時間が過ぎた。
そして、今やこの館の主となった者達にとって、それはどうでもいいことである。
一体の小鬼がぶらぶらと廊下をゆく。魔物としての本能に従い、ただ何をするでもなく自分たちの領域を巡回しているだけだ。
魔種から転んだ魔物は、本当に特異な存在である。
人間として持っていた時の個我と倫理観は揮発し、ただ持っていた知性と技能だけを頼りに殺戮に興じる。その上、眠ることも餓えて死ぬこともなくなり、生物としての“正しい”欲求さえ喪って、ただ暴れることを望むようになるなど性質の悪い冗談のようであった。
たしかに彼等は喰らえるなら喰らうが、それさえも惰性で本来は必要のない行動。ただただ暴威として悪辣にならんとする行動、あまりにも理不尽な特異さはこの世の物とは思えない。何処にも生き物としての“理”が見いだせないのだ。
どこからともなく移動する性質から、魔物は隠の月から捨てられてきたこの世の淀みだと唱える魔導師が現れるのにも、どこか理解がいってしまうほどであった。
この館と同じく、所以を忘れられ、自分も欠片さえ覚えていない小鬼は何時もの習性に従って台所へと侵入した。かつては家人と使用人の胃を満たしていた場は、かび臭く腐臭の残り香に満ちている。傍らには不用意に踏み込み、食い散らかされた獣の食い残しが積み上げられていた。
ぐるりと周り、いつもと変わらぬと認めると小鬼は廊下に戻ろうと背を向けた。この後、暫く扉の前でぼーっとしてから、別の部屋を巡回しに行くのだ。
渦を巻く泥のような本能に従おうとし、されども彼の脚は動かない。不思議に思って首を下げようとすると、壊れた窓から差し込む光を反射して、銀色に光る物がつま先より先に視界に入った。
これは一体何だろう? そう考える間もなく、小鬼の体から力は失せて膝が地に落ち、壊れた本能から解放された…………。
【Tips】魔物になったからといって、人類種だった時のスペックから大きく逸脱することはない。逆を返せば敵を殺すための“知恵”が衰えることもない。
隠密からのバックスタブは何時だって強い。問題は使い処が少ないだけで。戦闘中に隠密状態に入るくらいなら、往々にして黙って殴った方が早いからな。
私はたった今刺殺した小鬼の亡骸を部屋の片隅に転がして、気付かれた様子が無いか耳を澄ませて慎重に伺った。
……よし。
出だしは上々と言ったところか。勝手口からお邪魔して、巡回している小鬼に<見えざる手>で浮かした短刀を使ってバックスタブをかます試みは上手くいった。
我ながら便利な魔法だと思う。触覚があるおかげで手探りの探索にも使えるし、視界の中なら“物を持って伸ばす”こともできるので、こんな具合に遠隔バックスタブもできるのだから。その内、剣を持って二人目、三人目としてぶん回せるくらい小器用に発展させられまいか。
ただ、一芸特化は素晴らしいが、魔法でこればっかり伸ばすと効かなかった時が怖いから悩ましい。シンプルな魔法だから抵抗されやすいし、何だったら物理的に干渉できる力場というのもあって、手で引き剥がされることもあるしな。
それを踏まえての強いビルド、というのを練るべきであろうか。
とまれ、今は廃墟探索だ。冒険者の王道にして誰しもが一度はやるクエストを果たしてみよう。
大きな厨房は完全に荒れていて、これといって見るべきものはなかった。いくら冒険者でも錆びた包丁だの底が抜けた鍋だの、錆の固まりになった寸胴なんぞは持ってったってしょうがないからな。
魔晶を取り出すのは後回しにして、扉が外れて壊れた廊下側の入り口に向かう。こういう時、鏡があれば便利だから一つほしいな。
そっと覗き込めば、夜闇の妖精が与えてくれた祝福のおかげで昼間のようにはっきり見える廊下には誰もいなかった。
ここは位置的に館の東側。中央棟の両翼に伸びる東棟で、キッチンがあるということは使用人向けの区画だろう。お約束を守るのであれば、主人の寝室か書斎あたりに重要なアイテムかボスが居座っているはずだが……。
今回の目的は根切りである。この辺りを通る者が被害を受けぬよう、魔物を掃討しなければならない。襲われたのが私じゃなかったら、普通に死人が出ていたからな。
腰を屈め、そろりそろりと気配を殺して歩く。<気配遮断>と<忍び足>や<隠密>を幼き頃の隠れ鬼ごっこで磨いた私を甘く見てはいかん。うん「うわっ、大人げねぇ!?」と罵倒されると「ぐぅ」の音もでないが、役に立ってるからいいんだ。
また、鎧が隠密を妨げることもなかった。可動部の縁に柔らかな素材を挟むことで、移動時に音がしないようスミス親方が工夫してくれているからだ。冒険者相手に商売してたと言ってたし、静かに動けるようにしてくれと言う注文が沢山あったのだろう。こういう細かい所まで注文しないでも作ってくれるのは、本当に名工の仕事だと感嘆させられる。
しかし……これじゃまるっきりアサシンだな私。
自分の職業に疑問を抱きつつ――そもそも存在がキメラクラスであることに目を背け――東棟の探索を進め、五つの遺体を積み上げた。
まぁね、ダンジョンだからね、大騒ぎしたら捕り物が始まって連戦だろう? 鍛えているとはいえ、何十体から同時に襲われて対処できるほど体力はないし、範囲でぶっ飛ばせる技もないので堅実に行くしかないのだ。地味な絵面と言われようが知るか。別に放映されている訳でもなし、ぼかんぼかんと吹っ飛ばす必要はあるまいて。
距離が近ければ“手”で口を塞いで自分でバックスタブ。遠ければ“手”で絞殺し、騒がれることなく五体の小鬼を始末した。
しかし小鬼ばっかりだな。ファンタジーの雑魚MOBといえば小鬼だが、これほど数が多い理由は繁殖力が高いからか? とはいえ、一家族丸々が魔物化なんて然う然うありえまいし、一体どこから供給されているのやら。
疑問を覚えれど要素が足りず答えが出ないので、家捜しがてら亡骸を一箇所に集める。核戦争で滅んだアメリカとか、天国の外側じゃあるまいから死んだ味方を見て警戒しない筈がなかろうし、後で魔晶を集めるなら一箇所にまとめておかねば。
因みに大した戦利品はなかった。特に武装もしていないし、襤褸切れみたいな服を剥いだところで使い処などなく、あっても錆びた短剣や折れ曲がった剣程度なので幾らにもなるまい。
また、放棄された各部屋も朽ちた家具や捨てられたボロ着くらいしか見当たらなかった。おそらく住民が一夜にして消えた系の現場ではなく、きちんと荷物を引き上げていったのだろう。
うーん、コンシューマゲームみたいに現金を落としてくれると嬉しいのだが、流石にそれは高望みか……。
意味深な手記やダイイングメッセージの類いなどに出くわすこともなく、私は中央棟を後回しにして西館にひっそりと忍び込んで行く。ダンジョンハックは端っこから順番に片付けて、最後にボス部屋を探る性質なのだ。
立地的に中央棟は迎賓室や客間、あとは晩餐室なんぞがあるらしく、大物が構えているならきっとその辺だろうと踏んだのである。
そういえば、昔一回やったな。ダンジョンハック好きのGMに対して、全員が隠密技能持ちのビルドで忍び込み、押し込み強盗というよりも江戸の急ぎ働きの如く寝ている所を皆殺しにしたセッションが。
ボスの口上の途中で攻撃するのは二流の仕事。一流のマンチは口上すら述べさせず殺す。夜討ち+煙幕+バックスタブ×六には流石のボスでも耐えかねて一撃轟沈と相成った。
次回以降、そのGMが矢鱈と眠らないゴーレム系のエネミーを多用するようになったのは良い思い出である。
西棟は主家族の居住スペースだったようだ。朽ちつつも少し見栄えの良い部屋には、金をかけていた形跡があり、どの部屋にも劣化してペラペラになっているがかつては長い毛足で上等だったと思われるカーペットも敷かれている。この世界、敷物は一財産なので金のある家だったのだろう。
まぁ、今居住している魔物には何の興味も惹かなかったようだが。
今度は初めて見る魔物を廊下で見つけた。犬鬼と呼ばれる、直立する犬科動物のような外見をした魔種だ。顔付きによってコヴォルド種族とノール種族に分類されると本にはあったが、挿絵の質がちょっとアレだったので……どっちかは分からない。
だが、体高一九〇cm近い大柄の怪物、といえば恐ろしさは十分に伝わるだろう。ヒト種の巨大さで犬の身体能力まで持たれたら、柔らかいヒト種としてはたまったものではない。絶対に格闘戦はしたくないな。
観察していると、ぐるりと犬の頭が此方を向いた。黒くて湿った鼻がぴすぴすと蠢いている……あ、やばい。“犬の嗅覚”に引っかかったか!?
私は咄嗟に魔法を発動させ、家捜しの中で見つけたロープを宙に舞わせる。比較的劣化していないそれは、私の“手”で引っ張っても千切れないくらいの頑強性はある。
そして、ロープは意志を持つ蛇の如く犬鬼へ襲いかかり、その首に巻き付いた。
犬鬼の首は直立する犬科動物のシルエットを持つが故、かなり太く筋肉質だ。いくら<揺るぎなき豪腕>を用いても、子供の膂力の数倍程度では絞殺しきれないと思ったため、道具を使うことにしたのだ。
荒縄は軋むような音を立て、万力の力で喉を締め上げる。肉に食い込んだロープには指が食い込みづらく、鋭い爪も先に首の肉を掠めるばかりでロープには届かない。
十数秒の絞首の後、犬鬼は白目を剥いて全身を脱力させた。
「ふぅ……」
これで一安心だ。ロープを引っ張って巨体を――滅茶苦茶重いなコレ――引き寄せて片隅に隠す。その時に軽く体を触ってみたが、実に優れた筋肉で首が装甲されている上、鬣状に硬い毛が生えていることが分かる。毛皮というのは存外馬鹿にできない防具で、刃は滑って断ちづらく、鈍器の衝撃を流すにも十分なしなやかさを持ち、同種の牙から首を守る役割を持つという。
これだけふわふわに生えてると、多分手じゃ上手く絞められなかっただろう。危ない危ない……吠えて仲間を呼ばれたらえらいことだったな。やはり敵をきちんと観察するのは重要だ。多分イケるやろ! と経験点をケチって魔物判定無しでダンジョンに挑み全滅した経験が活きた。
部屋が狭いからか、はたまた数の問題か恐れていた“ツーマンセル”に出くわすことなく、西棟の制圧にも成功した。実に盛り上がりに欠けるが、安全第一、蘇生ができない以上は“いのちだいじに”だ。私は今後も頑張って、エリザの学費を稼ぎ、その後はマルギットと冒険者をやるのだから死んでいる暇など何処にもない。
まっこと残念な事に此方の棟にも金目のモノは殆ど残っていなかったが、一つ違和感があった。というのも、主の書斎らしき空の本棚が並ぶ部屋と、隣の主寝室で微妙に大きさが合わない気がするのだ。
廊下側から推察できる部屋の大きさと、二つの部屋の体感に微妙なズレがある。多分、ワンルームマンションくらいの隙間があるような……。
書斎に入って寝室側の壁に聳える本棚を叩けば、向こう側に空間が広がっているような音が返ってきた。
おお、これはお約束中のお約束……隠し部屋じゃないか!
テンションを上げながら本棚を押せば、奥にずずっとずれていく。見れば足下にレールが敷かれており、奥側へ無理なく押し込める仕組みだ。そして、一番奥まで押し込むと、そこには隠し部屋が広がっていた。
窓の無い空間には酷い臭いが立ち込めている。埃と薬品が混じり合う何とも言えない臭いが漂うそこは、研究室であろうか。
本棚には湿気て駄目になった本が何冊も取り残され、文机の上には腐ってボロボロになった羊皮紙の束もある。
そして、実験テーブルらしき机の上に置いてあるのは、小型のるつぼや蒸留器のような機材群。精巧なガラスの部品が多々混じるそれは、木製部分は駄目になっていたが金属部分は腐食しないで十分に実用に耐えうるように見える。
これは一体なんだろうか……錬金術師の部屋という風情だが、こんな隠し部屋まで用意して主人は一体何を研究していたのか。
とりあえず金になりそうなのは確かだから、後で貰って帰ろう。繊細そうだから運び出すのに苦労しそうだが。
機材を品定めしていると、その傍らに吊られている籠がふと目に入った。複雑な紋様が彫金され、細かな格子で編まれたそれは小さな虫を捕まえておくものに見えるが、中に何かが転がっていた。
掌大の乙女だ。
若草色のチューブトップワンピースを纏い、薄い蟲翅を生やした姿は正しく妖精のそれ。私にクエストを頼んだ夜闇の妖精よりもじつに“らしい”姿をした彼女は、体を丸めて無垢に眠り続けていた。
可哀想な同胞、とは彼女のことだったのか。
そう思っていると、不意にポーチが蠢いた気がした。みれば、掌大の大きさに膨らんだ夜闇の妖精が這い出そうとしているではないか。
苦しそうにしていたのでポーチを空けて開放してやると、彼女は私の掌に収まってほんわり微笑んでくれた。
「ありがと、愛しの君。気が利くわね」
「どういたしまして。ところで、この子が君の言っていた……」
「ええ、そうよ。この子は風の妖精、この館に研究材料として捕らわれていた、可哀想な同胞」
彼女は掌の上で、訥々とこの館と捕らわれた妖精の来歴を語り始めた。
なんでも、この家は数十年前までちょっとした有力者の別荘だったらしく、一門の夫婦が住んでいたらしい。幸せな若い夫婦はやがて子を授かり、夫は大喜び。
だが、運が悪かったのか妻は産褥にて没してしまう。夫は生き残った娘を溺愛し、全てを与えるように生きてきたが、ある日娘が“宙に浮かぶ”ようになったり“見えない誰か”と会話するようになったという。
その娘は半妖精だったのだ。
その事実に耐えきれず、夫は狂ってしまったという。妻は出産で死に、命をかけて産んだ娘は“自分の子供”ではなかったという事実、そして“半妖精のせいで妻は死んだのでは?”という疑念が彼の正気にトドメを差したのだろう。
怒りに狂った彼は娘を座敷牢に監禁し、取り替えられた娘を取り戻すために研究を始めた。書物を集め、魔導師を招聘し、様々な手段を模索した結果、研究に用いるため高額な形無き物でさえ閉じ込める籠まで手に入れるに至った。
だが、そこで限界が来たようだ。
予算が尽き、一門からも呆れ果てられ、賃金が払われなくなった為に使用人は引き上げていった。そして夫もその内に病を得て、静かにこの世を去ったという。
ただ一人、捕らえた妖精を研究室に残して。
夫や娘の始末は一門がつけ、家財の整理もして“忌まわしい館だ”としてここも放棄されてしまったが、秘密裏に作られた研究室にまでは気付けなくとも仕方がなかろう。ここに捕らえられた妖精は、本当に不運だったと言うべきか。
それにしても身につまされる話だな。ちょっと胃が痛くなってきたぞ。家のエリザがこうならなくて本当に良かった。
「じゃあ、この子を解放してあげて」
「分かった。錠は……これか」
ちっぽけな錠だった。子供の宝箱に使うような錠は、しかして身体的には見るからに非力な妖精相手には十分だったのだろう。短刀を機構に潜り込ませて軽くこじるだけで、永く妖精を縛り付けていた頸木はあっさりと壊れた。
「ありがと、流石ね愛しの君」
軽やかに舞い、彼女は籠の戸を開くと中に入り込み、眠りこける妖精を揺り起こしにかかった。
「ちょっと、ほら、起きて起きて」
「んあ……ねむいよぉ……」
「いくら風が入り込まない所で弱ってるからってボケないで! ほら、起きなさいって」
「んにぃ……だれぇ……?」
起きる起きないのコントみたいなやりとりをしている二人を見ていると、何だかさっきまで妙に神妙な感じになってしまった気が萎えるのを感じた。もっとこう、何十年単位で監禁されてたらこう……こう……!
「あー……おはよぉ」
「おはよう、じゃないわよ貴方。もしかしてずっと寝てたの?」
「そだよぉ……逃げようにも逃げられないから、しかたないから寝てたぁ……」
あたし、寝るの大好きだしぃ、と温んだ春風を擬人化したような妖精は気の抜ける朗らかな笑みを形作った。なんかこの、必死に助けたのに別に助けなくとも幸せだった、みたいなノリを出されると辛いのだが。
「あー、かわいいこだぁ」
きゃんきゃん説教する夜闇の妖精を無視して、風の妖精はするっと檻から飛び出て――長い間閉じ込められていたのに、何の感慨もないのか君は――私の頭に飛び乗ってくる。呆れて脱力していたせいで、反応が遅れてしまった。
「きんぱつぅ、ふわふわぁ、いいにおーい」
「ちょっと、ずる!? まだわたくしもしてないのに!?」
探索の時は視界が開けていたほうがいいから兜を脱いでいたのだが、人の髪の上で取り込みたての布団にじゃれつくみたいな挙動をしないでほしい。ちょっ、いたっ、痛いって!? 頭の上で取っ組み合いをするのは止めろ!!
もみ合いが終わるまでに抜けた毛の本数を考えると、酷く気が重かった…………。
【Tips】生ける現象である妖精や精霊にとって、時間という概念は非常に曖昧な物であり、何年前と時間の流れを思い出せるのは上位の個体のみである。それ故、妖精の領域から帰ってきた客人が、数百年の時の流れに置いて行かれることがあるのだ。




