青年期 二一歳の冬 四〇
元はセーヌ王国人であることを抜きにしても、基本的にアグリッピナという女は体面を然程気にしない。
より正確に表現するのであれば、見えない所には力を入れないとするべきか。
彼女は馬鹿にされればキレもするし、報復も考えるが、やむを得ない失敗まで突っつき倒して悦に得る気質ではないのだ。
身内に甘いのではない。偏に面倒くさいので、綱紀を引き締める目的を除いて罰則に興味がないのだった。
「ということで、全部不問ね」
故に彼女は、直通の思念通信機越しであっても、今にも責任を取って自裁しそうな面をしていそうな様が透けて見えるクリームヒルトⅡの艦長に言い渡した。
『しかし閣下……』
「もう一回人事選抜してる時間が何処にあるのよ。応急修理での厳封処置を終えて、魔導炉流路の二重点検をしたら直ぐに動くこと」
何よりも物臭なアグリッピナとしては、トリーノにやったクリームヒルトⅡ艦長以下の基幹要因から詰め腹を斬る勢いで謝罪してこられても困る。再び人事案に頭を悩ませ、山のような自薦他薦含む考査書類を読むなど断じて御免であった。
これがクソのように下らない、無精や不徹底による人的失態なら労働意欲も湧こうものだが、船内に衰えたる異邦の化身が湧いてくるなどといった例外中の例外の事件では大鉈を抜く気力など出る訳もなし。
こんなものを逐一本気で処理していては、船室で呼吸することさえ規則で明文化した上で許可することが必要になろう。
「それと、アグリッピナ・フォン・ウビオルムの名において、船内に異教の化身が降臨した一件は、以下事案X-112として処理するわ」
『え、X? 文書規定ではGまでしか振らないことになっていますが……』
「規則外の事件、例外処置を作らなければいけないようなことだから、二度と触れるなって言外に言ってるのよ」
官僚帝国たるライン三重帝国においては、保存すべき事件や案件を公文書にする際、特徴に従って分類分けを行う。Aから始まり、以降細分化して事件毎に数字を振るのだが、専ら終端三文字の記号を使うことはない。
尋常では想定不能、つまるところお上からすれば〝なかったことにしよう〟と腹を決める案件のために空けてあるのだ。
「異教の化身が懐に顕現するような事案、一々真面に取り合ってたら船なんて作れないでしょ。船内に簡易聖堂を置いて対応している現状で十分なのよ、普通は」
『そ、それは仰る通りでございますが……』
「だから、公にはなかったことにするし、貴官らに何らかの責任を問うことも罰則もなし。復唱なさい。昨日は、なにも、なかった」
他の貴族も官僚も報告書を上げられたところで反応に困りそうなことなんぞ、大きな裁量権を持っているウビオルム伯爵の権力でもみ消すに限る。
仮にこれが拗れて、航空艦の要求諸元に奇跡への〝完全な抵抗〟などと面倒な一分を書き足されたらどうするのか。普通自動車の設計時に何処かから一二〇mm滑腔砲が飛んで来るのを心配するようなものではないか。
昨夜の出来事は正に例外、夜陰神の加護に紛れて面従腹背の下位神格が下剋上を試みるなどといった、落雷で死ぬより奇異な希事。こんなもの、掌で握り潰すのが誰にとっても一番だ。
『……昨晩は、なにも、ありませんでした、閣下』
「大変結構。日程通りに帰還することにのみ集中なさいな」
『ウビオルム伯の深き慈悲、心より感謝いたします』
「何も起こらなかったことに慈悲も何もないでしょう。じゃあ、通信終わり」
〈思念伝達〉の術式を切り、アグリッピナはヤレヤレと船長室の長椅子に寝転びたい気持ちを抑え、脇息に体を預けるに留めた。
「よもや、クリームヒルトⅡが斯様な不運に見舞われるとは……」
目の前にアレクサンドリーネ艦長、グラウフロックの連枝が一人、人狼のピット・ヨルク・フォン・レーダー子爵が座っていなければ、もっと気楽に振る舞えたのだが。
「やはり、あの名は忌名であったのでは?」
灰銀の被毛からグラウフロックの血筋であることが分かるものの、かなり小柄で痩せぎすな彼は、一族の中では〝チビ〟のピットなどと異名を受けている。
その実、一族の若手では一番の出世株だ。今は所属艦が二隻しかいないが、ライン三重帝国大洋艦隊、第一航空艦隊提督兼総旗艦の艦長様なのだから。
「だから小官は、あの名は如何なものかと申し上げたのですよ」
しかし、どうにも神経質そうで小心者そうな人柄に役職が見合っていない雰囲気があるものの、これはアグリッピナの個人的な好みに基づく人事差配に依って引き起こされた違和感だ。
血の気が多い月を食む大狼の一家でもピットは指折りの我慢強さを誇り、細かなことにも気が付いて、ついうっかりといった失敗をしない几帳面な男だ。帝国内では左遷人事の名を欲しいがままにしている大洋艦隊にあっても、腐らずに働く姿勢が不運にも長命種のお眼鏡に適ってしまった。
才能があり、自分で考える能と決断力を備え、責任感が強い。正に外道の餌食になるために生まれてきたような為人ではないか。
そのせいで、ちょっと頭の螺旋がトンだ技術者が多く在籍している技研においては、親しみと皮肉を込めて〝常識人〟のピットなどと呼ばれているくらいなのだ。
「そんなことあるはずないでしょ。名前一つで運命が変わってたまるものですか。だとしたら、私のなんて相当酷いわよ?」
「閣下のお名前がですか? 寡聞にして悪い由来は聞きませんが……」
「まぁ、知らない方が気分良く過ごせるネタよ。少なくともセーヌじゃ同じ名前の人間に一回も会ったことがないどころか、家系図ですらお目に掛かったことのない忌まれ方をしてるんですから」
一瞬、細面の人狼は完全に硬直した。
これはアレだろうか、どう反応するのが正解のネタなのだろうかと。
人聞きが悪いとして忌み嫌われ、つけられなくなった名前という物は歴史の中にも多い。交流がある余所の言語だと言葉にするのも憚られる発音だったという実利的な理由もあるが、大半はその名の人物が何かを〝やらかした〟せいだ。
帝国でも同じ理由で廃れていった名は幾つもあるものの、よもや自分の上司が、故地で千年近く我が子に与える名として相応しくないなんて判断される名を冠しているとは思いもしなかった。
いや、たまにあるにはあるのだ。望まれていない境遇の子供が、継母あたりに当てつけの如く〝馬鹿の代名詞〟になっている人物の名を付けられたり、汚い単語をもじった名付けをされることが。
往々にして、そのような子達は成人を機に名を変えるか、庶子から嫡出子と認められて名誉が回復すると同時に新しい名前を付けて貰う物なのだが、何故にこの伯爵様は異国で爵位まで貰っても改名しないのか。
もし自分がジョゼという名だったらと人狼が考えたなら、吝嗇だと思われたくないので成人の時に改名するか、元々の名前を添え名に押し出して、個人名を変えたやもしれぬ。
まぁ、これはこれで結構大変なのだが。今までの書類が全部変更になるし、お披露目会とかで新しい名を名乗っても古馴染みは中々あわせてくれないし――何なら煽られることもある――名付け親からは酷く恨まれる。
だとしても、十世紀単位で眉を潜めるような悪女の名前が由来であれば、変更する手間も見合おうに。
「でも私が魔導宮中伯になって帝国が傾いたりなんてしてない。むしろ常人なら何十回過労死しても形さえ纏まるか怪しい、航空艦の実用設計から運用まで熟してみせる技研を立ち上げた能吏の鑑じゃないの」
「はぁ、まぁ、御身が亡き後に勲章の名前になるくらいの大活躍をなさっていることは否定しませんが……」
凄まじい自己評価の高さだと人狼は内心で戦慄したが、ケチのつけられない功績を立てているのは事実。法典規則では勲章を新設するにあたって、当該事業の第一人者の名を没後に用いることを認めているが、空を飛ぶ物を設計する人間の勲章ならば、正しく彼女の名が最も相応しい。
ただ、その裏で技研を形にする礎石として酷使されてきたピットは、言いたいことが百や二百では利かなかったが、常識人なので心の裡に収めるべく抵抗判定に成功してみせた。
微妙な表情を人類には読みづらい狼の顔で誤魔化した彼の特技はともかく、ここまで言った上でアグリッピナはふと思い出した。
「ああ、でも、存外馬鹿にできないものかもしれないわね。思えば貴方の個人名って、エアフトシュタット子爵の贈り名と被ってるのよね」
「ああ……〝堅物〟モーリッツ様ですね」
奇遇にもウビオルム伯爵領内の統治に貢献し、優秀な人材を家宰として差し出している外道の腹心、モーリッツ・ヤン・ピット・エアフトシュタット子爵もかなり〝常識的〟な人間で、大胆にして斬新すぎるアグリッピナの人事案に頭を抱えることが多い。
そのため、二人は技研労働組合で――無論、酒を呑んで愚痴を言うだけの非公式集会だ――幾らか付き合いもあった。
「でも気にするんだったらアレよ、貴方、次に生まれる子、名前に悩んでたんだっけ? なら、エーリヒは止めといた方が良いわね」
「そんな閣下、身も蓋もない……」
あまりにもあまりな物言いに、流石に人狼は哀れみを覚えた。
しかれども、験担ぎを大事にする軍人の中でも、殊更信心深い海軍畑の彼は、密かにエーリヒという名を名付けの案から消した。
〝弄月の迷宮〟出現予測地点まで輸送されている冒険者は間違いなく英雄だが、自分の息子にはもうちょっとばかし、穏当な人生を送って欲しいと願ってやまぬが故に…………。
【Tips】忌名。歴史上で大いなる失態をしでかした阿呆と同じように育たないよう、同じ名前を避ける文化は何処にでもあるが、長命種が幅を利かせる国家では昔のこと過ぎて何故忌まれたかすら忘れられることが間々ある。
「っくし」
咄嗟にクシャミを隠すのが間に合わない瞬間ってあるよね。
辛うじて手で抑えることはできたが、反射を留めて殺すことはできなかった。
「あら、風邪? ここ、寒いですものね」
残業帰りに迎えてくれたマルギットが言う通り――荒事なのに置いて行ったのに少しご不満そうだ――船倉内は飛行中だと結構寒い。約一〇,〇〇〇m、零下六〇度近い外界と比べれば結界のおかげで随分マシだが、それでも冬着が欲しくなるくらいには肌寒い。
今は冬だからいいけれど、これ真夏とかどうするんだろうな。下の環境に被服をあわせて飛び立ったら風邪を引きそうだし、かと言って厚着だと熱中症で倒れる種族も出てきそうだ。
「おーい、頼むぜエーリヒ。せめてもう一回してくれ。縁起が悪くて仕方ねぇや」
「無茶言うなよジークフリート……」
それはともかく、奇遇にもライン三重帝国ではクシャミに纏わる迷信がある。
一度は凶事、二度は偶然、三度は幸運。
噂をされているとかではなく運勢に纏わるのだけど、一回きりってのはどうにも験が悪い。かといって、主要面子が集まっている中でこよりを鼻に突っ込む訳にもいかないし。
「で、向こうの様子は?」
「半壊だ。重傷者だらけで合流しても戦力にはならないね。特にヤンネなんかは、殆ど人間の原形が残ってない」
「……元からでは?」
カーヤ嬢より至極的を射たツッコミを受けてしまった。
それはさておき、本当に重傷者だらけだもんで、当初計画の一つである別働隊と合流して〝弄月の迷宮〟を攻略しようとの魂胆はお流れになった。
あの状態では再編成しても大半が使い物にならないし、養生させておかないと予後が悪くなる者も多かろう。
のっけから予想が崩れているんだ、一回のクシャミが今更何だよ。
「どうあれ、動ける面子は想定の半分だね。弄月の迷宮攻略は難儀するよこりゃ」
「後続がガッツリ減るのは心許ねぇなぁ……」
「トリーノに派遣する方は、普通に損耗しない計算だったもんね」
戦友と頼もしき薬草医が困ったように名簿を眺めているが、赤線を引いて戦力外になった会員はどうしようもない。
誰が想像しようか。行って帰って来るだけで済むようお膳立てがされていたお遣いに差し向けた配下が、全滅判定を下されるような損害を被るなど。
〝弄月の迷宮〟は魔宮の中でも都市伝説めいており、実情が全く掴めない恐ろしき死地。そこを探索するにあたって、支援要員が足りなくなるのは正直辛い。
剣友会の戦闘教義、その根本は会長たる私と基幹要因を如何に損耗させず、元気いっぱいで大敵の前に立たせるかというものだ。
凄まじく高い塔、ついでに基底現実に存在しているかも微妙な場所ともなれば時間の流れさえアテにならぬので、補給部隊を編成して後詰めにすることを考えており、怪我をする可能性が低いトリーノ派遣組にそっちの人員を割り振っていた。
それに額冠の奪取に同行した配下の消耗も馬鹿にできない。どいつもこいつも死兵になって突っかかってきたせいで、死人こそいないが二割は到着までに戦線復帰できそうにない状態にある。
そして、アグリッピナ氏の助力は望めない。
彼女の協力はあくまで航空艦運用の試験飛計画に〝たまたま〟都合が良いように目的地があったり、航路があったりしているだけに過ぎない。親善外交も兼ねていたトリーノと違って、近衛が魔宮に踏み込ませることは立場上できないのだ。
流石に陛下からお預かりしている大事な精鋭、育成中の航空海兵を何が起こるかも分からない魔宮攻略に割いてくれなどとおねだりできん。
「まぁ、仕方ないんじゃないかな。それにそもそも、弄月の迷宮は構造がどうなっているかも分からないし、後続を安全に入れられなければ六人だけで入る予定だったんだ」
惨憺たる有様の名簿から目を上げ、ミカが前髪を弄びつつ言った。
「荷物は僕が運べるし、もう最初からそのつもりで準備しようよ」
我が友はいつも賢明だ。
たしかに魔宮は構造上、三次元空間たる基底現実に存在していても凄まじく不安定だ。斥候が五分前に通ったのと同じ道を辿ったからといって、後続が同じ場所に辿り着けるとは限らない。
様子を見つつ、物理的な安定性に欠いていた場合は、精鋭だけで突っ込むことも考えていたのだし諦めも肝心か。
ただなー、延々と切り貼りされた空間がだだっ広く続いている系の迷宮だと、補給が尽きた時が地獄だから嫌なんだ。
何と言っても我々はかそけき定命。水が尽きて三日もすれば日干しで死に、二日食えねば性能がガタ落ちする劣悪燃費。各々携行食を持ち歩きはするが、重量の問題もあって現実的には三日分が限界だ。
幸いにも魔法使いが二名いるので水の確保には困らないものの、食い物はどうしようもないからな。危険すぎて空間ごとこの世から排斥された魔宮の中で現れる怪物なんぞ、捌いて食ったらそれこそ死ぬ。私の〈空間遷移〉で在庫はかなり増やせるが、空間的に隔絶されていると取り寄せられないので準備自体はせねばならん。
名高き剣友会の最期が食あたりなんてことになったら、詩人も筆を置いてしまうだろう。
「あ、あの、本当に危険そうなら神器は二つでも大丈夫かと思うんですけど」
そっと控えめに手を上げて発言なさったのは、額冠を身に付けてから顔が月明かりの薄絹で隠れたままのツェツィーリア嬢。乙女の面覆いに隠されていても、大変困った表情をしているのが嫌というほど分かる。
ヘイルトゥエンの城塞に斬り込んで、我々が怪我をするのも厭うたのだ。別働隊の大損害に心を悩ませていらっしゃるようだけども、そこで無茶はいけませんよ。
「伝承に従うなら、三つあってやっと〈神降ろし〉が多少安全になるのでしょう? 体に負荷がかかって、治らない傷を負っては、それこそ会員達の尽力が無駄になります」
なので、ここはぴしゃりと気遣いを断らねば。
なに、この世でも指折りの胡乱さを誇る魔宮に挑もうとしているのだ。元より人海戦術でどうこうできるなんて、あんまり期待していない。
人手を突っ込むだけで解決するのなら、聖堂騎士団が疾うの昔に解決しているだろうに。
「まー、それに伝説めいた与太を実証できる栄誉を前にして、止まったら冒険者じゃねぇだろ。色々な事情を抜きにしてよ」
流石だ戦友、君も冒険者がキマってきたのか迷いが一切ない。
「第一、まだ見てもいねぇのに諦めるのは早いだろ」
現地に行って明確に我々の格では足りない規模であれば再考もするが、入り口の前に立ちもせず退いては名が廃る。
何よりも弄月の迷宮は十三夜と幾望月の二夜だけこの世に帰還する。つまり、初見で外から様子見しても一回だけなら引き返す機会があるのだ。
まぁ、攻略した翌日には満月が昇る冬至祭に間に合うようにしなければならないのは、滅茶苦茶困難だが何とでもなるだろう。
とどのつまり、この巷は出たとこ勝負。最初から腰が退けていては何事もなし得ないものだ。
「そういうことです。気に病むのはおやめください」
「一緒に死んでやるって勢いで現場に同行する覚悟決まった人間に言われても、俺らは止まらねぇよ」
戦友と悪戯を目論むように笑って方を組めば、心配性の尼僧が少しだけ笑ってくれたのが紗幕越しにでも分かった…………。
【Tips】推奨レベルや想定難易度といったご親切な物は、GMが教えてくれない限りない物と思わねばならない。自分自身の感性が全ての秤だ。
前回より随分と間が開いて申し訳ない。
9巻下も完全書き下ろし、まーた400ページ越えの分厚い物になりました。
そして、その9巻下の特装版を今回も作っていただけることになりました!
此度の特典はアクリルクロック!
アグリッピナが横に寝そべっているせいで、なんかヤベー魔導具感がありますが素敵な仕上がりになっています。
オフセでは終電を逃さないよう時計も必要でしょうし、是非是非お一つ予約いただければ幸いです。




