青年期 二一歳の冬 三七
遠い東の地に剣術三倍段という言葉がある。
剣にて槍に対抗するには、対手より力量が三倍必要であることを教授する術理であるが、これは徒手と剣にも適用できる。
要は遠間から攻撃できる武器の方が圧倒的に有利であるため、敵より三倍強くなければ勝負にならぬと言い換えられる。
そもそも戦力を如何にして数値化するかで議論の余地が多いにあるが、この言葉を参考にするのであれば、尋常の使い手ならば拳で剣に対抗することはできない。
「つぅぇぇぇいあぁぁぁ!!」
剣友会の会員、ヒト種の若い男性が怪鳥の叫びを上げながら大上段より剣を振り下ろさんとする。廊下の左側にいた彼は起こりを雷刀に見せかけて垂直に掲げ、振り下ろす刹那に鍔間近に添えていた右手を僅かに脱力させ軌道を欺瞞。
虚実入り交じる精巧な袈裟懸けの斬撃だが、それは攻撃として成立しなかった。
「せぃぁっ!!」
「なにっ!?」
剣が振り下ろされるよりも早く、亀甲人の老僧が剣の間合いに飛び込んで、振り下ろされる寸前の柄を捕まえたのである。
身を屈めて体当たりの勢いで肉薄し、剣の柄を取って捻じり上げれば致命の刃も届かない。
白刃取りと呼ばれる、無手にて剣に対抗する技だ。槍を捨てざるを得ないほどの混戦において間々見られる絶技が完璧に極まっている。
下手に抗えば剣をもぎ取られるのみならず、手首を破壊されると感覚から察した会員は、刹那の判断で攻撃を中断した。
代わりに、投げ飛ばされる勢いを借り、固定された柄を支点に跳躍。壁を蹴り上げて地面と水平に疾走。星の重みから逃れたるかの足取りで数歩壁を走り離脱した。
エタンが立ちはだかる右に逃れることで追撃を避け、愛剣を奪われることも阻止できたが、剣士の額には粘り気を帯びんばかりに濃い脂汗が滲んだ。
「か、躱さなかったら死んでたな……」
生きていることに意識がついていかず、直前に脳天から足下まで駆け抜けた死の気配に体が竦む。
今のは運が良かっただけだ。ほんの一瞬でも逡巡していたならば、手首の筋をねじ切られながら地面に頭から放り投げられていただろう。よくて気絶、順当にいってしまえば即死していてもなんらおかしくない攻防であった。
「エタンさん! 尋常な使い手じゃねぇぞ!!」
「わぁってら!! 四番だ! お前は俺と合わせろ!! 他の面子は雑兵を殺れ!!」
「っ……承知!!」
「クソッ、いい加減散れよ雑魚共!!」
剣友会は訓練にあたり、熟練の会員達に幾つもの連携技を仕込む。
その中でも四番と称される連携は、先頭が〝死に番〟となる覚悟を決めて突っ込む奥の手。
最初の仕手が玉砕覚悟で斬り込み敵を拘束。最悪、次に続く剣士か後衛に自分を巻き込んででも撃破させる戦術だ。
言うまでもなく、これは好ましいやり口ではない。剣友会の頭目の言葉を借りるならば、一:一交換は非常に〝勿体ない〟こと。冒険者の戦とは、常に行きて帰りしでなければならないとする信条に反してもいる。
しかし、この世ではいつ何時、命を捨てても勝てるかどうか分からない格上と遭遇するか分かった物ではないのだ。それに至って痛痒の一つも覚えさせられぬまま鏖殺されるよりは、覚悟を決めて一撃を与えた方が誉れにもなろうとエーリヒが考案し、このやり方を広めていた。
あのイカレた金髪は、自分が死に番を務めることを前提に練っているが、誰がやろうが格上相手にある程度通用するのは事実。敵が前衛であるならば刃を体で止めて押し止め、魔法使いや僧侶であれば自身を捨て駒に術式を受け止める。
命を捨てる覚悟を以て強引に勝ちの目を引き摺り出す、一種のヤケクソに会員達は乗ることにした。
老僧に斬りかかった彼も自分の剣の腕では勝てぬことを、先の一瞬で痛いほど分かっている。
そして、恐ろしく頼りになる前線指揮官の顔色が酷く悪いことも、あとで頭目から叱られそうなやり口を納得させていた。
牛躯人は巨躯と怪力による頑健さで知られる種族だが、その実ほかの頑丈さで売っている種と比べると幾枚も脆い。毛皮の長さと分厚さでは熊体人に大きく劣り、豚鬼の如き衝撃を吸収する脂肪もなく、巨鬼や目の前の亀甲人のような生体装甲も持ち得ぬ。
故に精緻に内臓を狙った一撃は、帷子を着込んで尚も立っているのがやっとという程に効いていた。
ヒト種でも分かるくらい顔色が悪く、のた打つ内臓が引き起こす吐き気を堪える牛躯人の足は、棒にでもなったかと錯覚する重さに憑かれている。
別の世界にて行われる拳闘試合では、あまりの危険さに後頭部打ちと並んで禁止されている技を受けたのだ。しかも、奇跡に頼らず〝人類の技量〟のみで胴鎧を貫通せしめる拳打の達人が放った大砲をだ。
最早、損得など抜きに速攻で決着を付けねば、立ち上がることもできなくなるような重症。初撃は着込みのある胴に受けたので即死を免れたが、二撃目は確実に耐えきれない。
痛みは甚だしく、頻りにひくつく横隔膜を気合いでねじ伏せて剣を構えたのは、正しく百戦錬磨の気骨がなせる偉業。エタンは返しの一撃で胴を貫かれようが、正拳で顔面を砕かれようが構わぬと脇構えにとった。
右に体を開き、やや前傾の入り身になり剣は腰の高さで背後へ伸ばし、自らの体で剣先を隠す。得物による防御を一切打ち捨てた捨て身の構えは、金の髪のエーリヒが愛好するそれと寸分違わず同じ。
極度の痛みと達人を前にした緊張が、常の技よりも幾段も技量を引き上げていたのだ。
「練武神の加護ぞある……」
痛みを抑えるべく、浅く一息。
対し、亀甲人は間合いを広げるため軽く突き出していた拳を収め、ぴたと体に沿わせていた。
前腕側部、そして肘を披甲する甲羅が手の形に合わせて窪んでいた胴へ噛み合うように納まり、鉄壁の防御を形作る。拳鍔もかくやの手の甲は菱形の顔を覆い、構造上胴体の甲羅に格納できなくなった顔面を護っていた。
捨て身の一撃を放ってくると気配で読み、生中な防御では斬り込まれると判断したのである。
のろまの象徴の如く扱われる寓話を嘲笑うかのように足運びは軽く、一所に留まることをせず常に跳ね続ける特有の足運びは、蹴り技よりも拳打による殴打を重視した末の秘奥。
大仰に跳ぶのではない。薄紙一枚の高度で左右に移動し、水の上を舞う木の葉を思わせる軽さで対手を惑わせるのだ。
腰の入っていない、体ごと斬り込む覚悟がなければ回り込まれ、また人体急所を狙ってくるだろう。
満身に力を込めたエタンは、自嘲するように顔を歪める。
最小の滞空時間にて最大の移動。自分達が尊び、今だ届かぬ移動の極意をああも易々と披露されては、絶望の一つもしたくなる。
その上、撃ってこいと言わんばかりに先手を譲る姿勢は、後の先を取ることを好む師と似ているではないか。
「師よ、俺に力を」
呟いて駆けだしたエタンは、信じて斬りかかる。今まで積み上げてきた自らの剣を。
痛みに脅えようとする本能に活を入れ、死圏に入るなと脅える自我を蹴り跳ばした。
たしかに今は拳闘試合ではなく、正に死合い。体の正面にある人体急所は勿論のこととして、延髄、あるいは後頭部も敵は狙ってくるだろう。
軽い当たりでも死を予感させる拳の硬さが恐怖を形作り、臓腑の痛みと共に這い上がって来て足に纏わり付くが、覚悟の踏み込みで蹴散らして拳半個分ほどの高さを滑るように前進。一〇歩の間合いを瞬く間に詰める。
狙いは逆袈裟、一刀に全てを込めるのではなく、躱されても体で止めて袈裟懸けの連続に繋げる。甲冑と同じで斬り倒すのが難しいのであれば、衝撃で昏倒するまで何度も打ち据える覚悟。
剣の振り出しは体が虚空にある刹那の最中に起こり、右下方から掬い上げる切り上げが放たれるのは左足の着地と同時。
「剣者は容易いな、剣にばかり頼りよる」
今生にて最も強い手応えを残したであろう一撃は、しかし肉は疎か装甲に食い込むこともなかった。
老僧が左拳の甲にて、受け流さなければ胴を断ったであろう斬撃をいなしたのだ。
「ぐっ!?」
エタンの体が大きく泳ぎ、体が開く。空振りしても次の攻撃に転用できるはずだった勢いが逸らされて、剣が技の制御から外れたのである。本来は対象を両断した直後にぴたと止める剣を、連打のため全力で振るったことが悪い方に働かされた。
吶喊の余勢が誤った方向を向き、体当たりで共に潰すこともできずにすれ違う牛躯人に老僧は目を留めずに見送るばかり。
「ちぃぇぇぇぇぇ!!」
「見え透いておるわっ!!」
元より捨て身で向かってくる死兵にトドメを刺して、本命を喰らっては素人からも笑われよう。
予想外の妨害を受けて右に流れていくエタンの背後から、首の高さに剣を構えて刺突と同時に突進してきた会員は、同様に切っ先を足捌きで躱されてしまった。
それも、ただ躱したのではない。間合いを詰めるよう亀甲人は自ら接近し、同時に振り上げていた右肘で会員の前腕を打擲する。
ヒト種にはない、膝蓋骨のような形状の肘を覆う甲羅は防具であると同じくして武器でもある。会員の両腕へ吸い込まれるように突き立った肘は、断頭台もかくやの鋭さにて橈骨と尺骨を割段。体内を伝播する衝撃が橈骨頭を伝わって肘関節を破壊し、上腕骨にも罅を入れた。
「まず一人っ!!」
返す刀の左拳は、踏み込みこそできないがヒト種の頭を砕くには十分。腰から肩、そして腕と拳の捻転だけであっても、老僧の拳と技量であれば、顎を垂直にカチ上げて頸椎までねじ切ることが確実にできる。
「ぬぅっ!?」
だが、顎の直下から掬い上げる形で放った打擲の刹那、強烈な違和感によって拳は上滑りした。
肉を打つ感触はある。だが、厚みが違った。砕いた感覚も顎のそれではない。
手だ。何処からか飛んで来た〝前腕部〟が顎と拳の間に割り込んで衝撃を殺している。
何とも異なことに、会員の頭部を護った手には持ち主がいなかった。肘から先の腕だけが、肉の盾として拳の間に滑り込んできたのだ。
「この……程度で、落日派が……死ぬ……とでも?」
血の緒を視界の端で手繰れば、人形の整い方をした美貌を盛大に崩した聴講生崩れが、自らの開いた壁の穴から上体をはみ出させつつ倒れている。菫色の義眼が拳の圧力に負けて溢れていたが、砕けていなければならないはずの顔面が原形を残しているではないか。
一番脆い頭部を怖がりのヤンネが補強しない訳がなかろう。表皮の下には脂肪層の代わりに顔面筋としても機能する〝衝撃吸収粘体〟を飼い、脳膜と頭蓋の間にも同じ物を充填して殴打への抵抗力を高めていたのだ。
だが、並の槌では気絶もしない彼女であっても、老僧の拳は効いたようだ。移植されていた右の増加前腕を切り離し、遠隔で仲間の命を救うのが限界。
「まだっ……まだぁ!!」
そして聴講生崩れだけではなく、剣友会の前衛は皆覚悟が決まっている。
死ななきゃ安い、そう頭の中で唱えれば、顎が割れて前歯が飛ぼうが体は動く。刺突を躱された剣士が組み付いて老僧を拘束せんと試みた。
「雌熊の神よ!!」
ここが奇跡の切り時かと、温存していた加護の招来を僧は遂に願う。
神は弱っており、下手に奇跡を希ってか細くなってしまった力を消費させては、大望を妨げる妨げになるととっておいたものの、そうも言っていられなくなった。
超近接格闘戦において有用な〈迷走錯誤の靄〉にて敵を惑わせ、組み付かねば冒険者達を掃討する余力が残らないと悟ったのである。
彼も賢明な僧だ。我慢ができず先走って散華した先達や同胞を見送り、尚も好機を待って偽装棄教を続けた慎重派。籠の鍵すら奪えていない状況で、出し惜しみして負けるような愚は犯さない。
「狩り夜の靄よ、我が身をお守りください!!」
極小範囲を包む靄を生み、飲まれた会員は折れた両腕で空虚を抱いて地面に転がる。
強力な加護だ。認知を歪め、強制的に惑わせる。神格の如くあらゆる行動を迷わせる領域にはないが、攻撃が自分に届かないように眩ませることはできる。
狙っている位置がてんで的外れであるならば、どのような攻撃であってもないと同じ扱いでよい。遠間より姑息に撃ちかけてくる敵に肉薄する助けにもなり、指呼の距離にいる敵にも攻撃を当てさせないことで防御にも攻撃にも繋がる。
この絶対的な護りによって、彼はこれまで幾度も計画された旧教関係者を狙った密殺から逃れてきた。
唯一の弱点は空間そのものを対象とする戦術級の攻撃や、一切狙いを付けない弾幕射撃であるが、それすら甲羅の硬さで耐える鉄壁の構築に抜かりはない。
いや、ないはずだった。
「がっ……!?」
凄まじい衝撃が背を襲い、思わず老僧はつんのめる。
転倒こそ免れたものの、大きく姿勢が崩れ、脇の下から覗き込んだ背中側にいるのは〝何かを投げた冒険者〟の姿。
あろうことか、エタンは自らの得物を一度きりの投擲武器にしてしまったのだ。
「何がっ……!?」
彼の愛剣は幅広かつ長く、適切に投擲すれば〝狙わなくても何かに当たる〟大物。
また、剣友会は視界を潰された、あるいは魔導的に隠匿している敵への対応も教育している。他ならぬ自分達が、強襲時に〈閃光と轟音〉の術式を愛用しているのだ。目眩ましを喰らったくらいで反撃できないようでは、格上どころか格下にも勝てないと理解して錬磨している分、引き出しの数は余所よりずっと上。
であるならば、敵を正確に捉えられないと認識した瞬間、前衛としての経験を積んだ冒険者が剣に固執する理由はない。
彼等にとって剣は友であるが、道具でもある。殺すためであれば、愛剣であろうと投げつけることに躊躇いはない。
「音に向かって飛べ!!」
それに、結果的に四番の連携が成り立つならば、それでいいのだ。
一瞬、決死の挺身によって敵を拘束、ないしは移動の著しい制限さえでき、強大な火力をぶつけられる好機を作れれば四番は成立する。
「えーいっ!!」
即ち、この場で最も巨大かつ重量があり〝瞬間的な最大火力が高い〟ウェレドに壁をぶち破って全力で飛びかかるよう誘導さえできればいいのだった…………。
【Tips】対象指定と場所指定。一部の魔法、または範囲攻撃技能において一人の敵を指定して攻撃するのではなく、効果発生地点を選択して無差別に攻撃を加えるものがある。
これはいわゆる広範囲への理不尽な暴力のばらまきを演出しており、何らかの追加技能がなければ敵味方の識別ができないことが多い。言い換えれば、隠密によって対象に取れない敵をも攻撃に巻き込むことができるのだ。
初期面子だけの賑やかしトループではなく、ちゃんと戦力になってるんですよと衝動的にプロットに差し込んだら凄い長さになってしまった……。
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