青年期 二一歳の冬 三四
土着の信仰が侵略してきた新たな信仰に紛れて生き残りを図るのは、これといって珍しい現象ではない。
地球でも日本の隠れキリシタンが仏像の裏にマリア像を刻んで潜んだように、またイスラム教から迫害されたバハイ教徒が偽装棄教をして耐え忍んだように、トリーノの旧教も同じく夜陰神に紛れて神格を保ち続けてきたのだ。
神体は夜陰神と同じく月なれど、夜闇と狩猟を司る大地母神は慈母の下に置かれ、ライン三重帝国神群の格付けでは〝夜の湖に降り注ぐ月光〟のみを司る格に落とされている。
いつもの手管だ。他国の神群を平伏させて併呑するにあたり、世界を産んだ全き善き神と全き悪しき神の戦の激しさがあまり、子神が自分の親を忘れるほど遠くに飛ばされたせいで夫婦神の眷属であることを忘れてしまったとする論法。
この神は地母神であり狩猟と獣を司るという権能から、力が及ぶ場と時間を獣達の水場である湖に限定されてしまったのだろう。
呑み込まれた神々は主体たる神格に付随する、何らかの現象を従属する神として与えられ、迂遠に貶められて信仰を削られる。月がなければ月光も注がぬように、風が吹かねば旋風が起こらぬように、事象の主と従が明確に切り離すことで意図的に存在を貶めることが能うのだ。
そして、いつの日か主従すら曖昧となり、下級神格が上級神格の概念に完全に呑み込まれる形で忘れ去られることが、不死の存在たる神の寿命と言えよう。
企業でもよくある話ではないか。元々、何かのついでで作った子会社が大成功し、親会社を上回る収益と名声を得たせいで、あそこって車作ってる会社じゃなかったっけ? と元の基幹事業が下に置かれてしまうことなんて。
ライン三重帝国神群においては月湖神、平定される以前は月と夜闇、そして夜間に蠢く獣達の神々にして地母神であった雌熊大神の信仰は密やかに生きていた。
トリーノは小さい都市国家だ。衛星諸国家の中でも南内海への〝便の良い通り道〟として帝国から存続を望まれているだけの小さな駒に過ぎず、大事にされてはいるが交易路として尊重されているだけに過ぎない。
斯様な国家であるため、当然ながら街道を除いた都市インフラは脆弱であり、帝都の如く夜闇を追い払うような魔導街灯が群れることもなければ、よほど裕福な名家でもなければ魔導照明を全部屋に設置することもできぬ。
そんな立地であるだけに、夜間に蠢く獣達を制し信徒を食い荒らさせず、狩猟を保護する戦神でもあった雌熊の大神は信仰を保ち続けていたのだ。
しかし、その権能は夜警と慈母の夜陰神に近いようで遠く、別神格として残すのも厄介だと思ったのか――あるいは、夜陰の慈母自らが望まれたのか――帝国の僧会は、呑み込んで神格そのものを消滅させる方向に動いていた。
決定的な一打を放てる状況にも恵まれず、領内には偃月の鏡台なる巨大な信仰の楔まで食い込んでいるとあれば、神格の命脈もさして長くはない。今やトリーノの民草には、そもそもの雌熊大神と夜陰神の違いを厳密に理解している者も少ないのだから。
これが最後の好機だと、旧教の者達が奮起するのも無理はなかろう。
正に最後の大博打、全てを場代として放るのに今をおいて他にない、奇縁にも程がある好機だったのだから。
無論、蜂起した信徒達も衝動的に動いた訳ではない。今なら出目次第で割に合う、そう判断しての一念発起だ。
偃月の鏡台を確保できれば、さしものライン三重帝国僧会とて怯もう。消化試合とはいえ内戦の最中にある上、壊れれば貸し出した僧会、ひいては夜陰神の名誉を大きく貶めることにもなれば、最大武力を投射してトリーノ諸共滅ぼす選択肢は消える。
いくら東方交易路が再打貫されたとて、交易の主要交易路は緑の内海、南内海なのだ。拗れに拗れて、また外征を強いられる手間を帝国は嫌おう。帝国は経済によって立つ大国であるため、戦争という非経済的行為を本質的に嫌うのだ。
槍の穂先と馬蹄によって信仰を語るとする聖堂騎士団ですら、握られた弱みの大きさによっては逡巡もする。
交渉にさえ持ち込めればいい。余裕があると同時に、その余裕を喪いたくない帝国も幾歩かは妥協する賢さがある。むしろ、賢しらであるからこそ、全力を出すかを躊躇うのだ。
神格さえ残れば、布教さえ禁じられなければ、後は時の流れに乗って帝国が弱まる機を待つことができる。種籾と同じで挽かれて芽も出ないようにされないなら、種を蒔くに良き季節を待つこともできよう。
故に雌熊大神の信徒は大博打に出て、参加者の横面を殴り倒すのに最適な瞬間に動き出す。これ以上、民草から主神の記憶が失われ、夜陰の中へ曖昧に解けて行かないように。
トリーノ領主の兵は、半分以上が大神の信徒に入れ替わっていた。館の従僕や使用人も密かに手の物にすり替えて、随員も巧妙に大僧都配下の旧教信徒で固めている。
全て、威光を夜陰神に掠め取られて弱まれど、隠すことに秀でた夜闇を司ってきた神格の奇跡がご加護だ。帝都から遠いこと、そして何よりも夜陰神が神格の取り込みに掛かっていることが、信仰をぼやかして欺瞞することを可能としていた。
これが別の神であったり、今より取り込みが進んでいなければ、こうも事前準備が上首尾に進むことはなかったであろう。
まるで何かの〝思し召し〟であるかの如く差配された好機に乗って、全ては同時進行、地滑りが如くコトは動き出した。
初手は、この場における最大戦力と権力者の排除。
これには南内海越しに苦労して入手した、亜竜の腐血を用いた毒を利用する。偉業の報酬として不死を賜った神話の英雄が、不死を返上することを選ぶほど悪辣な毒を生む竜……の末裔も末裔の絞り粕から得た数滴であるが、今の弱まった人間を悶死させるには十分な品。
仮に権僧正が死に損なっても、補佐として付き従う大僧都がトドメを刺すので問題ない。
はずであった。
「遅すぎる。何をやっているアロンツォ」
中庭で貴賓室の紗幕によって閉じられた窓を睨んでいた一人の老僧が呟く。直立二足歩行している亀といった様子の種族、亀甲人の彼は古い宣教師であり、一〇〇〇年を生きた古老だ。南内海側の神格であった雌熊大神の高僧たる彼は、雌伏の数百年を低い地位に甘んじて――偽装棄教し、律師位に留まることで処刑から逃れていた――耐えてきた地場の人間であり、襲撃の指揮を命じられている。
今宵は満願成就の夜、その一炊の夢の始まりなのだ。帝国が生まれるより前から一心に神を崇めた彼が、殉教して死んでいく同輩や先達の亡骸を正しい葬礼で送ることも許されぬ悔しさに、自らの嘴を噛み砕きながら耐えた日々が終わる大事な夜なのだ。
だのに、どうして第一歩目が躓いている?
作戦開始の刻限と同時、権僧正の排除が済めば開くはずの応接間の窓が開かぬことに、老僧は黒目しかない目の瞬膜を幾度か瞬かせながら呟いた。
「神々の内のどなたかが、我と彼を向かい合わせたもうたか……か」
聖典の詩篇にある一節を諳んじ、老僧は嘴を鳴らす。何事も上手く行かない。神から使命を与えられた男が戦に参じ、偽神から入れ知恵された男と相対した故事から成る詩は、どれだけ正しいことでも邪魔は入る物だと信徒を戒めている。
であるならば、予想外をも受け止めて突き進むのが正道であろう。
「手を貸してやれ。アロンツォが背信者を討ち損ねていたらコトだ。予備の部隊を押し入らせよ」
「はっ」
僧衣を纏った伝令役が館の中に駆けていく。トリーノ領主の配下を始末する人員には余裕があったため、戦術予備が一〇名ばかし用意してあるのだ。
如何なる加護を受けていようが、さしもの権僧正とて竜の腐血を受けているならば、アロンツォを退けたとて万全ではいられまい。最期の力を振り絞ったかどうか知らぬが、雑兵でも討ち取れるくらいに弱っているはず。
後は鏡台をしまっている宝物庫を強襲し、何が起こっているか分からない内に混乱している冒険者を掃除し、帝国の大使に布告を叩き付ける。
作戦など幾らか狂っても調整は可能なのだ。遠大なる計画と数百年の雌伏に女神は応えてくださっている。ならば、筋書きが幾らか外れても帳尻を合わせることはできると、老僧は笑おうとした。
だが、それを遮る轟音が一つ、いや二つ、三つ。
三階から人が振ってきたのだ。窓のみならず、壁をぶち破って。
「……は?」
それは隠れて雌熊大神を信仰する地下の僧兵で、館の衛兵に擬して潜伏させていた者だった。着地の拙さもあったが、体が袈裟懸けに半分ほど断ち切られているため、体が地面に触れる前に死んでいたであろう。
続いて人体の欠片が幾つか飛び散ったかと思えば、窓を突き破った褐色の巨体が屋根に跳ね上がり、別の窓から邸内に突っ込んでいくではないか。
「な、なにが……?」
圧倒的な暴力の矛先は下を向いていた。今度は二階から死体が飛んで来て、別の窓からは斬られた者が硝子を突き破って上体をはみ出させている。
驚愕によって速度が落ちた思考が、数拍遅れて彼に理解させた。
勘定には入れていたが、想定はしていない戦力があったと。
そうだ、もののついでに始末させようとしていた冒険者。あの巨大な船に乗ってきた者達は、近衛が動いていることの目眩まし程度に思って〝館の衛兵と同等〟程度に考えていた。
まぁ、無理もないことだ。クリームヒルトⅡの来航と急な偃月の鏡台を引き渡せなどという驚きに隠れ、あの冒険者達がどのような者達であるかを調べる余裕はなかった。
だが、神代も遠い今、冒険者なんぞ都合の良い、使い捨てるに惜しくない駒程度のはず。
しかしながら、軽く見れば見るほど、外からでも分かるような暴風の如く人を斬り殺しまくっている一団の説明がつかない。
しかも、どういう訳か連中は手当たり次第に斬っているのか、領主の手駒さえも排除しているではないか。最短、かつ最速で目的地に到達するためならば、敵味方定かなる障害を排除してでも厭わぬ姿勢が在り在りと窺える。
「ち、地階に向かっておるのか!? いかん、止めろ!! 権僧正の持っている鍵だけは何としても手に入れねばならぬぞ!!」
上滑りした思考がようやく真面に回り始める頃には、階段のあたりの窓が血に染まっていた。邸内にて吹き荒れている圧倒的なまでの暴力は、迷うことなく地階に、それも来賓室に向かっていた。
連中が形だけ同行していると思い込んでいた、冒険者の護衛であったなら?
コソコソと館の外で伏せていた近衛達は、神の奇跡によって煙に巻かれていようが、味方に働かせる都合もあって邸内にまでは隠匿の奇跡が働いていない。館の中で〝必ず道に迷わせる〟奇跡の霧を撒き散らしては、肝心の鏡台奪取に失敗しかねないからだ。
アロンツォは自分が権僧正を速やかに始末し、鏡台を運ぶのに使った輿を封印している鍵を奪うので、誰にも邪魔されぬよう館の中にも奇跡をかけるよう提言していたが、老僧は次善策のためにそれを却下していた。
だが、無理もなかろう。よもや頑丈な籠に捉えた小鳥をくびり殺すべく手を突っ込んだら、指を食いちぎってくるような怪物が一緒に放り込まれていることなど想定しろという方が無法というもの。
「うわぁぁ!? 何をする貴様ら!!」
「くそっ、手向かう……ぎあっ!?」
正門脇、鏡台の輸送に使う馬車を燃やさせるため差し向けていた配下の悲鳴が聞こえてくるが、老僧には最早気にしている余裕などない。
たとえ彼等が、武器を持って襲いかかってくる者は、事情など後回しにして斬れといった蛮族の極みにある交戦規定を遵守する冒険者から反撃を喰らっていてもだ。
一刻も早く鏡台を手中に収める、最悪でも破壊しなければ計画が破綻してしまう。
どれだけ上手くやろうと事態を誤魔化しておけるのは、正にこの一晩だけなのだ。
あの悍ましい魔導によって空を飛ぶ船を沈め、鏡台を捧げ、女神の帰還を願わねばならぬ。
さすれば、夢が淡く覚めてしまう。
老僧は全ての忍耐と献身を無駄にしてなるものかと、全てを質に入れて望んだ賭場の賭け金をつり上げた。
即ち、生き経典と化すことで焚書から逃れ、正確な教えを口伝で伝えてきた、今や数少ない〝原本〟とも呼べる自分を前線に送り込む危険を受け容れたのだ…………。
【Tips】亀甲人。南方大陸から南内海などの温暖な地域に多い爬虫類系人類。蛇腹状に分割された背中と胴を護る甲羅で胴体を護る頑強な生体装甲を持つ種族。頭や手足を引っ込めることはできなくなったが、代わりに手足の外部に背中と同じ甲羅が備わっており、これを体にぴったりくっつけて構えることで、源流である亀に劣らぬ被甲面積を得た。
極めて長寿で知られる種族でもあり、不老ではないものの、現代では実質的な寿命が観測されていない長命種に限りなく近い定命。
リハビリのために筆を多く走らせる必要があるので更新です。




