青年期 二一歳の冬 三〇
重厚な錠に鍵が刺さるまでに、大変な手間がかかったであろうことだけは、世間知らずという自覚があるツェツィーリアにも直ぐ分かった。
邸内は急いで片付けられてはいたが、至る所に戦闘の痕跡が残っていたからだ。
血の染みが残った絨毯、微かに臭う臓腑の悪臭、何よりも口惜しさを抱いて逝った魂の怨嗟が上げる名残。
大きく偉大な魂が共に逝ったおかげで、その全て共に天上へと召し上げられているようだが、抜ききれなかった染みのように感情の残滓がこびり付いている。
自分を心配させまいと、剣友会の者達が殊更元気そうに振る舞っているのが、尚のことツェツィーリアを苛む。
全く、今宵自分のためにどれだけの人間が死んだのか。
理論だって土豪達の末が長くないことも、これが時計の針を進めただけに過ぎないと説かれても、心根が容れられないのだ。万の言葉を詰まれようと、死の重みが軽くなることはない。
戦士は己が命を鴻毛の如く軽きに置くというが、聖職者にはどうにも納得しがたい理屈であった。
命の重さなど、本来神の視点で見れば等価であろうに。果たして今宵、己のために蕩尽された命と自分の命が釣り合うのか、ツェツィーリアには得心できそうになかった。
「ツェツィーリア嬢、どうぞ」
「……私が開けて、いいものでしょうか」
エーリヒから差し出された鍵は、綺麗な金色に輝いて彼女が崇める夜陰の神がもたらした奇跡を帯びているが、尼僧にはどうにも酷く血濡れて見えた。
何故、夜陰の神はヘイルトゥエンの血族を見捨て給ふたのか。だのに、どうして奇跡は今も篤く篤く残っているのだろうか。
神々が考えていることは、複雑過ぎて基底現実で三次元的にしか事象を捉えられない人類には理解が及ばぬ。何か遠大で、人間のままでは計り知れぬ重き事情もあるのだろう。
だとしても、ツェツィーリアは自らの主神に問いたかった。
何故に、人間はこうも懊悩する定めを持って生まれてしまったのかと。
「奇跡がかかった錠ならば、僧職が開けるのが一番障りもないと思いましてよ」
「だな。ぶっちゃけ、神器とか下手に触りたくねぇ」
「ディーくん、そんな呪われた魔剣と同じ扱いしちゃ……」
いや、だって怖くねぇ!? と魔女医に叫ぶ冒険者の意見は、専門家たる尼僧からすると一応は妥当だった。
あるにはあるのだ、神器にも危険な物が。詩に名高き担い手に滅びを運ぶ〝破滅運び〟や〝螺旋剣〟のように直截で陰惨な死を確約することはないが、手にするだけでかなりの艱苦を与えるようなものが。
また、扱いが悪ければ神罰が下ることもある。僧会も身内の争いで主神を激怒させ、何度か酷い目に遭ってきた。だからお宝だと喜び勇んで、拝みもせず、聖句も唱えず、あろうことか汚れたままの手で、ついでもって片手で持ち上げたりした日には……。
ああ、恐ろしいと身震いしてから、尼僧は自分を助けようとしている仲間達の懸命さに感謝した。
命の重さを感じさせる鍵を錠に差し込めば、まるで血を潤滑油にしたかのような自然さで開く。
そして、訪れた者を招き入れるように設計されていたのだろう。扉が独りでに開き、奇跡による照明が広い部屋を照らし出した。
「なぁんか、えらく殺風景だな。こう、俺が想像する宝物庫つったら、金貨がどわーっと波みてぇで、その中を宝石が星みたいに煌めいて……」
「君な、ジークフリート……いつまで堅気さんみたいなこと言ってるんだい。さんざ色んな宝物庫を暴いたけど、なかっただろう、そんなの」
「うるへぇ、夢があんだろ夢が!! そっちのほうが!!」
しかし、ジークフリートが溢したように、部屋の中はえらく伽藍としていた。広さ自体は十人からが寝泊まりできそうだが、中は寒々しい限りで鍵の掛かった箱が幾つかと、古い巻物や簡素な装丁の本が残るばかり。
鎧を着せておく飾り台や剣を立てかける額もあるが、実用性のある品以外は全て売り払われてしまったのか、寒々しさを感じるくらいに物がない。
「あれが、月明かりの額冠……」
他には、絹の紗幕に覆われた空間があるばかり。円形に天井から垂らされた幕は、内から漏れる光にて神々しく輝いているではないか。
そして、信仰に熱心ではない四人でも思わず近づくのが畏れ多いと感じるほど、濃密な神々の気配が漏れている。
エーリヒは太古の物なので、何処ぞかの遺跡を破壊することに定評がある教授が見つけ出した聖杯宜しく、識別判定が困難だったりしやせんだろうなと心配していたが、どうやら取り越し苦労だったようだ。
この威容であるならば、たとえ赤子や白痴であろうと触れがたい物と理解しよう。
「あぁ……紛れもなく……」
吸血種の尼僧が冒険者の間を潜り、ふらふらと紗幕の前に出たかと思えば、急に顔面を打ち付ける勢いで五体投地を始めたではないか。
仏教式のそれと違って、ライン三重帝国の神群に捧げる五体投地は膝を突いたあと、一気に上体から倒れ込んで、両手は横に広げているので見ていてとても痛そうだった。漫画であれば、ビターンとでも大きなオノマトペが書かれていたに違いない。
僧達からすれば、コツさえ掴めば派手に見えても痛みはないそうだが、端から見ていると、鼻を折やしていないかと心配になった。
「いや、まぁ……でも、ある意味安心っちゃ安心だな」
「偽物の可能性はなくなったね……」
「僧会の方って、たまに我々庶民が驚くことなさいますわよね」
「ま、まぁまぁ、文字通り神職の方は生きている世界がちょっと違いますから」
剣友会にも神職は何人かいるが、ここまで大仰な祈りを公に行うことはないので、一般人組は驚くばかりであるが、夜陰の神からの寵愛篤き乙女があれだけ感じ入る品ならば、ただの力ある魔法の道具を神器と〝勘違い〟していたという線も消えるため、安心と言えば安心だった。
「いと高き天に坐す我等の慈母よ、そのお力の一端に触れることをお許しください……」
朗々とした能く響く祈りの声と共に立ち上がったツェツィーリアが紗幕を開くと、請願に応えるかの如く光が強まった。
上品な月と星の飾りが彫金された夜空を思わせる台座に鎮座しているのは、慈母の神格が嫁入り道具として下賜したのが得心いくような、楚々として美しい銀の額冠だ。
この額冠は、花嫁が花婿に迎えられるまでは、薄絹を挟んで顔を隠すという古の習わしに用いるための装身具であろう。縁では蔦草の装飾が控えめに躍り、額の部分には不透明な黄色い宝石が嵌まっている。
既知の如何なる宝石とも違うそれは、正に月の光の具現だ。
恐る恐る神器に手を伸ばしたツェツィーリアは、触れる寸前、一つの声を聞いた。
ただ、赦す、と。
導かれるがままに神器を取った手は、自然と頭へといった。
額冠がぬばたまの黒髪に触れるや否や、冠の縁から白い光が垂れ始める。
正に薄絹と呼ぶべき、顔の輪郭を隠す布は光によって織られた形なきもの。嫁入り道具として、これ以上の物はこの世にあるまい。
「どう、でしょう。どうやら私、身に付ける栄誉をいただけたみたいです」
ほんわりと笑う尼僧は、この行いが神の意に沿うことであると分かったからか、少しだけ肩の荷が軽くなったような心地がしたという…………。
【Tips】神々は常に下界を観察しているが、特に自分が地上に打ち込んだ標に等しい神器の下には、神代が遠く過ぎ去った今でもより明確な神託を授けるという。
「やれやれ、英雄を助ける魔法使いも楽じゃないなぁ……」
戦功を上げた冒険者達がお宝を確認している一方で、旅路を助ける魔法使いは術式を練りながら小さく独り言ちた。
冒険の支援をするのも、古い友人を望まぬ結婚から救い出すのも望むところであり、労苦など厭わぬつもりであったが今宵は些か忙しすぎる。
第二陣として〝制御した投身自殺未遂〟をやらされた上で、息を吐く間もなく城館の無効化作業をやらねばならぬとは。
「先生、指示通りに楔を刺して来ました! 邸内の分は、あと少しで終わります」
「遺体の回収も、殆ど終わってます。城館の城壁だけは、攻撃を受けているのもあって全ての回収は難しいですが……」
「ご苦労様、みんな。まぁ、最悪首だけでも供養になるから構わないよ」
甲斐甲斐しく動いてくれている、エーリヒが貸し与えた冒険者達のおかげで手間はマシだが、それでもかなり気合いを入れねばならぬなと思い、ミカは懐から煙草の箱を取りだした。
僅かに口を開けた箱から、葉っぱだけを親指と人差し指の間にある窪みへ落とし、鼻から吸引して粘膜に触れさせる。
「んっ……ああ……やっぱりコレ、慣れないな」
鼻腔に素早く馴染むよう、鼻頭を摘まみながらミカは軽く涙目になった。
執務室以外の全域が火器や煙を厳禁とする出張所に馴染んだ彼が、作業中でも魔力の回復や精神の慰撫するべく調合した嗅ぎ煙草だ。
効果そのものは造成魔導師志願が手慰みに作ったのではなく、カーヤが精製した品なので覿面に効く。鼻水や唾液が黒くなることもなければ、粘膜から完全に吸収されるし、匂いも良いと使い勝手も抜群だ。
「今日は薄荷か……眠気も飛んで丁度良いかな」
魔力がじわりと体内の仮想臓器より湧き出す得も言えぬ感覚を確かめた魔法使いは、錫杖を地面に打ち付けてりんと鳴らす。
すると、城館本丸を護る敷地の中に大きな穴が空いた。亡骸を何体も収容できそうな穴へと、集められた戦死者や自害者が勝手に運ばれていく。
やり口はアリと同じだ。微細に隆起した土塊が少しずつ、バケツを回す要領で受け渡ししているだけ。
魔法と呼ぶのも烏滸がましい慎ましく細やかだが、効率的な術式だ。
「とはいえ、大分気合い要るなぁ、コレ……さぁてと」
もののついで、とばかりにミカは亡骸を丁寧に一つの墓穴に纏めながら、城壁を杖の先端で小突く。
「おお、流石先生!」
「助かった!」
すると、上から歓声が降ってくる。
ヨルゴス率いる固守担当部隊が城館外の兵から攻められていたのだ。今は大量に矢玉を浴びせ掛けられながら、堀を越えるべく渡された梯子を壊そうと頑張っていたので、ミカはそれを手助けしてやった。
構築物の建造が本領の彼だが、壊すことにも慣れている。戦略において敵の補給路を寸断することは非常に有効なので、あちらこちらで橋やら砦やらを何度廃棄させられたか。
地方のインフラを豊かにすることを目指して、北方から出て来た彼にとって忸怩たる行いであったが、役に立つのは事実。
騎竜の尻に竜騎兵と一緒に乗って、凍える思いをしながら――竜が飛ぶような高空は真夏でも恐ろしく寒いのだ――地域の人々も使うだろう橋を崩し、大昔に敷かれた街道を泥濘に変えてから逃げ去る仕事は心底業腹ではあったものの、戦場では下手な戦術級術式よりも煌々と光る。
梯子が何の前触れもなく〝バラバラになった〟ため、必死に主君を助けに向かうべく俄仕立ての攻城梯子まで作った兵士達の努力は、一瞬で無に帰した。
「やっぱ魔法使いおっかねぇー……」
「あの人、虫も殺せそーにねぇ優しそうな顔しってから、なまじっか強いとこ見るとこえーんだよな……」
「まぁ、俺らは廃砦の攻略とか、迷宮の探索で助けて貰う側だから良いんだけどさ……」
慕われつつも畏れを浴びるのに慣れつつあることも、ミカにとっては少し「なんだかなぁ……」という気にさせる。
あのエーリヒをして〝全ての前衛にとっての悪夢〟などと称させる腕前と術式の担い手なのだ。戦場で活躍すれば畏怖されるのは当然なれど、優しくて頼り甲斐のある造成魔導師を理想とする彼にとっては、どうにも据わりが悪かった。
いや、嬉しくないでもないのだ。ただ、本質的に造る側なのに壊し、妨げることにも変に才能があったのだなぁ、と己の自覚していなかった一面を実感する度、どうしても心がもにょもにょしてしまう。
「亡骸を埋葬したら簡単に碑を造って、ついでに地面を均して帰還用の竜艇を着陸させる滑走路……で、撤収準備ができたら館を焼いて、堀を埋めて、城門を倒すか……こりゃ下手なお勤めよりしんどいな」
ヘイルトゥエンの城館は廃棄することが決まっていた。エーリヒの雇用主が何かしようと考えているからか、無傷で占領したのと同じ特別報酬を出すので、必ず機能不全にしておいてくれと言い出したのだ。
故に館は焼き、堀は埋め、城門は倒す。できたら城壁もと頼まれたが、流石にそこまでやると鼻血では済まない。砲や矢を避ける術式、時という目の細かい鑢にも耐えられる加護が掛かった城壁なのだ。魔導的なやり口で破壊するとなれば、穴を開けるくらいならまだしも完全破壊はミカにも無理だ。
しかし、無茶振りにも可能な限り応えねばならないのが技術官僚の悲しいところ。
それに今回はエーリヒが、心底申し訳なさそうに「無理を言っているのは承知だが……」と前置きした上でのお願い。これを叶えなければ親友の名が廃ろう。
「ま、全部が終わったあと、三日は遊び倒す約束だ。報酬分の働きはするさ」
無給ではないのだ。エーリヒ持ちで好きに遊び回る権利をもぎ取ったから、割に合うだけ方々に連れて行ってもらう。
もうここまで来れば、遠慮もへったくれもない。元雇用主のコネでもなんでも使って〈空間遷移〉で帝都に連れて行ってもらって、エリザと三人で美食三昧をやった上で古典演劇を梯子する。
それを思えば、少々鼻血が垂れるかもしれないくらいの難事はトントンと言えよう。
「さぁ、じゃんじゃんいくぞー!!」
自分に気合いを入れるべく一つ叫んで、ミカは術式を練った…………。
【Tips】シーン外でもPCが働いていることもある。全ては同時進行的なのだ。
いわゆるシーン制TRPGの舞台裏判定。
プロットを見ていたら色々弄りたくなってGWに更新できなくて申し訳ない。
各媒体にてコミカライズ1巻と最新8巻(9.5割くらい書き下ろし)も発売中なので、対戦宜しくお願いします。




