青年期 二一歳の冬 十九
さて、距離的にマルスハイムとは相当に隔たれた場所に訪れたとしても、それが解れた空間の門を跨いだだけだと実感が薄い。
しかも、恐ろしく生活感が薄くて、体裁だけ整っていれば良いなんて投げやりさが在り在りと分かる、持ち主の〝色〟が全く滲まない部屋だと尚更だった。
「前と変わらず、呼び出しには直ぐ応えられるようにしていて感心ね」
「いいえ、むしろ私としては様子でも伺っていらしたのかと思うような時期でしたよ」
ここが何処か、正確な位置は分からないが、大方マルスハイムの外れに造られた秘匿船渠とやらの一画だろう。毎度の如く気楽な夜着のまま、寝椅子へ尊大に寝転がって煙草を燻らせている元雇用主にして、半ば貴族間でのケツ持ちみたいになったアグリッピナ氏がいらっしゃるのだから。
ジークフリートを出迎えたのち、まぁ具足も解いて風呂でも入って来いよと会長室から追い出した直後に召喚の手紙が来たのだ。
やはりブルーノ殿は仕事が早くて助かる。
そして、何時でもよいと応えた結果、即座に目の前に〈空間遷移〉の門が開いて、ここに連れてこられたという次第だ。
しかし、相変わらずこの力量は意味不明過ぎる。なまじっか〈空間遷移〉への造詣が深くなった今だからこそ、理論の謎さが増してくるのだ。
今の私は〈空間遷移〉を〈熟練〉まで取得したこともあり、私個人だけであれば〝有人の空間遷移〟に成功している。
ただ、それも視界の範囲内、最大距離でも“肉眼で”見える範囲が限界だし、他人なんていう自分と魔力波長も魂の相も違う存在を乗せるのは、おっかなくって考えすらしたくない。ドブから捕まえてきた鼠を使った実験にすら成功したことがないのだ。
死体を放り投げるだけで良いならまだしも、生きたまま、管区を跨ぐような距離を移動するのは博打を通り越している。
現地と目標地点の魔力の濃度、距離という物理的な障壁、空間を安定させる魔力……何があれば、こんなシナリオの八割くらいをぶっ壊せる〈空間遷移〉を成立させられるのかが、未だにとんと分からなかった。
まぁ、手紙を挟んで迂遠に何週間もやりとりしないでいいし、それを私に向かって攻性に使ってこないからどうでもいいんだけどね。
「しかし、貴方もまぁまぁ肝が太くなったわね。魔導辺境伯と、その傑作を足に使ってやろうなんて」
「師匠に恵まれたものですから」
ぷかりと吐き出される煙と共に飛んで来る揶揄いにも、今となってはかなり気楽に返すことができる。
以前なら死ぬ気で挑んで乳を揉むのが限界かなって怪物も、頑張りに頑張れば片腕くらい落とせるかなってくらいに思えて、少し気負いが軽くなったのだ。
とはいえ、未だその首を物理的に落とす方法は、欠片も思いつかないのだけども。
「最近、持って回った物の言い方ばっかりする連中と付き合ってばかりで飽きたし、貴貴方相手だから色々擲って直截に言うわよ」
「……むしろ、私相手にそれをする必要がおありで?」
「貴方は簡単に御せるから気楽で良いのよ」
これは軽く見られているというより、アグリッピナ氏流の親愛表現だろう。胸襟を開いて気楽に口を聞ける相手というのは、地下の身分ならまだしも社交界においては希少なのだ。
言葉尻一つ、たった一度時制を間違えただけでも致命的な失態に繋がりかねないのが社交の世界。気ままに、あるいはうっかりで口にした言葉を後から良いように解釈し、弱みにしてこない相手なんてのは、家族でさえ微妙な線という修羅の界隈だ。
況して彼女はウビオルム伯にして魔導宮中伯。独占している権益も持っている権限も巨大すぎることからして、アグリッピナ氏が呼吸をしていない方が都合の良い人間はごまんといよう。
一方で私と彼女は元師弟関係であり旧雇用関係。この広い帝国において、アグリッピナ氏が健康かつ今の地位にいてくれて助かる数少ない人間でもある。
これでいてアグリッピナ氏から投げつけられる汚い仕事を幾つも熟しており、弱みを握っていると言える存在なのに――ライゼニッツ卿に告げ口するだけで、結構な痛手を与えることだってできる――彼女は私の〝離反〟を一切警戒していない。
エリザという最大の弱みを握っているというのもあろうが、それも我が妹の献身によって日々紐帯は緩んでおり、ある種の保険であるにも拘わらず頓着していないのは、アグリッピナ・デュ・スタールという個人がケーニヒスシュトゥールのエーリヒという個人を信用、そして信頼してくれているから。
こう考えるのは、思い上がりではないと思いたいものだ。
「結果的に言うのなら、話に乗るわ。ただ、欲しい物が一つと、して欲しいことが幾つか」
「……僧会との交渉窓口くらいは務めますが、流石に弄月の杖を寄越せというのは無理難題かと」
彼女が弄月の杖、そして弄月の魔宮から出てきた書物や研究論文に値する物を欲するのは分かっていた。むしろ、我々が取りに行って渡すというのが船賃なのだ。
彼女が欲しない理由があろうか? 神代に神をガチでキレさせるような行いを思いつくのみならず、本当にやってのけた魔法使いの遺産を。
むしろ、軽々に出歩くことが能う以前の立場なら、面倒だし、人にやらせるより確実だからと自分で取りに行ったろうに。
「別に全体を寄越せとは言わないわよ。解体は私にさせなさいといいたいだけ」
それくらいなら、いけるかしら。ヴィリ殿も杖を解体して神体の欠片だけにすれば、〈神格降臨〉の扶けとなると仰っていたので杖本体を譲って貰うのは、話術次第で何とかなるやもしれん。
まぁ、邪悪な代物なので、一片も残さず焼却したいとも言われそうだが……どのみち、弄月の杖が魔導でできたもので、手練れの聖職者を数えきれぬ程屠ってきたとあらば、僧よりも魔導の専門家に解体させた方が被害も少なかろう。
神々が基底現実に在ることを許さず、世界の一部を畳んでまでなくそうとしたものだ。普通の職人が加工できる道理もなく、聖職者が触れるのも危なかろう。それこそ、今度は陽導神ではなく造徵神の化身か落とし子に降臨願わねばなるまい。
ただ、それでもアグリッピナ氏なら可能だと思う。未だ深奥を覗き見ることが能わぬ、いや〝この世界の枠組み〟から外れたくないのなら、知ってはならない知識を蓄えた脳髄ならば。
変な信頼かもしれないけれど、だってこの人、絶対神話技能持ちだぞ。探索者としては負の側面が強すぎて持っているだけで損になるようなものでも、元からの人間性が人類から乖離していれば何の問題もない。
「あと、世界を畳んでまで消した理由が杖なら、終わった後の塔は残るかもしれないじゃない? 私も暇ができたら見に行ってみたいのよ」
「興味がおありですか」
「神代の魔法使い。神々が地上に降りることもあった時代の人間が、不可侵であるはずの神性に触れてまで造った品よ? 技術は勿論、動機も含めて全て研究に値するわ。これを聞いて興味が惹かれない魔導師がいたなら、その位をさっさと返上したらいいくらいにね」
それを独占できたとあったら、どれだけの権益になるかしらと嗤う元雇用主のおっかなさったらもう。
この人は自分が欲しい物を欲しいだけ得たら、弄月の迷宮を魔導師向けの観光名所にでもしかねんな。そうして、方々の閥に学派を越えて恩を売りつけ、権限を得るつもりだろう。
かつて試み、ライゼニッツ卿を激怒させるに至った書庫浸りの日々。
書痴と呼ぶべき人間全てが羨む時間を取り戻せるに値する勲功だ。
たしか五年だっけか、アグリッピナ氏が教授も脅える司書連を抑えて書庫に〝住んでいた〟のは。
彼女は長命種としての処理能力に飽かせて、同時に多数の書籍を読みあさるということをしない。一冊一冊、手に取って本の質感や紙の手触り、古い墨の臭いや石板に粘土板の重みを感じながら、写本であっても書き手の筆致まで堪能し、情報を脳細胞で咀嚼することを愛する。
ならば、倦まねば永劫に生きることができる長命種としては、たった五年の時間は刹那といってよかっただろう。
まだ満腹になんてなっていないはずだ。まだ、まだまだ。魔導院の地下書庫は、私が入れて貰える部分だけでも概念的に空間が拡張、歪曲しており数十万冊の蔵書が犇めいていた。如何に彼女とて、五年そこらで完読することは現実的ではない。
そもそも、私は彼女がお国を出てきた理由がそれなんじゃないかなと睨んでいる。
推察に過ぎぬが、アグリッピナ氏は父の権力も使って国内中の読めそうな本は、漁れるだけ読み尽くしたのではなかろうか。王立図書館は勿論、セーヌにも魔導院に似た組織や僧会はあったろう。
然もなくば、こうも出不精と書痴の化身みたいな人間が、態々帝国くんだりまできて魔導師をやっている理屈が分からん。
聞いたとしてもはぐらかされそうだが……彼女がコネクションを結べるエネミーの内は、ご自由に愛書狂生活を謳歌してもらおう。
ただ一つ懸念があるとすれば、彼女が更に〝成長〟して、ロングキャンペーンで撃破されるべきアーチエネミーになるのを手助けしていないかってことだけど。
ほら、あるじゃない。第一回で冒険者や探索者達が何気なく持ち帰ったり、何の疑問も抱かず依頼主に引き渡した品がヤベーブツで、後々それで大いなる邪悪が復活しましたなんて筋書きが。
いやぁね、MP五〇点分だかになるなんて巨大な魔晶石を見つけて喜んで、顧客に買い取って貰ったら、それが太古の邪悪を封じた物だったってセッションに参加したことがあるんだよ。辺鄙な所にあったのは、大昔の勇者が氷河の奥へ永遠に封じておこうとしていたためでした、なんて後から言われたことがあってね。
失明心祭祀韋編といい、集めている物が胡乱すぎる。
「何よ、その目は」
「いいえ。今後も憂いなく、ありのままの貴女でいてくだされば嬉しいなと思っていただけです」
「……何急に雇用主を口説きに掛かってるのよ」
怪訝そうに煙を吐く元雇用主の言葉に、たしかに今までの関係がなかったら勘違いされそうな物言いだったなと反省する。
ほら……モッテンハイムの防衛戦以降、マルギットからファンサには、投げ接吻統一でいいんじゃないかって言われてしまって、ちょっと伊達男風な気障な振る舞いを求められがちでさ。
帝国領にも半島はあるけど麺類の国じゃないんだ。ミカとの戯曲めいたやりとりをするという遊びでならまだしも、素でこういう物言いをするようになったら終わりだぞ私。
気を付けなければ。このままでは序盤に出てきてPC1のヒロインに粉を掛けた上、「剣友会のエーリヒが向かったなら確実だぜ!」とモブ冒険者が言った次のコマで死んでる系のNPCになりかねん。
「ま、私が私のしたいようにすることを扶けてくれるというなら放言も諫言も自由になさいな。とりあえず、移動の間に人を貸して欲しいんだけど」
「……御配下なら山ほどいらっしゃるのでは?」
「実験に使っていい員数外って何時の時代でも足りないのよね」
ぷかりと煙に混ぜて術式が吐き出され、虚空に消える筈だったそれが滞留して航空艦の形を取った。
それは、忘れ難いあの晩、帝都上空を飛んでいった実験艦の姿をしている。
艦名はたしかアレキサンドリーネだったかな。飛翔にも船体維持にも恒常的な術式が必要とされていて、一瞬でも流路が破綻すると〝自重で崩壊する〟とかいう、整備面における欠陥品だったはずだ。
記憶が正しければ、整備の失敗によって“倒壊した”とか聞いた筈なんだけど……。
「むかーしの職工が残したとかいう、構想覚書をやっと手に入れたのよ。そこに面白い案が幾つもあったのよね。でも、試すのに度胸が要って大変で、参加者が中々集まらなくって」
小型の航空艦を模した煙からポンポンと何かが墜ちていく。
ばら撒かれたそれは、一定の高度に至ると大きく翼を広げて減速し始めた。
空気を孕んで鬼灯のように広がる布は……落下傘……くっ、空挺歩兵!?
「その覚書、前から欲しかったんだけど、職工同業者組合の親方以外が見られないような代物だから苦労したわー。前は伝手がなかったんだけど、航空艦建造で一気に増えたから。かなり精度の高い写本を借りられたの。本当は貸与じゃなくて、個人的な蔵書に加えたかったんだけどね」
面白い発想ばかりだったわよ、と仰るアグリッピナ氏の言葉に真面に応える余裕がなかった。
ど、どこの馬鹿だ!? 中世初期から盛期の空気が残る〝剣と魔法の世界〟に空挺降下なんて概念を持ち込みやがったのは!?
そ、そりゃあ昔からあったさ。騎竜に舟を牽かせて、そこから敵の城壁内に人を入れるって発想は。
ただ、如何に騎竜とて回船で運べる人数は、どれだけ無茶をしても三〇人ちょいが限界だったという。
しかも回船そのものには飛行能力がないので、騎竜諸共に強襲揚陸の上で展開せねばならず、重荷を背負った騎竜は運動能力が落ちてカモとなるため、結局は割に合わないとして見送られていた。
しかし、航空艦であったなら?
五〇〇人の空挺歩兵を一気に運び、都市上空を遊弋しながら一気に降下させられるとなれば戦術的な威力は甚大だ。守手側の戦術的教義が根底から覆ると言っても良い。
どんな高い市壁を持つ都市や堅城とて、空から一気に五〇〇人、かけることの航空艦数をも空から注ぎ込まれては保つまい。現在は防御結界と築城技術、そして戦略級術式の火力が拮抗しているため高い壁も、大きな城も優位性を失ってはいないが……。
い、いかん、この人の胸先三寸で世界地図が書き換わろうとしている!?
し、しかも家の会員を空挺降下の実験に参加させたがっていらっしゃる!?
「この落下傘とかいうの、出来は良いのよ? 前後に正・副の二つを抱える構造だから、適当な造りじゃなければ開かない確率は五千分の一くらいにできるかしら」
それが二個同時に不発なんて可能性、滅多にないのに肝っ玉が小さい連中ばかりでねと事もなげに仰るのは、貴方が何があろうと墜死しない飛行術式の使い手だからだよ!
「実証実験自体は有翼人の有志を募って成功させてるんだけど、まだ〝元から空を飛べない人間〟では大規模に試せてないの。だから五〇人ばかし都合して貰って、ヘイルトゥエン討伐の道々で何回か試しつつ、実戦導入って考えてるんだけど」
「い、いや、あの、フォン・ウビオルム……?」
「それに、敵前に無理矢理降りて、えっちらおっちら冒険者を降ろしてたら船に傷が付きかねないでしょ? 幾らアレキサンドリーネは最悪失ってもいい実験艦とはいえ、まだまだ使い倒せるじゃない? だから、一息に城館を落とさせようかなって」
「いやいや!? それならお手勢を使って実験させれば……」
「船の運用は、大抵が近衛を使ってるから、下手に危ないことさせられないのよねー。私も一緒に降りるならなんとでもしてみせるけど、そうもいかないでしょ?」
にぃっと雇用主の顔が悪い悪い、正に外道としか言い表せない笑顔を作った。
無言で言っているのだ。お前なら、億が一が起こって落下傘が開かないヤツが出てこようが、風に流されて迷子になるヤツが出てこようが助けられるだろうと。
できるさ、やろうと思えば。
ただ、会員達に〝制御した投身自殺〟をすることを喜んで受け容れさせるような、胸が熱くなる演説を打たねばならない。
そして、攻城戦ではなく空挺強襲によって城館を確保する必要がある。
いや、たしかに華々しく戦って死ぬほかないと腹を括った死兵が屯する城館を相手取り、真正面から攻城戦やらかすよりずっと被害は少なかろうけど。
「今なら特別に有翼人と騎竜の支援もつけたげるわ。湿気た土豪の館くらい、半刻もあれば落とせるんじゃなくって?」
旅費は月明かりの額冠を僧会に引き渡す前に見せるのと、ヘイルトゥエン城館に稀覯書があったらそれの譲渡。本以外は全て〝切り取り自由〟の確約をチラつかされ、ついでもって冒険者として世界で初めて実戦で空を飛んだという栄誉を並べられると、私としてはこれ以上の条件を引き出すことができなかった…………。
【Tips】釘なしの覚書。そのまた昔、一切の釘を用いず建物を造るという極めて前衛的にして高度な技術を持ったヒト種の職工が、定命故に実現させきれなかった構想を纏めた日記のようなもの。
原本が彼の一番弟子であった後継者に引き継がれているが、時折真偽定かなる写本が職人の中を出回ることがあり、その中身は千年先を見てきたかのようだと噂されている。
釘なしの親方は、以前にTwitterの“ルルブの片隅”にて、ちょっとだけ言及した人です。
帝国に手押しポンプや脱穀機を齎したヒト種で、割と早世しており本人曰く「構想の5%も達成できていないのに……」と悔やんでいたそうな。
ともあれコミカライズ版の1巻が4月発売に決まりましたよ!
コミックスなのでチャーシュー麺奢る位の値段にはならないと思うので、何卒よろしくお願いいたします。