青年期 二一歳の冬 十二
映画でよく見た、長椅子で眠る描写を格好良いと思っていた時期がある。
こう言っちゃなんだが、前世では割と育ちが良い方だったのだ。基本的に寝床で大人しく寝ていた私は、誰かに寝台を譲ってまで長椅子で寝る映画の登場人物に憧れていた。
ただ、仮眠で慣れたとはいえ、一晩過ごすと「もういいや」ってなるな。
「んっ……ぐっ……!!」
巻き金が入っていて詰め物もタップリではあっても、やはり長椅子は本質的に眠る場所ではないのだ。アグリッピナ氏は始終ここで転がっていたけれど、使った予算が違うので品質も同じだと思わない方がよかろう。
ばきりと苦情の音を立てる関節を伸ばし、顔でも洗うかと脱いでいた靴に足を突っ込んだ。
ふと自分の寝床へ目をやると、扉は未だ固く閉ざされたまま。
中ではセス嬢がマルギットに守られて穏やかに眠っているのだろう。何ヶ月も真面な寝床で寝ていなかったそうなので、是非ともご堪能いただきたい。
私の閨は、剣友会を立ち上げるに至って必要以上に豪勢な造りにはしていないが、夜討ち朝駆けを喰らう立場になったと自覚しているので、護りは厚くしてある。
警報、物理的な防護、結界、持てる技術と伝手を動員した小さな要塞とも呼べる堅牢さは、元々対策がしてある会館の中ということもあって、入れ小細工の要塞だ。
並の相手では扉にすら手を掛けられない度合いに仕上がっているので、安心して休息を楽しんで貰いたい。
人化の奇跡を賜っているセス嬢であっても、やっぱり昼間寝た方が精神にも体にもいいだろうし。
とりあえず見苦しくない程度に手櫛で髪を整えて、中庭の井戸に行くべく部屋を出た。
何人か勤勉に朝早くから起きている会員とすれ違って挨拶を交わすが……よし、まだ噂にはなっていないな。
よかった。金の髪が相方同伴で新しい女囲い始めた、なんて囁かれてなくて。
冒険者って、その辺は明け透けだからな。上司相手でも下ネタや揶揄が気軽に飛んで来るから暢気にはしていられないのだ。お盛んだと思われて、要らんオススメをされても困るし。
配下を慰労として、たまに私持ちで花街に送り出してやっている身としては、一緒にどうです? と誘われてしまうと、それはそれで困る。私は前世でも風俗街に連れ添って行くような人間ではなかったので、こればっかりは慣れないのだ。
「あ、旦那」
「おはようございまーす」
「おざっす師匠。早いっすね」
中庭では私と同じく寝起きと思しき会員達が身繕いをしていた。竈の鍋で湯を沸かしたり、それを桶に汲んで顔や体を拭ったり、黒茶を煎れて朝食を採ったり思い思いに過ごしている。
「何か昨日、ドタバタしてたみたいですけど仕事っすか?」
「ああ、ちょっとな。近いうちに集会を掛けるから、その時にでも」
「旦那ぁ、これ使ってくだせぇ」
「おう、助かる」
軽い会話を交わしつつ、ぬるま湯の桶を受け取って顔を洗い、ついでに濡らした布で体をざっくりと拭いた。剣友会の会員ならば、皆仕事の前には身繕いすることが習慣となっているので、誰もが同じように体を綺麗にしている。
昨日は私の要望で風呂を沸かさせたけれど、本当は浴場が開く日じゃなかったからな。あぶれた者も多いのか、普段通りの準備をしているのが大半だった。
うん、徹底できていて皆偉い。清潔感は人と対面する仕事で何より大事だからな。依頼人から好印象を受けられれば、次からはご指名の依頼を受けられる可能性も増えるので、清潔さは立派な〝武装〟の一つだと認識できていてなにより。
口も濯いでで寝起きのべったり感を吐き捨て――寝る前に口をサッパリさせる魔法薬でも作ろうかな――朝の支度を終えると、中庭に走り込んでくる気配がある。
「旦那! よかった、ここにいらした!!」
エタンだ。具足を纏っていることからして、幹部格になっても門衛をする生真面目さを発揮していたのだろう。昨日、報告に戻ってきたばかりだというのに大した勤労振りだ。
しかし、足取りといい久し振りに見る焦った表情といい、朝から予定外の客か?
「やぁ」
「えっ……!?」
その後ろからゆっくりと歩いて中庭に現れた姿を見て、俄に空気がざわついた。
人好きのする穏やかな顔、くしゃりと跳ね放題の愛嬌がある栗毛。そして、それに見合わぬ歩く巌が如く鍛え上げられた分厚い体躯。
外に出ているから前掛けこそしていないが、旗揚げに伴い辞した古巣で馴染んだ姿と変わらぬ英雄が何故かいた。
見間違いようがない。誰もが予想外の訪問者に驚いているではないか。
聖者フィデリオ。マルスハイムで最強の冒険者は誰か、という酒場の与太めいた話題では必ず名前が挙がる強者の一人。
その武威は彼が目立つのを止めた今でも翳ることはない。
近郊に野営を敷いた敗残兵を一党の僅か四人で打ち払った最新の偉業から、打ち捨てられて貯水湖の中で恨みが凝り〝一つに溶け合った〟自然発生の動死体群を浄化したという物まで、未だ現役の活躍が絶えていないからだ。
遠方にも英雄詩が轟く英雄が、何故朝早くに剣友会まで? 子猫の転た寝亭がある荒ら屋通りは、そこまで遠くないとはいえ、宿屋として最も忙しい時間に訪ねてくる理由にはならない。
そりゃあ色々教えて貰ったり、人員を都合していただいたりと今でも昵懇な間柄ではあるし、お互い手が離せないときは仕事を融通しあって需要を埋めている関係でもあるから、顔を見せる理由がない訳ではないが……。
嫌な気配を察し、私は一瞬で体に力が漲るのを感じた。
何気ない足運び、体の軸がぶれない武芸者の振る舞いはいつも通りで、嫌味にならない朗らかな薄い笑顔も常のように。
「急に訪ねていらして……」
報告するエタンの言葉は、最後の方が間延びして酷く間抜けな響きになっていた。
〈雷光反射〉が神経を加速させたのだ。
一切の気負いがない、ちょっとご無沙汰していた後輩に挨拶するべく差し出されるような右手が虚空を薙いだ。
空気が摩擦で焦げ、鼻を不快に生臭い臭いが掠めた。
空気がプラズマ化している。このプールの時間を思い出させるのは、オゾンだ。
体が極めて自然に動いていた。拳を引き戻す動作から極めて自然に繰り出される左の貫手。陽導神の加護か、赤熱する指の先に触れぬよう手首を弾いて逸らせば、僅かに逃げ遅れた前髪が焦げて散った。
「何だ!?」
「乱心したか!?」
周りが騒いでいるが、対応している余裕がない。貫手を弾かれた勢いを借りて、体が開くのに伴って右の蹴りが来る。
「ぐぉっ!!」
「くっ……」
肘で防いだものの、見事な蹴りの衝撃を殺すことは適わなかった。
何せ体重差が大きい。フィデリオ氏は上背が私よりずっと高いし、頑丈な筋肉の装甲と適度な脂肪の層が組み合わさって、まるで太っているように見えなくとも体重は一〇〇kg近い。
腕を振り子とし、しっかり腰が回って打擲の瞬間に伸びきる蹴りは、たとえ打点を脛にずらして肘で受けても殺しきれる物ではない。
分かっていたから、蹴られるのに合わせて押し出されるように〝跳んだ〟。
敢えて派手に転がることで衝撃を散らし、肉体に浸透せぬよう地面に逃がす。
それでも〝七回転〟もさせられて、漸く復帰できるってどんな威力だよ……。真面に首に喰らっていたら、折れるんじゃなくてもげてたぞコレ。
「テメェ!!」
「如何にアンタとて、剣友会の庭先で何しやがる!!」
「誰か! 鐘ぇ鳴らせ!! 非番のヤツ全員起こせ!!」
「手を出すなっ!!」
突然の乱行ではあるが、うちの会員はよく鍛えられている。訓練用の獲物しか手近になくとも、中庭に設置されているそれらを手にフィデリオ氏に打ちかかろうとしているではないか。
だが、数で圧倒していようと君らの手には余る。
何せ、本気の装備など何一つ纏っていない彼であってさえ、私は殆ど勝機を見いだせずにいるのだから。
やっぱりヤベーよこの人。弛まず練り上げた天与の肉体、高僧に等しい信仰、何より踏んだ場数による引き出しの多さ。
随伴歩兵と航空支援がバッチリの重戦車が人の形を取って立ちはだかっているようなもの。
殆どの攻撃は肉体の裡にて迸る陽導神の加護が止めるか癒やし、効率重視の魔術は形を結ばず解けて消える。〈騎士団〉にて取り囲もうが、仮面の貴人と戦った時のように結ぶ端から霧散させられれば魔力の無駄遣いだろう。
小細工なし、平等に殴り合おうぜ! と誰より秀でた肉体を持った相手が宣うクソみたいな平等の押しつけ。嫌になるほど真っ白な正々堂々……畜生、カラーパイ的に相性最悪じゃないか。私はどっちかっていうとコンボデッキなんだぞ。呪禁と破壊不能を同時に持つんじゃねぇ!!
絶望的な偶発戦闘なれど、この聖者が訳もなく殴りかかってくる訳がないことだけは理解していた。
少なくとも、事情を察し、仕方ないなと笑える位には付き合いが深い。
彼が鍛えに鍛えた武を振るうのは、それがやむを得ない時だけだ。
だから、この一戦には確実に意味がある。
私は〈見えざる手〉で近場に転がっていた木剣を弾くように取り寄せて構えた。
言葉を交わすこともなく、第二幕が開く。
初手はまたフィデリオ氏に取られた。体が陽光の如く輝いたかと思えば、三〇歩は離れていた間合いがあっという間に埋まったではないか。
身体強化の奇跡! 素の性能が高いだけあって、自己強化が乗ると人類の枠を気軽にはみ出してくるのがおっかなすぎる!!
行動値で軽々と上を行かれて先制されるのは仕方ないとして、この人もセットアップで動いて、しかも〝死角〟に移って殴りかかってくるとか勘弁してくんねぇかな!?
「おぉ!!」
「はぁっ!!」
お手本のような牽制の貫手を切り払って、追撃の体当たりから逃れる。本当は回避しながら抜き胴を打ちたかったが、左手が腹を護る位置にあるので悪手とみて断念。彼の力量なら、そのまま掴んで投げに持ち込まれる。
鍛錬用の木剣は、聖者の指に込められた〈陽光の刃〉によって焦げ付いているが、概念や奇跡さえ斬ることを〝通常の一撃〟で自然に発揮できる今、何とか対応できていた。
とはいえ、これも彼が素手だからだろう。本気の装備、本来は騎馬兵が使うような巨大な突撃槍が相手だったなら、秘めた神秘の差で破壊されていたに違いない。
「しっ!!」
「いい反応だ!!」
回避と同時、躍るように体を捻って位置を交換。聖者の左斜め後ろへと回り込み、しゃがむような姿勢で足を刈るべく低く剣を振るった。
が、しかし、相手は殴られながら殴り返すのを旨とするガチガチの前衛だ。木剣は、ひょいと上げた左足の裏で受け止められてしまった。
靴の木底は割れているが、なんとも器用なことに〝靴の中〟で指に刃を掴まれた!!
背筋に走るゾッとした直感に従って剣から手を離せば、靴底へめり込んだ木剣がそのまま放り投げられる。
手を離すのが、あと瞬き一つ分遅ければ、そのまま地面に引き倒されていたな。
本身だったら斬れていた……なんて言い訳はするまい。むしろ、剣先に皮膚が触れた感覚がないので、しっかりと刃に触れぬよう挟まれていたから、真剣であっても結果は同じだった。
おかしい、この人の得物は塔の如き巨大な盾と槍だろうに。何でステゴロでここまでやれるんですかね?
驚愕しつつも体は動き、また〝手〟で取り寄せた木剣で斬りかかる。剣を蹴り投げる動作の一瞬の隙を突いて斬り込み、腹に一撃を叩き込むことに成功したが……。
「ぐっ……本当に人間ですか貴方!?」
「体や鎧で受けるのは基本だよ!!」
分厚い筋肉、そして何よりも刃を逸らす体術によって強くはじき返されてしまう。
冗談だろ!? 今、普通に殺す気でやったんだが!! それを受ける瞬間に体を動かし、〝刃筋を乱れさせて〟耐えるとか、人間業じゃねぇ!!
しかも、まるで野太いゴムの塊を殴ったような手応え。体の芯にはとてもではないが響いていまい。何でだよ、肉が薄い脇腹を打ったし、タフという言葉が似合うヨルゴスでも肺がよじれて昏倒するような手応えがあったのに……。
「だが、良い一撃だった!!」
相手が昇り、また沈むことで永遠の再生を司る陽導神の信徒なのも良くない。刃は立たず、重い手応えこそあれど致命打には遠く、もののついでみたいな気軽さで治癒されるだろう。
この自己完結性と継戦能力がマルチアクション型のプリーストの強みであり怖さ。一撃で殺さないとバフと回復を重ね掛けして、時を経る毎に強大になるのが最悪過ぎる。
反撃するでもなく間合いを空けたフィデリオ氏の右手に弾けるような光が凝縮していく。
拙い、この距離は攻撃祈祷の間合い! 強い光は、陽の光に由来する投射型の奇跡……。
回避か? いや、ここは中庭だ。本当に拙くなったら何があろうと割って入ろうとしている配下がいるし、まだ中で寝ている連中もいる。
じゃあ防御? いや、神聖による魔導の否定は強く、私程度の術式強度では〈空間遷移〉の門を開いても、攻撃が途切れる前に霧散させられる。
斬り飛ばす……できるか? 真剣ならまだしも、木剣では不可能。
さっきから「こんな心躍る敵手ならさっさと喚んでよ!!」と飢えに軋む叫びを上げる〝渇望の剣〟ならば可能性はあるが……やはり、斬り飛ばした残滓が周囲に齎す被害が無視できない。
一か八か、〈空間遷移〉障壁が数瞬拮抗している間に持ち替え……。
「おっと……調子に乗りすぎた。あー……肋骨が二本も折れたなー……これはもう戦えないなー……」
「はい?」
急に態とらしく、しかも何やら奇跡を霧散させて構えを解く聖者。
周りもざわめいていて、事態を把握しかねているらしいが、私は何となく分かっていた。
そもそも、フィデリオ氏の攻撃には殺気がなかった。
まぁ、当たれば普通に死ぬ威力だったが、得物を持ち込んでのカチコミじゃないこともあって――この人、既に英雄詩になる勢いで一回やってるからな――君ならこれくらいで死なないでしょ、という意図は察していた。
相手は単身で無肢竜を狩る怪物から、そんな信頼を投げられるとマジで勘弁してくださいと土下座したくなるんだけどね。
「……で、陽導神への面目は立ちましたか?」
「一応ね……いってて、いや、本当にすまない。君のことだから何か理由があるのだろうけれど、僕も信仰者として〝神託〟が下るとどうしてもね」
そんなこったろうと思ってたよ。
フィデリオ氏は陽導神の信徒で、与えられている奇跡の格から鑑みて〝相当のお気に入り〟であることは間違いない。
陽導神から何かしらの神託が下っていても不思議ではなかった。
よもや昨日の今日で訪ねてくるとは思わなかったけれども。
「皆も騒がせてすまない。君達の頭目を襲った非礼を心から詫びよう……ってて、いや、骨折るのなんて半年ぶりだな」
「あっ、その、治していただいても……」
「いや、朝方に訪ねて無礼を働いた戒めとして、自然治癒に任せるよ。ここで奇跡を希ったら、まだ戦わないといけなくなるし」
セス嬢の居場所が陽導神に割れていないとするなら、他の神々が何かしてるな。便乗して自分の格を上げようとする神格は多いし、それでなくとも悪乗りが好きな神は多いのだ。上司の孫が恋愛で自爆しそうになっていたら、煽りの種のために乗り出してくる連中には幾つも心当たりがあった。
試練神とか輪転神とかさ……あと、水潮神もこの手の話にノってしでかしてくれる神話があった筈だ。
フィデリオ氏ほど、熱心に祈りを捧げているお方ならば、某かの電波を引っ掛ける感度も高かろう。
「さて、できれば落ち着いた所で話ができないかい?」
「ええ、勿論……私の部屋で話しましょう」
しかし、剣友会の面々は事態を飲み込みかねているのか、私達が急に戦うのを止めたことに戸惑っている。
無理もない。彼等はセス嬢の事情など知らないのだから。
ただ、あの聖者に勝った……? とかざわめくのは止めてくんないかな。マジじゃないから、どっちも。
「いやぁ、普通に君の勝ちだと思うけれど。僕も普通に難儀するようになったなぁ」
「お前達! 絶対言いふらすなよ! 口外法度だからな!!」
「誇ってくれた方が、僕としては骨を折った甲斐があるんだけどな。装備と奇跡以外は本気だったし」
「煽らないでください! いいか! 調子乗るなよお前ら! 絶対だからな!! 説明は後で皆を集めてするから、今は本当に自重しろよ!!」
ほら、行きますよ、とフィデリオ氏の手を引っ張りながら聞いてるんだか聞いてないんだか、盛り上がり始めた配下に掣肘を加えて私室へ向かう。
やだよ、まだ私の身に勝ちすぎるわ。
何よりマルスハイムの聖者を下した狼とか、ちょっと不穏過ぎるだろうが…………。
【Tips】神々は仕事で忙しいため、常に地上にかぶりついて信者の行動を監視している訳ではない。
7巻発売から1週間、ありがたいことに今もKindleオーバーラップジャンル1位を死守しております。
そして、ほんの一瞬ですがライトノベルジャンル1位も取れ感無量です。
そして、作者からのお願いなのですが、誤字報告はKindle等のプラットフォームよりも編集部へメールするか、筆者にDMしていただけると、その分他社を介さず編集作業に入れるのでありがたく存じます。
基本、電子版は何処も同じ内容なので、奇跡的に版上げできることになれば、その方が作業がし易くてですね。
ということで、陽導神からのテコ入れによるミドル戦闘。
まもちき通ってルルブ見たら「あ、イベント戦闘だな」と察するヤツ。




