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青年期 二一歳の冬 一〇

 「会長……何かありましたか?」


 「何も」


 応えながらも、我ながら配下に何かを察せざるを得ない表情をしているようだと実感している。


 「囓った苺が傷んでいたような顔をしていますよ」


 「聞かないのが美点だ」


 ただ、うちの連中は貴族相手の護衛もするから、表情を読む技術は新入り以外皆心得ているし、同僚か部下でもなきゃ機嫌が悪そうな相手を気軽に煽るほど治安が悪くもない。


 そんなだから暇を出されるのだぞ、とは思っても言わないでおいた。


 如何に配下相手でも、言って良いことと悪いことがある。


 たとえ相手が過ぎたる放言によって〝聴講生を止めさせられた〟元魔導師志願であっても。


 「まぁ、会長のことだから、どうせ女絡みでしょうが……」


 「五月蠅いぞヤンネ」


 くすくす笑う配下は、詩に親しんだ人が見たら一目で〝わるいまほうつかい〟だと納得するような癖のある外見をしていた。


 大枠はヒト種に収まっているものの、ぱっと見ただけで〝真面〟じゃないと分かるだろう。


 その右目は羊か何かから貰ってきたのか瞳孔が横に裂けた金色で、左目の瞳は黒いのに強膜(しろめ)が澄んだ菫色(ライラック)という強烈な色彩。しかも菫色の目がが右目より微妙に大きい上、何かを探るようにグルグル引っ切りなしに動いているときた。


 癖のない黒髪を襟丈で短く整えているのはよいが、内側だけを目と同じ菫色に染めているのは、何か呪詛的な意味があるのだろうか。


 中性的で少年とも少女とも呼べる顔と形容すると我が友人を思い出させるが、ミカのような魅力ある性別不詳さではない。整ってはいるがどことなくノペッとした作り物めいた造型のせいで、人形が喋っているような不気味さすら感じられる。


 そこにジャラジャラと触媒を付けたローブを着込み、マルスハイム出張所の魔導師が揃って来ている白衣を羽織った異様な姿をしているとなれば、これをわるいまほうつかいと形容せずして何と呼ぶべきか。


 「マルギットさんを怒らせた……って感じじゃないですね。喧嘩なら、大体いつも貴方から折れてますし、長引いたところは見たことがないですから」


 「ここまで言われて、まだ話を続けようとする神経は評価してやろう」


 「そりゃあ、興味が湧いたらやってみる、聞いてみるのが魔導師ですから」


 「聴講生くずれ、だろうが」


 「ひっで」


 牙にも似た乱杭歯を覗かせながら臆面もなく笑う彼女は――自称ヒト種女性だが、分かったものじゃない――剣友会の拡大を決めた後に受け入れた魔法使いだ。ミカから「助けてやってくれないか」と請われて受け入れたというほうが正確だが。


 「で、何があったんですか?」


 「知ったら地獄に道連れだぞ」


 「会長が落ちる地獄なら、そりゃあもう面白そうですね」


 息が詰まったような特徴的な笑いを溢す魔法使いは、元々マルスハイム出張所の所属だった。そして、古巣はご覧の通りに落日派だ。さっきお遣いを頼んで渡した夜陰神聖堂への書簡を受け取った右腕は肘から先が分裂し、前腕部が二本あったことからして、何を専攻しているかは誰でも分かるだろう。


 死体や動物ではなく、自分自身を弄くって、より高度な生命に至ろうという発想に取り付かれた変態の一人である。


 これだけ体に魔導を無理矢理ぶち込んで尚も正気を失わず、むしろ十全に使いこなしているだけあって性能の高さに疑いはない。


 しかしながら、それをひけらかさずにいられない自尊心が彼女をここに運んできた。


 何でも師匠と人体改造に対する持論をぶつけ合った末に喧嘩して、出張所を放り出されたようだ。


 そして、研究を続けるため、何より日銭を稼ぐため仕方ねぇなと冒険者になろうとしていたところ、裏でヤバい薬を商っているバルドゥル氏族から粉を掛けられて難儀していたのを見かねて、ミカがうちに引っ張ってきた。


 我が友は、とても面倒見が良いのだ。同じ出張所で仕事をした仲だし、これ以上拠点としている街にアレな薬が出回るのは嫌だからと、ともすれば私が倒すべき敵になりかねない彼女を味方に引き込んでくれた。


 ヤンネの師もキレはしたし、衝動的に追いだしたが頭さえ冷やせば帰ってくるのを許す程度には師弟仲も破綻しておらず、学籍は残っているそうだから、道を逸れすぎて〝処分〟されないようにしたかったのだろう。


 まぁ、似た末路を辿って盛大にぶっ飛んだヤツ(屍戯卿)と数年前に殺し合ったばかりなので、協力するのもやぶさかではない。


 「で、どんな地獄なんです?」


 「なら、落ちる時は真っ先に足首を掴んでやるから、それまで待っていろ」


 実際、人体に精通しているだけあってカーヤ嬢の補佐として、立派に剣友会の衛生兵を務めてくれているので、この物言い以外に文句はない。


 我等が若草の癒し曰く、現場での応急処置や縫合は自分より上だそうで、会員が戦線復帰するまでの期間が大幅に短縮されたのは事実だった。


 当の癒やされる配下からは「されるのが本当に〝治療〟なのか不安」とか「気付いたら知らない臓器が増えてそうで嫌」と大好評なのは、少し改めて欲しいが。


 別に私だって、気位が高い跳ねっ返りの新入りは嫌いじゃない。むしろ、これくらい自信に溢れて小生意気な方が冒険者には向いている。このまま魔導師になるより冒険者やってる方が肌に合ってるな、と定住を決められても受け入れて良いくらいには気に入っていた。


 無害である内は、我が友からの願いも含めて放言も許そう。剣友会はやる気がある者を拒まないのが方針だ。


 あと、狂人ではあるが、ライゼニッツ卿と同じく比較的無害な狂人だし。


 なにせ、まず自分を弄くってイケるなと確かめてから論文を書く狂い方をしているので、その点は信用ができた。


 「えー? 今知りたいなぁ。知識欲は熱い内に食べるのが一番ですよ?」


 「悪いが、今教えてやれる程にはお前を信用してない」


 「そんな相手に書簡を渡していいんですか?」


 ヒラヒラといつの間にか左手に持ち替えた書簡が揺れる。人間のソレではない、毛が生えて立派な近接武装と呼べる長さの爪が伸びる腕は、犬の流れを汲む亜人の物だろうか。


 薬で不老長寿になろうとするより、性能を手っ取り早く上げられる点は同意するが、後日談の世界を臭わせる改造を自分に施す感性は未だに理解が及ばない。


 GMから強くなれるよ! と囁かれたとして、やらなきゃ死ぬという段に及ばねば選択肢にすら上がらない常軌の逸し方は、一体何を鼻から吸引すれば沸いてくるのか。


 ほんと、魔導院の関係者はみんな良い空気を吸って生きていらっしゃることで。


 だが、魔導を知っているという点においては、他の会員よりも使い勝手が良いのだ。


 「どんな術式が掛かっているか、分かるだろうよ。荼毘に付す手間が省けるし、場合によっては行方不明で処理されたいなら好いたようにしろ」


 「いやぁ、払暁派の臭いがする術式の使い手に言われると怖いなぁ。あの人達、他人が死んでも結果が面白いかどうか確かめてから香典を包んでくる狂い方をしてるし」


 「それが社交性という猫なんだ。覚えて被れるようになれ」


 「まず自分が原因で人が死ぬかも、って物を理解した上で情報秘匿のために使ってると説得力ないですよ、会長」


 何を言っているのだろう。知られたかもしれないし、で遣いに出した者を念の為に殺しておくような連中もいるのだから、私は大分マシだろうさ。


 要らない好奇心さえ出さなきゃいいのだ。簡単な理屈だろうに。


 「いいから行け。急ぎだ」


 「畏まりました、我が主君……あ、ところで」


 「なんだ?」


 「もうちょっとしてから中庭に行けば、お風呂上がりの匂いが嗅げると思うんですけど」


 「……お前、そっちの趣味があったの?」


 うへぇ、という顔を隠さないで言ってやると、ヤンネは形の好い秀でた鼻を指さしながら、こっちも特別製ですからと笑う。


 あー……あっち、穏当に終わってたらいいなぁ…………。




【Tips】論ずるまでもなく人体改造は異端であり、それを晒さず、むしろひけらかすような派手さは、落日派でさえ〝好ましい〟とは言わない。怪しい風体と一目見て異形と分かるそれは、似ているようで随分と違うのだ。




 剣友会中庭の中庭には、簡素な風呂場が設けられている。


 外見は飾り気がなく、傍目に見れば併設された蒸し風呂と区別が付かないだろう。なんで三つも蒸し風呂があるのか、と首を傾げられそうな風情であった。


 しかしながら、中にはつめれば三人、二人ならばゆったり浸かれる立派な浴槽があった。


 木製のそれは、魔導院聴講生のミカが友人からのおねだりを受け「これ以上甘やかさないでください」と周りから叱られそうな気合いを入れた特注品である。


 縁に座ってもささくれで痛みを感じることがないよう、丁寧に丁寧に磨き上げられて滑らかな表面を晒す枝垂れ松(トウヒ)の良品を用いており、得も言えぬ樹木の芳香が浴室内に立ちこめる。


 小型の汽罐(ボイラー)で湧かした湯が注がれる浴槽には、若草の慈愛カーヤが作った薬湯が適温に調整されてなみなみと揺れていた。


 濃い緑色に染まった湯は、片隅で揺れる布袋に詰められた薬草から滲み出した成分によって打ち身や切り傷、骨折と関節痛を無理なく癒やしてくれる。会員達からも大好評で、これに優先して浸かれる権利がサイコロ遊びの質に使われる程だった。


 しかし、そんな癒やしの湯に浸かることを贅沢だと実感しながらも、ツェツィーリアは酷く尻の据わりが悪い思いをしていた。


 浴槽のせいではない。正に貴人へするような手付きで頭と体を問答無用で洗ってきた蜘蛛人が、一人で体を洗っている時間がいたたまれなかったのである。


 彼女達は一方的にであるがお互いのことを知っていた。


 ツェツィーリアに対してはエーリヒが「こんな時に彼女が入れてくれれば心強いのに」と事あるごとに逃避行の最中にぼやき、マルギットには輝かしい青春の一幕として伝えていたからだ。


 優しくて強い幼馴染みであると友人が相当に慕っていることをツェツィーリアは知っていたが、その関係が往事から大きく変質していることを理解すると、妙に頭がふらついてしまう。


 吸血種に流れる冷えた血が、風呂でのぼせているのではない。親しい友人が全く知らない〝大人〟になっていたことを何度も実感として叩き付けられ、脳が過負荷に悲鳴を上げているのである。


 「やはり、聖職者様からすると見苦しいですか?」


 「へっ!? い、いえ、そんなことは。聖印を刻む文化がある僧院もあるので、決して……」


 洗い場で濡れ髪に手櫛を通して水気を払う蜘蛛人の上肢、ヒトの肉体部分には無数の刺青が躍っていた。


 喉首から肩口に掛けては蔦草の柔らかな弧が覆い、指先に向かって伸びるにつれて稲光もかくやの鋭角に変じていく。なだらかな胸を縁取るように入れられた杯のような紋様の下には、臍を囲む乱れた鋸歯の刺青が走る。


 その図案から開いた狼の顎を連想するのは、きっとツェツィーリアだけではないだろう。


 「まぁ、自分でも随分増やしたと思いますもの。色々ある度に図案を考えて、思い出をなぞるように針を入れて貰う……悪くない心地でしてよ?」


 腰の裏側、蜘蛛と人の境目に近いくびれ付近に透かし彫りの蝶が躍り、脊椎を囲むように走るのは茨であろうか。どちらも背後から襲われぬように、という願が掛けられていた。


 「定命は移ろい、忘れやすいものですもの。こうやって体にでも刻んでおくか、あの子のようにマメに日記でも残すかしないとね」


 まぁ、細々付けていらっしゃるのは殆ど業務日報みたいなものですけれど、と口に手を添えて楚々と笑う蜘蛛人の刺青や、入浴前に外していたピアスの数々には確かに驚かされたが、それよりも尼僧の目を強く灼く花が一輪咲いている。


 首元の鬱血痕。それは、丁度縋り付くように口を寄せねばならない場所で、自分達が残すと聞く凄惨な傷跡とはまた違った主張。


 睦み事の名残だ。


 ツェツィーリアは五〇になろうとしている、純潔の吸血種としては若年の個体である。定命から転んだ者とは違い、ゆっくり時間を掛けて価値観を育んでいく種族であるが、ヒト種で言えば成人するかどうかという年頃が近い。


 一〇〇歳を成人とするのは半ば長命種に倣った文化に近く、早熟な者は早い内から価値観を大人へと近づけ、相応の知識も得ていく。


 豊穣神の聖堂の次に妊婦を多く受け入れている夜陰神の信徒たる彼女が〝そういった〟知識を持たぬ道理もなく……脳裏に一瞬で色々な夢想が駆け抜けていった。


 あまりにも慌ただしい。少し前に一夏の冒険を共にした少年が多義的に大人になっているという事態は若い吸血種にとって衝撃的に過ぎた。


 記憶の中から大伯母が語りかけてくるようではないか。


 「ま、儚き定命に惹かれるのは若き非定命が必ず陥る病よ。甘美で一生物の病」


 あれを聞いたのは友人と気楽に過ごせるよう、百年の自由を約束してくれた時だったか。長命種よりは忘れっぽい吸血種であっても、あの警句は喉に刺さった小骨のように引っかかって忘れようもない。


 あの大伯母が、この世に憂うことなど何一つない、とでも言わんばかりに振る舞う奢侈帝の表情に秘められていた真意が初めて分かったような気がした。


 「でも、あの人、ちゃんと自分が有名人になったという認識はあるようなのが面白いんですわよね。この間なんて、日報の誤字を見つけて〝後世で文下手だったとか言われたらどうしよう〟なんて呟いているんですもの。歴史に残る気満々で可愛らしくなくって?」


 「それは……そう、ですね。少なくとも、私は……忘れないと思います」


 忘れようとしても忘れられまいと、彼女は湯の中で体を擦った。


 この体は出会った時から大して変わっていない。その証拠に裾が擦り切れた以外の理由で僧位を仕立て直したこともなかった。


 だが、友人はどうだろう。六年、たったの六年だ。瞬きに等しい、これから彼女が生きることに倦むまでの時間と比べれば、昼食後の黒茶を嗜む時間のように短い時間で定命は変わりすぎる。


 久方ぶりに会った少年は青年に変わり、仔猫のように燦めく目ばかりはあの頃と同じでも、すっかり大人になっている。肩幅が広くなって、背も伸び……うん、伸びて大人の男になっていた。


 剣を佩いた姿は堂々として、煙草まで吸うようになって。知らない時間を積み重ねている。価値観が全く違う重みを持った時間を。


 二一歳なのだ。冷静になると、もうそこら辺を無秩序に走り回るきかん坊を何人か養っていてもおかしくない年齢だった。


 同じ時間の〝瞬き〟を経れば二七歳。そろそろ社会でも若造扱いしてもらえなくなるだろう。


 二度重ねれば、三度重ねれば……一〇を越えることはできるだろうか。少なくとも一五回は、期待しないほうがいいだろう。


 大いなる喪失感と埋めようのないズレが具現化したのが、目の前の蜘蛛人なのではないかと吸血種は錯覚した。


 最も分かりやすい時間の流れ、それを具体的にするのは結婚や子供の存在。


 まだ。そう、まだ金の髪と彼女の間に子供はいないけれど、何れ定命と非定命の間に横たわる〝世代〟という格差が姿を現すだろう。


 その時に自分は、どう感じるのかと考え、一切想像できないことに尼僧は戦慄いた。


 「ふふ、まだ赤ちゃんなのね、その辺は」


 「へっ!?」


 考えに没頭していたからか、吸血種は蜘蛛人に顎を持ち上げられて初めて、彼女が同じ浴槽に浸かり終えていたことに気が付いた。


 「吸血種が成人に百年かかる意味が分かりましたわ」


 「えっ、ちょ、あのっ……」


 「教えてあげましょうか? その咀嚼し難い感情……二日か三日は要るかなと思いましたけれど、分かりやす過ぎて本当に……まさか、一刻も要らないなんて」


 「なっ、なな、なにが……!?」


 その気になれば振り解くことも容易いであろう、自分より圧倒的に小柄な蜘蛛人の体を振り解くことができず吸血種は焦った。


 少なくとも狩人は本気を出せば一瞬ではあるものの猪を組み伏すことが能う膂力を発揮していない。


 乙女の柔肌に触れるのが相応しい手付きで顎を下からなぞり上げ、天井を見上げさせる。


 尼僧はふと、世の中には天井の木目を数えている間に終わる、という定型句があることを思い出した。


 しかし、嘘だと実感する。時間が過ぎるのが遅い。まるで、滴る水滴の軌跡さえ見えるようで……。


 「食欲、それか単に〝おまぬけ〟で人に頼ることに慣れたお嬢様かと警戒していましたけれど……貴女、惹かれているのね」


 「ひっ……惹かれて……!? なっ、なん……ひゃっ!?」


 「前にね、一度こういうことがあったのですよ。あの子、魔法が使えるからか血が美味しいみたいで……性質の悪い蚊みたいな吸血種……貴女たちの文化だと〝吸血鬼〟と呼ぶのでしたっけ?」


 「わっ、わわ、わたしっ、牙は一度も……!!」


 「でしょうねぇ」


 するりと敏感な首筋を往き来していた手が顔に寄せられ、唇をめくるように親指が牙をなぞった。


 「その人とは私がお話ししてお引き取り願ったのですけれど……よくあることらしいですわね。吸血種の恋愛感情と捕食欲求が重なって、どちらか分からなくなくなることが」


 「ほっ、捕食!?」


 悍ましい言葉に温かな湯の中にいるというのに体がぞっと冷え込んだような気がした。


 牙を柔らかな首筋へ潜り込ませる妄想をしたことがない……とは、ツェツィーリアも言わない。もっと未成熟な頃、先達の僧に告解したことさえあった。


 それに覚えている。心が上げた囁きを。手足がねじ切れ、冷たい床に倒れた少年の血を吸い尽くし、永遠の伴侶にしてしまえという浅ましき種の欲求を。


 だが、彼女はそれを振り払って奇跡を希った。


 あの人には、目映く鮮烈に、瞬く雷鳴のように生きる〝温い血〟を失わないで欲しかったから。


 命の灯火が消えるまで血を吸い尽くし捕食は無論のこととして、代わりに己の冷えた血を流すことなど寒気に身を裂かれるようではないか。


 きっと後悔する。彼のことだから許してはくれるだろうが、許されたことに耐えきれなくなり陽の光による最期の慈悲を欲する己の姿が見えるかのよう。


 駄目なのだ、それは。ツェツィーリアは自身の感情であるにも拘わらず、丸っきり理解できないが、血を吸わなかった今だからこそ明確に「ならぬ」と思った。


 「だけど、貴方は血を欲しているのとは違う感情を持っている……教えてさしあげますわ。それをね、俗世間では(Liebe)と言うのですよ」


 「こっ、ここ、こここここ……」


 子音ばかりが口蓋を滑り舌の上で空回りして、僅か二音節の言葉が形を結ぶことができなかった。


 そう、恋だ。


 だから吸血種は血を吸い、与えて貰う特別な定命のことを〝恋人(Liebhaber)〟と呼び現す。


 自分達の複雑な習性と感情を俯瞰した、皮肉が好きな誰かが言い出したのだろう。


 愛と言うには浅ましく……ただの食欲にしては身を焦がしすぎると。


 そして、初めてこの感情を正しく呑み込み、憧れに灼かれながらも永遠にすれば二度と元に戻らない定命に惹かれて、ただその感情を消化するのに百年が必要だとされたのかもしれない。


 「私達定命に比べると随分と血生臭くて、そして難しそうですけれど……分かりますわよ、難しいですわよね」


 くすくすと膝に跨がるように座られても、身動ぎ一つとれない吸血種は己と氷を比べたら、どちらが硬いだろうかと思った。


 「でも、それが恋ですものね。ええ、ゆっくり噛んで、呑み込んで、肉にすればいいと思いましてよ」


 「あああ、あの……なんで?」


 立ちこめる湯気のように形の定まらぬ問いでも狩人は笑顔で受け止めて笑った。


 初恋なんてのは、誰かと分かち合うから面白いのだと…………。




【Tips】他国の吸血種からすると、帝国の吸血種は些か詩的に過ぎるとされる。


 無論、小馬鹿にした意味でだ。

さて、いよいよ7巻の発売日が近づいて参りました。

現在、Kindleで停止中の4巻下の校正作業を進めておりますので、発売再開をお待ちの方は、今暫しお時間を頂きたく存じます。


週明けには気が早い書店で並びはじめるでしょうか。

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― 新着の感想 ―
手遅れになってからの恋ほど悲しいものもないだろう。愛しい相手が冒険者という死と隣り合わせの世界にいるならばなおさらね ↓
[一言] やれやれ…蜘蛛女は余計なことをする。 いわれて気づくのはなんて無粋なことかしら。
[良い点] 妾の誘致とかしてたかぁ?と思ったら恋バナ相手かww
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