青年期 二一歳の冬 八
塒の一階には事務所がある。名簿やら予算、備品の帳簿を確認するために専門の部屋があった方がいいだろうと思って整備したのだ。
現在の職員は六名で、日中は常に誰か一人いるようになっている。私やジークフリート、他の幹部格が出払っても事務が滞らぬよう、シャイマーさん他数名から推挙いただいた方々がここで働いていた。
つまり、冒険者にも物怖じしない気っ風の良いおばさんの巣窟というわけだ。若いのはマナールさんだけだが、彼女は既婚者だし夫はマルスハイムの衛兵さんであらせられる。下手に未婚の若い娘さんを飢えた野郎共の中に投げ込み、進んで不和の種を蒔きたくなかったが故の人選である。
皆、頼りになるし遅刻もせず働いてくれるのでとても助かっている。この時代、ちゃんと手紙を読んで仕分けできるというだけでも大したことなのだ。そんな人を安心して雇えるのなら、払った銀貨以上のアドは確実に取れているというものさ。
まぁ、剣友会を婚活会場と勘違いしている節がある若くて綺麗な娘さんからの志願を断ったせいで、すげぇ不平を言われたこともあるのだけど。
ただでさえ血の気が多い冒険者に燃料を注ぐ馬鹿な頭目が何処にいるというのか。
男子校だと五〇過ぎた食堂のおばちゃん達相手でも「誰が一番可愛いか」で派閥ができると聞く。斯様な中へ同業者と違って血の臭いを漂わせない、爽やかなご婦人を放り込んでどうなるかが予測できないほど頭が悪くないつもりだ。
「えーと……どこだ?」
しまった、暫く会館運営の事務を丸投げしていたせいで、物の配置がまるで分からん。私は一部を除いて全ての部屋が開く主鍵――決して戦槌やバールではない――を持ってるからいいが、セス嬢が自分で施錠できないのは拙かろう。
あんまりひっくり返すと、明日出勤する事務のおばちゃんに怒られるなと悩んでいると、近くに気配があることに気が付いた。
そうだ、〝彼女〟なら知っているかもしれない。
「ウェレド」
「ひゃい!?」
扉の隙間から私をコソコソ覗いていた女性が甲高い悲鳴を上げ、決まりが悪そうに出てきた。
いや、その体躯を見ればコソコソという形容は似合わない。
なにせ、上背は私より高いのだ。〝蜘蛛の下半身〟を縮こまらせていても。
「また隠行の練習か」
「は……はいぃ……」
浅い褐色の肌と冠飾りのような単眼、そして足先が微かに紅い蜘蛛の下肢を持つ鳥食い蜘蛛種蜘蛛人の名はウェレド。南方大陸流民系の血筋で、私ではなく〝マルギットに憧れて〟剣友会の門を叩いた新人冒険者だ。
切れ長の瞳は自信のなさにより眇められているせいでより鋭く映り、彼女の出身部族の風習らしい目尻を飾る緋色の化粧、なにより憧れに倣おうと開けた左右二連の眉ピアスが厳めしさを一層増している。
あの巨体でも壁に張り付き、物陰から奇襲して獲物を押し潰す動きは正しく大型人類の面目躍如といった強力さがあるのだが……見ての通りの図体なのでマルギットの真似をするのには向いていないと評価せざるを得なかった。
他の種族では届かない強みはあるが、輝ける箇所が限定されている構築の難しいサプリメント追加種族といった風情だ。
「向上心があるのは結構。だけど、私を尾行するのは止めなさい。バレバレだったし、曲者と勘違いして斬り捨てたらどうする」
「しゅっ、しゅみません……」
だが、怜悧な美女という賛辞を授けて誰にも恥じぬ外見にも拘わらず、この小心さであり、目立つのも大嫌いなのがウェレドという少女――そう、なんと六つも年下なのだ!――だった。
今はマルギットに付けて鍛えさせているけれど、モノになるまで時間がかかるだろう。
追跡ではなく、不意打ちで強力な一撃を噛ます待ち伏せ型の構築にしたら強力だろうに、マルギットと同じ完全隠密型を目指すのはデータマンチ的に言えば勿体ないの一言なれど、本人の意志なら仕方ない。
それに何やかんや言って蜘蛛人だ。壁にも貼り付けるし、屋根にだって登れるのだから適性もあるにはある。巨体のせいでたまーに天井をぶち抜いたり、捕まった場所ごと剥がれて落っこちることがあるそうだが、そこはご愛敬としておこう。
「た、ただぁ……お師様が……会長相手なら、まっ、まま間違って斬られることもないだろうってぇ……」
「……自分の相方を練習台にさせるとは、彼女も人が悪過ぎる……」
まぁいいや、丁度良い。ウェレドは冒険者一年目だから雑用もさせられているので、鍵の場所も分かるだろう。
聞いてみたら、マナールさんの事務机の脇にある金属箱だと教えてくれた。
「助かるよ。暫く入らないと物の配置が変わっててね」
「かっ、かか、会長は会長にしか、で、できない仕事がおありでしょうからら……」
生来の吃音ではなく、単純な緊張で乱れているであろう姐御肌な声が面白かった。これだけ小心だと冒険者として働かせるのに少し不安はあるのだが……まぁ、それをして「手ぇ出したらヤバくない?」と男衆に思わせる見た目の強さで何とかなっているからいいか。
中身は追々で良いのだ。彼女も彼女だけの理想を心に描いているなら、いつか憧れの自分の背中に手を掛けることもできるだろう。
むしろ、若い冒険者なんぞ、それくらいの方が面白いってもんじゃないか。
できないなら止めていくか、静かに消えていくだけのことさ。
「……あれ? そういえば君は今日、マルギットの班で仕事だったろう。都市内で内偵系の依頼だったと思うが……」
「しょ、しょの……しっ、仕事は終わりましたけどぉ……お、お師様がぁ……きゅ、急に門の前で、よ、よよ、用事を思い出したとかでぇ……」
用事? 彼女は殆ど私と一緒に動いているので、そんな急に片付けないといけない用事はなかったと記憶しているのだが。
それに仕事でトチッて一人でこっそり片付けるような気質でもないしな。マルギットはやらかしたらキチンとカタを付ける筋道を用意した上で報告してくるので、少なくとも私に内緒で片付けるようなことはしない……はず……。
「あ、あの……会長……?」
「……嫌な予感がする」
それも、かなり強い。
私は昔から彼女に隠し事ができないし、隠そうとしても成功した試しがないからなぁ。
前世では虫の知らせという慣用句があったけれど、此方では〝ネズミの臭い〟や〝火薬の臭い〟がしたと言い表すので、多分彼女がそういった技能を持っている訳ではないと思う。
けれど、けれどだ。彼女は本当に聡いので、何か普段とは違う〝空気〟を感じて動いたのかもしれない。
「ウェレド、倉庫でヨルゴスが仕事をしていると思うから、女性用の服を二、三日分用意するよう伝えておいてくれないか。寸法は言わなくとも分かるはずだ」
「え? あ、ひゃ、ひゃい」
「それと部屋の支度も頼むよ。これ、西棟三階で一番奥まった個室の鍵だ。綺麗なシーツに替えておいてくれ。あ、ついでに手透きの者に風呂の支度をするよう言っておいてくれないか」
あ、あの人、顔コワイから苦手なんです……という、多分当人に聞かせたら、どの口でと言われそうなことを口走る新人を事務所に残して、私は走った。
勿論、応接間にだ…………。
【Tips】鳥喰蜘蛛種蜘蛛人。種族による大きさが馬肢人と並んで極端な蜘蛛人の最大大型人種。腰から上の人体は総じて大柄かつ筋肉質で、それに見合って蜘蛛の下肢も実に巨大。女郎蜘蛛種と違って太く屈強な脚が最大の特徴だが、屈強な外見に反して内骨格の強度が追いついておらず、意外と繊細な種族である。
ツェツィーリアは友人からの念押しに、人をなんだと思っているのだと憤慨しつつ、饗された香り高い茶を楽しんでいた。
僧侶の特技は一所で黙って座っているか突っ立っていることだと言ってもいいというのに。
大伯母は作法など気にせず――戦乱期生まれの人は、その辺りが大分適当だ――砂糖菓子を直接砕いて黒茶に放り込むが、彼女はそんなことはせず、口に入れてから楚々と啜り音もなく溶かして楽しむ。
勿論、友人の新居を探索してみたいという気持ちはあった。ちらっと見えた中庭には井戸や露天の竈、幾つも並んだ剣や弓の仮標的があり、軍記物で聞く要塞のようでもあったので、見て回ったらとても楽しいと思うのだ。
また、旅の途中に漏れ聞こえてきた〝金の髪〟の物語では、幾つも偉業を為して珍しい物を見つけたとも聞いている。討ち滅ぼしたという亜竜の革を使った外套を見せて貰いたかったし、密かに漏れ聞こえる〝呪われた剣〟とやらに悩まされているなら何とかしてあげたくもあった。
それでも大人しくしていろと言われたら、待っていることくらいできる。広い場所なら兎も角、部屋の中で座ってもいられないと思われたのが年長であると自覚していた吸血種を少しだけ傷付けた。
ふと彼女の首筋を冷え始めた空気が撫でていく。この会館は断熱にも気を遣われているようで今まで寒さは感じなかったし、ご丁寧に金の髪が暖炉に火を付けていったのでむしろ暖かかった。
道々で借りた安普請の木賃宿でもあるまいし、まさか隙間風なんてと周りを見渡したツェツィーリアであるが、やはり部屋に異常はなかった。
ここで彼女が優秀な斥候、あるいは他の世界でなら〈目星〉と呼ばれるカンに優れていたらな気がつけたろうに。
閉まっている窓の紗幕が揺れていることに。
気のせいかしらと首を傾げていると、不意に扉が壊れんばかりの勢いで跳ね開いた。
「セス嬢!」
「わっ!? びっ、びっくりせさないでくださいよ!!」
すわ追っ手の闖入かと腰を浮かしかけたが、扉の向こうにいるのは他ならぬ彼女の友人だった。相当大慌てで走ってきたのか、額に汗が浮かんでいる。
ついさっき泊まり仕度をさせると出て行ったばかりであったのに、何かあったのだろうか。
彼は部屋を見回した後、何かに気付いたようで大きく溜息を吐いた。
「どうかなさいましたか? わ、私、本当に大人しく座ってましたよ?」
「ええ、ええ……分かっています。こちらの問題ですので。まず、セス嬢、こちらを」
差し出された手巾と彼の顔の間で数度視線を彷徨わせ、ツェツィーリアは意図が分からなかったので首を傾げた。
お茶菓子はいただいたが、口元など汚しているはずもなし。何に使うのかと問えば、彼は首を拭うように言った。
襟高の僧位を見下ろしてみるものの、顎の下は死角なので何も見えない。
訝しがりながらも友人の言うとおりにしてみれば、尼僧は大きな驚きを得た。
白い手巾に朱い筋が走ったのだ。
「これは……口紅?」
まさかと淑女の嗜みである手鏡を取りだして確かめれば、襟と服の際に朱い筋が一本引かれているではないか。拭ったせいで滲んだそれは、襟と首の間を的確に縫って走る。
彼女は朱い滲みが傷跡に見えた。定命であったなら死んでいるであろう位置に刻まれた、警告のように。
「ここっ、これは、ど、どこの聖堂の仕業でしょう!? よ、よもや呪い!?」
「ご安心を。貴方を追っている者達は、こんな戯れに興じるほど暇でも余裕でもないでしょう。それに見慣れた色合いの口紅ですから」
「え? 見慣れた?」
「……彼女はたまに〝遊ぶ〟ことがありましてね。私の縁者相手ともあれば尚更」
大方、隠しておきたいならもっと大事にしろ、と言いたいのでしょう。そう続けて金の髪は酷く重い溜息を吐いた。
「いつぞやを思い出しますね、貴女を魔法の探索から守った時を。付いてきてください、もっと護りの厚い場所へ行きましょう」
彼はツェツィーリアに外套を羽織るように頼み、それから彼女の荷物を自分で担ぎ上げて先導するべく廊下へ出た。
そして訪れたのは、二階の北棟にある部屋だった。
そこは他の個室より一部屋が広く取られているようで、扉の感覚がかなり疎らだ。魔法が掛かった特殊な鍵を取り出した彼が入るように促すと、外見から想像できるように中はかなり広かった。
一分の隙もなく敷かれた絨毯の毛足は長く、中央に据えられた執務用の机は簡素ながら安っぽくはない。文を認める筆記具も上等な物が定規で測ったような綺麗さで整頓されており、傍らに積まれた紙は彼が如何に多くの文を書く必要があるのかを覗わせる。
壁に掛けられた無数の剣や誇らしげに飾られている鎧は使われている様子はないものの、全て実用性が高い本物だった。冒険の末に手に入れた勲章であろうか。部屋に無骨な厳めしさを敢えて演出するような装飾は、ツェツィーリアからするとエーリヒに似合わないように感じられる。
そして、暖炉の上に飾られている巨大な肖像画は頭目のもの……ではなく、何故か頭目の妹御の物であった。薄い笑みを上品に浮かべた少女の絵は重厚な油絵で写実的に、しかし可愛らしく描かれているものの、なんでそれを飾っているのかを来客にはイマイチ理解できなかった。
エーリヒがエリザをとみに可愛がっていることはツェツィーリアも分かってはいるけれど、それをデカデカと部屋に飾る意味だけがどうしても不明である。
凝った造りではないが部屋の中を明るく照らし出せる魔導照明が家主の操作に従って点灯し、大量の〝呪詛〟とさえ思わせる術式が壁面を走っているのが僧には分かった。
許可なく扉を開けたなら、招かれざる客を盛大に持て成すための〝しかけ〟であろう。神聖を纏い魔導を否定する権能を許されている身であるからこそ、彼女にはそれが察せられる。
同時に部屋を強固に守る物でもあった。どんな術式も内に通さぬし、外へも漏らさぬと言わんばかりに雁字搦めにされた部屋からは、魔導師であれば複数人の魔力を察して首を傾げたであろう。
こんな個人の工房に等しい場所へ、多数の人間が協同して術式をかけることは通常有り得ないから。
いや、それよりも驚くことがある。彼は鍵を使った。つまり、錠は落ちているのだ。
にも拘わらず、先客が一人佇んでいるではないか。
「あら、お帰りなさいまし」
しかも夜闇を見通す目によって証明が灯る前に部屋の全景を見えていたはずなのに、声を掛けられるまで目の前にいることすら気付けなかったのだ。
「マルギット……遊びが過ぎるよ」
「貴方への警告よ。悪い遊びに手を染めようとしているなら、もっとひっそりとやらなくては」
私如きに察されるようでしたら、満天下に詠っているのと同じでしてよ、と宣う影は不遜にも部屋の主が使う椅子に尻を乗っけていた。
いや、それを尻を乗せていると表現して良いのだろうか。なにせ、何の臆面もなく乗っかっているのは蜘蛛の形をした小柄な体全てなのだから。
「ただ、慌てて逃げさせるでもなく、閨に繋がっている部屋に招いたとしても……色っぽい話ではなさそうでしてね?」
「……私がその手の悪い遊びをするのは、いつも君の悪さがことの始まりだろうさ。セス嬢、驚いているでしょうが、ご紹介いたします」
入室を促すよう差し出す手が自然と人を紹介する手へと移り変わる。剣を握り過ぎて幾重にもタコが刻まれた堅そうな手が指し示すのは、冬なのに随分と寒そうな薄着をした――部屋は不思議と適温に保たれている――蜘蛛人の童女である。
「我が半身、世には“音なし”と伝わる剣友会の一員です」
「お初にお目に掛かります。私、ケーニヒスシュトゥールのマルギットと申します。そこのお人の不肖の半身ですわ。以後、お見知りおきを」
「は、はぁ……」
今回は名乗って良いのですか? と目で問いながらも、さっさと入れとばかりに背中を押して促されたツェツィーリアは詩の中の登場人物と出会った驚きを上手く消化できずにいた。
マルギットの存在自体は、隠行も含めて驚くに値する物だが、二人の間に漂う〝空気〟が異質だったのだ。
再会する以前のエーリヒであれば、纏っていなかった空気がある。通じ合い、わかり合った人間と接している時だけ漂う独特の気配。
あの空気は違う。妹と接している時のそれとも、他のどれとも。
「マルギット、その自己紹介だの残った半身も不肖のようにとられるけれど?」
「あら、貴方の決まり文句じゃないですの、至らなかったは。相方が謙遜しているのに、私が調子に乗ったら帳尻が合わないでしょう?」
「まったく君は……私以上に舌戦が上手い。もういっそ、貴族との窓口を代わってくれやしないか?」
「あら、いやですわこの人、いざ代わったら代わったで変なことされなかったかい? とまるで乙女の父親のように振る舞うのですから」
それを世では〝男女の関係〟と呼ぶことをツェツィーリアは箱入りの未通女に相応しい感性により察することはできなかったが、帝都にいた頃の彼でなくなっていることだけは敏感に察していた。
たったの六年でヒト種とはここまで変わるのだ。
ツェツィーリアは隣に立っている青年が知っている少年とは全くの別人なのではないかと、一瞬妙な恐怖に憑かれた。
言葉にして表しづらい複雑な感情を彼女の先達、齢を重ねてきた非定命ならば初々しいと笑っただろう。
彼等が百年からかけてゆっくり遂げる成長をヒト種は僅か二〇年足らずで終えてしまう。その有り様は吸血種にとって、昨日朝顔を植えたと思ったら朝には満開だったかのような唐突さであろう。
「私は夜陰神の僧……ツェツィーリア・ベルンカステルと申します。こちらこそ、よしなにお願いしますね」
名乗りつつ、拭えない不安と〝置いて行かれた〟ような酷い頼りなさに翻弄されているツェツィーリアは、上手に微笑みが作れているか不安だった…………。
【Tips】非定命は定命に置いて行かれるものだ。生死に留まらず、全てにおいて。




