青年期 二一歳の冬
霙の降り注ぐ夜に立ち尽くす歩哨以上にやりたくないことが、この世に幾つあるだろうか。
帝国の辺境域に程近い街道脇にて雨宿りをしていた隊商は、それが夜になるにつれて雪のなり損ないになってしまったことに大いに悩まされた。
まだ冬に入って早い時期、適度な場所に腰を落ち着けるのに失敗してしまった隊商は非常に難儀な問題を幾つも抱えている。食料や暖房は勿論、最も恐ろしいのは自分達と似た境遇にある者達だ。
商売人同士ならお互い不幸ですねと急ぎの仕事や、泳ぎ続けないと死ぬ魚のような台所事情を察した挨拶で済むが、集る相手を見つけられなかった傭兵や上手く腰を落ち着けられなかった流民に当たると始末が悪い。
誰も彼も生きるのに必死だ。そして、窮した時に余人の命というのは、往々にしてパンの一切れよりも安くなる。
なればこそ、季節外れで氷雨や雪が降り注ごうが見張りは欠かせなかった。
「うう、かじかむ……指がもげちまうよ……」
「手ぇばっかじゃなくて足も動かせ。先にくるのは足の指だぞ」
二方を切り立った崖で護られた簡易な宿営地の外れで、二人の男が見張りに付いていた。一人では何かあった時に対応が遅れるため、この隊商では二人一組で警戒に当たるのが常のこと。
眠気を祓うよう、寒さに指が腐らぬよう小刻みに動きながら、頼りない松明の明かりを掲げて見張り達は街道に目を凝らす。崖に護られていない逆側にも一組付いており、一際寒いであろう崖の上にも一組が張り付いていた。側の木立から風が遮られる分、ここはまだマシだと自分達のくじ運のなさと良さを噛み締めつつ、護衛達は淡々と仕事を熟す。
綿を服の下にぎゅうぎゅうに詰め、表面に蝋を塗った分厚く重い外套を羽織って尚も寒さが染みる。耐寒性に秀でた熊体人でさえ「今日は冷える」と愚痴をこぼしたのだ。ヒト種と小鬼では、どれだけ備えたとして骨を刻まれるような寒さを感じたであろう。
カンカンに焼いていたはずの温石も四半刻と持たずに温かみを失い、皮袋の中の水は凍って飲めぬ。水分が欲しければ金具が口に張り付かぬよう、錫の容れ物に入れた酒を飲んでやっとというところ。
「あぁ……あったけぇ黒茶に入れて飲みてぇ……それと風呂だな……肺が燃えるような湯気に潜りてぇ……」
「どれも瞬きの間に凍っちまうだろうな」
「手に入らねぇ物ほど欲しくなる。ままならねぇぜ」
「贅沢言うなよ。ヒト種ならまだマシだろ。俺なんか、明日の朝には氷の像になっちまいそうだぜ」
「お前さんらは、ヒト種を過大評価し過ぎなんだよ。俺らだって寒かったら普通に死ぬんだぞ」
もこもこに膨れ上がり、東方での快晴祈願で吊される呪物めいた姿になる程着込んだ小鬼が、彼と比べれば幾分か軽装なヒト種の文句に意外そうに眉を上げた。
「えぇ? でも、お前ら北土の果てにもいるんだろ? 生の肉を食って生きてる部族がいるって聞いたぞ。俺、鳥の臓物の入った瓶を土産で貰ったことあるぜ」
「馬鹿、それもかなり無理して生きてんだよ……屈強な亜人と違って食い溜めも冬眠もできねぇから、頭捻って相当頑張ってんだ」
「そこまでして雪ん中で生きる意味あんのか……?」
「色々あんだろ。むしろ、俺にゃお前らみたいな身軽さが羨ましいがなぁ。襲われねぇくらい高い岸壁とか木の上に家建ててんだろ? 夜安心して眠れるのは羨ましい限りだぜ」
「それはそれで小鬼に夢見過ぎだよオメェ……何時の時代の話してやがる」
普通の見張りであれば怒られそうな雑談を重ねるのも、体温が低下してぼぅとしそうになる頭を働かせるため。お互いの種族に持っている思い込みと幻想への現実を語りつつ、霙の中に目を凝らしていた二人であるが、ふと強い風の中に異質な音が混じっていることに気付いた。
霙で酷くぬかるんだ地面を踏みしめる音が、いつの間にやら一つ増えている。凍傷避けで足踏みしている音ではなく、道を歩いている靴音だ。ぬかるんだ泥が長い間隔で踏みしめられ、時折滑りかけながらも止まることのないそれを聞きつけ、二人は慌てて松明を高く掲げた。
夜陰神の加護も届かぬ荒天の下、頼りない灯りが泥の上を這うように伸びて二本の足を照らし出す。
泥の塊のようになった簡素な長靴が映し出され、それに続くのはしとどに濡れて黒さを増した脚絆。膝より下には擦らぬよう縛って短くした上衣の裾があったが、その努力も虚しく方々に泥の染みが目立つ。
光が上に伸びると、現れるのは体の前に無理矢理括り付けられた背嚢。荷物を詰め込んだ袋のせいで体格は分からないものの、華奢さのおかげで女人であることだけは分かった。
そして、本来ならば腕がある場所から覗くのは……だらりと揺れる二本の足。異様な陰影に驚いてたじろいだ見張り達であったが、顔が照らされるのに従って、それが背に負ぶわれたもう一人の持ち物であることに気が付く。
背嚢の上に乗ったような顔は、上品で愛らしく、この霙が降り注いでいる寒さを加味しても尚血の気が足りぬ程に白かった。黒く艶やかな髪はじっとりと溶けた雪で濡れて張り付き、貴族的な細面を不気味に彩る。
それよりも、更に不気味なのが灯火を反射して燦めく血色の瞳であった。口の端からぞろりと伸びる真珠色の牙は、温き血が流れる者の根源的な恐怖を擽る。
無垢な少女の肩に埋もれた、同じく濡れて俯いた頭が更に不気味さを助長し、荒事になれた二人の喉から絞められる鳥にも似た悲鳴が漏れた。
「ああ、もし、そこの方……どうか怯えないでください」
何処かで聞いた怪談のようだった。流れる血潮さえ凍るような夜に彷徨う女の幽霊の話。恨みを持って死んだ女がこの世に己の存在を焼き付けて、今もふらふらと道連れを求めて彷徨っていると子供を脅す詩を思い出せずにはいられない。
「私は旅の僧です。月を見失って迷ってしまいました。ここは、どの街道でしょうか……」
しかし、どれだけ不遜な幽霊や死霊であっても僧衣を纏い〝聖印〟をぶら下げて彷徨くことはあるまい。魂の歪な有り様を嫌う神々の教えに帰依しているのなら、魂だけになって恨みのままに放浪することはないのだから。
それに紅い瞳も真珠の牙も、人の証だ。体に魔晶を抱えた、魔種に属する者達の。
「それと……焚火に少しでも当たらせていただけると有り難いのですが」
恐怖が抜けきらぬ護衛達を蕩かすように、灯火に浮かぶ吸血種の少女が朗らかに笑った…………。
【Tips】神体の導きの下であれば道に迷わぬようになる加護というものがあるが、雲間に隠れては、その庇護も望めない。
「本当に助かりました。このような季節で人に会えるとは」
外へ煙突を伸ばす簡易な炉によって温められた、隊商主の天幕の中で借り受けた布で髪を乾かしつつ夜陰神の僧は礼を述べた。
「体を乾かし、暖まで取らせていただけるとは。徳の高い方と遭うことができたお導きと、貴方の献身に感謝いたします」
「いえいえ、旅の僧を手助けするのも隊商の義務ですので」
人の良さそうな恰幅の良い隊商主は、手ずから炉の上で温められた薬缶を手に黒茶を煎れながら答える。沸騰した湯に強い蒸留酒を一垂らし入れ、濃いめの黒茶で冷え切った体を温めて貰おうという心遣いだ。
「それも、旅先で倒れた骸を故郷へ届けようとする徳の高い僧ともあれば、家内を質に入れてでもお助けいたしますとも」
「ふふ、お気持ちは嬉しいですが、細君をお大事になさってくださいな」
「馬鹿言うんじゃないよお前様。誰が帳簿付けてると思ってんのさ。尼僧様を助けるために質入れされんなら、先にアンタだよ」
ヒト種の隊商主と並んで恰幅の良い豚鬼の細君が、冗談に軽口で答えつつ乾いた娘装束を持って来た。尼僧が担いでいた背嚢はずぶ濡れで、中の着替えも濡れていたので、体格が近い隊商参加者から借りてきたようだった。
「おいおい、それはないだろうお前。交渉や厄介事は全部俺の仕事だっていうのに」
「飲み歩いてるだけだろ、アンタは……ったく。ああ、そうだ、この方の着替えもご用意いたしましょうか?」
僧の足下では、手を組んで瞑目した男性が天を仰いで横たわっている。顔には生気がなく、土気色の肌をした彼は紛れもなく死んでいる。
腐敗こそ奇跡によって妨げられ、見た目もある程度は繕われているものの魂は既にこの地にない。最早、生きている者にとってのみ価値のある抜け殻だった。
「そうですね、綺麗な衣に着替えさせてあげられると有り難く存じます。どうせならば、綺麗な姿で対面させてあげたいので」
僧が運ぶ亡骸は、単独で何処かへ向かっていた旅人であった。街道の片隅で亡くなっており、背に矢が刺さっていたことからして誰かに襲われ、命からがら逃げ出したものの、そこで命が尽き果てたようである。
尼僧は道半ばにして倒れた者を憐れみ、痛みが少なかった亡骸に奇跡をかけて保存し、故郷に連れ帰ってやることを選んだ。死者にとって己の肉体は既に壊れた道具でしかないが、遺された者達にとっては区切りを付けるための大事な遺骸なのだ。
弔い、嘆き、そして漸く次に行ける。生きているとも死んでいるとも分からぬまま、長い時を諦念によって浸していくのは辛いことであるから。
「しかし、お一人でお運びになるのですか? 貴僧はかなりの高僧とお見受けしますが……」
あまり質の良くない布で拭って尚も輝きを失わぬ、長いぬばたまの黒髪。血の気の薄い死者色の肌にも艶があり、長旅を経ても褪せぬそれには生来の質の良さが見受けられる。所作も楚々とした貴人のそれで、一応の教育を受けただけの僧とは思えなかった。
衣服の簡素さは身分の貴賤に関わらない。陽導神の絢爛派ならまだしも、夜陰神の信徒は儀式を除けば殆どが質素な姿をしている。精々、聖印が銀製であるくらいで外見から階級を図ることができないのを隊商主は知っていた。
「拙僧は単なる在俗僧ですよ。それに、これは一つの苦行で誓いなのです」
「苦行ですか」
「ええ。全て己の足で、と僧院を出る時に誓いました故」
僧は神への信仰として苦行を行うことがある。それは自分の誓いの硬さを証明するためであったり、かつて神が神格を高めるため行った修行の再現であったり理由は様々だが、自身を高めるという目的だけは変わらない。
なので、ここで馬車に乗って共に行くことを提案するのは無粋かと思い、隊商主は喉元まで出かかっていた誘いを呑み込んだ。
手助けをすることは今生での徳を積むことに繋がるが、善意とはいえど信仰を邪魔してはならぬ。理由は分からぬが、僧が誓いを立てたのであれば本人の意志を尊重するのが一番だ。
「では、せめて道が分かれるまではご同道ください。些少ではありますが、食料と暖くらいはお布施させていただければと」
「お心遣い、感謝いたします。ところで、この道はホルストマールへの道で間違いないでしょうか? 雲で月が隠れてから随分になり、道を何度か見失いまして」
「ホルストマールですか? また随分と遠くへ……ええ、通じておりますよ。我々も急ぎの仕事でここから南下し、ヘリオスラントへ入る予定ですので、そこを中継すれば……」
「へっ、ヘリオスラントですか……?」
それは拙いですね、という呟きに隊商主は首を傾げた。
ヘリオスラントはこの辺りでも大きい街で、小高い丘の上にあり最も良い陽を浴びることができるため大きな陽導神の聖堂があった。主催は絢爛派で大きな純金の聖印と鐘楼塔があるのが特徴で、これを拝みにやって来る信徒も多い聖地の一つ。
夜陰神は誰もが知る通り陽導神の夫婦神なので、仲が悪いなんてことはない。むしろ、信徒間の婚姻では豊穣神と風雲神に並んで多いと言えよう。
そこに寄るのを嫌がるとは、何があったのであろうか。
「申し訳ありません、故あって陽導神との縁が深い地に立ち寄る訳にはいかないのです。この方を送り届けた後、行かねばならぬところがありまして」
「はぁ……それは。差し支えなければ、目的地を伺っても?」
「はい。西方辺境……マルスハイムを目指しております。そこで、友人に合わねばならないのです」
心遣いは有り難いですが、明日には別の道に発ちましょう。そう微笑む夜陰神の尼僧には、笑顔に隠れた焦燥が滲んでいた…………。
【Tips】必要に応じて作られた聖堂とは異なり、神に由来する何らかの物品や出来事を奉るため建造された聖堂のある地は聖地と呼ばれ、より強い信仰を向けられている。
ヘリオスラントは過去に太陽の欠片が降った地とされ、徳の高い聖地として巨大な聖堂を中心に発展していった経歴を持つ。
新章開幕です。
お待たせいたしました、ちょっと堪え性があったりなかったりするお嬢様が今回のメインですぞ。
さて、昨日コミカライズ版の2話も更新されました。
そして、今年も このライトノベルがすごい の時期がやってまいりました。
作品に5位まで順位を付けて投稿できますので、よろしければ拙著にも一票いただければと存じます。
いえ、こういうのの盛り上がりって存外馬鹿にできなくてですね。
コミカライズ版と一緒にご支援いただければ嬉しく存じます。




