ヘンダーソンスケール 0.1 ver5
ヘンダーソンスケール 0.1
物語に影響がない程度の脱線。
時はノルトシュタットの開囲より流れ、季節が移ろう頃、気が早いことにマルスハイムには政治の季節が訪れていた。
未だ土豪勢は倒れておらず、会戦に向けて着々と準備は進んでいるものの絵図が仕上がった戦だ。戦争の実務者は万が一にも敗北は許されないどころか、求められているのが勝利、あるいは戦史に残る程の完璧な勝利であるだけに重圧下に押し潰されそうになっているものの、より上位の指導者達にとって戦は殆ど終わった物となっていた。
実際、地方で手を焼かされていた動死体の活動は激減し、寸断されていた都市間の通信も回復。敵に決戦を意識させるための〝撒き餌〟は想定より食われた量が少ないことも判明し、土豪側が非道を行ったという要素を前面に押し出しての宣伝戦も好調。
今や臨時編成の征伐軍は、各壮園からの徴収兵のみならず郷土防衛に燃えた志願兵や、勝ち戦の気配を悟って功名のために集まった若者、利に聡く早々に土豪勢力を見限った傭兵等で賑わい想定以上の戦力を集積していた。
公式には数万を号する軍勢が仕上がり、進路上の反徒を虱潰しにしていく日が近いことを誰もが予感している。
また、日和見を決めることが多い商人達も土豪達が経済への打撃を全く考慮せず、半ば焦土戦略に近い動死体の使用に踏み切ったことで見切りを付け、早期の終戦を願って多くの寄進に踏み切ったのも余裕の一因であった。
普段は兵站に蕩尽される大量の予算に現場も官僚を目を剥いて、戦争という行為はなんと非経済的で罪深いのかと嘆くものの、進んで寄越される矢銭や有力者からの寄付によって懐は大変に温かく計算が楽なくらいであった。
それこそ、現地で煮られる戦場鍋に出所のよく分からない肉が使われることもなければ、黒パンに混じった小石が兵士の臼歯を粉砕するような品質にしなくともよい。これだけで、兵站関係者は遠足の計画でも練るような安穏とした心地で挑むことができている。
それはさておき、市井が集まった徴集兵や志願兵で賑わう中、総大将のマルスハイム伯――といっても名目上で、前線に出ることはないが――がおわす州都だけあって魔導院の出張所も忙しさとは無縁でいられなかった。
所属人数は少ないながら魔導師や彼等の弟子が戦仕度に狩り出されて激務の日々を送り、金と同程度に流されるであろう〝血〟を堰き止める薬品の製造に精を出す。
物や金はあれど人手には限りがあるものの、上から「よろしく」と言われれば首を横に振れないのが官僚という悲しき生物。技術官僚である魔導師も普段はお題目として崇めている優雅さだとか、魔導師としての余裕なんぞを全てかなぐり捨てて風呂も惜しんで目標を達成するための労働に勤しまざるを得なくなっていた。
斯様な後方における戦場の一つ、怪しい薬を一発キめてまで必至に働く魔導師の塒にて、魔導の頂を目指す二人が茶を挟んで対峙していた。
一人はミカだ。聴講生として恥ずかしくないよう身を整えた彼は、数ヶ月前に体が魚のひらきのようになりかけたとは思えない程に艶やかな肌色を携え、出された黒茶を優雅に啜っている。
相対するのは、わるいまほうつかいのねぐら、と形容するのが似合いの出張所にて首魁を務めるフラウエンロープ教授。曖昧な笑みを貼り付け、育ちの悪い人参を思わせるひょろりとした風貌は常と変わることはないが、元々良くない血色が更に悪くなっているように思えた。
身体を恒常的に賦活し、老いさえ一時的に追い払う程に肉体を〝弄った〟教授でさえ疲れ果てる激務だというのか。ミカが初めてやってきた時、様々な用事で狩り出されて出張所には七人しか魔導師が常駐していなかったのだから、彼も兵隊のように忙しく働いているのだろう。
いいや、彼は激務は激務であろうが、それが疲れの全てではないと見抜いていた。
なればこそ、ミカは態々多忙な師の名前まで引っ張り出して、責任者である彼を帰参したその日の内に呼び出したのである。
「まずは無事の帰還を言祝ごう。ノルトシュタットは相当に酷い有様だったと聞く」
「ご心配をおかけして申し訳ございません。戦時での応急措置や素早い建物の再構築の実務が積めたので、得難い経験であったと認識しております」
片や貴族仕込みの楚々とした笑み、片や魔導にて培った極彩の笑みを貼り付けた二人は暫し当たり障りのない挨拶を続けたが、機を図ってミカは握った札を切ることとした。
「此度の人選はフォン・フラウエンロープの推挙あってのことと伺いました。造成魔導師志願として帝国にご奉公するのみならず、中々得られない実務の経験を積ませていただいたことに感謝の念が絶えませぬ」
「それはよかった。私も卿が成長の一助となれたことを喜ばしく思うよ」
言葉に詰まることもなく、一切の臆面もなく言い放つ上席に聴講生は内心でよく言うものだと笑った。彼の友人であれば「喧嘩売られてんな」と将来殺すと名簿に名前を入れているだろうが、奥ゆかしい彼は精々が心で舌打ちをするくらいだ。
とはいえ、彼もこの程度で相手が揺さぶれるなどと暢気なことを考えていない。相手は仮にも教授。自分では未だ指先すら掛からぬ魔導の高みに至り、生き馬の目を抜く魔導院を生き抜いてきた怪物だ。表情の分厚さは城壁より分厚くて当然である。
しかし、どんなに頑丈な城壁にも限界があることは、ノルトシュタットで矢玉の下を縫うように走りながら補修と強化に努めたミカには分かっていた。
故に少しずつ大きな札を切っていく。最初から巨砲を撃ってもいけない。まず探りを入れて、弱いところを探し着実に崩していくのが城攻めの定石。
目的を果たすためにも手は抜けぬ。
「ところで……フォン・フラウエンロープ。報告書を送らせていただいたとおり、現地で負傷しまして、その折に療養所に入ったのですが」
「ああ、既に聞き及んでいるよ。公傷扱いだ、慰労金の申請ならば私から……」
「そこでできた友人から面白いことを聞きまして。教授はフォン・シュマイツァー……失礼、既に貴族位は剥奪されていましたね。元シュマイツァー教授のご同期でおありだったそうで」
淀みなく杯を動かしていた手が一瞬止まった。曖昧な笑みの中で笑っていなかった目が一瞬眇められ、何が言いたいとでも言いたげだ。厳しくなった視線が下手なことを言ったらどうなるか分かっているな? と若い聴講生を貫く。
だが、彼は怯まない。ここは相対する教授の城であろうが、仮にも公共の建築物だ。況してや他閥の教授に指示している実習中の聴講生相手であれば、匕首を抜いて突っかかってきたでもない限りは〝手討ち〟にもできぬ。
「箝口令が敷かれているのでご存じないやもしれませんが、現地で元教授とも知己を得ましてね。既に彼とは文通もできないような状態になってしまいましたが」
「……そうかね。それは残念だ。人道からは外れてしまったが、彼は優秀な魔導師だったのでね。共に研鑽した日が懐かしくもあるが、彼が帝国の意に染まぬ研究に手を出したならやむないことでもある」
迂遠に同期が死にましたよと伝えられてもフラウエンロープは何ということもなさそうに返したが、ミカは彼の心中が穏やかでないことを魔導波長から悟った。体の裡でうねりを上げ始めた魔力の微かな迸りは、無意識に抱いた〝殺意〟に反応してのこと。
色々と証拠をでっち上げるのが大変だったとして、ここで密殺してしまおうかと会話の切り出し方から考えても不思議ではないと、既にどっぷりと魔導師の世界に浸かっているミカには分かっていた。
「ただ、その彼が手を染めた禁忌に手を貸した者がいる、とも聞き及びまして。これが真実であれば大変だと、戻って直ぐに少し確認をしたのです」
「……ほぉ? それは初耳だ。しかし、調べるにも聴講生に過ぎぬ卿の身で何が……」
「僕は造成魔導師志願ですよ? 地面の下に埋まっている物には聡いのです。それに、燃え滓が何でできているかなんて、触れずとも分かりますよ」
大っぴらに切り出さずとも、これだけでフラウエンロープはミカに拙い尻尾を掴まれていることを悟った。
同時、斯くも堂々と脅迫めいた話の切り出しをする時点で、それが強力な余人……それこそ、ミカを殺せばより事態が面倒なことになる方面に繋がってしまっていることも。
「奇妙なことですね……治験参加者や刑罰治験者の集合墓地に空の棺が大量に埋められているなんて。焼却炉もゴミばかり燃やしているようでしたし」
さて、ミカはエーリヒから厄介事に巻き込まれ、剣友会を大きくしなければならなくなったと相談を受けていた。此度の案件にて陰謀の片棒を担がせてくれた魔導宮中伯に関わることだと即座に察した彼は、長年の友を助けることを選ぶ。
魔導院という面からマルスハイムにて否応なく名を売らねばならぬ彼を支援することを。
エーリヒは明らかに魔導宮中伯からの息が掛かった人間だと早晩知られることになるのは明白で、こうなれば辺境の貴族だけではなく、彼等と協力関係にある魔導師や本院の閥と何らかのいざこざが起こることも十分に考えられる。
にも拘わらずスタール伯は帝都へ引き上げてしまうのだ。連絡する手段があったとしても、距離の隔たりによってできる手助けは限定的なものとなろう。
なら、彼女がいない代わりに自分が友人を護る壁の一つになろうとミカは決意した。マルギットから焚き付けられたからではない。愛しい友人がまた苦難に見舞われようとしているなら、そんな彼に壁を作り橋を架けるのが自分の役目だと思ったが故に。
まだ成人する前、いつだか共に出かけた時に誓ったから。君が詩に歌われる英雄になると言うのなら、僕は英雄の道行きを助く魔法使いになろうと。
それにはマルスハイムでの地位は欠かせない。現在は出向しての実務実習ではあるものの、この状況ともなれば早々に帝都へ帰還せよとも言われない――直すべき物がしこたまできるだろうから――と察した彼は、友人に手出しさせないだけの状況を作るために一計を案ずる。
元々、出張所で仕事をしていておかしいと感じることはあったのだ。治験病棟の東翼には、常軌を逸した人手不足の状況にも関わらずミカが近寄ることさえ許されず、造成魔導師にお誂え向きの屍を埋める穴を掘る指示さえ来ない。
更には訪ねてくる人間の行き先にも妙な点が幾らもあった。マルスハイムにてまことしやかに囁かれる、危険を代償に病を治して貰える場所、という都市伝説めいた出張所を訪ねてくる貧民は多かったのに……彼が認識する限り、入って来た数と出て来た数がまるで合わないのだ。
ミカは結界には詳しくないが、人払いのソレであると教えられていた物が目的意識を持たねば認識を阻害するだけではなく、希求する者を〝誘導する〟性質を持っていると感付くのに大した時間は必要ではなかった。
しかし、帳尻が合わないだけなら治験の結果死んだとして納得するが、快癒して退院した人間が皆無だというのは、彼が滞在している時間が短くとも異様なのだ。
では、人間はどこに消えていたのか。
ミカがエーリヒの助けになろうと思わなければ、多少気になっても触れはしなかったろう。別に魔導師だって人間を解剖して悦に入る趣味を持つ変態ばかりではない。快癒して貴重な情報を残して去って行く者がいることは帝都本院でも知っていたから、単に自分が会う機会がなかったか、二進も三進もいかない状況の患者ばかりが来た結果の必然であろうと受け入れた。
しかしだ、一度利用できるかもしれないと思えば、魔導院の政治に慣れつつある中性人の頭脳はとてもよく回った。
ミカは退院する前にアグリッピナと会談し、幾つかの部外秘情報を仕入れることに成功していた。
治験の実験結果と〝消費した献体〟の数は必ず本院に報告される。予算の使い道やどのような研究を行っているかを把握し制御するため、キチンと決まった書式に基づいて報告が上がっているのだ。
報告書内での死者が多いことに誰も疑問を挟まない魔導院の体質はさておき――肉刑に処される犯罪者や病に冒された貧民の命など安い物だ――処分された筈の献体が実際には処分されていなかったとなれば、それはもう大問題であろう。
なにせ魔導に浸された亡骸というのは、どんな変異を起こすか分かったものではない。生物から物に変わり、世界への弾力が弱まった死体が起き上がる程度ならまだしも、何らかの致命的な病の媒介となっては洒落にもならぬ。
故に土壌へ特殊に調整された虫や微生物を放った専用の墓地が用意されているのだ。この検疫体制を蔑ろにし、研究の一端を覗かせる亡骸が適切に処分されていなかったとあれば責任問題となろう。
正直、旧友の縁やら何やらでフラウエンロープ卿がシュマイツァー卿を支援していたかどうかは、ミカにとってどうでもいい。状況証拠だけでも大分黒いとなれば彼の独断だろうが、出張所ぐるみで協力していたかなんてのも興味がない。
それこそ、出張所から遠方に派遣されている魔導師に〝元シュマイツァー卿の弟子〟が紛れていようとも。ここの予算が同期のよしみで横流しされようが、哀れな貧民や刑罰治験者が消えようが知ったことではなかった。
偏に友のため。無粋な魔導師が彼の冒険を楽しくもない暗闘、そして的外れな復讐に巻き込まないようにするためだけに。
「ああ、そう言えば……こんな物も預かっていましたっけ」
懐から出した魔導宮中伯の家紋が捺された手紙を机上に滑らせながら、若き造成魔導師志願は打ち込んだ楔の大きさに手応えを感じる。後は行動の裁量権をもぎ取ろうが、要らぬ企てが持ち上がった時に掣肘しようがお好みにといった寸法だ。
魔導院は今回のシュマイツァー卿がしでかしてくれたことを重く見ている。最悪、出奔して裏で動けばいいだろうなんてことは、今後許されなくなるだろう。もしかしたら、そういった元魔導師を取り締まる部署が新設される可能性もあった。以前より極夜派共が不逞な連中を何とかしろと案を幾度も打ち上げていたのだから、これ幸いと動き始めることが想像に難くないのだし。
さすればフラウエンロープ卿も下手は打つまい。
真偽を問い質さない意図を察せぬ程、彼も阿呆ではないのだから。
「……一服失礼してもいいかな」
「どうぞ。僕も欲しいなと思っていたところなので」
しかし、教授としての矜恃であろうか。手紙の内容に目を通しても眉の一つも動かさず、可愛げのないことに溜息さえ漏らさずに教授は問うた。
格下である聴講生に自分の執務室であっても煙草を吸う断りを入れることが、降伏を意味していることを理解したミカは、受け入れる意志表示として自分も煙草を取りだした…………。
【Tips】出張所は地方における強力な権限を持っているものの、人事権はあくまで本院が握っている。
夏風邪を引いて一週間近く漬物石になっていました。
更新やら諸々が途絶えて申し訳ございません。
挟み忘れていた事後処理を一つ終了。
まぁ、あそこまで色々動き回っていて魔導院が動かない筈ないよねって。
これで心置きなく次章に移れそうです。
さて、2022/9/9にコミカライズ版第二話の更新が控えております。
今回も大変良い仕上がりなのでお楽しみに。




