ヘンダーソンスケール 1.0 Ver0.5
若々しいというよりも初々しいという表現が似合う少年が一人、覚書を手に一軒の建物を前に呆けていた。
廃棄一歩手前の品を譲って貰ったと思しき、着られているという感じが拭えない革鎧。同じく自警団で使い古した品を餞別に譲って貰ったのか、拵えが随分と草臥れた長剣を納めた袋を背嚢と纏めて担いでいる姿からして新人の冒険者であろう。
英雄の階に足をかけんと辺境の州都、地の果てで最大の都市マルスハイムを訪れた少年は、宿の名を見て感慨深げに吐息を溢した。
それは新しくはないが立派な風格の宿だった。コの字型をした三階建ての宿は、建物こそ古いが修繕と掃除が行き届いており安っぽさは全く感じられない。むしろ、その古さが重厚な歴史を感じさせる。
掛かった看板には剣を咥えた狼の紋章。そして、識字率が低かろうと知ったことかと店主の拘りで書かれた〝剣の金狼亭〟という屋号が刻まれていた。
「ここがかぁ……」
ごくりと唾を緊張と共に少年が飲み下したのは、ここが単なる店構えの良い宿屋だからではない。
今尚、治安安らかならざる地の果て、冒険者が活躍する地にて数多の英雄を輩出してきたマルスハイム名物宿の一軒であるからだ。
組合にて冒険者に登録すると同時、良い宿を紹介してくれと少年が受付の中年女性に頼むと、彼女は快く紹介状と地図を書いてくれた。ここに通されるのは前途があり、人品が悪くない者だけだと知っていれば、彼は更なる緊張を得ていたであろう。
変なヤツは寄越すなよ、と宿の主人が組合に注文を付けられる権力の持ち主である。そう知らずにいられるのはある意味で幸運だ。そして、受付の時点である程度人柄を見られて篩いにかけられていると気負わずにいられたことも。
「よ、よぉし、行くぞぉ……」
微かに軋む扉を緊張と共に開いて入れば、得も言えぬ良い匂いに出迎えられた。
そこは、冒険者が屯する場末の酒房とは思えぬ空間だった。
卓と椅子は整然と並べられ、床板は古いが残飯が散らかることもなく、拭いても追いつかない濃さの油が汚らしく光りもしない。
客は賑わっているものの決して騒がしいという程でもなく、冒険者が集まる酒場に付き物の荒んだ空気も粗暴な罵声も聞こえない。思い思いに食事や酒を摘まみ、楽しげに会話しているだけで雰囲気は和やかで楽しげだ。
客層から目を背ければ、中流以上の市民が訪れる酒房だと言われても納得できる佇まい。唯一そこが冒険者の酒場であることを報せてくれるのは、暖炉の上に飾られた有名な剣が一本と、剣呑な匂いを漂わせた客達だけ。
店の視線が来客に一瞬だけ集中したが、それが知人でないことを察すると殆どの者が興味を失って元の話題に帰っていく。何人かは新人だと呟いてはいるものの、率先して絡みに行く気はないようだった。
不思議な店だ。奥側の止まり木には店主の拘りか冒険者の酒場には不釣り合いな程に見事な飴色に燦めく板材が使われており、窓からの日光が当たらぬよう注意された酒の陳列棚には立派な附票が張られた硝子瓶がお行儀良く並んでいる。
客層は冒険者が主体であるものの、奥まった場所では上品なローブを着た冒険者らしからぬ人物が煙草を燻らせながら安楽椅子で本を捲っているし、何人か貴人と思しき雰囲気を纏った者もいるではないか。
戯曲や演劇で歌われる冒険者の酒房とは全く異なる雰囲気に呑まれ、少年は後ろで扉が勝手に閉まっても足を進めることができなかった。
別に誰に絡まれた訳でもなく、客全員から刺すような目線で見られた訳でもなく、また英雄譚にお約束の「ここに牛乳はねぇぞ」という下卑た揶揄いが飛んで来た訳でもない。
単に田舎で育った彼が、酒房に入ったはいいものの何処に座ればいいか分からなかっただけのことでもあるが、想像との差異を脳が上手く処理できなかったこともある。
「お客様? 入り口に突っ立ってると邪魔になりますわよ」
どうしたものかと困惑する少年に声を掛ける者があった。酷く下の方から聞こえる声に驚いて目線を下げると、そこには蜘蛛人が立っていた。
片手には冷えた麦酒――ここの名物らしい――が入った酒杯を三杯も纏めて持ち、左手には高級品であるはずの揚げ物が沢山載った皿を載せた盆。肩を出した南方の民族衣装に倣った従業員揃いの制服を着た金髪の少女だ。
「す、すみません。酒房に入るのが初めてで……」
「あら、そうですの。一般の方にはオススメできませんけど……冒険者になったばかりで?」
「は、はい。そうです。組合の受付さんに紹介されて」
「なら、止まり木の方にどうぞ。後から連れが来るなら卓席にご案内いたしますけど」
「いっ、いえ、僕一人です!!」
言われるがままに少年は背が高い止まり木席の椅子に、半ばよじ登るようにして座る。そして、誰に声を掛ければよいのかと思って周囲を二三見回した後、ふと目の前に誰の気配もなかったのに〝氷が入った酒杯と湯気が立つ布〟が置かれていたことに気付いて驚いた。
「えっ!? えぇ!?」
「ふふ、それは店の奢りだから遠慮しなくてよくってよ?」
さっきまで誰もいなかった筈の止まり木の向こうに一人の女性がいた。席に導いてくれた少女と〝色違い〟としか思えない栗色の髪をした彼女は、氷が浮かぶ檸檬を搾った爽やかな水を指さして「冷たい内にどうぞ」と笑った。
彼女のために誂えたと思しき板が死角に設けられているため、蜘蛛人の低い上背でも問題なく上体を出せるようになっているのだ。裏で洗っていたらしい曇り一つもない綺麗な硝子細工の酒杯を丁寧に並べながら、悪戯っぽい笑みを浮かべる女性に少年は多義的にドキドキしてしまった。
やはり、一般的な感性を持つ人間からすると、目の前に何の気配もなく唐突に現れられると心臓に悪いのだ。しかも、彼の故郷には蜘蛛人がいなかったので、その幼さを保ったままの危うい美貌に胸を嫌に揺らされてしまう。
髪を首元で緩く束ねて落ち着いた雰囲気を醸し出しながらも、制服の衣装によって晒された肩には蔦草の刺青が躍り、耳には数えるのが大変な程に大量の飾りが光る。成人した蜘蛛人だけが入れる刺青によって大人だと分かるが、少年からすると同年代にしか見えない相手からは、外見には不釣り合いな年月によって醸造された淑女の空気を感じた。
「新人さんのようね。ここにはいつ?」
「きょっ、今日着いたばかりです。故郷から出て、冒険者になろうと……」
「そう、それは素敵ね。それで、お宿を紹介して貰ってここに来たと」
微笑ましそうに少年を眺めつつ、しかし酒杯を磨く手には淀みなく。彼女は首を店の奥へ巡らせると「お前様」と声を上げて誰かを呼んだ。
「はいはい、どうかしたかい。今、丁度煮込みの仕上げをしていたところなんだが」
コツコツと床を叩く音は、靴音に混じった木の音。店の奥と店内を隔てる暖簾を左手で潜ってやって来たのは、一人のヒト種だった。
編み上げられた目映い金髪、仔猫のような透き通った青い目、そして邪魔にならぬよう括られた右の袖と、左足から生える素っ気ない木の棒の義足。酒房の店主というには若々しすぎるが、気怠げな雰囲気には熟達した商売人の気配が滲む。
「あっ、貴方は……!!」
少年は彼の事を知っていた。全てが詩の通りだ。
若作りという言葉でさえ足りぬ顔も、乙女が手巾を噛んで羨む髪も、透明度の高い瞳も、そして〝モッテンハイムの守詩〟として名高い、金の髪のエーリヒ最後の奮戦によって負った戦傷も。
数多の詩によって絢爛に彩られ、悪逆の騎士を討った英雄の活動期間は短いけれど、多くの荘が被害を被り今も記憶に癒えぬ生傷として残る〝土豪の乱〟の渦中に生まれた英雄譚は、エンデエルデの住民であれば誰もが知っている。
そして、荘民の命を護る代価として四肢を失った後は、マルスハイムにて冒険者を受け入れる酒房を建てて後進を育てていることも。
「きっ、金の髪のエーリヒ殿ですね!?」
「昔はそう呼ばれたこともあったが、今はただの酒房の親父だよ。誰の紹介かな」
ぶっきらぼうにも思える態度で差し出される手に、地図も書いてくれた組合からの覚書を渡すと、彼は名前を読んで納得したのか、懐に紙をしまってまた奥に引っ込んだ。
そして、手に鍵を持って戻ってくると、彼が取りやすいように放って渡してやる。
「紹介だから七日間は宿代を無料にしておこう。あの人の目に適ったならオマケしてしんぜよう。その間に生活の基盤を作るといい。あまり蓄えもなかろう?」
「えっ!? いいんですか……?」
「構わんよ。田舎から出て来たばかりの新人から金を取らんでも家の経営は傾かん。ただし、ただ飯くらいを許すのは七日だけだ。それ以降は一日素泊まりで五アス、一食付きで十アスだ。ビタ一枚もまからないから、野宿が嫌なら精一杯仕事をするんだね。今のマルスハイムで食い詰めるようなら、大人しく田舎に帰りなさい」
値段を聞いた少年は鍵を見て首を傾げた。大部屋でその値段設定なら分かるのだが、鍵を渡すのは普通ではない。いつでも出入りできるよう、大部屋は基本的に開け放されており、そこで雑魚寝するのが普通だ。
「家は全室個室なんだ。冒険者同士で懐に手を入れた入れないの話をされたくない。かなり手狭だが、寝て起きてするだけの部屋なら上等だろう? それと、三階は剣友会専用の階層だから、喧嘩を売りに来たんじゃないなら勝手に入らないように」
全室個室という状況にかなり驚きつつ、やはり詩に名高い英雄の経営する宿は違うのだなと世間知らずなりの感動を得る少年。
更に宿の説明は続き、中庭で鍛錬をしてもいいが解放は原則昼間だけ。洗い場の利用は自由だが、使ったからちゃんと片付けること。昼は酒を出していないので、酒場で仲間を探すなら茶でも飲みながらゆっくりやれ、などと色々な注意がされていく。
一気に覚えるのは大変だと、旅に出る前に買った手記帳に炭棒で不慣れな字を刻みながら聞いていた少年の前に湯気を立てる皿が置かれる。
注意を店主が講釈している間に姿を消していた女性、この酒房の女将が奥からよそってきたのだ。
「お昼、まだって顔をしておいでよ? 黒パンは普段有料だけど、マルスハイムに来た日のオマケということにしておきますわ」
「わっ、いい匂い……!!」
「冷める前に召し上がれ。温くなると固まって美味しくないから」
器の中で湯気を立てるのは、見た目は洗練されているとは言い難い雑多な煮込みだ。
余りがちで安価な牛や豚の臓物、硬くて食べるのが大変で不人気なスジ肉が主体で安い穀類が混ぜ込まれた粥と汁物の中間といったところか。しかし、牛の骨を煮込み葡萄酒や香草で香りを付けた出汁の中に匙を入れれば、触れるだけで解れるほど柔らかく煮込まれているではないか。
「うわ、柔らかい。それに凄く……色んな味がする! こんな美味しいの、荘祭りでも食べたことない……」
「ふふ、ここだけで食べられる逸品でしてよ。味は日替わりで、その日に安い物で作ってるから選べないのは我慢してくださいましね」
口の中で溶けて消えるような歯応えは勿論、汁一杯でもかなり腹に溜まる。しかも原型がないだけで、色々な野菜が溶け込んでいるようで味の深さが凄まじかった。
脂気もたっぷりで、肉体労働者である冒険者向けに塩気もしっかり利いている。黒パンと一緒に囓れば、午後に仕事があっても頑張れる気がした。
「おっ、今日の汁物が仕上がったか。姐さん、こっちにも一皿!」
「俺らんとこにも人数分!!」
「はいはい。たっぷりあるんだから、ひな鳥みたいにぴぃちく騒がないの。冒険者だとしても優雅に振る舞いなさいな。それが出世の近道よ。イゾルデ、お客様にお出ししてちょうだい」
「はぁい、お母様」
金髪の蜘蛛人が女将さんをお母様と呼んだことに少年は幾度目になるかも分からぬ驚愕を得た。金の髪の傍らには〝影無しのマルギット〟と呼ばれる蜘蛛人がいることを知っていたが、その詩が話題になったのはかれこれ二〇年も前の話。
四〇近い筈が、よもや適齢期の娘と姉妹にしか見えないとは。
種族差って凄い、と驚嘆していると酒場の扉が乱雑に開かれた。
「だぁっ、畜生エーリヒ! テメェまたクソ仕事寄越しやがったな!!」
開幕から罵声を浴びせるツンツンとした髪型の壮年男性は、幾つかの面傷と使い込まれた小札鎧、そして傍らに困った笑い顔が愛らしい魔法使いを連れていることから、流行好きの少年が見誤ろう筈もない。
金の髪が一線を退いて以降、マルスハイムにて〝最優〟として名高い冒険者。幸運にして不幸、或いは〝死なずのジークフリート〟と幾つもの誉れ名を授かる一級の英雄が凱旋したのだ。
「お帰り、ジークフリート。何かあったか? 普通の護衛依頼だったはずだが」
「何かあったかもクソもあるかぁ!! 野盗が一〇〇人から徒党組んで襲いかかってくるとか聞いてねぇぞダボォ!!」
「おお、それは大変だったな。被害は?」
「怪我人だらけだよ馬鹿野郎! 死人は出てねぇが、六人ほど腕やら足やら折って暫く使い物になんねぇ!!」
「それは大変だ。依頼主に〝話が違う〟と文句を付けて、詫び料を絞っておくから許しておくれ」
近年希に見る大規模野盗の襲撃と聞いて、少年のみならず酒場の全員が目を輝かせた。
彼等は皆、剣によって身を立てることに憧れて冒険者になった、心の中に一〇の子供を飼い続ける奇矯な者達。とんでもない冒険譚が聞けるかもと思うと、心を高鳴らせずにはいられないのだ。
ジークフリートが率いる〝剣友会〟の一党が酒場に入るのを見つめながら、少年は何時、憧れの冒険者へ「弟子にしてください」と頼みに行くべきかと悩んだ…………。
【Tips】剣の金狼亭。引退した〝金の髪のエーリヒ〟が冒険者向けに始めた宿屋で、剣友会への個人的な依頼の斡旋を仲介する冒険者仲介業者も勤める。二桁に渡る英雄がこの酒場から生まれており、新人冒険者の憧れとされているが、冒険者の酒場にあるまじき〝一見さんお断り〟という制度により誰でも泊まれる訳ではない。
一度、押し込んで無理矢理逗留しようとした無頼一〇人が、手足が片方しかない筈の店主一人にぐぅの音も出ないほど叩きのめされ、裸で店先に並ばされたという逸話がある。
過ぎたるは及ばざるが如し。孔子は誠に上手いことを言ったものだ。
アグリッピナ氏からの面倒なお誘いを上手く処理しようとし、私は一つの名案を思いついた。
現役の冒険者が明らかに貴族の息が掛かった仕事をするより、引退した冒険者が上手いこと斡旋した方が足も付きづらいし、目立たないのではなかろうかと。
そして、五体満足の冒険者、それも絶賛売り出し中の男が大病もしていないのに引退するのは、あまりにも〝嘘くさい〟。引退自体に作為を感じられては意味がないが、もしも原因が〝戦傷による戦闘力の喪失〟であったなら?
良いことを思いついたと思った私は、直ぐ皆と相談し、貴族の投げつける面倒から少しでも逃れられるのならと了承を得て――尚、普通に殴り合いに発展する程の激論となった――腕の再接合治療を止めた。
今、私の腕は専ら空席で、足には素っ気もない棒きれの義足が収まっている。大抵の人間が一目で戦えないと分かってくれるだろう。
そして、冒険者時代に溜めた金とコネを使ったという名目で、この剣の剣狼亭を立ち上げ、剣友会の頭目をジークフリートに譲って宿屋の親父をやっている。半年もほとぼりを冷ますために真面目に宿屋をやっていれば、誰もが華々しい活躍だけに目をやって貴族がどうのこうのを忘れていった。
その生活も今年で二〇とうん年目。私もそろそろ冒険者というより商売人としての風格が身についてきたのではなかろうか。
憧れであった冒険者を止めてしまうのは大いに抵抗があったけれど、アグリッピナ氏関係で迷惑をかけるにしても、仲間達に降りかかる火の粉を最低限にしたかったのだ。
私の所で面倒な案件を止められるのならば、仲間のことを思えば我慢するのは心苦しくとも辛くはなかった。
たしかに全員で連帯して立ち向かうこともできただろうけど、そうなると多かれ少なかれ剣友会全体にアグリッピナ氏と敵対する貴族の手が及ぶ可能性が高まる。
鍛錬が進んだ者達はいいが、今後加わるであろう新人達まで守り切れるか不安になって下した結論に今では後悔してない。剣友会をより高度に組織化することも考えたのだが、私が考える〝自由な冒険者〟から外れすぎやしないかと諦めたのだ。
だから、今でもあの時の選択を間違ったとは思っていない。何やかんや裏だけで魔法を使っているから生活には不自由していないし、前世知識で作った大型の圧力鍋やら冷蔵庫で営業も上々。帝国では常温で飲む物という麦酒を冷やして爽快にするという流行を作れたのも嬉しかったしな。
それに、人並みの幸せだって手に入った。
教授になってからマルスハイム辺境伯のお抱えとなって、半ば崩壊しつつあった都市インフラの維持に関わることになり、出張所の責任者となった友人。
何より……。
「今日もお疲れ様でした、お前様」
「ああ、君もお疲れ様、マルギット」
人によっては怯懦と判断するであろう選択にも付き添ってくれて、今も変わらず共にある伴侶。私は本当に恵まれている。
宿屋の旦那には女将が必要でしょう? と何の躊躇いもなく私と所帯を持ってくれた彼女には感謝しかない。それどころか子供までできたのだ。一体どこに不満を覚えれば良いのか。
暖炉の上で飾りになっている送り狼――これを見にだけ来る人もいる――には申し訳ないし、半ば強引にではあったが後進に〝鞍替え〟させてしまった渇望の剣からは、未だに夜な夜な「何故手足を諦めた」と精神を削る思念が飛んで来るけれど、私は今幸せなのだ。
「ところでお前様……来てましてよ」
「ああ、そうか。手早く片付けてしまわないと」
宿の女将になるため、半年ほど子猫の転た寝亭でシャイマーさんに弟子入りしてきたからか、呼び方が移った彼女から寄越されるのは丸めた紙の束だ。洋画でたまに見る輪ゴムで止められたお札のような風情のそれは、さっき仕入で入って来た牛モツの腸管に隠されていたものだろう。
「早くお願いしますわね。明日の仕込みをサボると、また娘からとと様はだらしないって怒られますから」
「あんまりキビキビやる気があるように見られるのも偽装に差し障るんだけどねぇ」
「誰も見てない裏方仕事くらいは真面目にやってくださいまし。もう、結婚した時はこんなにだらしなくなるなんて思いもしませんでしたわ」
「世の中の〝普通のおとっつぁん〟ってのは、そんなもんさ」
「普通のおとっつぁんは、片腕義足で悪漢を一〇人もノしたりしませんわ。いざとなれば“代わり”だって用意してあるのに」
やれやれ、と言いたげに厨房へ引っ込んでいく妻を見送り、私は汚い牛の腸にまで隠して持ち込まれた密書を開く。ぱちんと弾けた術式は、私の魔術波長を読んで私以外が開いてしまったら、その相手を呪殺した上で痕跡を消す強力な覗き見防止の魔法だろう。
「あー……こりゃ厄介だな。また醜聞で何人か首が飛ぶぞ」
アグリッピナ氏から途切れることなく寄越される、期限付きで片付けるべき仕事の数々を脳内で咀嚼しつつ、私は上手いこと普通の冒険で終わらせられるよう、客達に仕事を斡旋する文言と下準備にかかるのだった…………。
【Tips】金の髪のエーリヒ。剣の金狼亭の主。ぶっきらぼうながら面倒見の良さで知られ、冒険者を引退した今でも彼を頼る者は多い。表向きは後進に優しい元冒険者であり、裏側を知る者は五指を超えぬ。
本当は発売日(7/25)に告知を兼ねて投稿する予定だったサプライズ更新です。
久し振りのヘンダーソンスケール。
エーリヒが全員を“巻き込む”覚悟が決められなかった未来。
コネクションとして仲が深まれば、超難易度の莫大な報酬がある隠し依頼を斡旋してくれるタイプの親父さん。
湯治にも一段落したので、もう後数話で話を畳み次章に移ります。




