青年期 十八歳の晩春 八七
人の成長を目の当たりにするのは、人生の中で最も喜ばしい瞬間の一つだ。
「ウビオルム伯爵からのお招きに従い参上つかまつりました」
「……お通りください」
出頭を命ずる手紙にあった、私達が逗留している場所から離れた庵を訪ねると、出迎えてくれたのはエリザだったからだ。
彼女は私の失せてしまった手足を見て、ほんの僅かに眉を動かしただけで平静を保ち続ける。余った袖と裾を邪魔にならぬように括り、<見えざる手>で補って動く姿を見て精神が動揺したのだろうが、よくぞそれを表に出さなかった。
今は教授の弟子として側仕え業務中という意識であったのだろう。余人の目が届きにくい、隠れた保養地といえども私情に心を揺らされてはならぬ。
ああ、本当に立派になってくれたと内心で涙をこぼしつつ、同時に妹への罪悪感で良心が雑巾の如く絞り上げられる気持ちになった。
彼女は私が傷つく度に心配していたからなぁ。帝都に来たばかりの頃は、酷い怪我をした晩はいつもひっついて離れなかったものだ。兄様は、どうして進んで危険なことをなさるの、と心底不思議そうに問い詰められたことは今でも忘れられない。
どうしたってこう、私は自分が求める冒険という浪漫から離れられないのだろうね。
今回みたいな浪漫とは程遠い面倒臭いことにも巻き込まれるし、挙げ句の果てに手足まで吹っ飛ぶような目に遭うというのに。
「どうぞ、此方へ。ウビオルム伯がお待ちです」
「失礼いたします」
兄妹ではなく、冒険者と魔導師の弟子として振る舞いながらも視線に籠もるじっとりとした非難に脂汗が背を伝った。
如何に貴族となるべく訓練を積んでいたとして兄妹は兄妹だ。感情の機微は隠そうとしても伝わってくる。
これは相当に怒っていらっしゃる……魔力の発散こそ見られないが、昔なら髪が踊り、体は宙に浮かんで周囲の物が無差別に壊されていたやもしれん。
自重、という大分前に放り投げてしまったものが今更になって必要になるとは。困ったな、どっか古物商とかに売ってないだろうか。それか、遺失物として番屋に届いてたらいいのだが。
「お召しに従い参上いたしました」
「ご苦労様。まだその不格好なナリなのね。礼は良いわよ、昔通り気楽になさいな」
我が元雇用主は緋色のローブを纏って優雅に応接間の長椅子に寝そべっていた。肘起きに頬杖を突いて横たわり、左手で引っ掛けるように保持した煙管から煙を燻らせる姿は工房にいた時から何も変わっていない。
許しを得た上、座るよう指示されたので大人しく対面の長椅子に腰を下ろした。
すると、エリザが予め用意していたであろう黒茶とお茶請けを饗してくれる。黒茶も懐かしい香りで、ノルトシュタットで面会した時に出してくれたのと同じ元雇用主お気に入りの銘柄。砂糖菓子も上質で、淡い色に染められた落雁のようなもの。
勧めた側の礼儀として――肘ついて寝転がって煙草を吹かしながらで礼儀もへったくれもないが――アグリッピナ氏が一口飲むのを待って、私も一口いただいた。
好い味だ。前に飲んだ時にも思ったが本当に成長している。期待に応えるため自分も色々と工夫して主人好みの味を覚えたが、エリザも本当に上達した。最初は私の真似をしてやりたがっていたからやらせたら、火傷しかかったり溢したりと大変だったのだけど。
昔を懐かしんで相好を崩していると、何を思い出されているか察したのか従者然として長椅子の後ろに侍っていた妹の頬が朱に染まる。
すまないね、と微笑みを返しておいた。小さい時にやらかした失敗というのは、指摘されると本当に恥ずかしいものだ。予後が悪かった傷みたいに、知っている人間から延々と突っつかれて痛み出すから性質が悪い。
「どれくらいでくっつきそう?」
「癒者が仰る分には、腕の培養と傷口の治癒が終わりつつあるので五日程で再接合手術に入れるそうです。真面に動くようになるには早くても一月はかかり、二月は覚悟しておけと言われました」
「カンを取り戻すのに時間はかかりそうかしら。生憎、四肢を吹き飛ばされたことがないから分からないのよね」
まーた、凄く自然に上を取ってくるな、この人は。そりゃ貴女はないでしょうよ。むしろ、どうやれば殺せるのか教えてほしいものだ。首を刎ねればいいとかいう、その前提をどうやって満たすんですかね? みたいな適当な答えではない正当を。
「体自体は動かしていますが……ま、楽観的に見ても追加で一月は欲しいですね。神経を接ぎ直した腕がどの程度元の塒を忘れているかは、持ち主にも分かりませんから」
家出しっぱなしの片足と片手が主人にどの程度愛想を尽かしているかなど、想像も及ぶまいて。
<見えざる手>を右手と右足代わりに使っちゃいるが、如何せん魔法で擬似的に生やしているのと接続を失った腕を再起させるのだと勝手が違おう。くっつく分幸運ではあるけれど、全員が間隔を取り戻すのに四苦八苦するのは間違いない。
「ふむ……じゃあ残念。貴方の氏族とやらが十全に再稼働するまでに季節一つか二つは跨がないといけないのね。流石に貴方と並ぶ冒険者が何人も所属している人外魔境じゃないのでしょう?」
「……率直に申し上げますが、家を一体何だと。それよりも、私に何を望んでおいでで?」
隠すこともなく猜疑の目を向けてやると、小僧一人の疑いが何のことかと笑うように煙を吐く元雇用主。そして、煙草の煙に混ぜられた術式が空間の〝ほつれ〟を生み、目の前に一枚の紙を吐き出した。
私はその紙に見覚えがある。商人同業者組合が発行する為替手形だ。
あの懐かしき魔剣の迷宮――喚んでねぇ、座ってろ――で迷惑を被った補填と個人的な報酬として、ファイゲ卿より一〇ドラクマ賜った時と同じ物。
じぃっと見れば、思わず胃が捻転しかねないような金額が躍っていた。
「さっ、さんぜ……!?」
「三〇〇〇ドラクマくらいで驚くんじゃないわよ」
無茶言うな! お茶を飲んでる最中だったら確実に噴出してたぞ! 前世だと幾らになると思ってんだ!? 実家の年収だと五〇〇年分だし、教授としてアグリッピナ氏が受け取ってる予算の倍もあるじゃないか!?
ジークフリートに四〇〇ドラクマは毟ってやると安請け合いはしたが、その八倍近い金額を提示されると戦槌で頭をぶん殴られたような衝撃を受けざるを得ない。ちょっとした騎士家の年間予算以上だぞ。
「つ、追加で誰を殺してこいと……? よもや辺境伯を相手に憂さ晴らし、などとお考えではないでしょうね?」
「貴方こそ私を何だと思っているの。そんなんじゃないわよ。頑張ってくれたからお礼よ、お礼」
ぜってぇ嘘だ、と目の淀みを増しながら手形に手を伸ばさないでいると、彼女は実に見慣れた外連のある笑顔を作って言った。
「まぁ、下心は勿論あるけれど。ねぇ、貴方、別に専属になれとはいわないけれど、辺境で私の仕事を少し片付けてくれないかしら」
「辺境での仕事、と言うと……?」
「これから、航空艦の稼働実験やら何やらはエンデエルデ……もとい、マルスハイムでやることが増えそうなのよ。ほら、下手に大きな領地でやって墜ちたり吹っ飛んだりしたら大変じゃない?」
ほーら、これだよ。
つまり、この報酬はお駄賃を兼ねて剣友会の組織をより強力にしろと言いたいのだろう。
マルスハイムは辺境、つまり中央の社交界や経済界で華々しく活躍しておいでのアグリッピナ氏からは遠く、物理的な距離もあって手が出しづらい土地であったのだろう。
そして、今回の一件で辺境は無血帝が想定した以上に〝やらかして〟おり、魔導院や落日派もアグリッピナ師の胸三寸でどうなるか決まる。
「低高度飛行や実証実験なんかは、今建設している工廠の近所でやるんだけど、如何せん炉を全開にさせた戦闘機動や強襲揚陸の実験は危ないでしょう?」
一個吹っ飛べば都市圏が更地になるような炉を六基も積むんだから、下手しないでも地形が変わるくらいなら御の字ね、という呟きに許容限界が近かった肌着へ滲んでいく脂汗がどっと増した。
冷静になるとなんてヤベー代物を飛ばそうとしてやがるのか。落っこちたらヒンデンブルク号なんて騒ぎじゃねぇ。原子力潜水艦の炉が暴走して吹っ飛ぶより酷いことになる。
「だから、多少吹っ飛んでも問題ないところでやる……と。よろしいのですか? 中央と違って、この辺は土豪が死霊術師を抱き込んで動死体を組織的に運用するような、諜報的視点から物を言えば緩いどころではない蛮地ですよ。航空艦の機密保持は……」
「基幹要員には誓約術式で情報を漏らせないようしているから大丈夫よ。それと、示威行為のためにワザとって側面もあるし」
……なるほど、示威行為か。余程のことがなければ〝墜ちない〟という状況まで仕上げてから、敢えて仮想敵国が入り込みやすい辺境で演習や完熟航行をして性能を見せびらかすのだな。
「外国を巡業したいけど、大国は中々受け入れないでしょうからね。敢えて諜報が緩いところに置いてって、自分達で調べたと〝思い込ませてやる〟のよ」
当然、相手も帝国が公表する性能なんて端っから信用しない。故に自分達が必死こいて情報を集めたから信頼できると錯覚させようというのだ。
さすれば相手も対抗するために大慌てになる。帝国が何十年もかけて培ってきた技術に一足飛びで追いつこうとすれば、その何倍もの予算を投じて火車を回すように研究をせねばなるまい。
その上で、どうにかこうにか頑張って追いついた性能が“手加減”されていた物だと気付いたなら、色んな人の顔色が面白いことになるだろう。特に技術開発をしていた人々と蔵相あたりのが。
「辺境で動く下地を作る礎石の一つになれ、と仰りたいので?」
「別にそこまで言わないわよ。貴方が政略を疎んじているのも重々承知。ただね、地図が書けて読み書きに堪能で暗号にも対応できるって人員は、貴方が想定しているよりよっぽど少ないの」
「数個行政管区を抱えるウビオルム伯爵が何を仰る」
小さく嫌味を返してみると、珍しく彼女は憂いのある表情を作った。
三年の付き合い、そして一年間近侍としてべったりしていた時期のことを思い返せば、これは作った表情ではないな。不朽の長命種、それも規格外の彼女がこんな顔をする理由は二つだけだ。
一つは、どうしても欲しかった稀覯書が、既にこの世に存在してないなどで手に入らなかった時。
もう一つは、魔力と暴力で解決できない、面倒な〝政治〟が関わる案件だ。
だからこそ、彼女は私達を拾うまで、のらりくらりと教授への昇進を躱し続けていたのだろうよ。いざ面倒になったら「もういいや」で諦めて物理的にブチ殺せない、ブチ殺してはいけない相手の存在というのは何よりも嫌うものだから。
もし三重帝国の居心地が悪ければ。魔導宮中伯に就任することで得られるる権限が、アグリッピナ師の人生の命題としている〝ナニカ〟を助けなければ、早々に出奔して実家に帰っているであろう程に。
「私がウビオルム伯爵位を継承してまだ三年よ。貴方が帝都にいた時でも相当にアレだったのは分かってるでしょう。信の置けるコマが少なくてね。帝都と領内に貼り付けておかないと、またぞろ粛正を怖れた阿呆共が蠢動しかねないの」
「それは大変ですね。庭に雑草は付き物ですから、如何ともし難いですが」
「勘気を振り回して塩を撒く訳にもいかないしね。できることなら、貴方の術式を模写して根っこから焼き払ってやりたいくらいだけど」
そう考えると、この人も割と忍耐力を発揮してる方なんだよな。怠くなったからといって投げ出さず、怪しきは罰せよとばかりに手当たり次第に吊して恐怖政治にも突入しないあたり、私達を帰郷のお題目として雑に扱わなかったの同程度に面倒見がいい。
真綿で締めるように慮外者を掃除する方針も、放っておくと後々厄介な事態に発展するのを嫌ってやっていることとは分かっているが、きちんと優秀な領主をやっているあたり本当にもうね。
この人、露悪趣味の持ち主だし外道でもあるけれど、根っからの悪人ではないんだよな。少なくとも、目の前で誰かが崖から落ちかけていたら手を差し出す程度の良心はお持ちでいらっしゃる。走らないと届かないような位置だと、しんどいなって見なかったことにするのだが。
「……とはいえ、貴族の陰謀に巻き込まれるのは勘弁願いたいのですが」
「だけど、貴方は既に貴族のお手つきだって噂が流れているんでしょう? これから、この地で蠢こうとしている者達に睨まれた時、確実に対抗してくれる味方が欲しいんじゃなくって?」
ぐぅ、と唸りたいが、そこは堪えた。くそ、私はいつかこの人にぎゃふんと言わせてやりたいんであって、ぐぅと鳴かされたい訳じゃないんだよ。
くそ、しくじったかなぁ……冷たく遇うんじゃなくて、冒険者組合の組合長の話を聞いて後ろ盾にするべきだったか? でも、ウビオルム伯爵と先代マルスハイム辺境伯の庶子じゃ格が随分と違うし……。
「はぁ……私に、いえ、私達に何をさせたいか次第ですね」
勝てないとは分かっていようが、私にも責任と矜恃がある。目に軽く殺気を込めて、言外に「良いように使い捨てようってんなら全力で抗うぞ」と主張しておく。
私個人ならまだしも、剣友会の皆の行く末が、このひょろっちい肩には乗っかっているのだ。唯々諾々と地獄に全員揃って突っ込むことはできん。
こちとらアグリッピナ氏の後ろ暗い仕事を幾つも代行してきたんだ。突っつこうと思ったら、アリの一噛みで済まん程度の札は持っている。
エリザという私の最大の弱点を握られていることはどうしようもないが、それでもライゼニッツ卿に連絡を付ければ致命傷は与えられずとも、ぶっとい釘を打たれるくらいの嫌がらせはできよう。
熟練度を惜しげもなく注いだ<空間遷移>のおかげで、頑張れば帝都に文の一つも届けられる。あまり軽く見て貰っては困る。
「ふっ、安心なさいな。こんな使い手のあるコマを軽々に損耗させる程、私は指手として弱かったかしら?」
「いえ、肝心要だと竜騎だろうと騎士だろうと使い捨てる器量をお持ちだからこそ、尚更おっかないのですが」
たしかに貴女に兵演棋で勝てた試しはないですけど、喩えとしてどうかと思いますよ。勝つためとあらば、何の躊躇いもなく大駒を捨て駒にするのが優れた指手なんですから。
「一戦ごとに同じ戦力が補給される盤上遊戯と政治を同じにされると困るわね。ま、それはさておくとして……エリザの頑張りも評価しているから、本当に悪いようにはしないわ。信頼が置ける護衛が欲しいとか、野盗とか密偵を使ったちょっかいを追い払ってくれればいいだけだから」
「エリザの頑張り?」
「ええ。お兄様の身を守ろうと、涙ぐましいまでの努力を社交界でしているのよ? 貴女の妹はね」
「お師匠様!!」
今まで弟子としての礼儀を保って静かに控えていたエリザの大声に思わず体が跳ねた。家の子はこんな大声が出せたのか、と謎の驚きを覚える程の声に反応して目線をやれば、頬を真っ赤にして肩を怒らせた妹の姿がある。
「それは言わないとお約束いただいたと記憶しているのですが!?」
「あら、そうだったかしら。長命種にも忘れるという機能があったのね。学会を揺るがす新説じゃない? 発表したいなら譲るわよ」
「ワザと忘れたフリをするのとは違います!!」
ここまでカンカンになったエリザは、初めて大怪我して帰ってきた時以来だな。
しかし、エリザが……あの引っ込み思案で人見知りだった子が、私のために貴族の社交を……?
「うっ……」
「兄様!?」
だめだ、つい我慢できず涙が零れてしまった。
愛しいエリザから、こんなに強く思って貰えているだなんて。私は世界で一番幸せな兄だ。
こんな、こんな自分がやりたいことのために冒険者になった私なのに、エリザはそこまで……!!
「ちょっ、兄様!? ど、どうなさいました!? 傷が痛みますか!? い、癒やしの魔法はっ、私まだ得意じゃなくて! えっと、香水! 薫衣草の香水は……!?」
「魔法を使う癒やしは要らないと思うわよ。隣に座って甘えてあげるのが一番効くんじゃないかしら」
「何を暢気なことを仰ってるんですか!?」
駆け寄ってきたエリザがアグリッピナ氏に気炎を吐いているが、私は構わず彼女の肩を抱き寄せた。半ば無理矢理膝の上に座らせる形になってしまったが、今はただ、記憶の中にあるそれよりも増した重みが愛おしい…………。
【Tips】優秀な傭兵や冒険者を子飼いのコマにしている貴族というのは、表立っていないだけで存外多いものである。
いとも容易く投げつけられる頭が悪い金額。
原稿の追い込みをしていたので先週はお休みでした。
6巻の限定版が好評だったようで、追加発注分も含めて完売いたしました。
この場を借りて深くお礼申し上げます。




