青年期 十八歳の晩春 八三
療養所の一角に特殊な浴場があった。
それは棺桶のような浅い浴槽が複数並ぶ内風呂で、全面が磨き上げられた木造の質素ながら高級感を感じさせる内装をしている。
「ああ……生き返りますわ」
並ぶ浴槽の中央に浸かった蜘蛛人の乙女が、残った片手を頬に添えてほぅっと息を吐いた。失った腕の断面は、同じ頃に男湯に浸かっている面々と同じくつるりとした皮膚が張り、内蔵の損傷した蜘蛛の腹は縫い合わされて断面に複雑な刺青が施されている。
内臓機能を補う術式だ。腸の損傷とあっては呪符で抑えることもできるが、不快感も強いとあって癒者が手ずから刺青を入れて維持に掛かっている。また、下手に塞ぐと腕と違って複雑過ぎる臓器の再接合に問題がでるため、このような処置がされていた。
「僕としては、なんだか納棺されているような不思議な気分だよ」
隣の棺、もとい浴槽へ仰向けに寝そべり、性器のない体を晒している中性人の魔導師志願は、酷く重い腕を持ち上げて左の肩口から垂直に股下まで続く刺青をなぞった。
「普通、死んでいるからね。フローキからの反動で体が裂けた時は、色々な光景が目の前を過ぎ去っていって、これが世に言う〝沙汰待ちの瞬間〟とやらかと思った」
走馬灯は神々の身元で裁かれる寸前に我が身が行ってきたことを見返し、改めて申し開きするために与えられた猶予だと帝国では考えられている。
それを想起するほど、ミカが負った傷は大きかったのだ。使い魔に完全同調して遠隔操作する危険度は、ただ痛みが返るに留まらず〝肉体的な損傷〟までもが反映される。
完全に両断されたフローキと比べると、体が開きになりかけただけの分まだマシとはいえるが、それでも普通ならば十分に致命傷であった。左の肩口、鎖骨から入った傷は辛うじて心臓を裂けて垂直に降りていき、重要な臓器を斬り付けながら股下へ抜ける。背中の肉と皮で辛うじて繋がっているだけの有様は、彼の美貌も相まって酷く無惨であっただろう。
造成魔導師であるミカは肉体的な強化や治癒には疎く、ここまでの損傷だと魔法薬も中々利かぬため即死こそ免れても、精々が遺言を残せるかどうかといった状態だったのだ。
そこを何とかしてみせたのがアグリッピナである。彼女は魔導反応を探知されぬよう前線へは意識を裂いていなかったが、ミカだけは遠見で監視して何かあった場合に備えて準備していた。
非正規戦の場であり、何かあっても隠蔽はできたとしても他閥の学生を死なせては拙いと思ったのか。はたまた、お気に入りの駒の機嫌を損ねたくなかったのかは分からないが、彼女なりに激戦になると判断して対策を打っていたのだった。
結果、ギリギリ死なぬ程度の応急処置を施され、専門家の手に放り投げられたのである。
「とはいえ、暫くはここに浸かってないと本当に死ぬんだけど」
「あらためて凄いですわね、魔法って」
ちゃぷりとマルギットが掬った、薄淡い緑色を帯びた湯は単なる湯ではない。
数ある開闢帝が浸かったと自称している名湯の中でも、本当に湯治場として愛されていた湯には特別な調整が施されているため、普通ならば〝ただの延命〟に過ぎぬ治療でも命を留めるに足る効能を発揮する。
かつて神々が争った結果、今は名も忘れ去られた神の砕けた神格が封じられた山の中で熱された湯が、膨大な魔力を孕んだ鉱脈を通して溢れ出し、更に魔導師が独自に調整した何十種類もの薬草を混ぜ込んで効能を上げた湯の効力は、死人以外であれば命を長らえされることが能う正しく奇跡の湯。
臓物が腹の中で寸断されたミカやマルギットが、本格的な治療に備えて仮の接合を終えた状態でも意識を保っていられるのは、奇跡に近しい魔法の恩恵に依る。
「五日はずっと浸かっているように、と言われたけれど、中々辛いものがあるね。調整術式のおかげで上せたりはしないけど、出汁が出きってふやふやになってしまいそうだ」
「普通、体が縦に裂けたら五日程度で歩けるようになんてなりませんわよ?」
「そうなんだけどねぇ……異様な快復力を持つ動死体ばかり相手にしていたから、今になって我が身の脆さが情けなくなってくるのさ」
首が跳んだ程度で死ぬ方が悪い、とでも言うように肉体を弄っている落日派の連中を気色悪いと思っていたミカであっても、いざ肉体の不調で伏せるとなると羨ましくもなる。
最悪、都合が悪い部分を取り替えてしまおうと考え、実行できる便利さは定命の中で極めて不死に近い領域へ至った者達の特権であるから。
喩え、その途上で人間らしさや生命としての本質を多く投げ捨てて、魔導の塊とでも呼ぶべき命とも何とも言いづらい存在に成り果てるとしても。
「ああ、自棄酒でも呷りたい気分だよ」
「どうかご自重くださいまし。私達、どちらも臓器が完全に繋がるまで水も飲めないんですもの」
今、二人の臓物は魔法によって繋がれ、内部を洗浄しただけであって機能的には殆ど成立していない。付与した術式が馴染みきり、ただ接いだだけではなく元の形を取り戻すのには相応の時間が必要だ。
湯に浸かって命を保ちながら術式が浸透するのを待っても五日。そこから一〇日以上は機能をゆっくり取り戻すために水分以外採ることは許されず、完全な復調には二月から三月は求められよう。
消化器とは、それ程に繊細で扱いが難しい臓器なのだ。
「改めて、人間が口から尻まで繋がった管を覆った肉袋であると認識させられますわね。祝杯を挙げるのは夏……いえ、秋の頃かしら」
「分かってはいるけど、耐えがたいこともあるさ……僕が古漬けになることで、友が生きながらえたのだから文句はないけれど」
浅い浴槽の中で身動ぎする中性人と蜘蛛人の中で、暫し話題が途切れる。
命運を戦場で共にした間柄ではあるものの、個人的な友誼はないに等しく、共通した話題の持ち合わせもないからだ。
暫し浴槽に注ぎ込まれる湯の音だけが浴場に木霊する。全くの無音でない中で、口を噤んでいると居心地の悪い沈黙が尻の下にあるように感じられ、魔導師はどうしたものかと足を組み替えた。
「……今更ですけど、一つお礼を」
当たり障りのない話題が尽きてしまったなとミカが困っている中、マルギットが口を開いた。
「お礼?」
「ええ。貴方が庇っていなかったら、エーリヒがどうなっていたか分かりませんもの。そして、私達も」
「ああ……」
咄嗟の行動であったが、このザマになってもミカは全く後悔していなかった。
発動さえすれば、どんな攻撃でも物理的かつ直線的に干渉してくる物ならば無効化できる友人であっても、あの時ばかりは防御できなかっただろうから。
そして、彼があの大型動死体を破壊していなければ、全員が生きてはいなかっただろう。
四人は言うまでもなくあの場で殺され、アグリッピナも魔導戦が終わらぬせいで位置を露見させたくなかっただろうからミカの手当ができない。
もし仮に生きながらえても、こうやって治療を受けることは難しかったであろう。
〝ああなって〟はここまでだと、覚悟を決めた大型動死体が最も手近な都市であるノルトシュタットを強襲することは想像に難くない。失った戦力を補填し、決戦への備えとして大量の死体を調達するべく、動ける内にと動いてこちら側の余力を削りに来ただろうから。
さすれば、さしものアグリッピナとて姿を眩ます他なくなる。全力であったならば、多少は手間取ろうが破壊できるだろう巨大動死体も、今の彼女の手には余っただろうから。
魔導炉の制御を完全に手放す訳にもいかず、命が惜しいなら逃げの手を打つほかなくなる。
あとは、精々全員の魂の抜け殻が、同じ軍門の下で再会できたかというところか。
「僕も彼に命を救われたことがあるから、お互い様じゃないかな。今回は、そもそも彼が終わらせてくれなかったら、どうしようもなかったんだし」
「それでも、ですわよ。私、いざと言う時の盾にもなれなかった女ですし」
見れば、蜘蛛人はその幼い顔を口惜しそうに膨らませていた。
彼女は自分を斥候であると任じているものの、その戦闘様式の一部はいざという時にエーリヒの盾となろうと考えて行っていた部分が大きい。
死角を潰し、動きを助けることは勿論、不可避の一撃が襲いかかった時は庇い、あるいは突き飛ばして逃がすために。
人生の中で最も得難き獲物でもある彼女の相方が失われてしまえば、マルギットの人生は途端に色を失うであろう。
仇が生きていれば、仇討ちに魂を燃やすことも能うやもしれぬが、その後が丸きり想像できぬほどに狩人は剣士に入れ込んでいる。
普通の感性で生きているヒト種にとっては熱烈過ぎる思いは、マルギットにとっての紛れもない愛であり、生きる理由となっていた。
何処とも知れぬところで力及ばず死んでしまったならまだしも、目の前で何もできずに彼が果てることがあったなら、彼女は自分を許せず〝生きている〟という最低限の行為でさえ罪に感じる。
単に一時の迷いではない。分かたれていた時間が長いからこそ、思いは募ることはあっても薄れはしなかった。
「むしろ、最後はあの人に庇われたせいで余計な大怪我まで負わせてしまった訳ですし?」
「いや……それはどうかなぁ。あの急に角度を変える変則技、流石に彼も反応するのは厳しかったと思うんだけど」
「一呼吸も余裕があれば、自分の命の面倒くらいみられる男でしてよ。自分が見初めた相手の力量は、正確に見積もっておいた方がよくってよ?」
「みっ、見初めっ……!?」
湯を跳ね上げながら起き上がったミカは、無意識に体を動かしたせいで接合部が捻れる痛みに襲われて呻く。顔に被った湯に混じりながら涙を浮かべた彼は、ゆっくりと体を沈めて痛みが去るのを待った。
「あらあら」
「あらあらじゃないよ……いってて……死ぬかと思った」
腕を動かすのが怠いほどの状態なのに、よく体が動いたなと思いながら疵痕を摩る魔導師は、ややあって問うた。
「えーと……いつから?」
「最初からですけど? 逆に、隠せているつもりでいたんですの?」
「い、いや、隠すもへったくれもなく、最初に会った時は男じゃないか、僕……」
「そんなの関係ないほど惹かれているようにしか見えませんでしたわよ」
断言されると反論することもできず、ミカは口を水面に沈めて溜息の代わりにぶくぶくと息を吐いた。
正直に言えば、彼にも自覚はあった。男性時のそれが恋情であるかどうかは兎も角として、中性時や女性時には全く他の異性に興味が擽られないのは自分のことなので疑いようがない。
官僚として、行き着く先は貴族としての自覚を求められている以上、ミカは自分の外見をある程度客観視している。そこに美少女や美少年好きとして知られるライゼニッツ卿が多少の危険――他閥の学生への干渉は、基本的に好まれない――を侵してでも執着するというお墨付きを貰えば、自分に自信がなかったとしても認識を改める他なかろう。
故にお近づきになろうとして、腫れ物に触るような扱いがいっそ露骨過ぎる程に変わった意味を彼は正しく理解していた。
多少生態が珍しかろうと、そんなものは見目が整っていれば無視されるものだ。これだけ多民族が入り乱れ、様々な種族の特性を知ることができる環境にあったならば、同じ学び舎にいる珍しい種族の物珍しさも時と共に薄れてくる。
成人して容姿が大人に近づくにつれて、声をかけてくる者が増えて来たが、そのどれにもミカは興味が持てなかった。
友人になろうと言われても「何を今更」と嫌悪感しか感じないし、表面上の付き合いは社交として我慢できても、本物の友人になれる気は一切しなかった。
況して、容姿が気になる年頃になった途端、いいなと思ったから〝お誘い〟の声をかけてくるような輩にどうやって気を許せようか。
それならば、謎の「尊い!!」とかいう悲鳴を上げて、性別の転換諸共喜んでいるライゼニッツ卿の方が〝下心〟が純粋な分ずっとずっと清廉に思える。
あの人は、着飾って遊ぶことはあっても、お気に入り同士を無理に妻合わせたり、自分から手を出すような無粋は一切働かないのだから。
「僕も分かんないんだよぉ……」
「ふーむ……複雑なのですね」
ミカとしてはエーリヒへの感情を未だに咀嚼しきれていない。親愛は紛れもなく本物であるが、それが恋なのか友情なのか、はたまた劣情なのかも定かではなかった。
もしもエーリヒがミカと同じ中性人だったならば、特に悩むことはなかっただろう。自然と惹かれた相手と性別が転換する流れが同調していき、繁殖に問題ないよう中性である期間を使って調整できるのが中性人だから。
だが、彼は性別が固定されたヒト種の男性である。同じ男性となることもできるミカには、どうにも理解が難しいのだ。
極地圏の厳しい環境で生きることに特化した人類種には、まだまだ他種族との付き合いが短い。彼の一族が帝国に入植して世代を重ねていても、両親が同種族というだけあって、本質的な理解には程遠い。
何も他の種族が中性人を理解できていないのが問題なのではない。
中性人もまた、別の種族を深く理解していないのが厄介なところである。
「ただ……ええ、一つ言っておきますと、私も貴方を気に入りましてよ。私にできなかったことをしてくれて、何より自分よりあの人を大事にしている」
「えぇ……?」
「だから、よくってよ?」
浴槽の縁に上体を預け、にんまりと微笑む蜘蛛人に中性人は「何が?」と問い返す気にはなれなかった。
彼女が何を言いたいかは、何となく分かってしまったから。
事実として、離れている間に彼と〝そういった間柄〟になることを空想し、夢に見たこともある。
「あー……もー……難しいなぁ…………」
ぶくぶくと湯船に頭から沈んでいくミカにマルギットは生暖かい笑みを送り続ける。
浴槽の様子を見てこいと癒者に頼まれたカーヤが、同じ湯を注いだフローキが浸かった桶を持ってやってくる頃には、本来上せることのない魔法の湯なのにゆでだこが一人出来上がっていた…………。
【Tips】中性人は長らく入植した北方でも同部族同士で婚姻を重ねて増えていった家系が多いため、彼等自身がヒト種を初めとする性別を一つしか持たない種族を理解しているとは言い難く、同時に両性具有の種族とも異なるため全てを受け入れるのには時間がかかる。
更新が一ヶ月以上空いてすみませんでした。
何とか6巻の初稿があがったので更新です。
今回も20万文字越で、九割方書き下ろしです。
そろそろ嬉しいお知らせもできると思いますので、お楽しみに。
追伸:FGO歴に準拠し8月までは春とします。イイネ?




