青年期 十八歳の晩春 八二
主観に基づく個人的な意見であるが、最も贅沢な生活というのは何十人の使用人に囲まれ、贅をこらした食事が毎食用意されて、世界中の美酒を自由に取り寄せられることではないと思う。
「あっ……ああ~~……」
最も贅沢で満ち足りた暮らし。それは、いつでも温泉に入れることではなかろうか。
少し温い湯に肩まで浸かり、滑らかに表面を磨かれた――或いは温泉の成分で溶けているのか――岩の淵に残った左手を預けて心から安堵の息を吐いた。
温泉。それは魂を洗濯する場。あらゆる疲労と悩みを融解する、神からもたらされた最上の贈り物である。
「いい湯だぁ……」
ここはライン三重帝国のどこか。人里からも離れた地にある隠れた保養所である。幾件かの質素な、しかし見窄らしくない貸別荘が並び、一件につき立派な内風呂と露天湯が一つずつ備わった、この世の天国のような場所。
貴族御用達としか思えぬ贅沢な療養地で開闢帝も愛したと噂される霊湯に浸かっているのは、アグリッピナ氏からのご褒美だ。
あの後、潜った門の先にあったのがこの温泉地。身分を隠し、更に高度な治療も受けられるという素敵な所で、政治的な介入も暗黙の了承の下に絶対ないとされる場所でアグリッピナ氏は我々の壊れた肉体を修復してくれると仰った。
曰く、ちょっとしたオマケ、とのこと。つまり報酬とは別に治療費も滞在費も全部彼女持ち。更にノルトシュタットでの後始末もしてくれるというから、報酬のことを心配していた自分が馬鹿みたいだ。
まぁ、たしかにこのザマで出て行ってできることなどそう多くはないし、貴族相手に何かするならアグリッピナ氏以上の適役もなし。配下へ手紙を届けてくれるとなれば、断る理由がなかった。
攻囲してきた動死体が悉く停止し、戦勝気分に浸っているであろう所へ重傷者姿で戻って、水を差すのも悪いからな。
「極楽極楽……地獄と天国は、やっぱり紙一重なんだなぁ。ああ、剣友会のみんなも連れて来てやりたかった。今度、慰安旅行でも企画してみるかぁ」
温泉によって温もった体から汗が流れ、首から伝ったそれは右腕に達すると焼け焦げていたのが嘘のように滑らかな皮膚に包まれた切断痕から落ちていった。
この保養所の近くに庵を構えている癒者、つまり魔導院の教授でもあらせられる自称ご隠居から受けた応急処置の結果である。
あらかじめ予約でもしてあったのか、妙に話が早い彼女は門から放り出された我々を見るや否や治療を始めてくれた。致命傷になり得る傷が瞬く間に塞がれて、泣きそうになりながらカーヤ嬢が抱えていた我々の四肢も再生の準備として薬品に漬けられる。
そして、激戦の翌日には風呂に入っても染みない状態まで持っていってくれた次第である。
「……げ、お前もいるのかよ」
「おお、ジーク。奇遇だな」
鼻歌を歌いながら<見えざる手>で頭に乗せた手ぬぐいの位置を直していると、引き戸を開けながらジークフリートがやって来た。内風呂に入らず露天にやって来たのは、やはり何となく〝こっちの方が豪華そう〟と思えるからか。実際には設備やら何やらは、内風呂の方が金も掛かっているだろうにね。
「静かに風呂に入れるかと思ったんだが……」
「まぁまぁ、そう言わず入りたまえよ。最高だぞ」
「はぁ……ここまで来て引き返すのも無粋か」
不承不承の様を隠そうともせず、彼は松葉杖を突いてゆっくりとやって来た。
そして、恐る恐る、私の右手や右足と同じく塞がった切断面を見せる左足を湯に浸した。
「思ったより温いな」
「湯治は温い湯にゆっくり浸かるものだからね。肩まで入ってじっくり温もりたまえ」
「お前は俺の親か。いや、むしろ発言がドンドン爺むさくなってんぞテメェ」
辛うじて繋がっていた左足だが、それは癒者の手によって外科的に切断されていた。何も中世的な「とりあえず切っとけ」なる雑な医療を施された訳ではない。くっついてはいるものの通常の医療であれば切断する他ない状態だった左足は、そのままにしておくよりも、いっそ一度斬り落とした方が魔法的に治療がし易いという判断に基づいて一時的に旅立った。
それでも当人は大変な抵抗を覚えたようで、ついにはカーヤ嬢に怒られてやっと受け入れる大騒ぎであったが。まぁ、駄目だと分かっていても自分の足を切り落とすのは抵抗があるよな。
その左足も今頃は焼き切られていた切断面を整え、死んだ部分を切除して使えるよう培養し直している頃だろう。こういうのをなんだっけか、デブリートマンというのだったか? いや、切断された手足が相手だから、また別の施術かもしれない。
ともあれ、手足の長さがちぐはぐにならず継いで貰えるのは有り難い限りである。癒者の先生は暫くリハビリが必要だとは仰っていたが、二度と使えないより格段にマシなので頑張るとしよう。
「俺ぁもうちっと熱い方が好みだな。湯冷めするぞ、これじゃ」
「さっさと上がるからだよ。体の芯までじっくり暖まるまで入っていたまえ。そうすれば、風呂から上がっても一刻はずっと暖かいくらいだぞ」
「かったりぃな……風呂なんぞざっと入ってざっと上がりゃいいじゃねぇか。それに、何時までも暑いままってのも鬱陶しいな」
どうやら彼とは根本的に入浴への趣味が合わないらしい。何も考えずのんびりと長時間湯に浸かっているのが退屈で堪らないのか。
「……しかし、えらいことになったな」
共に黙って湯の温かさに浸っていたが、沈黙に耐えきれなかったのかジークフリートが話題を切り出してきた。
「ああ。君が戻ってきてから、こうなるとは思わなかった」
「まるで俺の運が悪いみたいに言うんじゃねぇよ。モッテンハイムの仕事を受けて、暫くマルスハイムから遠ざかろうつったお前が悪いんじゃねぇか」
「そんなことはないぞ。どうせ、何処に行っても遅かれ早かれこうなったんだから。今頃、マルスハイムに残った面々も大変だと思うよ」
「だが、生まれてこの方手放したことのねぇ足を一時とは言え失うハメになるのは、一番派手な所にフラフラ突っ込んじまったせいだろ。モッテンハイムだけでも大概だってのに……しかも、んな英雄詩にもならねぇ戦い方でよぉ」
愚痴る彼だが、一番の不満点は今回の一件が一部を除いて名を売る機会にはならなかったということか。
最後の決戦は大変だったが目撃者は味方以外この世におらず、そして貴族からの依頼という柵もあって声高に功を主張することもできない。それからノルトシュタットの救援も専ら政治的な理由でボーベンハウゼン卿の功績が大きく宣伝されるはずなので、扱いとしては地味な物になるかな。
モッテンハイムでの戦働きは、荘のお祭りになって何代も先に伝えられてもおかしくはないけれど……あそこ出身の高名な吟遊詩人はいないし、これだけ辺境が荒れていれば題材目当てに方々を彷徨く詩人も減るとあって、剣友会の奮戦が有名になるのは難しいか。
「残念だったな。まぁ、今度は実家に仕送りでもするといいさ。金貨がついてくれば、流石に皆も信じよう」
「るっせ! それいじんなつったろ!?」
温泉の温もり以外の要因で顔を赤くしたジークフリートが、掬った湯を投げつけてきたので首を軽く動かして回避した。ついでに逆側に動かして、回避を見越して逆の手で放ってきた時間差の一撃も避けておく。
彼は去年、そろそろ冒険者として名も売れてきたから帰郷しても格好がつくと判断したのか、休暇を取って故郷に錦を飾りに行ったのだ。当人は見返してやるためと豪語していたものの、その実態が逐電同様に家を出たカーヤ嬢の身分を思い遣って、二年ぶりに家族と合わせてやろうという思いやりが第一であることを剣友会の誰もが察している。
土産を買い込み、普段は面倒がって行かないかカーヤ嬢に丸投げの頭も浴場の髪結いに頼んで整えた――ツンツン頭を髪油で無理に整えようとした様を皆で笑ったのも良い思い出――彼が意気揚々と出かけたのを見送ったものだ。
しかし、残念ながら伝わっている英雄詩は金の髪のエーリヒの盟友〝幸運にして不運のジークフリート〟と〝若草の慈愛のカーヤ〟の話であって、イルヒュートのディルクではない。
故郷の人達から「ディルク生きとったんかワレ!?」とか「名前聞かないけど、カーヤちゃんのヒモやってんの?」と散々なことを言われまくったそうな。挙げ句の果てに「大事な薬草医の娘さん連れ出した挙げ句、別のイケメンに寝取られたと思ってた」と酷いにも程がある感想を〝実の親兄弟〟から言われ、完全に心が折れて帰ってきた。
ついでに自分がそのジークフリートであることも、カーヤ嬢からの必死の援護を受けたにも拘わらず信じて貰えず終いとあれば、なんかもう、全員で肩を叩いて酒を奢ってやることしかできなかった。
綺麗に一列になって一人ずつ肩を叩いていったら「イヤミかテメェらっ!!」とガチギレされて、剣を抜くところまでいったのは笑い話にしていいのだろうか。
いや、ネタにしておいてなんだが、まだ穏当な扱いだとは思うんだけどね。荘を出る時に自警団の大事な装備を失敬してきたそうだし、小作農家の三男坊が壮園でも人望の厚い薬草医の一人娘を連れて逐電したとあっちゃあ、真実がどうであれ実家の人々は酷く居心地が悪かったろう。
荘付きの薬草医家系なんて一〇個の内に一つあればいいようなもの。ケーニヒスシュトゥールにもいなかったもの。そんな重要な娘さんが、娘さん自身の意志で出てっ行ったにせよ、風聞まではどうしようもなかろうて。
「まぁ、そう怒るな。最低でも一人頭一〇ドラクマは分配できるくらいふんだくってやるから。それで牛や農耕馬の一頭でも寄付してやれば、五月蠅い輩も黙るだろうさ」
「ふん、そうこなくちゃな。一〇ドラクマくらいは……一〇ドラクマ……?」
「ん? うん、一〇ドラクマ」
これくらいは貰わねぇと割に合わねぇよ、という額を告げてから、顔にも汗を掻いたので湯を掬って顔を洗っているとジークフリートの声が俄に固まった。
どうしたよ、と顔を上げれば信じられないという顔をしているではないか。
私、何か変なこと言ったかね?
「一〇ドラクマって、全員でか……?」
「はぁ? それじゃ全然計算が合わないぞ。今回は全部で二〇人以上参加してるんだ。それじゃ一人当たり五〇リブラにもならないよ」
五〇リブラじゃ紅玉以上の護衛仕事の一〇日分にしからなんじゃないか。何度も死線を潜った報酬とするなら安すぎる。
仮に倍、全体で四〇〇ドラクマ以上必要になったとしたって、アグリッピナ氏は「欲がないわね」くらい言って小切手を切るだろう。運河と陸運の要点であり、銀山も抱えるウビオルム伯爵様からすれば、そんなものは子供の駄賃未満の額でしかないからな。
計算が面倒だから、とかぬかして一党への一括支払いってことで一〇〇〇ドラクマくらい放り投げられても驚かないし、何なら十分ですらあると思う。
もし、それくらい頂戴したなら、留守居の連中にもボーナスを支給してやらねばな。同じ集団の中で生まれる格差としてはデカすぎる。今後の平穏のため、幾らか身銭を切るのも必要経費であろう。
「一〇ドラクマ……? 一〇……? えぇ……?」
しかし、何がショックだったか分からんが、ジークフリートは一〇ドラクマと呟く機械に転生してしまった。おうい、と呼びかけて目の前で指を鳴らしてみるものの、反応がない。
参ったな、ヨルゴスも起きたら風呂に連れて行ってやりたいから、後で手伝って欲しいんだが。流石に両方の足首から先と、片腕がない巨鬼の男を一人で連れて行くのは難儀だぞ。ヒト種と違って骨格が合金製の上、皮膚にも金属が混じりる規格外の巨漢だから、軽く二〇〇kg以上あるだろうからな。
誰が持ち込んだか知らないが車椅子は存在しているのだけれど、流石に彼の体格と重量に耐えきれる品物は存在しないのだ。
それと、あとでミカの見舞いにも行こう。彼も私と同じく、ぶっ倒れたそうなのでここに運び込まれているのだ。使いまであるフローキ共々。
彼は私達より一足先にここへ放り込まれていたという。同調術式を使って最前線へ同行するという、払暁派的には無茶苦茶な――やはりリスクが性能と見合わないのか――ことをする彼をアグリッピナ氏は一応心配していたようで、様子を見る術式を置いていっていたそうなのだ。
そして、案の定魔力欠乏と使い魔からの反動で大怪我を負った彼を運び込んで下さったらしい。
癒者は命の危険はないと仰っていたが、それも傷口が焼き切れた手足を繋げる奇跡に近い魔法の使い手が言うことなので、実際は致命傷といってもよかろう。
何かあっても命の危険を救って貰える状況で修羅場に入れたことを感謝すべきか。それともアグリッピナ氏が言外に、これからもまた頑張って貰うからと畜生極まることを考えているのか。
甲乙付けがたいなぁ…………。
【Tips】癒者。治癒の技術に関する専門技術を高度に習得した魔導師の尊称。造成魔導師や戦闘魔導師と同じく、治癒術式が使えるからといって名乗れるものではなく、魔導院と帝国からの認可があって初めて名乗ることを許される最高位の証明である。
全員生還。そして、ちゃんと雇用主がいる仕事なのでアフターケアも受けられます。
大事な駒は修理できるかぎりちゃんと使って、回復次第また使わないと勿体ないからね。




