少年期 一二歳の春・五
我が家のお姫様を寝かしつけるのには、大変な苦労が必要だった。
それもそうだろう。七つの、しかも精神的にはそれより幼い気がある子供が、二~三日もしたら急に親元を離れねばならないと告げられて取り乱さないはずがなかろう。
確かに家の中で妹に一番懐かれているのは私だが、彼女は私以外のみんなも大好きなのだ。
父に抱き上げられてあやされると、エリザは弾けるような笑顔を浮かべるものだ。
母の料理も大好きで、大きくなったら教えて貰うとうるさいくらい。
三人の兄に気を遣われるのも大好きで、そんな時彼女は本当のお姫様のように振る舞ってみせるのだ。
それに新しくやってきた、優しい義姉も慕っている。今まで男が多かった環境に女性が増えたのもあるが、家事の合間に髪を弄って遊んでもらうのが大層嬉しかったらしい。
そんな家族から引き離されることに、どんな理由があろうと承服する筈がなかろう。
それこそ月並みな物言いをすれば、まだ子供なのだから。
いくら私が付き添うからと言い聞かし、自身の為なのだと総出で説得してもエリザは駄々をこね、叫び、泣き止むことはなかった。夜半を過ぎてようやく体力が尽きたのか、やっと寝入ってくれたのである。
ただ、これは明日の朝も荒れそうだな。
もしアパートだったら相当な苦情が来そうな、我が家でも類を見ない激闘を終えた一家はクタクタだった。兄夫婦は体を引きずるように離れへ引き上げていき、次兄と三男はリビングデッドもかくやの有様で兄弟の部屋へと向かう。そして、戻ってこないことを見るに、エリザを寝床へ連れて行った母もそのまま轟沈したのだろう。
今、我が家の居間には私と父だけが残っていた。
「……何か飲みますか、父上」
「……ああ、そうだな……水屋からとっておきを持ってきてくれ」
椅子に体を投げ出すように座る父に問えば、そんなリクエストが飛んできた。
我が家の秘蔵の一品、父が食器棚の隠し蓋――横領する心配がない私には教えてくれた――に後生大事に抱えているのは、帝国北方にて愛飲されるライ麦で作る蒸留酒だ。最早時代考証が合わない品の存在に驚きを覚えることも殆どなくなってきて、私は透明なガラス瓶の中でゆれるそれを丁重に取り出した。
見るからにお安くない代物だ。三分の一ほど残ったそれを差し出せば、父は小さなグラスで割ることもせず一息に煽ってみせた。
香りからして強い酒なのに、よくやるなぁ。
「エーリヒ、お前もやるか?」
差し出された小口のグラスには、微かな琥珀色を帯びた酒が揺れている。つんと香るアルコール臭は、一二歳の味覚に合わないことは分かっているから普段なら遠慮したいものだが……。
私も呑みたい気分であることに違いはなかった。
一口煽ると、カッとする熱さと共に意外と癖のない味が胃へと滑り落ちていった。後に残る酸味が独特の後味も悪くなく、舌がもっと大人になったら美味しく楽しめそうな風味だ。
「いい呑みっぷりだ。やっぱり俺の子だな」
父は笑い、もう一杯を最初と同じ勢いで干した。ただ、強い酒だ、何かつまみがあった方が良いだろう。私は冬の残りである干し肉を取り出すと、父は何も言わずに受け取ってナイフで削って食べた。
「……よもや、こんな事になろうとはな。因果な話だ」
酒精が潤滑油になったのか、口が滑らかに動き始めている。父は三杯目をやると、私に目線を合わせた後、しばし逡巡するように口を蠢かせ……やがて、静かに語り始めた。
「お前に聞かせたことはなかったな。実は俺が次男だったということを」
「……そうなのですか?」
初耳だった。祖父も祖母も私が生まれる前に亡くなっており、唯一面識があるハインツ兄でさえ物心が付く前のことだったので、他からそういう話を聞く機会がなかったのだ。荘の中の親戚も態々そんなことを話す必要は何処にもないし、婿養子に行った叔父達や嫁に出た叔母達からも聞かされたことはない。
「ああ。兄貴は俺が……えーと、一八だったっけ?」
「いや、私に聞かれても」
アルコールで微妙に濁った頭で細かい数字が揮発したのだろうか、惚けたことを言ってから、ああ、そうそう、一八だったと勝手に満足して父は頷いた。
なんでも私が生まれる前に長兄にあたる伯父は、流行病で嫁御共々に逝ってしまったらしい。そして、それまで外で働いていた次男である父が急遽呼び戻され、この家を引き継いだそうだ。
伯父が逝ったショックか祖父母もあっと言う間に弱り、双子の兄達が産まれる少し前に旅立ってしまった。結果として、この家には私達家族だけが残ったのだ。
「だから、俺も理不尽な理由でやりたかったことを捨てざるを得なんだ辛さは分かる」
父は形のない何かを噛み砕き、無理に飲み干すように言った。
そうだろう。父にも子供だった頃があり、夢を追う少年や青年だった時期があるのだ。次男として部屋住みになっていないということは、半ば逐電する形で家をでるほどの何かがあったに違いない。
「俺はな、傭兵だったんだ」
「えっ? 父上が……!?」
「おう。七つの会戦と十五の小競り合い、三年でそんだけだな。兜首も二つほどあげたし、賞金もぼちぼち貰ってた。代官様から農地拡大権を買う金も、いくらかはそっから出てるんだぜ。ホルターを買ったのも、その時の伝手さ」
今日は本当に濃い一日だ。知らなかったことが波濤の如く押し寄せてくるのだから。
妹は実は半妖精で、幼なじみからは耳に風穴を開けられ、ついでもって模範的な農夫だと思っていた親父は元傭兵? 勘弁してくれ、脳味噌が中毒を起こして昏倒するぞ。
「だがまぁ……弱った親父から泣きつかれるとなぁ、強く出られなくてよぉ。あんだけ痛かったげんこつ振るう手が、あんなんになってっとなぁ……」
遠い目をした父は思い出しているのだろう。自分が剣を置く理由になった、痩せ衰えたであろう祖父の手を。幾つもの豪腕をねじ伏せただろう傭兵の手が、痩せた農民の手に負ける理由は……何となく分かる気がした。
「……まさかお前に俺と似たことをさせるたぁ、夢にも思わねぇよ」
父にも葛藤があったに違いない。この時代の傭兵は野盗の親戚といえるほど野蛮ではあるが、専属軍人の穴を埋める半正規軍といえる程に組織化がなされた戦争のプロという側面も強い。冒険者が少数での行動を前提とするなら、彼等は密集軍での軍事行動を念頭に置いた集団であり、当然戦場で肩を並べる同胞との結束は固かっただろう。
それを置いて郷里に帰る苦悶は如何ほどか。昔を懐かしんでか、口調が荒れていく、いや、戻っていく父の姿を見れば察してあまりあった。
だが、だとしても。
「……私は、そうは思っていませんよ」
「あん?」
私の意志はマルギットに語った通りだ。私はなりたいものに成りにいく。エリザにとって格好いい兄であることは、私の希望から決して外れていないのだから。
「私はエリザの兄です。妹に格好付けて、守ってやるのは兄貴の本望でしょう?」
笑いながら告げ、私はそろそろ行きすぎになる酒杯を奪い取り、中身を胃へ捨てて空にした。妹に格好を付けるのが兄の本望なら、父を労るのは子の本懐であるから。
「ふっ、そうか、お前にとっちゃ格好付けか」
「ええ、そんなもんです。格好付けた後にやりたいことをやりますよ。やってみせます」 「ははは、そうかそうか」
そうか、と楽しそうに暫く続けた後、父は俄に立ち上がって暫く待ってろと言い居間から姿を消した。結構育てた<聞き耳>で気配を探る限り、地下の収納庫に向かったようだが。
スープが冷めるくらいの時間の後、父は何やら土に汚れた袋を持って帰ってきた。収納庫の床は土がむき出しなので、何か掘り出してきたのだろう。
「これをな、お前にやろう。独り立ちん時にくれてやろうと思ったんだが、今のお前なら早すぎるってこたぁねぇな」
袋から取り出したのは、油紙に包まれた一本の剣だった。拵えを外して、油を丁寧に敷いてさび止めが施されたそれは、正しく西洋の剣と言われて安直に思いつく姿。簡素ながらも蝋燭の光りを反射し、誇らしげに輝くアーミングソードの威容である。
「俺が辞める前に使ってたもんだ。槍や盾、鎧は金に換えちまったが、こいつぁ俺があげた兜首からの戦利品でな。名残惜しくて持ってきたんだ」
売り払えばいい金になったてのによぉ、と嘯きながらも剣からボロ布で油を落とす手付きは慎重そのもので、実に嬉しそうだ。その上、丁寧に仕舞われていたこともあって酸化している所は微塵もない。油を塗布し、酸素に触れづらい土中へ埋めてまで保存することから、父の深い思い入れが窺い知れた。
「神銀の剣や魔剣とまではいかんが、中々立派な品だぜ。詳しくはないが、スミス親方が言うに模様鍛造だとかいう、上等な手法でできてんだ」
この時は知らなかったが、後で聞いたところ模様鍛造とは複数の素材で積層構造を作る工法のことをいうらしい。日本刀と同じく芯金と外金の素材が違い、粘り強く曲がりづらく、そして切れ味に優れるという。
「あん時ぁお前は、この馬鹿親父がとでも言いたげな面してたが、俺ぁ本当に嬉しかったんだよ」
あの時、とは秋祭りで据物斬りをやった時のことだろう。一ドラクマ相当の大金をぽんと祝いに放りだしたのは、当時の私にとって何やってんだ親父ぃ! としか思えない暴挙だったが、なるほど、そうだったのか。
確かに武によって身を立てていた自分の息子が、この世代が絶えるまで荘で語られるような武勇伝を残せば、うれしさで箍が外れるのも何となく共感できた。
「だから、ちょっと嬉しくなりすぎて大盤振る舞いしちまった。ま、別に惜しいた思っちゃいねぇがな」
誇らしげに、楽しげに、自身の事を語られることのなんと嬉しいことか。気恥ずかしさで、私は薄くもはっきりした大人の笑みを形作る父の顔から目をそらしてしまった。
これ以上見ていたら、泣いてしまいそうだったのだ。
「だから、こいつぁお前のもんだ」
剣の油を拭いきると、父はそれを私に差し出した。
拵えが外された刀身には、狼の横顔を模した印が象眼されている。掠れて読みづらいが、刻まれた銘は……。
「……送り狼?」
「ああ、昔居たって怪異の名だそうだ」
父が語るそれは、私も何かで聞きかじった事のある話だ。夜の道を着いて回る狼。非礼を働けばたちまちに食い殺されるが、礼を尽くす者や弱者を導くという怪異。
この剣は、それに肖って持ち主を待つ者の下へ送り返してくれるように願いを込めて打たれたのだろう。
……まぁ、結果は私の手に収まっているあたり、少し残念なことになってしまったが。
ただ、いい剣だというのは確かだ。拵えもないのに重心がしっかり座っていることも分かり、ただ軽いのではなく“使い易い軽さ”をしているのが一瞬で分かった。剣とは自身の重さに速度を以て物を断ち切る武器であり、その点を鑑みるにこれは実に優れた一品だった。
この剣なら、完全な神銀製の兜でも断ちきれるような気がした。
「託したぜ。しっかりエリザを守ってやってくれ。お兄ちゃん」
最後に父はそういって、丁寧に酒に栓をすると元の隠し場所へひっそりしまった。
「……はい」
そして、私は呑みすぎたとぼやきながら寝床へ引き上げる父に深々と頭を下げるのであった…………。
【Tips】魔剣には三種類存在し、魔導鍛造と呼ばれる魔法によって純度を上げられた高硬度高靱性の単純に品質に優れる剣と、恒常的に魔法の強化を受けた剣、最後に魔法によって“剣”や“斬撃”という概念が擬似的に物体の相を持って顕現しているものが存在する。一般的には一番目か二番目、あるいは両方の性質を持つ物が魔剣として認識される。
目の前に一本の仮標的が佇んでいる。木製の胴体に使い古して役立たずになった鎧を着せた代物で、自警団が稽古で使って随分と草臥れた姿を晒していた。
小札を重ね合わせたスケイルアーマーには乾ききった血糊がついていることからして、恐らくはこの荘に手を出した何処ぞの某が残した品なのだろうが、こうなっては最早所以をしることもない。
確かなのは木製胴体の頑強性と、鎧自体が未だある程度の頑強性を保っていることだけだろう。
だが、これだけで十分過ぎた。
“少なくとも、人間は鎧を纏った木より堅いことはないだろうから”
「ふっ……!」
叫ぶでもなく、跳ぶでもなく、ただ素早くしなやかに剣を振るう。腕ではなく、剣は胸と脚で振るうのだ。全身の動きが一体化し、噛み合った肉が大地を踏みしめ刃筋が立てば、振り下ろした剣は大地の支えを受けた剛剣と化す。
さすれば、たかが一二の子童が振るう剣でも、鎧を割断するに十分足りる。
剣はするりと的を抜けた。歪な手応えも痺れも残さず、ただ会心の一刀であったと残心のままに感じ入る。
そして、吹き抜けたそよ風に押され、たった今気付いたかの如く仮標的が滑るように胸のただ中より真っ二つになった。
「なんと!?」
うむ、まぁこんなもんだろう。拵えのしっかりした良い剣を持ち、基本を守れば人間を両断するくらいは容易い。
四年も鍛えに鍛え<円熟>まで高めた<戦場刀法>の技量と、積みに積んだサポート特性やスキルがあれば当然だ。謙遜するのは大事だが、これは父が認めてくれた腕前でもある。今後私は未熟であることを自認しつつも、決して自分が“弱い”とは断ずるまい。
それに、この切れ味なら、軽装のヒト種程度では話にならないのは事実だろうし。
「かー……やっぱおめぇ、本当に武神の化身とかじゃねぇよな……?」
拵えの調子を見ると共に、剣の腕を確かめたいと言ってついてきたスミス親方が感嘆し呆けたような声を上げた。まぁ、普通は業物でも鎧ごと基部を両断なんてしない、というより“できない”だろうから、驚くのも無理はないか。
「まさか。私はエーリヒですよ。ケーニヒスシュトゥール荘の農民、ヨハネスの第四子です」
微笑んで、私は剣を鞘に戻す。特急仕事だというのに、父が頼んでくれた拵えの出来映えは流石スミス親方といった具合か。研ぎ直した刃には小札の欠片一つ、木片の一個さえ纏わり付くことはなく、収まる鞘はまるで合わせて作ったかのよう。
清々しい気分だった。
さぁ、明日には出立なのだ。未だ泣きじゃくるお姫様を宥めに行かねば…………。
【Tips】技量を伴った剣はあらゆる障害を斬り捨てる。
三日連続で千PV到達。ありがとうございます。
さぁ、次からは魔法使いの弟子編ならぬ魔法使いの丁稚編……なんかしまらねぇなこれ。




