青年期 十八歳の晩春 六六
「あにさま!」
知っている香りと体温、そして私を抱きしめる強さは変わらないのに、抱き留めた体の大きさが変わっていることが嬉しかった。
ああ、彼女は本当にここにいるのだと。私がいなくても、立派な淑女になろうとしているのだと実感できるから。
「エリザ!」
「あにさま!!」
アグリッピナ氏が通された、寝床が整うまでの休憩用の部屋――館で一番整った応接間であろう――にやって来れば、ドアを開けた私を出迎えたのはエリザからの抱擁だ。昔と同じように、重力の頸木を振り切った彼女が私を信頼して全ての体重を預けてくれるのが何よりも喜ばしい。
きっと、元雇用主が自分の前では取り繕わなくて結構、と気を遣って下さったのだろう。
余談だが、ここに来るまで凄い腫れ物を触るように丁重に扱われた。貴殿は宮中伯の何なのだ、という質問すらされず、冒険者というより一端の騎士のような口の訊き方をされるのは何と言うか、うん……。
そういや一時、伯爵の隠し剣シリーズだの遊歴大公シリーズだの、お偉いさんの息が掛かった冒険者に偽装した騎士や、隊商のフリをした大公が身分を隠して――しかし、最後には晒して――世直しする冒険譚が流行ったな。その手の主人公達の同類と勘違いしてるんじゃなかろうか。
尻に汗が浮くほど気持ち悪くて落ち着かなかったが、それでも面倒臭いことは殆ど解決されたのでヨシ! “渇望の剣”の追求を受けることはなかったし、厄介極まる現状を口頭で説明して納得させる必要もなくなった。そしてボーベンハウゼン卿の疑いも晴れた。
八方丸く収まったな! ヨシ!
なので、全て忘れて三年ぶりに世界で一番可愛い妹を愛でるのに専念しよう。
「あにさま……よくぞご無事で。心配しておりました、戦地に身を置かれていると聞いて!」
「私はエリザの兄様だよ。何処に行ったって元気で帰ってくるに決まってるじゃないか! 何も心配は要らないとも!」
「それでも心配でした! あにさまに何かあったらと!!」
幼児語の兄様だけはそのままに、彼女の宮廷語は最後にあった時よりも更に洗練されていた。貴族でなければ使わない発声、抑揚、特定の単語に使われる鼻母音。言葉の美しさと優雅さを求めて改造された言語が、心地好いばかりに耳に染み入る。
ああ、彼女は私が知らない間に本当に立派になったのだ。まるで、貴族の御姫様のようじゃないか……。
私の首元に顔を埋めて、数年の別離を埋めようとしているエリザの髪に、私も応えるように顔を寄せていると、隣に立つ気配が一つ。
言うまでもなく、先程まで興味なさそうに覚書に書き付けをしていた――あの癖も健在かと思うと感慨深い――アグリッピナ氏である。そもそも、この部屋には私を除いて、二人しかいないのだから。
何だろうと思うと、彼女は顎に手を添えて小首を傾げている。
その視線は、どうやら私に注がれているようだった。
気付かぬうちに不調法でもしでかしたか? たしかに今は、ミカの様子を見たりでドタバタしていたこともあって戦仕度を解いていないままだ。胸甲だけは脱いであるが、手甲も着込みも長靴も着込んだまま。貴人を訪ねるのに適切な格好とは言い難い。
されど、斯様なことを気にするアグリッピナ氏ではない。そもそも人前以外で礼儀云々を注意されたことがあっただろうか。たとえ私がだらしない部屋着姿であったとして、彼女が求める性能が維持されていれば小言一つ言うまいて。
では何が……と訝っていると、彼女の視線が上下しているのが分かった。
私の顔を見て、足下を見て、また顔を見る。
そして、自分の頭に手をやったかと思うと、今度は私の頭の高さにやり、今度は直立しているであろうエリザの高さにやる。
それから、覚えのある高さ。
帝都を出た時の私の身長の高さに手が到達した後、彼女は深く首を傾げた。
「……何か仰りたいことが?」
「いえ、前に会った晩は気にならなかったけど、エリザと並ぶと……ええと、何と言うか……」
チビで悪かったな! と怒鳴らなかったのは、さっきまでの従僕モードが残留していたからか。これでいて結構気にしているのだ、触れてくれるなよ、そこに。
正直、エリザの背が思っていたより伸びていて、嬉しいながら危機感を抱いているのも事実なのだ。
彼女が成長しきった時、果たしてその上背が私を上回ったりせんだろうな……? と。
くそ、極端な矮躯とは言わずとも、兵士としては小兵に過ぎるこの体躯が疎ましい。
「本当に三年経ったのかしら。こう、この間、成人祝賀の夜会で呼ばれたホルムシュタット侯のご子息は、もう少し……」
「本題に入らせていただいてよろしいか!?」
数々の悪戯の中でも、致命的なだけあって触れて欲しくない話題を切り上げるため、元雇用主相手に無礼と分かっても声を荒げてしまった。
ああ、振った熟練度が勿体ない。予定では今頃、身長一八〇cmと少し、体重八五kgくらいの大男ではないが、屈強な肉体に仕上がっているはずだったのに。筋肉が膨らんではいるが、背が小さいとイマイチ様にならんから困る。
思った通りに成長していたら、アグリッピナ氏を見下ろせていた筈の視界が殆ど同じ高さという状況に絶望しつつ、元雇用主が顎で椅子を示して座れと命ずるのに従って、大人しく腰を下ろした。
「あにさま、お茶を煎れて差し上げますね」
「おや、本当かいエリザ?」
「はい! お師匠様のお世話をするようになったので、頑張って覚えました!」
いそいそと楽しそうに茶器に向かうエリザをずっと眺めていたかったが、アグリッピナ氏が机上に地図を広げたのでそうもいかない。泣く泣く地図に視線をやれば、ここ最近で妙に縁がある、軍事機密にも程がある精密地図だった。
これも多分、ハイデ男爵に命じて持って来させたのだろうな。自領の首にも等しい情報を晒される男爵の心境は、想像するだけでも苦しくなる。
「さてと……じゃ、ちょっと本題なんだけど、今回の一件って閥同士の抗争の件も混じってるのよね」
「え? この期に及んで新情報があるのですか?」
地図を広げてから、同じく机上にあった小箱を漁るアグリッピナ氏に渋面を晒してしまう。既に国境線間際に閉鎖循環魔導炉とかいうヤベー代物を配備し、落日派と黎明派の合いの子である魔導波長探査機なる魔導式電探の実証実験をする予定だった……という時点で厄さが有頂天なのに、そこに政治的闘争を振りかけるのは止めていただきたい。
「この貴方達を悩ませている死霊術師……地方で隠棲してた連中がポロッと湧いて来て、旗色が悪くなり続ける土豪勢力に加担した、なんて都合のいいことがあるとお思い?」
「……魔導師、なのですか?」
「ええ、そうよ」
さらっと特大の、本日何個目になるかも分からん巨大な爆弾の信管をぶったたき遊ばしながら、アグリッピナ氏は取りだした袋の中身を地図の上にぶちまけた。
袋の中に入っていたのは、荒く研磨された宝石だった。小さく荒削りな黄玉の数々は、宝飾品の材料として見るなら屑石でしかないが、魔導の触媒にするには十分だ。
これはアグリッピナ氏が術式の補助に使うというより、私に分かりやすいよう用意してくれたのだろう。彼女の実力ならば、そもそも地図すら広げず探査術式を広範囲に浸透させれば、頭の中にRTSも真っ青な地図を広げることができるのだから。
微かに蠢いて地図上を移動する宝石を余所に、アグリッピナ氏の語りは続く。
「正確には元、なのかしら。他閥の閥内政治は複雑過ぎて訳が分からないのよねぇ……落日派ベヒトルスハイム閥の異端児、“屍繕い”や“屍戯卿”と呼ばれる教授、リアン・アンリ・マーガレット・シュマイツァー卿と、その弟子達が動死体の創造主にして指揮官よ」
え? 何だって? と聞き直したくなる名前だった。長いとかではなく、リアンは三重帝国語だと男女両用の名前だし、アンリはハインリヒという男性名のセーヌ読みで、北方離島圏のマーガレットは帝国語にすれば、我が麗しの幼馴染みと同じマルギット、つまりは女性名というごたまぜ具合だからだ。
その上、死霊術師が教授? しかも名誉貴族号持ちの? さしもの帝国でも死霊術は“禁忌”の一つだ。死体を玩弄するに等しい所業は、倫理観をつま先で弄んで丸めて捨てるような連中でも大っぴらにはやらない筈。
たしかに落日派はその昔、帝国に合流した頃「戦争で出た死体を労働力にすれば最強では?」といかれポンチにも程がある考えを帝室に披露しようと試み、正気に戻れと各派閥からぶん殴られたことがあるとは聞いたが……。
「シュマイツァー卿は、帝国に亡骸の保存や再生技術で貢献していたけど、その裏でやっていた落日派特有の研究……魔導の深奥を探ることにより、生物として一段高い領域に至ろうとしている研究のやり方が拙かったのか、除籍されたらしいのよね」
「それはまた……何と言うか、アレなお方なのですね」
「そうね、生命としての本質、とやらに凝りすぎて魂の何たるか、意志の骨子たる自我をどっかに置き忘れてきた狂人共の中でも一等ぶっ飛んだイカれね」
色々な媒体で規制されそうな雑言を臆面もなく口にするアグリッピナ氏の評価からして、本当によろしくない研究に手を染めていたようだ。
そして、そんな男とも女とも分からんヤツが放逐された逆恨みか何かで辺境大暴れ、死体大行列祭り開催とか洒落になってなさすぎる。どっか余所でやってくれませんかね……。
「で、一番の問題と、そして私が貴方にアレを殺して欲しい理由なんだけど」
「……これ、話すことで私を逃げられなくしてます?」
にっこりと絶世の花が咲き誇るような笑みも、私を地獄に蹴落とす旅券が添えられていると毒々しくて見惚れる余裕すらない。
「実は黙ってたけど、魔導炉を奪われちゃっててね」
がぁん、と大きな音が響き渡った。音源はテーブルと私の額だ。考え得る限り最悪の事態に体から力が抜けて、ヘッドバッドを机にかましてしまった。
ああ、ええ、なんともなく予感はしてたんですよ。
私の権能で幼少期に<屍霊術>の独覚カテゴリのスキルを見つけて、強いけど反社会的な内容だったら洒落にならねぇよなぁと取得を見送ったことがあるのだが、そこまで燃費のいい技術ではなかったはずだ。
単に起き上がって本能のまま殺戮に興じる死体を作るのでも、今の私でさえ日産十数体が限度。たとえ教授位を得た魔導師とて、こうも大量の動死体、それも小規模とはいえ改造が施された品を大量に用意できるのかと疑問には思っていた。
魔力は一日寝たら全回復するような代物ではないからな。使って底に近づけば近づくだけ、回復するまでに時を要する。十三の今より未熟だった時分でさえ、魔力枯渇から完全に回復するには十日以上必要だった。
教授とその弟子が集まった所で、ここまでの軍勢、それこそ広範囲にばらまいて精密に制御することなど現実的ではない。
それこそ、汲めど尽きることのない、逆さに振れば無限に魔力が出てくる不思議なツボでも持っていない限り。
そして、敵はそれを持ってしまっていた、という話だ。
「あ、私のポカじゃないから安心していいわよ。いやぁ、利権に絡ませろって鬱陶しいのがいたから、万一の生贄要因として使ってたら、よもや本当にしくじるとは。私としてはさっさと実験して実用段階に持っていきたいのに良い迷惑よねぇ」
「いや、だからって……貴女って方は……本当に……」
「ただね、貴方ならここまで聞いたら気付いてるでしょう。こうも面倒になったなら、私がさっさと動いた方が楽に片付くから、とっくに出張っているだろうにと」
知りたくない新事実に頭が痛いのだが、彼女が言うとおりのことは思った。
この御仁は究極の面倒くさがりの出不精であり、可能ならば書庫へ引き籠もって永劫の時を書籍と戯れることに使うが、その安寧を破られるなら自ら動くことを厭わない人物でもある。
然もなくば、あの不便極まる巡検の旅に二十年もの時を費やさず、さっさと帝国と縁を切って自国に引き上げていただろう。
では、何故そうしなかったのかといえば、面倒を逃げることでより面倒なことになると分かっているからである。
一つの面倒事を片付けて理想型に戻ることができるなら、アグリッピナ氏は耐えることも自ら動くこともできる人だ。
故に今回のことだって、辺境でわちゃわちゃしている我々を鼻で笑い、不逞魔導師を軽く蹴散らして魔導炉を取り返して研究することも出来たはず。最初はアグリッピナ氏の体面のため、我々冒険者を使って片付ける必要があるのかと思ったが、こうやって現場に出て来ている以上は違うのだろう。
答えは問うまでもなく教えていただけた。
「実は処理領域の八割ほどを閉鎖循環魔導炉の制御権維持に使っていて、あんまり派手に動けないのよ。今も思考能力の殆どは術式制御に割り振っているくらいよ」
「制御権維持、ですか? それは、よもや完全に人力で、魔導師数人分の魔力を捻出する恐ろしい物を保ち続けていたとか……」
「そんな訳ないでしょう。だとしたら欠陥品にも程があるわ。製造の時点で誰が予算を出すのよ」
「ですよね」
アグリッピナ氏曰く、敵の掌中に閉鎖循環魔導炉が墜ちたことを知った瞬間から、延々とその術式を変動させ続けることで、制御の全てを敵に握らせぬようにし続けていたという。
厳封した基幹構造を覗き見されぬよう。
そして、臨界させることで都市圏を吹き飛ばせる最終手段を兵器転用させぬよう。
前者は技術としてヤバすぎるし、後者は帝国が望む会戦による幕引きを土壇場でひっくり返す鬼札になり得るから当然だ。そこまでいけば、アグリッピナ氏とて政治的失態を繕いきれぬか。
「本体を握られている以上、出力している魔力を抽出して利用されるのはどうしようもなかったけれど、完全に乗っ取られることは防いでいるわ。今の所、ね」
「不安になる言葉を付け加えないでください。しかし、貴女を以てして、そこまでの力を投じねば御せぬ相手なのですか?」
ご覧なさいな、と指し示された地図が問いの答えであった。
地図の上では、アグリッピナ氏がぶちまけた黄玉が広範囲に散らばって、一所に留まらず蠢き続けている。
「魔導妨害ですか」
「ご明察、満点をあげましょう」
はなまる~と暢気な声を上げて指をくるくると回し、花丸を描く仕草をするアグリッピナ氏が、言ってはなんだがメチャクチャに煽っているようにしか見えなくて、凄まじくカンに障った。誰だ、採点時に花丸を書き付ける文化を持ち込みやがったのは。
「動死体一つ一つが微妙な魔力波長を放っていて、それが密集することで魔力の通りが悪いこと悪いこと……収束と遷移を繰り返してどうにかこうにか炉と繋げているってところね。まったく、隠者気取りと負けず劣らず、改造狂い共も考えることが陰湿だわ」
「その陰湿で念入りな対応に出力のゴリ押しで拮抗するのは、何と形容すれば貴族的なのか私には思いつきませんね」
「富める者の余裕、というのよ。一つ賢くなれたわね。とはいえ、流石に今の状態で身一つで戦いに行こうという気にはとてもならないから、貴方を使おうとしているのだけど」
怪物が可愛らしく思えてくる性能のアグリッピナ氏とて、この世界の内側にある以上は資源にも能力にも限界があるらしい。恐ろしく意外ではあるものの、さしもの彼女でも二割の力では教授を相手取ることはできないようだ。
「……なので、代役として殺してこいと?」
「私との制御権争い、膨大な戦域での動死体使役、そして弟子を介した他方面への介入で私と同じく相当に削れているから十分殺せるわよ」
彼女の言であるので、信頼性は高い。
これでいて便利な駒程度には見て貰えているはずなので、実際に勝算はあると見て戦線への投入を踏み切ったと思われる。流石に使い捨ての威力偵察に消費されるほど、安い札ではない……よな。うん。
「お客様はこの辺で反徒共の高級指揮官と付かず離れずの距離で暗躍しているわ。今、なんでかめちゃくちゃ消耗してるから、三日もあれば詳細な位置を割り出してあげる」
消耗してるか。何ででしょうね、と他人事のように抜かしてみる。運良く焼いた天幕の中に居て、損害を負ってくれたりしたのだろうか。
「ただ、流石に大軍を動かせば気付かれるだろうし、大っぴらにしても察知されかねないのよね。連中にも優れた“目”があるようだし」
「伝統の少数精鋭による浸透。後の斬首、ですか」
「その通り。連中も半ば寄り合い所帯、上手く忍び込めば何の問題もなく殺せるでしょう」
簡単に言ってくれる。準備すべきことも障害も多すぎるが、まるで近所にお茶っ葉でも買いに行かせるような気軽さではないか。
一党の説得、出撃の準備、そして弟子の護衛でさえ切り札を一枚使ってやっと殺せるような怪物の抹殺。
あまりにも難易度が高い。
「あにさま、どうぞ!」
エリザが饗してくれるお茶の香り高い香ばしさも、今ばかりは慰めとして効果を発揮しきれずにいた…………。
ようやくキャンペのボスエネミーの名前が出せました。
もっとサクサクできないものでしょうか。




