青年期 十八歳の晩春 六五
眠ってたりしない相手を呼びつけるのは気兼ねがなくていい。長命種にとって睡眠も食事も風呂も、全ては精神を充足させる余暇での“趣味”に過ぎない。
だから彼等、彼女等は待っていられる。必要とあれば、人前に出るに相応しい装束で何日でも。
故にだ。アグリッピナ氏はモッテンハイムの夜以前より“こうなる”ことを予見して、私に命じたのであろう。
最も自身が全てを差配するに都合の良い時は、夜討ち、朝駆け、全ての状況を考慮せずに呼び出せと。
幼き頃に見出され、何年も従僕として仕え、一年ほど手足として酷使された私にも彼女が何を考え、どこまでのことが想定通りなのか夢想することさえ適わぬ。長命種の特性たる、決して絡み合わぬ数多並列する思考を“正気のままに廻す”という演算の中で、何がこねくり回されているかなど知りたくもない。
<多重併存思考>の特性を持ち、魔法の多重発動に活用している私でさえ、計算や術式制御以外では決して使おうとは思えない、気が狂うような世界で生きている生物だ。ヒト種の我が身で考えが及ぶと考えるのすら不遜やもしれぬ。
世界を弄び、時に享楽で掻き回す破滅主義者の正気なんて、よくよく考えれば我々にとっての狂気に他ならぬのだから。
「ウビオルム魔導宮中伯アグリッピナ様のお見えです」
打ち合わせに従って<声送り>の術式を<空間遷移>に乗せて飛ばせば、変化は劇的に訪れた。物理的にも、室内の政治的熱量においても。
術式の干渉により解れた空間は黒く曖昧な淵を蠢かせ、現実と異相の境界を見せつけて揺蕩う。薄らぼんやりとした靄の如き現実の裂け目は、いつ見ても感情を不安定にさせる。
決して触れてはならぬ。本能が深いところで囁くのだ。ここまで便利な技術が、過去で一度体系化されたにもかかわらず、現代において遺失技術となりかける理由が少し分かった気がする。
解れた空間の合間よりまず現れたのは、腰の高みがどれ程かと思うほどに長い脚だった。洗練された踵の高い靴以外を覗いて、惜しげもなく晒された艶めかしい足は深い切れ込みが入った黒い夜会服の裾を割って伸びている。
私は下僕根性に従い、即座に膝立ちでにじり寄って手を差し伸べる。
次いで現れたのは、きめ細やかな肌の白さが際立つ嫋やかな手。手袋で覆い隠さぬのが一種の背徳でさえあるのではと感じさせる手は、当然のように空間のほつれより降りるために私の手を取った。
「お迎えご苦労様」
続く体は、大きく胸元を晒した蠱惑的な姿。惜しげもなく谷間を見せつけるV字型の襟元は、首の後ろで括られているのだろう。一体、どこの愚か者であろうか。この御仁に斯様に扇情的な意匠をした“武器”を与えてしまったのは。些か先進的に過ぎる武器によって、均整の取れた肢体はこれ以上ないほど魅力的に飾り立てられていた。
最後にほつれを破るようにして現れる気怠げな、しかしあくまで優雅な顔をどうして見紛うことがあるだろうか。
蕩ける乳白色の肌。整いすぎていて恐ろしい黄金比で配された、貴族的な上品さを体現した美貌。その中で一際目を惹く紺碧と薄柳の金銀妖眼は、一度魅入られれば二度と忘れることのできぬ輝き。更には艶やかな銀糸の髪を複雑に編み込んで宝冠の如く仕立てれば、思わずひれ伏さずには居られぬ女帝の威風を醸し出す。
……演出効果を狙ってだろうが、また随分と気合いを入れていらっしゃるな。普段なら絶対着ない装いじゃないか。しかも、さりげなく光源弄って顔がよく見えるような術式まで使っておいでじゃない。
コツコツと靴音を立てるのは、明らかに演出を狙ってだ。普段であれば術式によって足音など立てることなく、楚々として歩かれる。人付き合いがどこまでも嫌いなはずなのに、どうしてこうも印象に残る振る舞いができるのやら。
彼女。アグリッピナ・デュ・スタールにしてフォン・ウビオルムは、完全にほつれから脱すると、総身を部屋に晒して言った。
「アグリッピナ・フォン・ウビオルム……卑しくも陛下よりの信任を受け、魔導宮中伯の役職を預かっているわ。夜分に騒がせてご免遊ばせ」
名乗りを受けて、唐突な登場に脳が機能を落としてた面々が再起動し、貴族と僧位を持つ者以外が慌てて膝を付き、その他の者も大急ぎで最大限の礼を示した。
この場において、最も高い位の持ち主が変動したのだ。無粋な誰何を再度投げかける必要も、身分の証明を求める者など誰もいなかった。
魔導宮中伯、フォン・ウビオルムとして社交界の注目を一身に集める淑女の噂は、たとえ田舎であろうとも貴族の内に知れ渡っている。皇帝陛下の寵愛篤く、様々な事業の旗頭となっている才女の名を知らぬようでは帝国貴族として生きていくことはできぬ。
そして、同時に理解させるのだ。
この“抗魔導結界”を張り巡らせてある館に遷移できるような人物が、伯爵の名を騙るただの魔法使いではないことを。
当然であろう。領主館は機密情報の塊だ。貴族間で取り交わされる書簡、約束事の覚書に契約書、税収の帳簿から警備計画書まで漏れては拙い情報の博覧会である。
斯様な状況であるため、行政機能を詰めた領主館や代官館は、建設の際に魔導院が助力し高度な抗魔導結界を張り巡らせる。魔導嫌いで知られる極夜派の技巧が光る結界は、生半可な術式が外部から侵入することを許さない。
にも拘わらず、彼女は何の障害もないかのように大魔法を行使した。僅かな術式の乱れが、永遠に還ってくることの能わぬ久遠の虚空へ繋がることがある<空間遷移>を危なげもなく。
私とて、強力な“ピン”となる恩賜指輪がなければ、外に魔法を伝えることはできない程だ。魔法使いの練度だけでみるなら、研究員昇任試験程度なら受けられるかも、と師から評された私でも。
行政によって規格化された抗魔導結界とて馬鹿にしてはならぬ。むしろ、行政が最低限これだけあれば、超常の怪物以外には何とかなる、と判断した代物なのだから。
これを易々と乗り越える女が尋常の存在であるないのは明らかだ。身に纏う雰囲気、洗練された衣装と立ち振る舞い。そして遠く離れても聞こえてくる、帝都社交界にて咲き誇る毒華の外見的特徴。
全てが揃っているのだから、納得するのは当然だった。
まぁ、私風に言うのならば<信用>とか<説得>をGMの許可を得てAPPで振ったとかそんなだろう。この人、何も知らずに出会ったら、顔を持たない神の眷属か同位体だと疑うくらいには美形だからな。
貴人をいつまでも突っ立たせておく訳にもいかないので、手近な椅子を引っ張り寄せて座っていただこうと思って顔を上げれば、まだ空間のほつれが消えていないことに気が付いた。
はて、いつまでも開いておく意味はないはず……と思っていると、第二の人物が現れたではないか。
それは主人の振るまいや衣装と比べると、随分と淑やかで控えめではあったが、私にとっては何より劇的な登場だった。
主人よりも目立たぬようにか、仕立ては良いが刺繍の少ないローブを纏った姿は、最後に抱き合った時と比べると随分大人びて見えた。まだまだ背は低いものの、手足が伸びて子供体型から脱しつつあることを認めると、思わず涙腺の蓋が開きかける。
そうだよなぁ、もう帝都を出て三年だ。あと二年で成人する歳なのだから、女の子なら第二次性徴が始まって背が伸びてくる頃だもの。
肉体の成長に伴って、顔付きも随分と大人びていた。丸っこい童女の輪郭は、柔らかさはそのままに綻ぶのを待つ蕾のような成熟を見せ、変わらぬ愛らしい表情に少女らしさを香らせる。
私と揃いの金の髪の艶やかさは、丁寧に手入れされているのか一層煌びやかさを増し、銀髪の主人との対比で後ろに立つと喩えようもなく映える。
琥珀色に煌めく大粒の瞳が、私をちらと見て微笑みの形に弧を描いたのは、見間違いではないはずだ。手に文箱を持っているため、私が独立したので、高貴な人物と面会する際の従僕役を果たしているのだろう。
供の一人もなく現れる貴族なんて有り得ないからな。だからきっと、アグリッピナ氏に他意はないと思う。あの人は、人が驚く様を見て喜ぶ悪い癖があるが、それは大抵「これはちょっと……」という困惑の顔であって、涙が浮かぶ感極まった顔ではないからだ。
ああ、やっぱり家の子は世界一可愛い……。
涙を流さぬよう<見えざる手>でひっそりと目頭を押さえ、手近な椅子を――一等良さそうなのを遠慮もせず選んだ――引き寄せれば、魔導宮中伯閣下は優雅に、しかし尊大に腰を下ろす。
すっと指を一つ鳴らす。その意図を察するのは難しいことではなかった。
椅子の脇に跪いて手を差し伸べれば、解れた空間から現れたのは煙草の灰盆。普段、灰を魔法で完全に燃やし尽くしている彼女が使うことは余りないが、偉そうな雰囲気を出すには最適な小道具である。
本当に私が居ない間に貴族ムーブが板に付いていらっしゃる。後で面倒に見舞われず、今後を楽にするためなら勤勉さを発揮するアグリッピナ氏らしい。
「……ああ、気楽にしていいわよ」
煙草をぷかりと一服して、そう言われて気を抜ける者がどれだけいるか。しかしながら、男爵の護衛官と思しき騎士達が、命じられてやっと闖入者に反応し損ねていたことを思い出したらしい。せめて、と主人の背後に立ち直し、いざという時は盾になるという姿勢を見せるのは立派だ。
「さてと……ハイデ男爵」
「はっ、はい! こ、このようなむさ苦しいところでお目に掛かるとは……ご、ご挨拶がおくれ、申し訳ございませぬウビオルム伯……」
「構わないわ。急に訪ねてきたのは此方よ。たしか去年、マルスハイム伯の随員で帝都に来ていたわね。冬のアウクスベーヘン子爵の園遊会以来かしら。あの時は堪らなかったわね。アウクスベーヘン子爵夫人が、冬に咲く珍しい花を東方から仕入れた、とか言って、寒い中庭園での会食なんて始めるのですから」
早速、基本的に忘れることのない長命種の武器が披露され始めた。これだから嫌なんだよな、人付き合いにおいて最後にどこで会ったとか、何を話したかを忘れているとチクチク突っつかれるから。前世でたまにあったけど、その居心地の悪さと、相手に有利を取られる状況の悪さといったらもう。
しかし、ハイデ男爵が疑わなかったのは、顔を知っているからでもあったのか。流石、最辺境と辺境域を繋ぐ中継都市圏の領主。マルスハイム辺境伯が帝都を訪問する際の随員ともなると、縁戚関係などもあろうし、かなり上のお方だったようだ。
「お、覚えておいでですか。ご挨拶だけさせていただきましたが……」
「それだけあれば人を覚えるのには十分過ぎるわ。特に伯と近しい人物であればね……」
……ああ、だからか。マルスハイム伯が攻囲されているにも拘わらず、目立った動きを見せることもなければ、増援も寄越さぬ“時間稼ぎの捨て駒”のような扱いをすることで憔悴し、疑心暗鬼に陥っていたのは。
それもそうだ。辺境伯とは帝国の最先鋒。最も弱き場所、最も最初に敵と触れあう盾にして槍の穂先。グラウフロック公爵家ほどではなかろうが、即応戦力を抱え、騎竜隊だって抱えていよう。
必要とあらば、男爵とその家族くらいは落ち延びさせて、後に繋げることだってできたろうに。
だから彼は怒り、不安だったのだ。誰だって自分が捨て石にされるのは勘弁ならないだろうからな。
「此度の件、伯から何か?」
「……何も。増援として僅かばかりの物資と奇跡を扱える僧、そして一人の魔導師を送り込んできた際、書簡に一言、堪えよとのみ……」
「そう。まぁ、あの方らしいわね。信用していた、というのもあるのでしょうけど」
アグリッピナ氏は貴人らしく並べていた足を伸ばすと、徐に浅く組んで膝置きに肘を突き、上品にもたれ掛かった。かなり色気を感じる仕草ではあるが、ボーベンハウゼン卿、露骨に唾を呑むのは如何かと思います。
「しかし、謀反とあっては私めもどうすればよいか分からず、ただ領地を維持するのに精一杯で……」
「伯には、その精一杯が欲しかったのでしょう。安心なさいな、悪いようにはしないわ」
憔悴に恐縮が相まってか、ハイデ男爵の顔色は見ていて哀れになる程悪くなっていた。胃を痛めつけるような相手を呼びつけた男が何を、と言われれば反論できないが、それでも蒼白を通り越して泥みたいな色になれば哀れみの一つも沸こうというもの。
彼も直感したのだ。自分が今、この反乱劇において、何かしら致命的な選択肢を強いられていることを。
「数日逗留させて貰うわよ。貴方は特に何かする必要はないわ……今はね」
「はっ、も、勿論お泊まりいただく場は早急に整えさせて頂きます。しかし、ウビオルム伯……」
「だから、安心なさいと言ったでしょう。私は皇帝の意を受けて動いているわ。卿の身の安全は、我が名と魔導宮中伯の職責において保証しましょう。なんなら、領地の安堵もね」
彼女が背後に手を伸ばすと、エリザは何も言わず手に持ってきた文箱を寄越す。そして、そのままハイデ男爵に手渡された。
「筋書きは用意してあるし、上を納得させる方法も用意してあるのよ。それを持って引き上げなさい。あとは、誰の口にも上らせぬようにするだけ……分かるわね?」
流し目で見られた男爵は、何か感じる所があったのか背筋を大きくふるわせ、それでも貴族としての矜恃を辛うじて保ったまま深く腰を折った。
「皆も心得なさい。他言無用……いいわね?」
全員の心が一致した。この言葉に魔導的な要素はなくとも、間違いなく呪詛であると。
口にしたが最後、フォン・ウビオルムの名の下に“酷い目に遭わされる”ことが確定した。
この後で彼女はきっと、甘い甘い飴を撒いていくのだろう。飴が口の中で甘さを主張する度、甘みで鈍った舌が思い起こさせるのだ。
この状況で苦い物を嘗めれば酷い思いをすると。甘い物に慣れきった舌で嘗める苦渋ほど、心にも体にも厳しい物はあるまいて。
「さて、ハイデ男爵。寝室の手配も良いけれど、それより先に軽く休憩できる部屋に通して貰えるかしら」
これは私にとっては、ある身予定調和とも言える。どうせハイデ男爵にアグリッピナ氏の書簡を渡せば、似たことが起こっていた。今ほど劇的ではなかろうし、納得させるための<説得>ロールに私の骨がダース単位で折れる上、彼の精神に致命の一撃がぶち込まれるのは変わらないから、恨まないでおいてくれ。
私も私で、今から個室に連れ込まれて、悪巧みの片棒を担がされるのだから…………。
【Tips】抗魔導結界。強度により第Ⅰ種からⅤ種と五段階に分類される規格化された抗魔導結界。極夜派が誇る傑作の一つ。重要な官庁施設に導入され、魔導的な覗き見を強固に弾き、帝国の機密を護り続ける。
この結界内に魔法を伝えるためには、専用の符号を術式に仕込む必要がある。故に帝都では気軽に伝書術式が飛び交っているように見えるが、その実高度な技術が使われているのだ。
悲報、書きたいこと書いてたら話が進まなかった。
次話は少し急ぎます。




