青年期 十八歳の晩春 五七
煙というのは遠くまで届くものだ。
そして、遠くへ自身を見せつけるそれは、何が燃えているかを遠方の我々に教えてくれる。望む望まざるを問わず。
「静まれぇ!」
ざわめく周囲をボーベンハウゼン卿が一喝し、同時に血縁衆や直卒の配下も我を取り戻して兵卒達を諫めにかかる。
我々でも多少は衝撃を受けたのだ。軍装を纏い、槍や弓を持てども本来は畑を耕してきた者達が衝撃を受けるのは当然のことと思う。
濃い黒煙は平穏にたなびく煮炊きの煙ではなく、生木や家をくべて人の生活域が炎上する炎であるから。
戦の火だ。人家を、人を、財貨を、生活を薪にして燃ゆる破壊の炎が上げる嬌声。
西方の地の果ては太平の地とまでは呼べぬものの、戦火からは遠ざかりつつある地であることに異を唱える者はいない。土豪達が盟主を失ってマルスハイム辺境伯に膝を屈したのは何代も前の話であり、暫くは更に西の衛星諸国家群から飛び出すような紛争もなかった。
必然、野盗に荘が襲撃されることはあれど、街と呼べる規模の集落が襲われることはなかったのだ。
故にこの炎は兵士の装いをしただけの民草の心へ強く焼き付いたであろう。
久しく忘れていた、人類が本質的に持つ業の臭いと共に。
それにノルトシュタットは近辺でも規模が大きく、流通を束ねる河のほとりに建っているだけあって行ったこともある者も多いはず。内職の成果を売りに行くなり物納品を仕入れに行くなりで訪れた街が燃えているとあれば、心に響く衝撃はより強烈に響く。
人は知らぬ遠くの惨劇より、見知った場所が失われる方が打撃を受ける。
遠国より隣国、隣国より故国、そして行ったことのない場所より見知った土地。
最たる物は故郷であろうが、友人知人が暮らしている近くの大都市とあらば動揺して然るべきであろう。
「結構な規模ですわね?」
「ああ……だがまだ落ちていないかな」
一方で我々根無し草の冒険者は、ある程度は冷静に事態を眺めていられる。
これがマルスハイムであれば動揺もしただろうし、ケーニヒスシュトゥール荘であらば今すぐにでもポリュデウケスの腹に蹴りをくれて一目散に突っ込んでいただろうが、遠く離れた地の縁も縁もない街であれば頭の冷たさを保つことは難しくない。
それと、前提として駆けつけた場所が炎上していることを常に想定しているから。
我々の仕事は因果なもので、漁師が水難事故と切り離せないように人や物が燃やされることと無縁で居るのは難しい。
野盗という連中はどいつもこいつも火が好きだからな。景気よく燃えるのが楽しいのもあるだろうが、何より火は守手側に混乱を巻き起こすから馬鹿の一つ覚えみたいに火矢を使いやがる。そして、実際有効だから矢が陳腐化するまで絶えることはない。
嫌でも見慣れるからな。護衛した隊商の馬車や立ち寄った荘の家屋が燃える様なんぞ。少数で多数を襲うため統率を乱すのに最も効率的とは言え、やられる側としては本当に勘弁していただきたい。
どうあれ、この家業から離れない限り、あの黒煙とは縁が切れぬ。大事なのは状況を読むことだ。
さて、これは前世ではなくマルギットから教わったことであるが、煙が見える限界距離は、私の感覚に直すと二〇km程度である。そこから天候や湿度によって条件が変わり、平均すれば一〇kmが無理なく見える距離だ。
目が良い種族であれば更に遠くからも見えるだろうが、多くがヒト種で構成される我々が煙を観測できたのならば、もうノルトシュタットまで数時間の距離に達したことになる。
十分に危険域だ。そろそろ警戒騎なりに引っかかりかねない範囲に入った。
敵もしくじれない攻勢だけあって情報遮断には本気だろうから、そろそろ本気で敵の物見を狩る体勢に入らなければ。
人口数千規模の都市を攻囲しているなら、軍勢は最低でも二〇〇〇、ともすれば倍はいるかもしれない。一〇〇に満たぬ歩卒と半分以上はお荷物に近い四〇数騎の騎兵では、一当てしただけで粉砕される数だ。
上手く隙を突き、数の優位を殺す戦いをせねば一瞬で壊滅する。
「ボーベンハウゼン卿、お下知を」
「ん……ああ……そうだな」
流石の腕前か、恐慌に陥りかけた配下を順調に宥められたボーベンハウゼン卿に声をかけ、斥候に出る許可を得る。ここからは騎兵でも腕利きの者が散って、物見や警戒騎を発見される前に狩り出す時間だ。
戦争は映画ほど簡単ではない。誰だって攻めている時に背後から殴られたくないので、余程余裕がない状況にでも陥らなければ後方に警戒線を敷く。
劇的に丘の上から姿を現して後背を突き、気持ちよく敵を蹴散らす絵になる光景を生み出すのには目に映らない所で凄まじい労力がかかっているのである。
絵にも詩にもならない地味な仕事であるが、斯様な地味な所を支えるのも冒険者の仕事である。
地道に行こう、地道に。どうせ開囲に繋がりそうな一撃をぶちかまそうとボーベンハウゼン卿が企図していらっしゃるのなら、前線に出張って目立つ機会も与えられよう。今はしっかり基礎を固める時である。
基礎で思い出したが、立派な建物の基礎をがっちりと固める我が友は元気だろうか。彼は魔法使いとはいえ立場上は文官で、中央からの出向組でもあるため、いわゆる警察官僚的な立場だから前線にぶち込まれることはあるまいし、今もマルスハイムで忙しくしているのだろう。
書類に塗れて書式と迂遠な宮廷語に頭を悩ましたり、人手不足で放置され「どうしてこうなるまで放っておいたんだ!」と言いたくなるほど老朽化した設備を直したりするのは大変だろうが、私としては勝手ながら我が友がこんな面倒極まる事態に巻き込まれていなくて心底安心した。
この大規模キャンペーンめいた事態を暢気に楽しんでいられない状況なので、彼が居てくれればと思うことは多いが――さすればモッテンハイムは今頃鉄壁の城塞だ――戦場の泥を呑むのは、私が考える冒険者とはちょっと違うからな。
いや、まぁ大規模戦闘ルールが嫌いだった訳じゃないけどね。
ただ一つ思うところがあるとすれば、この私、エーリヒをPCとして客観的に俯瞰した場合、今みたいなキャンペーンに参加する用に作ってないんだよって所か。
できるからやってはいるが、したいことと目的が違うんだよな、という釦の掛け違い感がどうしても拭えないのである。
然りとて仕事として受け取った以上は成し遂げねばならない。
「じゃ、行こうかマルギット」
「ええ、綺麗に掃除してしまいましょう」
では、軍の目として地道に仕事を熟すとしましょうか…………。
【Tips】この時代に数万規模の軍勢が一つの戦場でぶつかり合うことは、国家間の紛争でも極めて希なこととなっている。
ナマの戦場の臭いというのは酷い物だ。
数百、数千人規模の血と腸が泥に塗れて腐り、その場に立ちこめるのだから例えようもない。十数キロ離れた場所にも届く悪臭は、戦地を肉眼で臨むことができる間合いともなれば耐えがたくあった。
集まった人間の臭い、死体が朽ち果てる臭い、城市の前に広がる広大な泥濘とそこに溜まって澱んだ水の酷い腐敗臭。なるほど、疫病が流行って守手側寄せ手側問わずにバタバタ倒れるのも無理はない。
正にこの世の地獄。人が作り出せる悪徳と非効率の権化である。
ノルトシュタットは、こんな時でなければ中々に見事な都市であったろう。
西に流れて行く大河と、そこから南西へ分岐する支流の付け根に位置する都市は、辺境から最辺境に通じる水運の中継点。多数の人と物が外国とマルスハイムに向かっていくだけあり、往来する人と物の両に見合った規模だ。
反面、市壁は新造都市らしく規模に反して低く――それでも必要十分ではある――利便を追求してか門は守りにくそうな大きさをしている。
だが、それでも守手達は大変な工夫をして故郷を守り抜こうとしているようだ。
急ごしらえと思しき楼閣が壁の上に後付され、何度も崩されたものをおっつけ修理しているのか素材の違いで市壁がモザイク模様を描く場所もある。更に敵の足を取る泥濘は、マウザー河から水を引き込んだのか、倒れた死体が背中の一部や後頭部しか覗かぬ深さと来た。
戦う為に全てを擲った姿は、頼もしさよりも痛々しく感じられる。困窮した令嬢がドレスや自慢の髪さえ斬り捨てて売り払ってしまったような、同情をさそう本当に酷い物だ。
一方で、そんな城に攻め寄せている方も中々に地獄であった。
攻囲の厚さを見るに数は千かそこらであろうか。人口数千の都市を落とすには寡兵としか呼べぬ規模であるが、壮絶な攻め方を見ていれば“これで十分”と判断するのも得心がいった。
着込むと泥に沈んで動きにくいからか、嫌に軽装の兵士達が我が身を省みることなく壁に取り付かんとしている。進入路を確保すべく巨大な梯子をかけんとし、同時に崩壊した正門へ雪崩れ込んで虎口から散々に矢玉を射かけられながら前進する。よくみれば、肉薄して射撃戦を挑んでいる弓手が掩蔽体にしているのは、泥濘に足を取られて転倒した攻城櫓ではないか。
あれらは全て動死体に違いない。普通の人間は必要と分かっても戦場で簡単に命綱となる着込みを捨てることはできないし、命を擲つというよりも一切斟酌しない戦い方は、背後から督戦隊に狙われたソ連兵でも見せぬ無謀さだ。
端っから命を惜しまない、そもそも持っていない肉の人形だからこそできる挺身。矢玉を受け、油を浴び、石礫に額を割られながら進む軍勢の理不尽にして悍ましいことよ。
寄せ手側の圧倒的不利を死なぬという利点一つでゴリ押し、必要となる人員を節約できるのは凄まじい。この攻勢の凄まじさを見るに、よくぞ今まで陥落せずに居られたな。
感嘆を破るように低く腹に響く音が轟いた。
音源に目をやれば、寄せ手側の後陣にて白煙が立ちこめている。動死体と異なって生気ある動きで蠢くのは土豪側が用意した兵士達であろう。
風が吹いて白煙が取り去られると、彼等が操るものが露わになる。
火砲だ。
火薬の製法が安定すると共に何処からか発生し、攻城兵器として広まった破壊の申し子。まだ“戦場の女神”として戦の趨勢を決める程の威力はないものの、非魔法使いが攻城術式に近い火力を出せる兵器として珍重されている。
トレブシェットより軽く、バリスタより高火力で、カタパルトよりも直射の精密性に秀でる。運用費こそ火薬と専用の砲弾を必要とするだけあって高価なれど、十分な財力を持つ貴種であれば難しくもない。
だとしてもまぁ、五門とは随分張り込んだものだな。
「ぬ……あれは西方の火砲ではないか?」
「ご存じですか?」
敵陣近くに浸透した我々は、街の者が煮炊きの糧とする保護林に身を潜めて様子を伺っていた。ここにも警戒要員が貼り付けられていたのだが、それらは全てマルギットの働きによって無力化されている。腕に覚えのある者達が配されてはいたが、森に忍び込むことで我が幼馴染みの右に出る者は帝国広しといえどそうはいない。これが奢りでないことは、我々が気付かれもせず伏せていられることが証明していた。
血生臭い努力の末に浸透したボーベンハウゼン卿は、ご自慢の逸品らしい西方渡りの遠眼鏡を覗き込んで仰った。高い工作精度の透鏡を要する非魔道具の望遠具は未だ珍しく、同時に魔法使いでもなくとも遠方を具に観察できるとして需要は高い。
「前にマルスハイム伯が仕入れられた帝国の職工同業者組合が作った物とは形が違う。我々は鋳鉄を使っているが、あれは鋳造しているようには見えん。巻き金で作ってあるな」
遠くをより精密に見ることができるから、より詳しく知ることもできる。いいな、私もその内に拾えないかしら。そもそも一般に流通しないくらい高価だから、手に入れる機会がなかったんだよな。
「まずはアレを狙いたい所だな……」
「夜を待たず討って出ますか?」
「物見からの連絡がなければ奴儕めも気付こう。四半刻の内には察されるであろうから、不意を打つ好機は今をおいてない。が、流石にアレを奪うのは難しいか」
一つ呻いて顎髭を捻るボーベンハウゼン卿。度々見た仕草だが、困った時の癖のようだ。
「奪うのですか?」
「奪わねば無力化できまい」
「え?」
「ん?」
何を言ってるかよく分からなくて聞き返すと、お互い顔を見合わせることになった。
「流石に巻き金とはいえ、簡単には壊せぬだろう」
ああ、そういう。大砲のことをあまり知らないのか。
別に大砲は完全に壊さなくても無力化することは簡単だ。態々本体に穴を開けずとも、砲架だけでもぶち壊してしまえば狙いは付けられなくなる。発砲時の衝撃で砲口が明後日の方向を向き、何処に弾が飛ぶか分かったものではなくなるのだ。
照準のできぬ砲など在ってなきような物。砲架を打ち壊して軽く火を放つだけで、移動させるのが難儀な鉄の塊に成り果てる。
「そうか、ならば容易いな……うむ、ならば“釣る”か」
地形を見、的を見たボーベンハウゼン卿は獰猛に笑って立ち上がった。そして配下に何事かを命じ初め、そして私の肩を叩く。
「先鋒を任せられるかな?」
朗らかな笑みは好感が得られるが、その実彼が考えて居るのは冒険者である私を前に出して配下の損耗を減らすことだ。卿からすれば私にくたばられても面倒ではあろうが、戦場のことであれば誤魔化しは利くため手札の温存に重きを置いたか。
もしくは、この程度では死なんと信頼していただけたか。
どうあれ結構、これも仕事だ。功名を取る場所を下さるというなら存分にやってみせようじゃないの。
「お任せあれ。見事に露を祓ってみせましょう」
攻囲を解くため変に吶喊するとかではなく、お考えもあるようだし微力を尽くしてしんぜよう…………。
【Tips】火砲。火薬によって砲弾を飛ばす遠距離武器。近年になって出回りつつあるが、その発祥地は諸説あり定まらない。ライン三重帝国においては過去の職工同業者組合にて名高い“親方”が残した構想ノートに記述があったとされる。
週末の更新が遅れました。夏風邪を引いて寝込んでいたのと、下巻の〆切りが近く作業の手をとられているため、暫く手が止まってしまうかも知れませんがご容赦ください。
さて、いよいよ大規模戦。判定の処理が面倒臭く、慣れていないとルルブとにらめっこしながらなので中々進まないアレのお時間です。




