青年期 十八歳の晩春 五三
陽が差し込まぬ堅牢な構造の指揮所には、私が見てもいいのか疑念を抱かざるを得ない立派な地図を載せた指揮台が広がっていた。
かなり精巧な地図揃いだ。縮尺が規格で統一され等高線まで引かれて高さも分かるように作られた現代的な地図は、中世ファンタジーと聞いて連想するそれとは随分かけ離れている。実際の古地図は我々が思っているよりも中々に精巧な物であるが、これは更に数段上を行く。隅っこに国土地理院と書かれていても納得いくような仕上がりであった。
西方全域を見渡せる大地図から城塞と周辺だけの戦術図、また少しだけ拡大された幾つかの街や荘が書き込まれた交易地図といった重要極まる戦略情報の前にボーベンハウゼン卿を初め、その傘下にある騎士や従士が集まっていた。
ここに外様の冒険者である私が居るのは、なんとも異なことである。
さて、話を少し前に戻すとマルギットの治療を終えた私が外に出れば、直ぐに卿の従者から声がかかった。冒険者にも関わらずエーリヒ殿と呼ばせる下座にすら着かせない丁寧な扱いに面食らったものの、今後についての相談かと思い訝りながらも付いていった先がここである。
てっきり応接間あたりに通されると思っていたため随分と驚かされた。この手の重要情報を集める部屋は、一門衆でさえ軽々に通して貰えないものだからな。
このまま手打ちにされるんじゃねぇだろうなと嫌な汗を流す私を余所に、ボーベンハウゼン卿は二通の書簡を見せてくれた。どちらも見覚えがある。私が捕虜と一緒に引き渡したものだ。
一通はモッテンハイムの名主殿、ヴォルブタース・ギーゼブレヒト殿の署名があるもので、重ねて窮状を報せると共に早馬の事後に起こったことの顛末、及び書簡を預かる私の身元を証明した書簡であった。
もう一通は書き出しの時点で目がこんがらがりそうになる上級の宮廷語、そして見たことのある家紋が捺された蝋印からしてデュ・スタールではなくフォン・ウビオルムとしてアグリッピナ氏が寄越した書簡だ。
かつての雇用主の側に侍った一年で本朝式の宮廷語にも多少――血涙を流したくなる出費だった――割り振った熟練度のおかげで、一三歳の頃ファイゲ卿より受け取った時よりは躓かず読めるようになった手紙は、私に読ませるべきでないと思ったのか大部分が省かれていたものの、かなり気になることが書いてあった。
余力があるのであれば、近隣の都市、ノルトシュタットに助力されたしというものだ。
ノルトシュタットはモッテンハイムが位置する地域を纏める最大規模の都市であり、ノルトシュタット男爵……誰だっけ、接点がないため個人名までは記憶にないが、兎角男爵位にある下級貴族が統治する場所だ。前世的に解釈するのであれば、村や区に対する市であり、中核市に近い規模と権限を持つ領域を纏めていると思えば近かろう。
都市人口は五千と少しといった西方でも大きい都市であり、マウザー河の支流であるヴェルケ川にも接した平地に建つ最辺境への中継地の一つである。一度護衛仕事で訪ねたことがあるが、規模の割に市壁が低い――四mはなかったと思う――こぢんまりとした都市であった。
城館も規模に反して小さく、西方が名目上は帝国に編入された後に築かれた典型的な新造都市だなと思わされた。
元々西方は平地ばかりで山城は少なく、行政の利便を重要視する帝国が効率だけを重視して造ったからだろう。帝国の防衛ドクトリンは幾つもの都市圏を重ねた縦深によって攻勢の衝突力を削ぎ、決定的な所で疲弊した敵との会戦を企図しているからな。
まぁ、問題はその衝撃力を削ぐためにすり潰される民草の気持ちは、最大公約数的な幸福の前に斬り捨てられているということだが。
シミュレーションゲーマーとしては多いに賛同するし、時には自国領内で核さえぶっ放してきた身としては何も言えぬが、実際に平民の視点で見ると酷い話である。確かに平時は交通の便によって発展するが、いざ戦時となれば頼れるのは低い市壁のみというのは心細い。
その都市への救援を請う……あくまで可能であれば頼むという形の書簡にボーベンハウゼン卿達は首を傾げていた。
故に私を呼び出したのだ。
そりゃあそうだろう。ギーゼブレヒト殿の書簡だけならまだしも、今をときめく皇帝陛下の寵愛厚き――宮廷雀敵からすれば可愛がられているように見えるらしい――魔導宮中伯の書簡など、唐突に持ってこられたら騒ぎの一つも起こる。
いや、むしろこの地方の騎士でも名を知っていてよかったというべきか。この辺で生きていたら別に中央事情なんぞ知らんでもいいからな。むしろ距離の壁に阻まれて「誰コレ」と言われなくてよかった。
大きく溜息を溢したくなったが、私としては相手を利用することに決めたのだから、利用されたとして文句は言えない。
分かっていたさ。あの夜、額を付き合わせて二人で悪巧みをした時、幾つかの書簡を渡された時点で。
「何卒、この件はご内密に願いたく存じます」
「……それは構わないが、エーリヒ殿、貴殿は」
「無礼な物言いと百も承知でお願い致します。御配下共々、御家名に誓って他言無用にしていただけますでしょうか」
一山幾らの冒険者が口にするにしては不遜すぎる物言いに周囲が湧いたが、ボーベンハウゼン卿の一喝でそれも止まった。卿は暫し黙り込み、私の目を射貫くように、眼球の表面から視線の匙で脳の奥を攫おうとしているようにじぃっと見つめてくる。
「承知した。家名にかけて、主君の名誉に賭けて誓う」
「感謝致します、ボーベンハウゼン卿。では、こちらを」
胸甲の内側に手を突っ込み、上衣の中から紐を掴んで首から引っこ抜く……ように見せかけて<空間遷移>による物質の転送を行った。普段は座標を掴むためのピンを刻んだ箱に入れて塒の中庭に深く埋め、絶対に余人の手も目も届かぬよう隠した小さな布袋。
その口を解いて開いた物を卿に差し出した。
「これは!」
指輪だ。金の太い指輪には細やかな家紋が入っており、封蝋には使えぬ純粋な飾りとしての役割を示すそれは“恩賜”の報酬を意味する。
当然、刻まれた家紋はウビオルム伯爵家の物。内側を見れば、ケーニヒスシュトゥール荘のエーリヒ、この者の功労に報いるべく下賜する物であると来歴と持ち主が刻んであった。
時に貴族が忠勤を果たした配下に送る感状と同じ役割を果たす物だ。同時にその者がどこの家中に属しているかの証明にもなる。
幾つか持っていた秘密にしておきたかった秘密兵器の第三弾である。
「私はかつて帝都にてご縁があってウビオルム伯にお仕えしておりました」
「では貴殿は伯の……!」
「密偵では御座いませんが、今も細やかながら命を受ける立場に御座います」
嘘は言っていない。今の今まで時候の挨拶しか送っていなかったが、命令されたら首を横に振れぬ立場であったのは事実である。
そして今、正にその命令を果たすために動いている。
「私は伯の御意向を伺っております。故に断言致しましょう、現状であればボーベンハウゼン卿が打って出られてもフラッハブルグに害は及びませぬ」
「……確実か?」
「ええ、その書簡、署名と蝋印入りの書簡こそが担保となります」
時に大事な密書であっても貴族は書簡に名を残さぬことがあり、筆致さえ変えるか代筆させて本人が書いた物と特定させぬよう気遣うことがある。失敗した時の保険というのもあるが、往々にして相手を斬り捨てた時に糾弾の証明とされぬためのものである。
例え相手が木っ端のような帝国騎士に過ぎぬとも、弱みを握っていることを知れば別の大物が親切面して出しゃばり利用してこないとも限らないため、貴族はこの辺りの機微に恐ろしい程細やかな気を払う。
逆を返せば署名一つで書簡は大きな担保となるのだ。何かあっても責任を負ってやるという、無記名の小切手にも等しい担保に。
断言するのも恥ずかしい話だが、私とてアグリッピナ氏の深淵を通り越して数百年堆積したヘドロの底の底みたいな思考を読み切ることはできない。況して、私が呼び出してからの短時間でどれ程まで周辺の情報を把握したかもだ。
しかし、これは予想というよりも確信であるが、私と話しながらも術式を操っていた――例によって呼気に混ぜて吐き出しながら――形跡はあったため<遠見>やら何やらを使いまくって私より詳しい情報を仕入れたに違いない。
そうでなくては、今剣友会の全員が殺してやりたくて堪らない死霊術師の現在位置など知りようがなかろう。
「分かった、信用しよう」
「ボーベンハウゼン卿!?」
「あまりに早計です! せめて辺境伯に攻勢の是非を問うべきです!」
「いいや! それすら危険でしょう! この時期に打って出るなどと進言すれば、裏で何を知っていたと追求されかねませんぞ!!」
「静まれ」
自分の立場であれば割とご尤もと言いたくなる意見を出す配下を御し、ボーベンハウゼン卿は私に指輪を返した。それから地図に陣取り、幾つかのコマを手早く配置して配下に命ずる。
「この図を見ろ。ノルトシュタットが攻囲の中心点だとすれば、我が城塞と指揮下の荘が狙われるのも分かる。そして、此処を寸断されれば西方最辺境への陸路と河川による物流は完全に止まる」
言葉に次いで西方全図に指が添えられる。イティリンゲン、リーエンシュトラーシェ、マウザーメッセにアルシュハイムなどの城塞や都市圏が指さされること総計七つ。
全てノルトシュタットが完全に締め上げられた場合に孤立する都市だ。普段は防衛を考えて相互に連携されているため、二から三箇所落ちた所で孤立しないが、それが敵側であれば絵図はまるっと塗り替えられる。
そして、その多くは私の記憶が定かであれば、土豪側の氏族が治めている場所である。
「土地勘と政情を知らねば難しいが、知っていれば完全に押さえに掛かる地だ。川に北と西を阻まれているため規模の割に攻めるに難いノルトシュタットを狙っているなら、今までの攻勢と荘への蛮行も頷ける」
「ではボーベンハウゼン卿……」
「私は彼が持ってきた書簡を信じるし、彼自身も信じよう。他ならぬ駄目だと思っていた荘を一つ救ってくれたのだ」
どうやら私の<説得>は上手く嵌まったらしい。この手の交渉は手紙や道具で達成値に補正がかかる物だからな。自前のスキルや特性だけではなく、アグリッピナ氏の心付けが強く働いてくれたか。
それにボーベンハウゼン卿ご本人もかなり頭が回ると見える。尋問の結果を教えてはくれなかったが、何かを掴んでいるに違いない。この状況を上手く整理し、書簡の内容を信ずるに値する何かを。
いやぁ、大変だったが捕虜をとってきて良かった。小銭稼ぎ以上に今後の状況が楽になったな。
「しかし卿、我らを誘い出すための餌ということも考えられます。金で転ぶ冒険者など信じられません」
「ハイダー卿を釣り餌にするほどかね? 彼は旧土豪勢力が幅を利かせる北方鎮護の騎士勢でもイゼリン侯の従士を務めていた信任厚き者だ。その右腕の腱を斬り、彼の従者を添えてまで寄越すかね? 何より彼が乗ってきた馬はペイゼン卿の愛馬であったぞ。恐らく今も荘にて虜囚となっている騎士とやらは彼に違いない。私であれば、どのような状況であれ両名の武勇はもっと別の場所で発揮させる」
はえー、あの馬、走りそうだから選んだんだが、そんなご大層な馬だったのか。牝馬だし年頃もいいから、全部終わったら売らずに連れ帰り、愛馬達と妻合わせて次代を作って貰おうかなと思っていたのだが、こりゃ下手すると返却しなきゃ怒られるヤツだな。
「ですが……」
「諄い! ならよかろう、アレを持って来たまえ! 今ならば使える!」
ボーベンハウゼン卿の吠えるような指示に控えていた従者がはじけ飛ぶ玉蜀黍の粒みたいな勢いで部屋を出て行った。まだ年若く私より三つは下の彼は、疲労が濃く頬の面傷も痛々しいままだったので先の防衛線が初陣だったのだろうか。
それでこんなややこしい現場にまで立ち会わされるとは。若い内に苦労しておいた方が後々楽というのは分かるけれど、中々に難儀な星の下に生まれてしまったな。
「お持ち致しました!」
息を切らして帰ってきた彼の手には、白い鳩を収めた籠が握られていた。
微かではあるが魔法により調整された気配を感じる。なるほど、使い魔とまではいかないが改造が施された伝書鳩か。攻囲されていれば撃墜されるため使えないが、確かに今ならば使いようもある。
「調整は済んでおるな?」
「はい、マルスハイムに飛ぶようになっております!」
「結構……だが甘い、後二羽持ってきたまえ。こういった重要事を確認する場合は、一羽だけではちょっとした不運で届かぬこともある」
「はっ、はい!」
「ボーベンハウゼン卿! 三羽出せば備蓄が尽きますぞ!?」
「今出さずに何時出すというのだ!」
強い語調と溢れる迫力に誰も反論できなかった。
分かったのだろう。私が本当のことを言っているにせよ、裏切り者にせよ使うだけの価値があるということを。
それに彼も指揮官らしく自分の言葉に説得力を持たせる特性を多く持っていると見える。声は狭い部屋であるにしても異様に響くし、私をして逆らい難い物を感じる。
「それに考えてみたまえ卿ら。我らが窮地にあるノルトシュタットを救えば勲一等であるぞ。授爵も十分に考えられぬか?」
「しゃ、爵位……」
獰猛に笑うボーベンハウゼン卿の言に誰もが興奮を帯びた声を溢し、功名に沸き立った。
信賞必罰は武門の定めであるが、この時代においては統制は現代軍なんてものが神話に近しいほど緩く、功を立てるべく独断専行を試みることなど当たり前だ。罰が上の貴族の気まぐれに近いノリで振るわれるのと同じく、極論すると賞も結果さえ付いてくれば前提の無法さは無視される傾向にある。
あー……アグリッピナ氏、多分この人の気質を知って書簡を認めた所もあるのだろうな。部屋でゴロゴロと片乳放り出しながら本を読んでいても、情報収集の周到さは凄まじい所があったからなぁ。
今も思い出すよ、酒の好みから食い物の好みまで全部がドンピシャの晩餐会で遇された客の顔。笑顔で格別の持て成しであると喜んでいたが、心中穏やかではいられなんだろうな。
テメェのことは飯から女の好みまで全部探りが入ってんだぜ、という穏やかな脅迫だからな。情報戦で完敗していることほど、貴族にとっておっかねぇことはなかろうて。
「それに安心したまえ、私とて軽挙で動くのではない。どうせマルスハイムに照会し、出陣するには時間も要る。その間、手透きの者を物見として放ち周囲の安全は確認する」
コマがカツカツと戦術地図の周りに放たれる。数が足りないのか兵演棋のコマで補われたそれは、多くが騎士や騎手のコマだ。
「幸いにも馬は残っている。食料として潰す前に攻囲が解けて本当によかった」
「では、卿……」
うむ、と大仰に呟いた後、彼は室内にもかかわらず調度の一切を傷付けぬ器用さで愛剣を抜き放ち、天高く掲げる。
「戦仕度だ! 功名の獲り得であるぞ! 今の内に報酬で嫁御に何を贈るかの算段を付けておけ!」
一度得がデカいと分かれば動きは早い。疑っていた御配下も次々に呼応して剣を抜き、ボーベンハウゼン卿のそれに合わせていった。
うーん、この自分の力が半端に及ぶ状況で、コトが坂から転げ落ちていくように進んでいく恐ろしさよ。
さて、私は何処まで転がされるのだろう。
ただ、小石の如く坂の下まで行って終わりはせんよ。あらゆる物を挽きつぶす巨岩として、行くところまで行き着いて最後の“実”は貰っていくからな。
私は盛り上がる彼等の邪魔をするまいと、気配を消して静かに決意だけを固めた…………。
【Tips】感状。貴族が配下の功労に報いるために発行する功績を記した書状やそれに類する物。聖堂にて管理される人別帳と同等の身分証として機能する他、その者の新たな仕官を手助けすると共に功績によっては都市戸籍の取得に下駄を履かせて貰えるなど効果は絶大である。
一般的に書状として発行されるが、汚破損に強く携行しやすい指輪、武威を強く証明する剣など多様な形を持つ。
ちと体調不良で更新が遅れましたことをお詫びいたします。
大きな陰謀が関わる卓では大規模戦闘も付きものですな。
まぁ、クライマックスが普通の戦闘の数倍に伸びるため中々難しいシステムですが。




