少年期 一二歳の初秋・三
昼過ぎ、祭りの場は大いに盛り上がっていた。
朝方に行われた代官の祝いの言葉はシンプルなもので、例年通りにものの数分で終わった。
エッケハルト・テューリンゲン帝国騎士は胸甲を纏った堂々とした武者姿で数名の騎手を伴って現れると、今年の豊作、そして冬の安寧を祈る数言だけを馬上より告げて去ってしまわれた。きっと、他の管轄の荘でも似たような行事を抱えているからに違いない。
因みにミサ代わりの説教も手短であった。そも、この祭りそのものが豊穣神への聖句にして聖歌であり祝詞。無駄に飾る必要がないのだ。断じて酒好きで有名な司祭が、さっさと呑みたいがために「以下省略!」と叫んだわけではないと思う。思いたい。多分そうなんじゃないかな……。そういうことにしておこう。
なればこそ、祭りより僅か数時間で民達はみな結構できあがっていた。
「んへ、呑んでるぅ?」
「ああ、呑んでる呑んでる……」
いつも通り首からネックレスみたいにぶら下がっているマルギットも、中々立派な酔っ払いっぷりであった。
童女が顔を真っ赤に蕩けさせて呂律が回っていない様は実に犯罪的だが、この世界においては合法だ。簡易濾過器や――砂利や木炭と布でできた品――煮沸した水を飲む文化がある三重帝国であるが、やはり濾過器も煮沸もコストが高いので普段の飲用は酒精によって消毒するのが殆どだ。
何よりここ帝国南方は比較的温暖な葡萄の産地。南内海に面した南方小国家群と比べると寒いが、十分に葡萄が育つこともあって葡萄酒が大変手頃に手に入る。今の時期は街道に出れば、教会の醸造所に運び込むために葡萄を満載した馬車や牛車が幾らでも見られる事だろう。
そして、今日は祝いの日だけあって聖堂の酒蔵から大量の酒樽が運び出されている。きつい酒精の葡萄酒を割らずに飲み、勢いの儘に騒げばこうなるのも無理はない。広場から離れた木立より“酸っぱい臭い”が漂ってきている理由は、見に行って確かめるまでもなかろうて。
まだ昼をちょっと回った時間でこの出来上がりっぷり。今からお式なのに大丈夫かこの荘園。
まぁ、今まで何度もあった結婚式も何とか回ってたし、大丈夫だとは思うが。一番最悪のケースを想定するなら、盛り上がった新婚がはやし立てられるがままに“おっぱじめて”しまうくらいだからな。
いや、大惨事ではあるとも。ただ、これだけ酒が回ってると大半は覚えていないから、相対的に被害が軽微ですむだけで。
「むぅ、無視しないでよぉ……」
久しぶりにマルギットの宮廷語ではない帝国語を聞いた。見下ろしてみれば、ぶらんと垂れ下がったままで不満げに頬を膨らませている。
「だから呑みすぎだって言ったのに……」
「ちょっとよぉ、ちょっとしか呑んでないわぁ……」
たしかに彼女の言葉に嘘はない。酒杯の二~三杯はちょっとだろう。だが、残念ながら蜘蛛人には当てはまらない。彼女らは消化器系がヒトより頑丈な代わりに、アルコールの分解能力が低いのだ。
だからこそ、何を思って呑んだのやら。
「屋台回らないでいいの? これじゃ回れないよ」
「だいじょぶよぉ、エーリヒが連れてってくれるんでしょぉ?」
甘える猫のように胸板に頬を擦りつけてくるマルギット。桜色に染まった頬から頬紅が移るのではと心配したが、いつもの服が化粧で染まることはなかった。……これですっぴんなのか、おっかないな蜘蛛人。
だが、残念ながら連れて行ってやれんのだ。私は今からお色直しである。
「無理だよ、今からハインツ兄さんの式なんだから。着替えてこなきゃ」
「ええ~?」
この子はここ暫く私にべったりな妹がいない理由を忘れているのだろう。小難しいことは全部アルコールに溶けて、脳味噌から揮発してしまったに違いない。
「はいはい、離れてね。もう着替えに行かなきゃいけないから」
「やだぁ~!」
やだぁ、じゃないよ、君はもう一四歳で、次の夏が来たら成人でしょうが。まぁ、見た目はエリザよりちょっと上くらいにしか見えないが、私は君が二つ年上という事実を忘れていないからな。
たとえ可愛くだだをこねられても……こね……られて……も……。
「はい、離して離して」
「エーリヒのいけずぅ~!!」
鋼の意志で「このまま一緒に遊ぶか!」という邪念をねじ伏せ、脇を持ち上げて首を手の間から引っこ抜いた。背が伸びてきた今ではもう腰より下の大きさになってしまった彼女を降ろすも、涙目で見上げられながら詰られるとなんだか本当に私が悪い事をしているような気になって大いに困るのだが。
その上、ここは衆目のある広場だ。回りにはぐでんぐでんになった男衆がおり、彼等は幼い頃の遊び仲間も混じっている。
「おっ、なんだエーリヒつれねぇじゃねぇか!」
「折角だから散歩でも連れてってやれよ!」
「羨ましいぞ生命礼賛主義者め!」
本当に酔っ払い共は口さがない。そして、そんな連中に優しい言葉でいっても通じる訳がないのだ。
「たたっ殺すぞ酔っ払い共!!」
酷い煽りに腕を振り上げるも、返ってくるのは冷やかしの口笛くらい。因みに、この場で言う“散歩”は目隠しがある林あたりに連れ立って姿を消すことで、実際気が早いことに幾つかのカップルが出かけていくのを私は目撃していた。
なお、余談として生命礼賛主義とはロリコンの迂遠な言い方である。大昔にどっかの聖職者がヒト種判定では“幼い”としか言えぬ容姿の魔種や亜人種を偏愛していた批判に対して、若さ溢れる瑞々しい生命力を礼賛する純粋な気持ちだと言い訳した故事が今に伝わっているとか。
え? その聖職者? 普通に歳いった亜人種も対象にしてたから、全方面からタコ殴りにされて破門だよ。皇統家出身でも平然と破門にするあたり、この国の僧会は過激派の集まりであることに疑いの余地はないな。
涙目になるだけで私に“社会判定”の攻撃を仕掛けられる幼なじみはさておき、要らん称号を手に入れないためさっさと家に向かった。流石にこの年齢で――この世界では半分大人だが――家族のコネクションをアイテムシートに記入する予定はない。
……まぁ、流石にこれだけ長く付き合うと、満更でもないと思う私が存在することを否定はしないがね。
「おう、遅いぞエーリヒ」
我が家の居間では、既に兄の支度が調っていた。
白染めのプールポワンは、益々父に似てきた厳めしい顔にあんまり似合っていないが、珍しく髪油で栗毛を後ろに撫でつけていると少しは様になっているように思えた。
日焼けした顔とゴツゴツした手のせいで、お世辞にも貴族様の子弟のようには見えないが、堂々たる我が兄の晴れ姿であった。
「どうだ、似合うか?」
「ええ、お似合いですよ兄上」
そうか、と言って気恥ずかしげに鼻の下を擦る姿は、幼き日に木剣をあげた兄から変わっていないように思えたが、それでも立派になったものだとトータルでアラフィフが近づきかけた精神で感心していた。
カマ言葉を矯正するため、並んで父から宮廷語を仕込まれた日々が懐かしい。自分も含めた全員の記憶から可及的速やかに削除したい過去ではあるが。
なにはともあれ、鼻を垂らしながら冒険者に憧れて、妖精のコインを探して林の中を駆けずり回った時から比べて大人になったものだ。今では苦手だった算術も覚え、つまりつつも宮廷語できちんと話せるようになったのだから。
これで我が家も安泰だな。
しばし目出度いだの子供は何時だのと微笑ましい煽り合いを兄としつつ、私も用意されていた礼服を着込んだのだが、そういえば残りの兄二人がいないことに気付いた。
「ああ、ベロンベロンに酔ってたんでな……今、親父と井戸ん方だ。エリザは教育に悪いってんで、ミナん家の方で着替えさせてもらってんだ」
あの愚兄二人は本当に……サボったと思えば、今度は痛飲してベロンベロンとは。今頃、親父殿がカンカンになりながら、対照的に冷え切った井戸の水を手押しポンプで――これも実用化されていることに大変驚いた――盛大に浴びせかけていることだろう。
収穫も終わった晩秋故、風邪を引かねばいいのだがと二人で呆れていたが、裏手の庭から二つの大きなくしゃみが連続して聞こえてきたので望み薄だろう…………。
【Tips】酒精は水の消毒に役立つため、全国で呑まれる。しかし、泥水でも平然と活動できる種には、酒精の耐性がないものも珍しくはない。
結婚式は壮麗な儀式というよりも、ただただ賑やかな催しだった。
荘園で庶民が行う式は、それこそ高貴さとは無縁の騒がしく行うものが相場である。酔っ払った参列者がヤジと煽りを飛ばし、新郎がそれに下品な返しをして新婦や親族、行きすぎると司祭にぶん殴られるのがお約束。
野次に混じって花びらが飛び交うバージンロードを歩み、豊穣神の司祭に祈りを捧げて貰って誓約を交わすシンプルな式。
その後? ただのお祭りだ。新郎と新婦に混ざって、荘民全員が滅茶苦茶に踊り倒す。相手とステップに曲を次々と入れ替え、疲れたらメシを摘まみ、喉が渇いたら酒を呑む。そして、日が暮れる頃には全員で新婦と新郎を抱え、村を練り歩いた後に下品な野次と一緒に寝所へ放り込むのだ。
そして、散々周囲で煽った後に去って行き、二次会――厳密には朝・昼の部を考えて三次会だろうか――に突入する。
かなり乱暴だし、見る者が見れば野蛮と思うかもしれないが、変なスピーチや余興が行われる式より私はこっちの方が楽しい気がしていた。まぁ、三〇歳になっても一人身で、祝儀が出て行くばかりの良い思い出がなかった前世の式と比べて僻んでいるだけと指摘されれば、ぐうの音も出ないのだが。
ともあれ、良い式なのは事実だ。
花嫁の腕を引いて歩く兄は誇らしげだったし、兄と並べば私とマルギットとは違う意味で犯罪臭い儚げなミナ嬢――ぱっとみ恐喝である――も頬を染めて幸せそうにしていた。
家の関係や金が絡む即物的な婚姻も多々存在するが、かといって当人達に幸せがないかと言われれば違うのだ。
「あにさま」
「ん?」
広場の隅で腰を下ろしてのんびりしていると、膝の上に座っていたエリザが私の服を引っ張った。あの激しい踊りに巻き込まれたら倒れるのでは、と心配されたため、私がお守りをしているのだ。
「あにさまは、おどらないの?」
「まぁ、趣味じゃないからね」
半分嘘で半分ほんとだ。剣術の動きを流用できるので、あの中できちんとステップを踏む自信はあるが……相手がいないのである。式の最中までマルギットも元気だったが、ついさっき蜂蜜酒を一気して轟沈した為――薬草入りで蒸留もしたヒト種向けの強いヤツだったはず――踊る相手がいない。
勿論、あれだけ水をぶっかけられても元気にくしゃみをしつつダンスに加わっているミハイルやハンスのように、代わる代わる選ばず踊ることはできるが、何故かここ暫く同年代の少女達が踊ってくれなくなったのだ。
多分、今頃は家の寝床に叩き込まれ、翌日は桶が親友になっているだろうマルギットが水面下でなにかしでかしてくれたのだろう。
どのみち、四男だから嫁のなり手がいないのだから、何を心配しているかは知らんが。
「エリザとおどるのはよかったの?」
「エリザは特別だ」
だから、さっき隅っこの方でエリザを相手に少し踊っただけだ。踊ったといっても、ねだられたので抱きかかえてゆっくり回ってやるだけで、ステップの一つも踏ませていないが。本人は楽しそうだったのでいいだろう。
「とくべつ」
むふー、と嬉しそうに吐息、可愛い妹は胸板に後頭部を預けて足をぱたつかせた。かわいい。
しかし、実の妹だからな……あと四~五年もしたら「兄貴ウザい」に変わるのかと思うと今から泣きそうだ。多分、そんな風に振る舞われたら私は臆面もなく泣くだろう。考えるだけで心臓がぎゅっとしまる気がした。
「あー、そうだエリザ、露店を見に行かないか?」
「ろてん?」
「そうだ。珍しい食べ物とか、詩人も来てるぞー」
切なさを誤魔化すように提案すると、あまり外を彷徨かないために好奇心を満足させる機会に乏しい妹は、大変惹かれたようで元気よく行きたいと答えた。
祭りの日だからと、父から小遣いを持たせてもらっているので何か一つ二つ買うことくらいできるだろう。
テンションを上げる妹を抱え、私は隊商達が店を構える一画に足を向けた…………。
【Tips】荘園において、祝祭と享楽を司る酒精神は豊穣神と並んで盛んに信仰されるが、彼の神格曰く「宿酔の苦痛も酒の醍醐味」として二日酔いを癒やす奇跡は存在していない。
二日酔いを直す術式は甘え(by酒精神)
実は二日酔いってしたことないんですよね。