ヘンダーソンスケール 1.0 Ver0.4.1
一人の淑女が月夜のテラスで涼んでいた。
夏の心地良く温んだ夜風に身を任せ、瀟洒なガーデンチェアに腰掛けて満ちるのを待つ朔の月を楽しんでいる。
淑やかな、地に降り注ぐ月の光が形になったような女性であった。
嫋やかな肢体から優美に伸びた四肢は得も言えぬ調和を保ち、歪に大きくもなく、物足りなさを感じさせることもない母性の象徴と相まって完璧な調和を形作る。
細く滑らかな首が戴く顔は柔和に整い、鳩血色の目を彩る簾睫が物憂げな色を差すことで得も言えぬ美を作る。夜闇を織って作ったと言われても腑に落ちる美麗な髪は緩やかに編み込まれ、体の前へ流されていた。身に纏う深い蒼の装束と相まって、まるで欠けていく自分を憂う下弦の三日月が如き美女。
彼女は傍らに饗された酒杯を完全に意識の埒外に追いやり、自分の手を熱心に見つめていた。
なだらかな処女雪の雪原を思わせる左手。正確には、その薬指を彩る深紅の宝石が嵌まった指輪を。
不思議な指輪であった。神銀製の精緻な彫金が施された台座の見事さはさておき、嵌まっている大粒の宝石は、仮に優秀な宝石商であっても如何なる品かを判別することはできないだろう。
繊細にして大胆なカットが施された楕円の宝石が持つ色合いは血よりも深い、しかし黒には落ちきらぬ筆舌に尽くしがたき赤。上質な紅玉のような鮮烈な赤でも、石榴石のような沈み込む赤でもない。
強いて言えば赤い尖晶石に近いが、如何なる作用が働いているのか、その宝石は奇妙なことに一定間隔で煌めくのだ。それも持ち主が傾けることなく、光源である月や星々が変わることなく佇んでいるにも関わらず。
鼓動の如く一定のリズムで途切れることなく輝き続ける宝石を眺め、淑女はほぅと陶酔の溜息を零した。
どれほどそうやって宝石に見惚れていただろうか。俄に宝石が煌めく頻度が高まった。
憂いを帯びた瞳が喜色に染まり、歓喜の吐息が溢れる。
そして喜びに声を上げようとした時、それはやってきた。
一匹の蝙蝠。掌に載る大きさの、ようよう見れば愛らしい顔をした鳥ならざる空を飛ぶ獣。ぽつりと夜から飛び出してきた蝙蝠は一匹、二匹と増えていき、やがて膨大な数が音も無く女性の前に群がっていく。
瞬く間に群となった蝙蝠が嵐の如く乱舞し、最後には消えゆくように一点へ収束する。
するとどうだ。夜よりも黒い蝙蝠達の嵐が去った後に一つの影が残された。
それは、死が二本の足で立っているような男だった。
黒の詰め襟を隙無く着込み、黒く不気味な長剣と質素な片手剣を腰に佩いた姿は、大外套を含めても城の近衛と変わらぬ姿だというのに酷く不吉な印象を見る者に与える。
白く血色の失せた顔はどこかあどけないのに凄絶な死の気配を滲ませ、口の端から隠すことなく、否、秘めた獣性を誇るかの如く伸びた牙からは血の匂いが烟るよう。
かねて恐れよ、泣く子の前に“吸血鬼”が現れる。市井にて教育のため囁かれる怪物がそこにいた。
褪せて月のような色をした金の髪を椅子に座る淑女と揃いの形で纏めた彼は、ゆったりした歩調で彼女の傍らに近づいたかと思えば、外套を翻して跪いた。
「ご下命に従いまかり越して御座います、我が主」
しんと静謐な夜に染み入る声は夜風を想起させる。耳朶を撫でる優しさが滲んだ声に淑女は微笑み、跪いたため差し出される形となった頭にそっと手をやった。
「大儀でした、我が眷属。仕儀は如何に?」
問い掛けに男は頭を上げることなく懐に手を差し入れ、一塊の布を捧げ出す。独りでに包みが解かれた布の中には、指輪が二つと……束ねられた色の異なる髪が収まっていた。
「こちらが主の命によりお招きいたしました件の王と、その王弟殿下にございます」
指輪は印象指輪。持ち主の権威と権力の正当性を担保する品であり、かつて何代も前に三重帝国から下賜された品。そして、ひっそり添えられた髪は、その主のもの。
それらが揃ってここにある意味は、最早語るまでもなかろう。
「そう、ご苦労でした。陛下も殿下も歓迎いたしましょう、ようこそ我が帝国へ。どうかごゆるりとなさってくださいね」
彼女はそっと布を包み直し、テーブルの上に移すと全ての興味を失って笑みのままに己が従僕を見やる。
「本当に大儀でしたね、エーリヒ。もう崩してもよいですよ?」
「有り難き仕合わせ」
許しを与えられた男、三重帝国騎士エーリヒ・フォン・ヴォルフは立ち上がって自らの主人、慈愛帝コンスタンツェⅠ世へ微笑みを投げ返す。
「それで、今回はどうでした?」
「まぁ大したことは。竜艇突撃の効果は中々でしたね。私だけではなく、賦活速度が速い配下を同道させれば中規模の城塞なら半刻とせず墜とせるようになるかと。増産と訓練を提案致します。慣れてないと結構痛いもので。やはり火はしんどいですな」
「そう。ちょっと私には酷いやり方に思えるけど、効果があったならいいでしょう。今度、正式な案件として議会に上げておきましょう」
配下が聞けば顔を真っ青にして止めてくれと叫びそうなことを宣いながら、椅子に座るエーリヒにツェツィーリアは良く分からなそうな顔をして頷いた。
「これで止まるでしょうか……」
「まぁ無理でしょうな」
憂い顔の主人の言葉を切って捨て、吸血鬼は朔の月を見上げて嘆息した。
「城に蓄えた兵糧と……“彼等自身”から聞いた情報を頼るのであれば、まぁ次善の策が幾つも仕組まれていましょう。此度の戦、中々に侮れますまい」
「そうですか……」
慈愛帝の悲しげな呟きを聞き届ける男がいたならば、彼女の悲しみを祓うため己の全てを擲つだろう。女性にとって褒め言葉になるかは怪しいが、これほど憂い顔が様になる者は帝国に二人といまい。
「……上手く行けばようやく退位して、当主位も譲れると思ったのですが」
「全て無に帰しましたな。世の中は分からぬもので」
女帝の憂い、全てはそこにあった。
というのも彼女はここ暫く精力的に水面下で政治的な暗闘を繰り広げていたのだ。穏やかに退位して見所のあるバーデン家の連枝に帝位を譲り――尚、相当に頑迷な抵抗が予想されていた模様――当主位も道楽に浸っているが才能在る同胞に叩き付け、秒で僧籍に入ろうと目論んでいた算段が全てご破算である。
これまで彼女は長く帝位についてきた。民からの人気があるのは兎も角、この御仁はどうにも他人をやる気にさせるのが上手い。彼女の為なら死ねる、と本心からの忠義心を抱く家臣が相当の数に及ぶほど彼女にはカリスマがあった。
なればこそ、外交的な政局に伴う譲位までは上手くいっても、当主位の退位までは適わなかった。何卒、大難が去った後には慈愛帝の穏やかな御代にて民心を慰撫されたく、と百家揃って跪いて懇願されたら、さしもの彼女も逃げられない。
ツェツィーリアは自分の父親ほど、色々とふっきれない性質であったのだ。
そして全てが台無しになり、自分の大事な眷属を先鋒として差し向けて戦を早期に片付けようとしたが……大国の意志の前では、たった一つの戦勝では足りない。
相手も衛星諸国家を挟んで三重帝国とウン百年も小突き合ってきた古豪。出足の一つ二つ崩したところで、どうとでも調整できるよう戦略を組んできているようだ。
当たり前の話である。たった一つの策が崩れたくらいで成立しなくなるようなら、戦争なんてものはするべきではない。
どうあれ殺す。その目処が立って初めて剣を抜くのが外交というものであるのだから。
「長くなりそうですか」
「……辰襟を騒がせ奉り、恐縮に御座いまする。全ては臣の力不足故」
「そうかしこまることはありませんよ、エーリヒ。別に貴方一人で戦をどうこうしようなどと烏滸がましいことを私は考えておりません」
今は神代ではない。一人の英雄が戦況を一変させることはないのだ。この眷属を放り込んだなら、戦術的にであれば幾つも勝利を拾えよう。
それでも直接的な勝利には繋がらない。竜騎や騎士、優れた駒が盤面の一画を制圧することはできても、戦局全てを本質的に壊してしまわないのと同じように。
「……しかし、無茶をしてきたようですね。酷く臭いますよ」
「え? あー……はは、まぁ、一番槍を期待すると陛下が仰ったもので、少し気が入りすぎたようですな」
ただ、彼女は分かっていて駒を動かした。強力な無二の大駒。どれほど大事にしても駒は盤に配さねば意味がない。それが、取られてしまうリスクを背負うことになっても。
だとしても今回、この駒はやり過ぎているきらいがある。吸血種のこと血に敏感な嗅覚に凄まじい血の香りが引っかかるのだ。
普通、三重帝国の吸血種は軽々に牙を用いて血を吸うことはない。それが文化でありマナーだからである。
が、この男は恥じも外聞も無く「牙で吸った方が効率が良いので」とかヌカして牙で血を啜る。そうして得た力で自らを賦活し、高度な技術を用いながらも本質的には命を無視するという高度なゴリ押しで相手に理不尽を叩き付けるのだ。
相手は死ぬが自分は蘇生するからと相打ち上等で際の際を狙う絶技を放り込んでくる戦法は、実力が拮抗すれば拮抗するほど悪辣さを増す。相手が同等の不死者であるなら、外聞を捨てて血を補給するエーリヒに有利に働くというのが尚性質が悪い。
こんなのだから吸血鬼とはやし立てられ、市井で子共を怖がらせる唄なんぞにされるのだと主人は嘆いた。
「……首を出しなさい」
呆れながらの命令に眷属は顔を喜色に染めて立ち上がり、詰め襟の高い襟を止めるボタンを外した。
白くなだらかな死者の色をした肌が月の光の下で冴え冴えと光る。皮膚から薫る吸血種だけに分かる濃い血の匂いにツバが沸き上がるのを感じながら、ツェツィーリアは牙を剥く。
吸血種間における吸血は一般的ではない。が、眷属とその主人の間においてのみ、例外的に発生する行為だ。
吸血種の吸血行為には陽導神から受けた呪いである渇きを癒やす以外にも大きな意味がある。他人の魂を血液を媒介として取り入れ自らの力に変換する。つまりは、元々受け取った主人の血が薄まることにも繋がる。
やがて眷属は眷属ではなく、弧の吸血種となろう。
それを避ける方法は二つ。主人が血を与えるか……血を抜くのだ。
眷属として作った吸血種が離れていかぬよう、主人が血を抜くことは技法としては伝わっている。だが、血を吸うことを恥じらうようになった帝国の吸血種においては、ほとんど廃れた文化といってもいい。
最早彼等は己の眷属が独立することに対し、感慨を抱かぬような文化を持つに至っているのだから。
それでも眷属は喜んで首を差し出し、主人は受け容れた。
決して余人が近づかぬよう命じてあるテラスであるから、慈愛帝は迷わず自身に秘めた吸血種の本能を解き放つ。牙を剥き、真珠色の凶器を迷わず己の従僕の肩口に食い込ませた。
大いなる歓喜が口腔にて踊る。従僕自身の膨大な魔力を秘めた血液が抗うことなく、否、むしろ望んで主人の体に取り込まれていく。自らが蓄えた力が薄まることを厭いもせず、主に血を吸われて従僕は随喜に身を震わせる。
これほどの深い交わりがあるものか。命を分けられ、分けられた命を返す。そうしてまた濃くなった繋がりを取り戻し、延々と高め合う。
エーリヒは吸血種と強くなった折に気付いた。何時の日か、眷属と主君という関係が薄れてしまうと。
そして、彼は選んだ。自らの主を説得し、ただ一人の主君として仰ぎ続ける為。
熱心で長い交渉に少し堪え性が足りなかった主は結局折れた。斯くして、隠れるようにしてこのような光景が屡々繰り広げられるようになる。
どうやら主君が主君であるなら眷属も眷属であったらしい。
惚れた弱みというべきか、転ばされた弱みというのやら。どうにも屈折した感情を拗らせてしまった、吸血種としては未だ年若い領分にある彼は血を捧げる喜びに打ち震えた。主人が吸血の快楽に――血は吸う側にも悦びを与える――耐えかねて肩に縋る様を見れば、どちらが主人か分かったものではなかった。
物理的な弱点を一個つぶせるとかいう打算的な理由ではあるが、吸血種の存在骨子である“心臓”さえ魔法で凍結させて差し出しているというのに。
「……エーリヒ、貴方やっぱり吸わせたくて無理に吸ってきていませんか?」
「真逆。我が皇帝陛下のお手を自らの悦びのため煩わせるようなこと、畏れ多くてとてもとても……」
「よくいいますね全く……もう少しいただきますよ」
「御意に。どうか心ゆくまで」
一度口を離した主人に眷属はあくまでかしこまってみせる。そして、からかわれていることを理解し、年頃の娘がごとく頬を膨らませる主人を笑うかのように宝石の形をとった心臓が煌めいた…………。
【Tips】吸血種に本当の破滅をもたらすのは不死者を滅する神の祝福、陽の下での致命的な死、そして銀器による心臓の破壊。
だれだ! ここまでこの主従を拗らせたヤツは!!
ちょっと話の構成と私生活で色々とあって上手く行かず、前回ツェツィーリアとイチャイチャさせないのかよという突っ込みに答えた蛇足を仕立てた形です。
青年期に向けて色々やっているので、書いては消し書いては消しした結果、週に一回はやりたいなぁという希望を果たせなかったのでアップした形になります。
業界が繁忙期に入るので、これからどうなることやら……。
今暫しお時間をいただき、御寛恕いただきたく存じます。