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紅い瞳の人魚姫

作者: 豆田 麦

 ぼくらの村には四年に一度人魚の群れがやってくる。


 真珠と水晶と珊瑚で思い思いに髪や首を飾りつけ、その年に行われる祭りの主賓として。

 ぼくが生まれるずっと前からの習慣だ。宵の宮は月の満ちる夜に始まり、月が欠け消えまた満ちる時に終わる。沖の彼方から波ともまた違う水飛沫を月光にひらめかせ小魚たちを従えて、村にその先四年の恵みをもたらすために現れる彼女たちを一ヶ月かけてもてなすのだ。

 人魚と一口にいってもその姿は様々で、耳の代わりにたてがみのようなぴんとはったヒレをもつものもいるし、首筋にぱくりと開くえらをいくつももつものもいる。青白い光を放つ蛍色色した目をもった人魚には白目はなかったし、体中に黄色と黒の縞模様がある人魚は「これは刺青じゃないわよ。私の柄なの」と鈴のような声で笑った。上半身は大体ヒトと同じ形のものが多かったけれど、その上半身もよく見ればどこかしらヒトではない証があった。それでも総じて彼女たちは美しく、その異形ささえもその美しさに一役買っていたと思う。


 ぼくが彼女にあったのは五歳のとき。大人たちが常々口にしていた祭りを、その意味も知らないまま浮き足だっていた夜。群れの中にはまだ子供の人魚もいて、そのうちの一人が彼女だった。両のこめかみあたりからすうっと体の脇にかけて一筋走る真っ白い線は浅黒い肌に映え、まっすぐな黒髪は月の光にあたった部分が青みがかり夜の波間に広がっている。黒目がちな瞳は松明の灯りを吸い込んだかのような紅色だった。

 人魚たちが陸にあがることはあまりない。せいぜいが海面から突き出した岩に腰掛けるくらいだ。村人たちは小舟をいくつも岩場のあちらこちらに浮かべて酒や料理を捧げる。ただ、彼女たちはあまりそれらには手をつけず、むしろ飲み食いしほがらかに酔い語る村人たちをからかったりするのを愉しんでいるようだった。

「お前、人間なのに歩けないのか?」

 ぼく自身は覚えていないけど、一歳の頃がけ崩れに巻き込まれ、両足の腿から下と両親を失った。よくお前だけでも生きていてくれたと村人たちはぼく用の荷台を作ってくれていた。小さな椅子の足を切り車輪をつけたそれにのり、両手で地面をこげば普段の生活は困らなかった。まあ、大きくなってからは、ぼくが困らないようにと大人たちが村の道をできるだけ平らに慣らしてくれていたのに気づいたけど。

「歩けないけど、ほら、これあるからどこでもいけるよ」

 大人たちはぼくにも人魚から祝福をと荷台とともに小舟にのせてくれていて、その小舟のへりに両手をのせてのぞきこんできたのが彼女だった。

「へえ。私は四本も足あるぞ」

 ひょいと小舟のへりに腰掛けた彼女の下半身はへその下から銀粉をまぶしたような黒い鱗に覆われていて、小さな上半身に比べかなり大きな魚の尾がゆるりと曲線を描き、そこから同じ鱗に覆われた足が四本生えていた。太ももの後ろからふくらはぎの途中まで一本のヒレがはえていて、くるぶしから先は鳥のような三本の長い指とつめ。かかとのあたりにもう一本。三本の指の間には水かきらしき襞があった。多くの人魚がそうであるように、その異形を誇らしげに掲げ、な?と笑う。

「泳ぐの、速そうだね」

「大人の人魚だって私にはかなわない」

「すごいなぁ」

 彼女はふふんと満足げに小鼻を膨らませた。その顔になんだかどぎまぎしたのを覚えている。

 何艘もの小舟の舳先には、それぞれ白い陶磁の平皿がおかれていた。月の光と掲げられた松明の灯りをゆらゆらと照り返すその皿には、しっかりと血抜きされた赤身の生肉が一口大に切り分けられ並んでいる。小舟に乗せられる前に、絶対に手をつけてはならない皿だと教えられていた。飲み食いをほとんどしないと思えた人魚たちは、よく見るとその皿の肉だけは代わる代わる水面から手を伸ばしてつまんでいっていた。

「名前、なんていうの?」

 たまに連れて行ってもらえる山向こうの町の市場で出会うその土地の子供と話すように聞いただけのつもりだったのだけど、彼女はきょとんと目を丸くした。大人たちはもっと目を丸くして硬直した。その大人たちの顔を見渡して、とぷりと体を海中に落とした彼女はゆっくりと口を開き。その瞬間。びりびりと頬を震わせる空気、次々とはじけた大人たちの手の中の酒器。次に訪れた静寂は海面の細波さえも押さえつけたかのようだった。

「お前には私の名は呼べないんだよ。人間」

 からからと笑う彼女の周りを、人魚たちが困った子だとばかりに苦笑いしつつまたゆっくりと波に身をまかせて泳ぎ出す。

「失礼をしました。このものは初めての祭りに浮かれておりまして」

 器を割ったのは彼女の声なのに、大人たちはぼくの頭を押さえつけて下げさせた。

「よい。……初めての祭り? お前、四の年より幼いのか?」

「いえ、一歳と少しの頃に祭りはあったのですが、ちょうどその頃この子は足を失ったばかりで床についておりました」

 ああ、と彼女は合点がいったようにうなずいてから、にんまりと笑いふちが少しかけた白い皿から肉を一切れつまんだ。

「お前、私よりひとつ年上だな。それは私が失礼をした。詫びにこれをやろう。喰え」

 彼女の小さな手にぴたりと吸い付くような薄くそがれた生肉。獣の肉は生で食べていいのだろうかとためらうぼくの前にさらに突き出された。

 おずおずと伸ばそうとしたぼくの手をがしりと掴んだのは二軒隣のおじいさんだった。

「まことに申し訳ない。その肉は姫様たちだけのもの。ヒトたる私たちが喰うて汚すわけにはまいりません」

 おじいさんはぼくの体を抱え込むように、申し訳ない申し訳ないと頭を下げた。やせてごつごつしたしわだらけのおじいさんの手が、痛いほどぼくの手を握り締めている。いつも温かいその手の節が白くなり、ひんやりと冷たかった。

「詫びたのは私なのにおかしなやつらだ」

 差し出していた肉を自らの口にほおりこみ、その指をなめながら彼女はまた笑った。その尊大さはとてもぼくよりひとつ年下とは思えなかった。


 それから祭りの間の一月。彼女はぼくが小舟に乗ることを毎晩要求した。彼女はぼくに陸の上の話をせがみ、かわりに海の底の世界を話してくれた。人魚たちの目は暗闇でもモノを捉え陽の光が差さない暗い海底を自由に駆けるけれど、色のない世界から陽の光がさしこむ深さまで浮かび上がるとその瞬間にあふれ出る色とりどりの小魚たちやひるがえる海草、ゆっくりと立ち昇る海雪、それが楽しくて何度も浮かび上がっては沈みを繰り返して遊ぶのだと。

 彼女の話に比べてぼくときたら、生まれ育ったこの小さな村とせいぜいが山向こうの町の話。後は村の大人たちが譲ってくれた何冊かの本から得た知識や物語だけ。気がひけるほど色あせたぼくの話をそれでも彼女は興味深げに時にうなづきつつ、時に先を促しつつ聞いてくれた。つまらないんじゃないかと聞いてみると、彼女は心配そうに眉をひそめて答えた。

「お前は馬鹿なのか? なんで私が聞きたくもない話など聞かなくてはならない。私が聞きたいといえばそれは聞きたいから聞くんだ」

「……そっか」

「そうだぞ。何を言っているんだ。お前は」

 彼女は本当に心配そうな顔をしていて、その心配はどうやらぼくの頭の出来のようだというのがおかしくて笑った。

 ぼくら人間にとって、人魚たちは総て「姫様」だった。名前は呼ぶことができないし、また一人のみを名指す必要があるときもほとんどなかったから。姫様と呼びかければ、人魚たちのうち気の向いた誰かが返事をする。誰も返事をしなくともそれはそれで問題はなかった。人間がただ待てばいいのだ。彼女はあまり群れの中にいるのは好まないのか、そばに寄ろうとするほかの人魚を手で払って遠ざけたから、ぼくが姫様と呼ぶときには目の前に彼女しかいなかった。思い思いに波間にゆれている人魚たちだったけど、そのうち数名は常に彼女の周りにつかず離れずの距離を保ってついている。彼女の母親は人魚たちを統べるものなのだと、だから彼女は本当の意味での姫様なのだと教えられた。年に似つかわしくない振る舞いには納得がいったけれども、

「そんなことよりお前、さっきの話の続きはどうした。その森の奥に捨てられた二人の子供はどうなったのだ」

 息を詰めておとぎ話に耳を傾ける彼女は、隣の家に住むふたつの女の子と変わらない表情だった。


 連日の夜更かしのだるさで、あまり昼間の遊びに出ることはなかった。姫様のお相手として呼ばれているせいなのだからと、大人たちも寝かせておいてくれた。同じ年頃の子供達と遊ぶのは好きだ。意地の悪い子供ももちろんいたけれど、ほとんどの子供はぼくを受け入れてくれていた。お前たち人間の子供は何をして遊ぶのだと姫様に聞かれ、鬼ごっこや隠れ鬼、木登りの話をした。彼女は山の上からの景色の話を聞きたがり、あの山のてっぺんにある木の上からならさぞ眺めがよいだろうと指差した。いいと思うよと答えると、彼女は小舟のへりに顎をのせたままぼくを覗き込んだ。

「思う? お前登ったことないのか?」

「……ぼくには足がないだろう? 木登りなんてできないよ」

「どうしてだ」

「どうしてって……」

 陸に上がらない彼女には、木登りなんてものがわからないのだろう。

「登りたくないのか?」

「大人たちが駄目だっていうよ。危ないって」

 それは本当のことだった。木の実がたわわに実る秋、子供達は競って木に登り、その日のおやつを手に入れた。ぼくが一度木の幹に手をかけたとき、通りがかった大人が抱き降ろし、ちょっとお前には危ないかなとすでに高い枝にぶらさがっている子供にぼくの分もとってやれと声をかけた。村のみんなはとても優しい。朝ごはんも夜ごはんもどこかの家で食べさせてもらえる。風や雨の強い夜には泊まりにこないかと家まで来て声をかけてくれる。木に登りたいといえば、そばについていてくれるだろう。落ちても受け止められるように。だからぼくは、登りたいとは言わなかった。

「大人たちがいうことじゃない。お前は登りたくないのかと聞いている」

「……登りたいさ」

「だったら登ればいいじゃないか。どうして登らない」

「だからぼくには無理だって。姫様は木登りしたことないからわからないんだよ」

 彼女はぼくの手をとり、腕ごと持ち上げ、肩から手首までしげしげと眺めた。

「お前の腕は私の腕よりこんなに硬くて太いし、手のひらの皮だってこんなに厚い。あの丸太を並べた桟橋の上でだって、お前は自分の体を荷車ごと両腕でひょいひょいって渡ってたじゃないか。お前は本当にわけのわからないことばかり言うんだな」


 次の日の昼、ぼくはひとりで村のはずれにあるもみじの木の下にいた。この木なら、割と低い位置から太目の枝を横に伸ばしている。ぼくよりも小さな子供がその木で木登りの練習をよくしていた。それでもぼくの手は一番低い枝までも届かない。ただ、幹が少し斜めに傾いでいるから体は載せやすい。見上げた首が疲れる前に、つばを飲み込んでごつごつした木肌に手をかけた。


 まだ根元まで紅く染まっていないもみじの葉を一枚。なんだか誇らしいような恥ずかしいようなくすぐったさをこらえて彼女に渡した。本当は三度幹からずり落ちて、一度枝をつかみそこねて落ちたけど、そんなことまるでなかったような顔をつくってみせた。

 彼女はもみじの葉を裏返し、また裏返し、月に透かしてはまた裏返して、扇子のように口元をその葉で隠した。

「これ、あの樹というものに生えてるやつだろう? 緑色じゃないんだな」

「ほら、山のところどころが赤や黄色になってるとこあるでしょ。秋になるとその色に染まる樹があるんだ。葉の先、姫様の瞳の色と同じだからいいかなと思って」

「登ったのか? 登れないんじゃなかったのか?」

 葉の後ろから、もちあがる唇の両端が見える。

「やってみたら思ったより簡単だったよ」

「へぇ」

「……いや、でもちょっと、低めの樹だけど……でもコツはわかったよ」

「へぇ。お前」

「なに」

「この葉みたいにほっぺた赤いぞ」

「やっぱりそれあげない」

 彼女は高く葉を上げて後ろにすぅっと泳いで逃げ、空振りしたぼくの手が海面をかすり擦り傷に少ししみた。反射的に眉をしかめてしまったのに気づいたのか、彼女はまた小舟のへりまで戻ってくる。

「血の匂いがする」

 ぼくの手をとり薬指の傷を見つめたかと思うと、ぺろりと舐めた。

「海に傷口をつけるな。サメたちが血の匂いにひきよせられてくる」

「……サメ? この村にサメがでたことはないよ」

「いるさ。もっと沖にだけどな。私についてきている。サメの鼻は二キロ先の血も嗅ぎ分けるんだぞ。お前なんか一口だ」

 硬直したぼくの顔をみて、彼女は吹き出し高らかに笑った。

「贈り物の礼をしなくてはな。何がいい?」

「何って……そんなのいいよ」

「そうか? ……足はどうだ? 私の足は四本もある。二本くらいやろうか」

「駄目だそんなの!」

 自分でもびっくりするくらいの大声がでた。彼女は多分今まで誰かに怒鳴られたことなどなかっただろう。ぽかんと口を開けていた。足をやるだなんてそんな馬鹿な話はない。何よりどうやるんだ。ありえない話にむきになったことが急に恥ずかしくなってしまった。周りの人魚たちが動きを止めてこちらを伺っている。

「……だってほら、そんなことしたら姫様痛いじゃないか」

 ありえない話だとわかっているのに、我ながらおかしなことを口ごもった。

「嘘だ」

「……嘘って、そりゃそんな話はないだろうけど」

「いや、サメはお前を食べない。お前は私のものだと決めたからな」

「ぼくにお礼するって言ったのに、それじゃ全部姫様のものになっちゃうよ」

 彼女はまたいつものようにからからと笑い、その声にあたりの人魚たちも空気を和らげた。


 薬指の傷がつるりと消えているのに気づいたのは次の日の朝のこと。

 あっという間に一月はすぎ、彼女たちは沖に帰っていった。


 その四年後の九歳の祭りのときも、またその四年後の十三歳の祭りのときも、彼女はまるで前の祭りのすぐ後に顔を合わせたかのようにぼくをそばに呼んだ。彼女の骨ばった肩は丸みを帯び、むきだしの乳房は目のやり場に困る程度には膨らんできていた。

「どうした。何故私のほうを見ない」

「……なんでもない」

「無礼だぞ。顔も見ないで話すな」

 そりゃ人魚たちは乳房を隠さないものが多い。人間とは感覚が違うのだろうし、そもそも人魚たちが人間に対して恥ずかしいと思うはずもないのだろう。

「……私はお前たちからみたら『醜い』のか?」

 あまりにも思いがけない言葉だったから、一瞬意味がわからなかった。

「私たちには人間のいう美しいとか醜いとかはわからん。順列は強さで決まるのみだ。私は誰よりも速く泳げるし、強く鋭い爪ももっている。だけど人間は強さだけが基準ではないときいた。私が醜いからお前は私を見ないのか?」

 醜いだなんて。

 彼女の足や尾びれは怖いほどに荒々しいのは確かだ。けれども、それは彼女の艶やかな黒髪や、浅黒い肌にはしる白い一筋の輝きを損なうものではけしてない。なによりもまっすぐに力強い紅色の瞳にとてもよく似合っている。ぼくはそう伝えるべきだとわかっていても、恥ずかしくてなかなか口に出せなかった。

「……胸」

「胸がなんだ」

「胸を隠して、ほしい」

「お前のいうことはわからん」

 彼女は苛々を爆発させて海面を叩き、それを見かねたように年かさの人魚が寄ってきて口添えしてくれた。

「人間の男は、女の乳房が気になるんですよ」

「はぁ? 乳がなんだ。今までそんなこと言ったことないだろう」

「今までは子供だったからです。ほら、これを胸に巻くとちょうどいいと思いますよ」

 年かさの人魚はそれまで羽衣のように肩になびかせていた白い絹のような布を、彼女の胸にあてる。彼女は首をかしげ納得がいかないようだったが素直に両腕をあげ、布を巻きつかせながらぼくを見上げた。

「これならいいのか?」

 勢いよくうなずき続けるしかできないぼくを見て、人間は面倒くさいと唇をとがらせた。


 やっとまともに顔を見て話ができるようになり、ぼくらはいつもどおり他愛のない話をしていた。人魚たちはみんな髪が長い。彼女ももちろん背中全てを覆うほど長い髪を持っている。その髪が胸に巻いた布に巻き込まれているのを見てかゆくないかと聞くと、彼女は無造作に後ろ髪をかきあげた。首筋に生々しいほど桃色に刻まれた傷跡。

「どうしたの。怪我したの」

 驚いて問うと、彼女はああ、とその傷跡を撫でた。

「もう痛くない」

「なんでそんな怪我」

「噛まれた」

 人魚たちは海の世界では頂点にたつものたちだと聞いていたのに、陸の上と同じように争いごとでもあるのだろうか。ぼくの村はずっと平和だけれど、いくつも山を越えた向こうでは戦ごとが絶えない場所もあるという。それにしたって、まだ彼女はぼくよりひとつ年下の女の子なのに。

「お前、変な顔してるぞ。こんな傷、大人の人魚たちはいくつも背中にある。見てみろ」

 おつきの人魚たちはやはりぼくらの会話をいつもそっと聞いているようで、見回すとくすくすと笑いながら髪を片肩によせ首筋から背中にかけて走るいくつもの傷跡を見せてくれた。

「まあ、ない者もいるがな。私の一族の者たちにはついてる」

 魚に色々な種族があるように、人魚たちも様々だと教えられた今ではもう知っている。彼女の一族はその中で一番強いのだと。

「なんで……戦争とか?」

「戦争? おかしなことを。そんな無駄なことするのは人間だけだぞ。これは子を作るときにつく傷だ」

 村に来るのは女の人魚だけだけれど当然男の人魚も少ないながらいるのだとは前に聞いたことがある。普段は遠く離れた場所で暮らしているが、繁殖期になると群れをなしてやってくるらしい。彼女はいつものように淡々と話してくれた。数こそ圧倒的に女が多いが、より多く、より強い子を為すために男たちは女を奪い合う。女たちもより強い子を産むためにより強い男を望む。だから自然と、交わるときには男が女の首を噛むのだと。他の男に奪われぬよう、他の男めがけて女が逃げないよう。

 ぼくだってもうどうしたら子供ができるかなんて知っている。本も読んだし、おばさんたちやおじさんたちがこそこそと笑い話してるのを聞きかじったことだってある。だけどそんなのは「大人」がすることだと思っていた。

「姫様、ぼくよりひとつ年下じゃないか」

「ほんとにお前はおかしなことをいうな。いつも。もう私も子を産める年だ」

 丸みを帯びてきてはいてもまだ細い肩。ぼくよりずっと細い首。それなのに?

「赤ちゃん、産んだの……?」

 今度は彼女が珍しく目をそらして顎まで海に浸かった。

「……痛かったから」

「うん」

「痛かったから、つい、男を引き裂いて殺してしまった」

「……え」

「すごく、怒られた」

 ふてくされたように頬を膨らませてとがらせた唇を海面に沈めぷくぷくと泡を出す彼女には、そんな禍々しい言葉は似合わなすぎて。人魚たちの中には足をもつものも稀にいたけど、彼女みたいに鋭い爪がある足をもつものはいなかった。昔、何故おつきのものをあまり近寄らせないのかと聞いたとき、私の爪にあたると怪我をさせてしまうからだと答えた彼女。

 殺すなんて言葉、あまりにぼくの生活からは遠すぎて現実味がない。殺したことに対して、怒られたというだけですむことはもっと考えられない。だからそんなことよりも何よりも、彼女の小さな背中に傷跡があることにむかむかと吐き気を覚える。

「……?」

 気づくと、ぼくは小舟から身を乗り出して海面より下にある彼女の傷跡を撫でていた。

「……いたいのいたいのとんでけ」

 その晩中、彼女は腹が痛いと笑い転げ続けた。


 村は三方が山に囲まれている。北と南の山は海に突き出すような岩肌だけの長い岬を突き出していて、その大きな翼で村を抱きかかえていた。南北はもちろん西の山もこんもりと繁る木々で傍からはわかりにくいけど、あちらこちらに険しく切り立つ崖があり村に出入りするには西と北の山間を縫うような細い道を越えるしかない。こじんまりした家々と、村人の分を賄える程度の畑や家畜、岩場だけの湾にはささやかな生簀と小舟、一艘だけの漁船。本当に質素な村ではあるけど、岩場には岩陰ひとつひとつにつぶ貝や小えび、あわびがあふれるほどひそんでいた。風は湾から入ってきて三方の山を走り、山の実りを助けていく。いつも穏やかに凪ぐ海は、外海にでるまでその底を露に透き通らせていた。時折、山向こうの町で開かれる市場につれていってもらうときに馬車の隅に乗せてもらうのだけど、洞窟のように道を覆う木々の隙間から湾を一望できる瞬間、何度見ても息を呑むようなその美しさにため息をついた。

 村の外にでるときに、毎回念をおされることがひとつ。


 祭りのことも姫様たちのこともけして口にしてはいけない。

 

 穏やかに暮らす村人たちには決まりごとなど必要なかったけれど、これだけは絶対だった。祭りのある月以外なら旅人はもてなした。でも住み着くことは許さず、村の外から妻や夫を連れてくるのであれば村人全員がその人を認めなければ叶わなかった。

 祭りの間、若者は交代で村への入り口を見張り、村と山の境目あたりも巡回する。普段から訪れる人は滅多にないし、あたりの町の人間はここが何もない村だと知っているから用もないのに来たりしない。けれども、万が一何も知らない旅人が訪れてしまったら、用意しておいた弁当をもたせ引き返してもらうのだ。どうやって説明するのと聞いたら、「はやり病がでたかもしれないといえばきびすを返して走り出すさ」と笑っていた。嘘じゃないぞ。かもしれない、なんだからな。とも。見張りも巡回も、力の強い若い男たちの仕事だった。若いといっても年寄りではない程度の若さな者も含んで、ではあるけど。その仕事は「大人」になった証でもあった。村人たちに大人だと認められ、初めてその仕事に向かう者たちの顔は皆、緊張の中に誇りをにじませていた。

「ぼくもいつかあの仕事をさせてもらえるかな」

 籠編みを手伝いながら聞くと、二軒隣のおじいさんは白髪交じりの髭をたくわえた口元をもごもごさせ、うぅんと唸った。

「もうちぃっと、その腕と肩が太くなったらだなぁ」

「ほんと!?」

 おじいさんは、しゅるりと縄を網目にくぐらせ「こら、ちゃんとそっちもて」と、ぼくが引いている縄を叩いた。

「あの山道を馬車なしで駆け上がりきれるくらいだぞ」

「できるようになったら大人だね?」

「そうなるなぁ。そんときはわしが薦めてやろう。できるか?」

「今はまだ。でもできるさ。木登りだってもう他の子と同じようにできるようになったよ」

「おお、そうだったなぁ。お前は頑張り屋だっと、ほれ編み順がわからんくなるわ」

 うんうんとおじいさんは頷きながら、また黙々と籠編みに集中しだした。

 両親のいないぼくに、村人たちは順番にご飯を食べさせてくれる。女たちは掃除や洗濯を教えてくれて手伝ってもくれる。おじいさんは、ぼくにこういった内仕事を手伝わせてくれながら昔のことや村の外のことも教えてくれる。

 ふと、姫様たちがもたらしてくれているという恵みがあるから、こんなにも厳しく村の秘密にしているのかと思った。

「ねえ、姫様たちはさ、村に海の恵みをもたらしてくれるからおもてなしのお祭りをするんだよね?」

「んんん? おや、ちぃと編み飛ばしたのぉ」

 おじいさんはあんまり籠編みが得意じゃない。ふしくれだった太い指で編み目を数えなおして「おお、ここだ」と三つほどほどいた。

「おまえ、姫様と仲がよいだろう」

「うん」

「恵みをもたらしてくれなかったら仲良くしないのか?」

「ええ? 考えたことないけど、うん、そんなわけないよ」

「だろう。まあ、そういうことだ」

「そっかぁ。そうだよね」

 おじいさんはまた、うんうんと口元をもごもごさせて籠を編み直し始めた。


 今夜は新月、もう祭りは残り半分。

 姫様は昔ぼくがあげたもみじの葉を、薄く磨いた夜光貝に貼り付けて髪飾りにしてくれていた。今はもうもっと高い樹にも、山の中腹くらいまでなら森の中でも、一人だけで登っていける。ずっと祭りの間に咲いてくれよと願っていたフユザクラが、今朝その白い花を開いているのが窓から見えた。山道を少し登ったところからまたほんの少し森に入れば、その樹にたどり着ける。今朝といっても相変わらず連日の夜更かしで、目が覚めたときには、もう陽は傾きかけていた。ぼくは荷台にとびのって、腰を荷台にくくりつけるための紐を結ぶのもそこそこに走り出た。

 あの白い花をつけた小枝はきっと姫様も喜んでくれる。薄桃色の花弁から白く広がるあの小さな花は、夜光貝の輝きにきっとよく似合う。彼女の耳に飾られる小枝を思う楽しさで、いつもなら見張り役がいるあたりに当番の人がいないことにも気づかなかった。

 山道の脇は背の高い下生えが、うっかりすると足を取られ転げ落ちてしまいそうな背の段差を隠しこんでいるのだけども、下調べは十分にしてあった。手がかりになる蔦や足場につけた目印を追って、なんなくフユザクラの根元にたどりつく。髪飾りをみせてもらった前の祭りの後からずっとこの樹を狙っていたんだ。そのときは一人でここまであがることもまだできなかった。

 腰に巻いた紐をほどいて樹肌に手をかける。初めて登ったもみじの木よりも、もっと高いところに最初の枝はある。だけどぼくの腕だって八年前のあのときよりはるかに太く力も強い。こめかみに滲み出した汗が落ちるより早く、小さな花びらが風にふるえる花房を一番たくさんつけた小枝に手が届いた。幹を背もたれにして枝に腰掛けたまま一息つく。湾から山を渡ってきた風がひんやりとして心地いい。木々の隙間から、碧い水面が波頭を白く光らせていた。姫様たちは陽がすっかり落ちきった後に村までやってくる。それまでは沖の海底にいるらしい。これからゆっくり家に戻ってもまだ夕闇程度。食事もとれるくらいだろう。つまんだ一枝を腰に巻いた帯にひっかけてある小さな籠を仕込んだ巾着袋にそっといれた。おじいさんがつくってくれた不恰好な籠を、おばさんが巾着でくるんでくれた。小さい頃はよくひっくり返って籠ごとつぶしたものだけど、もうこの籠は二年使っている。手をふさぐことができないぼくにとってすごい優れものだ。

 よし、とひとりごちて幹を掴みなおし枝から腰を降ろそうと重心を移動させようとしたとき、くぐもった短い悲鳴のようなものが聞こえた。鶏をしめたときのような音は山道のほうから聞こえたと思う。だれか狩りにでもでてたのだろうか。見回りに人手をとられて、あまり祭りの間に狩りに出ることはないのに。首をのばしてみると、山道を挟んで向こう側のほうから人の気配がした。そのあたりの枝や葉が風に逆らう動きをしている。一番下の枝まで降りて、木に登るとき幹に渡しておいた縄を腰の後ろに結んだ。そのまま一気に滑り降りて、縄をほどき、また荷車と自分の腰を結び付けなおす。うさぎかなにか狩ったのかな。姫様たちのための肉だろうか。誰だろう。そういえば見張りの人たち、さっき見たっけなんて思いながら、さっき森に入り込んだ場所から山道に荷車を乗り上げた。


「……こから聞きつけてくるんだか」

「まったくだ」

 何か重いものを抱えてたように、おじさんたちが息を弾ませながらぼそぼそと話しているのが聞こえ。


 どさりとおじさんたちが抱えていたであろうそれが道に転がると、ゆっくり広がりだした真っ赤な水溜り。

 ぼくの気配に身構えると同時に振り向いたのは見張り役だったはずのおじさんたち。

 あれ。うさぎじゃないや。ずいぶん大きいなって思ったのと、それが人間だと気づいたのはほとんど同時だったと思う。


 ぱくりと開いた口。

 その口の下の首にもうひとつぱくりと開いた口。

 そこから、静かに流れ出す血。

 脈打つわけでもなく、ただ、流れ出している。

 白目をむいていることを差し引いても、知らない顔。

 おじさんたちは、手に手に、鉈や鎌を持っていて、それからも紅いしずくが滴り落ちていた。


「おまえ、なんで……」

 身構えた鎌を、力が抜けたように降ろしておじさんが乾いた声で聞いた。

「フユザクラ……姫様にあげようって、思って」

 ぼくはすごく間の抜けてるなって思いつつ答えた。

「ああ、その先にあったな。そういえば。とれたか?」

「うん」

「そうか」

 おじさんたちの足元に転がるそれから目が離せない。

「あのな」

「それ、誰?」

 ぼくらは同時に口を開いた。

「あ、ああ、知らん」

「知らない、人? なんで、死んでるの?」

 わかっている。おじさんたちの手にもつ刃物はみんな赤黒い血に染まっている。

 鎌をもっているおじさんは、市場に何度か連れて行ってくれた。

 鉈をもっているおじさんは、ちょっと若い。小さい頃はぼくを抱いて鬼ごっこをしてくれた。

 鍬をもっているおじさんは、ぼくの荷台をよく調節してくれた。

 なんで、その優しくて強い手が、なんでそんなに、血しぶきをあびているの?


「あのな」

 おじさんが一歩踏み出して、ぼくの体は心臓が止まったかとおもうぐらいにびくりと震えた。

 それをみて、おい、と一人がおじさんの腕にふれ、ああ、と持っていた鎌を渡した。

 空手になったおじさんは、その場で腰をかがめ、ぼくに目線をあわせようとする。

「あのな、俺たち、見張り役だろう? お前、祭りのことは絶対に村の秘密だってもう知ってるよな?」

 いつも市場に行くときにぼくの顔を真っ直ぐ見つめながら話すおじさんの顔そのままだった。

「……お弁当もたせて帰すっていったよ」

「何も知らないやつならな」

「そのひとは……?」

「いいか。姫様たち人魚ってな、唾液をつければ人間の傷を治すし血を飲めば病を治す、肉は、食えば不老不死になれるって言い伝えがあるんだよ」

 姫様に舐められた薬指の傷が消えた夜を思い出した。

 でもだからなんなんだろう。

 姫様ってすごいなってぼくはそのとき思っただけだった。

 ここまではいいか? というかんじにおじさんは首をかしげる。ぼくは硬直した首を無理やり動かした。

「こいつは、姫様たちを狙ってきたやつだ。姫様たちを生け捕りに、どうかすると殺した死体でも持ち帰られればいいと思ってくるやつがいるんだよ。俺たちはそれを見張ってるんだ」

「ひみつにしてるじゃないか」

「それでも、だ。それでもどこからか聞きつけてやってくるんだ」

 後ろでおじさんたちがそわそわしだしている。

「お前、いくつになった」

「じゅう、さん」

「よし。じゃあこれからな、じいさんとこにいけ。全部教えてもらえる。俺たちはまだこいつの仲間がいるかどうか探し回らなきゃいかん。時間がないんだ」

「……なかま、いたらまたころすの……?」

 よくみると、転がっている男は矢筒を背負っていた。

「行くんだ。走れ。真っ直ぐ道から外れるな。行け!」


 ぼくはその太く張り詰めた声に、はじかれたように山道を駆け下りだした。

 背後でおじさんたちがまた森の中に走りこんだような激しい葉ずれの音がしたけど、振り向くことはできなかった。


 何度転んだかわからない。耳の奥に心臓があるみたいに自分の脈打つ音しか聞こえなかった。起き上がってはまた小石を車輪ではじきとばしながら駆け、はじききれない石や段差に車輪を取られてまた転んだ。おじいさんのとこに行けといわれた。おじいさんはいつだってゆっくりとひとつひとつ説明してくれた。だからきっと今度もぼくにわかるように教えてくれる。優しいおじさんたちは優しいまま変わってはいないと教えてくれる。あのふしくれだったごつごつした手で、ぼくの頭をなでてくれる。そしたらぼくはご飯を食べて、姫様にこの花をあげるんだ。おじいさんのとこに行かなくちゃ。おじさんだって行けって言った。焼けるようにのどが熱くて痛かったけど、なぜかぼくはずっと姫様姫様とつぶやきながらおじいさんの家に向かった。


「おい、どこいくんだ」

 姫様が桟橋に手をかけて、ぼくに片手を振って見せた。その声と、まだ陽も落ちきっていないのだからいるはずのなかった姿をみて、慌てて止まろうとしてまた転んだ。

「なにやってるんだ。どろどろだな」

 急に腕に力がはいらなくなって、体を起こすのに少し手こずった。がくがくとひじが震えている。おじいさんの家に向かう道からはずれて、岩場に渡した桟橋までの板に車輪を乗せた。彼女は急かすわけでもなく、ただじっとぼくの顔を見つめながら待っていてくれた。そばについて、息が整うくらいまで。

「どこ、いってたんだ?」

 桟橋にひじをつき、少し首をかしげてのぞきこんできた。東のほうからもう闇は忍び寄ってきていて、それでもまだ桟橋あたりの海面は夕暮れの赤と金の光をはじいていた。彼女の頬におちるまつげの影も薄赤い。ぼくはもたもたと巾着の口を開いて小枝をとりだした。はらはらと数枚、花びらが落ちる。

「これ、とりにいってた」

「へえ? 私にくれるんだよな?」

 にっこりと笑って差し出された手のひらにゆらゆら小花をたくわえた枝を載せる。

「そうだよ。フユザクラっていうんだ」

「陸にはかわいいものがたくさんあるな」

 小花ひとつひとつを指でつついては、ゆれる小花にふふっと小さく笑い声をあげる姫様。

「それだけだとかわいいけど、木いっぱいに花を咲かせてるのはすごく綺麗だよ」

「ここから見えるか?」

 えっと、と山のほうを振り返り木のあるほうを指差そうとして、できなかった。

「まだ、ちょっとしか花咲いてないから見えないや」

「そうなのか。つまらんな」

「……姫様、どうしたの? こんな早い時間に」

「お前、呼んだろう。私を」

 ぼくはそんなに大声でわめきまくってただろうか。

「聞こえるし、わかる。お前すごく必死に走ってただろう。だから見に来た」

「一人で? 他の姫様たちは?」

「だってお前が呼ぶのは私に決まってるじゃないか」

 またわからないことを言っている、と今では口癖になったような一言をいうときのような口ぶりで自信満々な彼女に、ちょっとだけ笑いがこぼれた。

「ぼくらは姫様たちのことを姫様としか呼べないのに変なの」

「それはお前たちが不器用だからだ。仕方ないだろう」

「呼ぶたびにお皿割っちゃうような声なんて出せないよ」

「私たちは別に困らないが。そうだな。だったらお前、私の名前を決めるか?」

「姫様の名前?」

「決めていいぞ。お前がその名前で呼んだら答えてやろう」

 急にそんなこと言われても困る。

「えっと、じゃあ、もみじ、とか」

「お前、今この髪飾り見て言っただろう。もっとちゃんと考えろ。この私の名前だぞ」

 憮然とする彼女がおかしくてまたちょっと笑いがこぼれて、ついでに涙もこぼれた。

「そんなすぐなんて思いつかないよ」

「じゃあ、明日までだ。明日までに考えろ」

「うん。わかった」

「ちゃんとした名前だぞ」

「うん」

 彼女は擦り傷だらけのぼくの手をとって、あの夜のようにぺろりと舐めた。

「あのね」

「うん」

「さっき、おじさんたちが知らない人を殺してた」

「ああ」

 まるで驚かない彼女に少し驚いた。少しだけ。なんとなく彼女は知っていたんじゃないかという気はしてたんだと思う。

「知ってたの?」

「お前たちはどうだか知らないが、私たちは村のもの全員の顔を覚えてる。……まあ、私はお前とあと何人かくらいだが。他の大人の人魚たちはみんなそうだ。顔ぶれは変わらないのに肉は出る。だったらその肉は、村人たちの誰かじゃない。簡単なことだ」

 祭りの時だけ蔵から出されるあの白い平皿。ぼくらはけして手をつけてはいけないといわれている肉。

「姫様たちは、人間を食べるの?」

「滋養、とかいうものだな。健康なものは若々しさを保つし、病気のものは精がつく。子を孕んでいればお産が楽になる。でも別に食べなきゃ食べないでどうということじゃない」

「村の人が殺した人間の肉だって、知ってて食べたの?」

「私ははっきりとそう聞いてないな。他の大人の人魚は知らないが。だけどそれがなんだ?」

「だって、殺された人だよ」

「肉は肉だ。お前はもてなしを受けてその馳走にケチをつけるのか?」


 彼女の紅い瞳は、こんなにもガラス玉のようだっただろうか。初めてみる夕焼けの下のその瞳は、いつもよりも深い赤で金色に縁取られている。


「あの肉が、人間だったなんて知らなかった」

「お前たちだって魚を食べるだろう。小魚は貝を食べるし、その小魚はもっと大きい魚に食べられる。大きな魚が死ねばそれを貝が食べる。その流れの中に私たちはお前の村のものたちをいれてやっているんだ。何が違う」

 ……同じ? 同じなの? なんて返していいのかわからなかったし、違うともいえなかった。

「姫様は、なんでも知ってるんだね。ぼくよりひとつ下なのに」

「私は次の長になるものだしな。ヒトとは違う」

「人魚の唾液は傷を治して、血は病を治して、肉は不老不死になるってさっき聞いた」

 ぷっと彼女は吹き出した。

「うわさに尾ひれがつくのはヒトも人魚も同じみたいだな。みんな祭りが終われば次の祭りまでお前たちのうわさ話をしている」

「違うの? 姫様、ぼくの怪我治してくれたよ」

「擦り傷程度なら、だ。血も病を治せるほどのものじゃない。多少軽くなる程度だ。肉は、私たちと同じくらいには老いるのが遅くなって寿命もその分延びるだけだと聞いているぞ。そうはいっても、人間の命はせいぜいが八十年、もって百年くらいだったか? 私たちは三百年から五百年くらいが寿命だからそれからみたら不老不死なのかもな」

 夕闇はどんどん影を濃くしていく。ぼくの手におかれた彼女の手は、ひんやりと冷たい。

「私たちの一族のな、最初の長は足が四本あったそうだ。私と同じ」

「うん」

「だけど、その後の長は足があるとは限らなかった。時々二本足をもつものがいた程度らしい。かあさまも二本足がある」

 かあさま、と彼女は母親をそう呼ぶのだと初めて知った。その発音の仕方が、なんだかいつもどおりの横柄な口調なのにかわいらしく聞こえた。

「私が胎にいるときに、かあさまは人間の子供の肉を食べたと聞いている。大人の肉よりももっと貴重でもっと滋養があるらしい」

 すっかり落ち着きはじめていたぼくの心臓がどくりと跳ねた。


 彼女はぼくのひとつ年下。

 ぼくの足は一歳と少しのころにがけ崩れのせいでなくなった。両親も。

 でもぼくはそんなこと覚えていない。

 後からそう聞いただけだ。

 どうしよう。どうしよう。目が回っているのかもしれない。

 ぐらぐらする。


 彼女は身をのりだして前足の爪を桟橋にかけ目の高さを合わせ、泳ぎかけていたぼくの視線を真っ直ぐに捉えた。

「この爪は強い長の証だ。私が産まれた時にそう祝福を受けた。強さは私たち一族の誇りでもある。だけど何より、これはお前からもらったものだ。それが私の誇りだ。だから」

 ひんやりとした両手でぼくの手を包んで。

「お前が欲しいというなら、私の肉をやる」

「……そんなの、姫様が痛いじゃないか」


 村の家々にちらほらと灯りがともりだしてきていた。

 それでもまだ、夕陽の残り火が彼女の姿を鮮やかに紅く照らしている。

 さっきまでガラス玉のようだと思った彼女の瞳は柔らかく暖かな村の灯りのようにきらきらしていて。

 にっこりと微笑んだ彼女は、ああ、ヒトではなくて当たり前な美しさだ、と思えた。


 ぼくはすっかり見とれてしまってたんだろう。

 鈍く突き刺さる音、ぎらぎらした光を放つ鋭く尖った鋼のようなものを先につけた真っ直ぐな木の棒が彼女の左胸の下から突き出ていて、それが彼女の背のほうからも突き出ている棒とつながる一本の矢だと、すぐにはわからなかった。


「ひ、めさま……?」

 彼女はぼくが初めて名前を聞いたときのようなきょとんとした顔で、ぼくを見つめ、それから自分から生えているそれを見下ろした。

 続けざまに彼女の体が弾み、へそのあたりが熱くなるのを感じた。

 ぼくより一回り小さい彼女の薄いお腹からもう1本突き出た矢が、ぼくの腹にも矢尻をほんの少しめりこませている。

 小蛇のように矢竹に絡みついている赤い血は、姫様のものだろう。ぱた、ぱたぱた、と桟橋に滴り落ちた。

 小刻みに震える指をぼくの腹に伸ばしかけ、彼女は仰向けにゆっくりと海に倒れこんでいく。

 ぼくの腹を抉り取るように矢尻も離れていき、桟橋の板でぼくの血と彼女の血が交じり合う。

 ぼくは多分悲鳴をあげていた。わんわんと頭の中を揺さぶり駆け回る声。それでもだ。おじさんが言った言葉。

 それでもどこからか聞きつけて。

 矢が飛んできたであろう方向から、嬌声を上げながら、弓をつがえながら、岩場に足をとられながら、駆け寄ってくる知らない男が二人。

 おじさんはなんといっていた?

 知らない男たちのずっと向こうで、家々の戸が叩き開けられる音が響き、呼子があちこちで甲高く鳴り響いた。

 生け捕り。死体。仲間。時間。

 まだあの死体の仲間がいたんだ。

 いつもはその底を見せている赤く濁る海に飛び込んだ。

 

 ぼくだって泳げる。ばた足ができるみんなほど速くはないけど泳げる。貝だって採ってこれる。

 いつもとは見当が違って、海水をかきわける指先が思ったより早く岩に当たった。

 荷車。腰紐を巻きつけたままだった。こんなに硬く結んでいたか? あたりを見回しながら慌ててほどき、ほどききれたときには、あと二、三回水をかけば届くであろうところに沈んでいる姫様の姿を見つけた。赤い水煙が上がっている。彼女は目を閉じたままゆらゆらと流れにあおられるがままになっていた。桟橋の揺れる振動が伝わってくる。あいつらだ。

 彼女の背中に回り、その胸に巻かれた白い布に噛み付く。

 ぼくは手をふさぐことができない。片手でこいでるんじゃ追いつかれる。両手で藻がびっちりと生えている岩を押し蹴った。


 沖までいけば。姫様たちのいるとこまでたどりつけば。

 ぼくにだってできる。

 やらなきゃ。彼女を連れて行かないと。

 時間がないといっていた。それは姫様たちが村にやってくる前にあいつらを捕まえなきゃいけないってことだったんだ。

 ぼくのせいじゃないか。

 おじさんたちは、ぼくなんかにかかずらって出足を鈍らせた。

 彼女はいつもならまだ沖にいる時間なのにぼくが呼んだから来てくれた。

 ぼくのせいだ。

 貝をとるときはただ沈めばいい。だけど、凪いでいるとはいえ村に寄せる波の流れに逆らって沖に進むのは思ったより押し戻す力が強かった。

 でも行かなきゃ。急がなきゃ。彼女の血はとぎれることなく広がり続けている。

 潜ったまま沖を目指す。さっきほどいた腰紐を姫様にくくりつけて引いたほうが早く泳げるかもしれない。もうちょっと距離を稼いだら、と、息が続くぎりぎりまで進み、それから海面に顔を出した。姫様を抱えて、片手でバランスをとって息をつぐのはちょっと苦しい。むせかえりながら空気を求め、村と沖の方角を確かめる。


 これしか進んでないの? 頭のてっぺんからざあっと音を立てながら血が引いた。

 岩場に倒れこんでる村の人が何人かと、やつらのうち一人を取り囲んでもみあう何人か、桟橋までたどりついた残りの一人が小刀を振り回し村人たちをふりきって小舟に飛び乗る瞬間が見えた。舟になんてのられたらすぐ追いつかれてしまう。

 胸いっぱいに空気をためこみ、彼女の衣をしっかりと噛んでまた潜った。


 いつだって、村のみんなは優しかった。お前は賢い頑張り屋だとおじいさんは頭をなでてくれた。おじさんたちはぼくにできる仕事をくれて仕上げればほめてくれた。悪さをしたらおばさんたちに怒られた。他の子供たちと何一つ変わらず扱ってくれた。

 のどが痛いのは泣いてるんじゃない。そんな暇ない。重たく冷たい水をかきわける。指先の感覚が冷たさに吸い取られて消えていくのに、腹だけが熱い。大丈夫。腹は痛くない。熱いだけ。

 ぼくがしなきゃいけないことは彼女を人魚たちのところに送り届けること。きっと彼女を助けてくれる。岩場に倒れていた人の足や腕には矢が突き立っていた。それでも立ち上がろうとしてる人もいた。彼女を貫いた矢を放ったやつらは獣のような形相をしていた。落ちていく姫様をみて、下卑た歓声をあげていた。ぼくがみたあの山道に転がった死体もそうだったのかもしれない。おじさんたちに見つけられなければ、もっと村人たちを倒していただろう。こんな小さな体にこんな矢を射掛けてためらいもしてなかった。ぼくらと同じように感情がある人間だなんて思えなかった。あんなやつらに渡さない。みんなが守ろうとした姫様たちを守るんだ。ひとかきごとに肩に腕に力をこめる。ぼくのせいとか、そんなこと後で考えるんだ。怪我をしたおじさんたちに謝るのは姫様を守りきった後だ。何も考えずに沖を目指すんだ。だけど。どんなに力をこめても二本の腕と二本の足で泳ぐのには及ばない。ぼくの腕はどんなに太くなったといっても足を補ってまだあまるほどの力なんてない。


 こんなにも足が欲しいと願ったことはなかった。

 

「だから足をやろうかといったんだ」

 水の中なのに、姫様の言葉ははっきりと聞こえた。驚いたぼくが衣から口を離すと、彼女はくるりと体を反転させてぼくの両頬をその手で包んだ。彼女の褐色の肌が今青白いのは夕闇の海の中だからだけじゃないだろう。彼女を片手で抱えて沖に進もうと泳ごうとするぼくの手にそっと力なく触れる。

「だいじょうぶ。来る」

 彼女はそういって沖のほうの海面を指差し、見上げろと合図した。


 一枚の長い長い白い布が海面を覆っているのかと思った。

 あっという間にぼくの頭上を埋め尽くしたそれは数え切れないほどのサメの群れ。その白い腹が海面を鋭く掻き分けていく。沖には姫様についてきているサメがいると前に言っていた。そのサメたちだろうか。記憶にはないがけ崩れの地響きが聞こえる気がした。魚の群れがこんなうなりをあげるのか。群れは真っ直ぐに村に向かっている。それが通り過ぎると、彼女はぼくの頭を抱え水面まで一気に躍り出た。

 むせながら空気をむさぼるぼくの肩に、彼女はくったりと頭をのせる。海面に旗のような無数のサメの背びれが村へ向かっている。勢いよく吹き上がる水しぶきが群れの隙間を縫って立ち上る。太陽が沈みきるよりも早くずっしりと重たげな黒雲が広がり空を覆っていき、地響きかと思った音は轟く雷鳴だったと走る閃光で気づいた。小舟に乗り込んでいたやつは押し寄せてくるのが波ではなくサメの群れだと気づいたのか、櫂をこぐ手を止め、ぼんやりと突っ立っている。海とともに育った村のみんなはきびすをかえし、倒れている仲間を抱え陸へと走り出していた。低いうなり声をあげ海面を這う海風は、切り立つ岬の崖をのぼり、合間に呼子のような甲高い音を鳴り響かせる。

 サメの群れたちは巨大な一匹の魚のように整然と突き進み、雷鳴も風の音も激しさを増す波の音もその大きな魚の啼き声のようだった。小舟が軽々とはじきとばされ、呑み込まれていくのが見えた。


「ひめさま……?」

 彼女が小さくうめき声をあげ、体を硬直させているのに気づいた。とぷんと沈んだ頭を追いかけ、矢竹が突き立ったままの左胸の下を押さえつけている彼女を支える。痛くて押さえつけてるんだと思った。出血を止めようとしているんだと思ったからその手に手を重ねた。

 なに、してるの。

 ぎりぎりと下唇をかみ締めている彼女の顔を覗き込む。手首を掴んで、首を振ってみせても見てくれない。ぼくの手を振りほどいて、またその傷口に人差し指と中指を差し入れようとする。血煙がふわり、ふわり、とぼくらがもみ合うごとに上がる。やめてやめてやめて。どんどん血が流れていってしまう。止めようとするぼくの腕に彼女が噛み付いた。思いがけない痛みに手を引いた隙に、また大きな血煙が広がり、姫様の口元からごぼごぼと赤い水疱があがる。傷口をまた押さえつけたぼくの首をつかみ、血をまとったままの右手でぼくの口をふさいだ。唇をこじあけてさしこまれる指と小さな何か。彼女の力は驚くほど強くて首を振っても逃げ切れず、傷口から手を離せないぼくがそれを飲み込むまで押さえ続けられた。溜め込んでいた空気を吐き出してしまったぼくは一度海面に顔を出してまたすぐ潜る。

 彼女の体がまたぐったりと力が抜けたように沈んでいくのを追いかけ支えた。

 血は止まっていない。それどころか矢竹でふさがれていた傷口がえぐられて広がった分、流れ出す量はどんどん増えているようだった。どうしよう。もしかして陸にあげたほうがよかったのか。さっきあれほど軽やかに海面までぼくらを蹴り上げた尾は、水中でなおずっしりとしている。引き返して陸を目指すか人魚たちの群れを目指し続けるか迷っているところに、白く細い腕が何本も伸びてきた。

 いつのまにかぼくらは人魚たちに囲まれていた。

 普段姫様についている彼女たちは、そっとぼくから目を閉じたままの姫様を離し抱き止め、反射的に追うぼくの肩を軽く押し返した。

 祭りの間、微笑をほとんど絶やさなかった人魚たち。時には声を上げて笑っていた。

 今、人魚たちは見知らぬ敵に向かい合うように表情のない顔で冷たくぼくを見つめている。

 姫様は助かるよね? 間に合うよね? 

 そう訊こうとしたけど、姫様たちのようには水中で声を出せなかった。

 一斉に沖へと泳ぎ去る人魚たちの背中が、その夜の最後の記憶。

 薄れていく意識の中で響く海鳴りが言葉を形作っていく。


 愛したのに

 慈しんだのに

 永遠の恵みをと誓い合ったのに


 海がその身をよじれさせ悲鳴をあげていた。


 なんだかおかしいなと、奇妙な違和感に目が覚めた。

 三つ年下の隣の子がぼくを覗き込んでいて、目が合うと歓声をあげて「おかあさぁん!」と部屋を飛び出していった。

 ぼくのベッドの横に小さな椅子を置いて縮こまるように座っていたおじいさんが、その声にびくっと背筋を伸ばしてからきょときょととあたりを見回し、ぼくに目を止めた。

「おお、起きたか。もう駄目かと思ったわ」

 ぼくの手をごつごつした暖かな手で包み、甲を何度もさする。起きたって? と戸口からわらわらとおじさんたちやおばさんたちがなだれ込んできて、ぼくの小さな家はあっという間に満杯になった。あの夜から嵐は二日続きやっと晴れ間がみえた頃、岩場に打ち上げられたぼくを見つけたらしい。ぼくはその後丸三日、目を覚まさなかったと。皆口々によかったと笑っている。そのざわめきで目覚めたときからの違和感の正体がわかった。

「ねえ、どうしてこんなに静かなの」

 ぼくの朝は毎日、山の木々を優しくなでる風が起こす葉ずれの音と、森の奥から小さく響く鳥のさえずりと、静かに打ち寄せる波の音で始まっていた。それが何も聞こえない。大人たちはみんなお互いの顔を見合わせ、市場につれていってくれるおじさんがぼくの背に腕を差し入れた。

「あのな、お前の荷車まだできてないんだ。だから抱いていってやろうな」

 おじいさんは口元をもごもごさせてうんうんとうなずいていた。

 みんなはぼくを抱き上げたおじさんに道を譲り、外にでるとためらいがちについて出てくる。


 ぼくは眠っている間に全然違う村に連れてこられたのだろうかと思った。

 両翼の岬は高さや距離は変わっていないようだったけど、その形を変えていて、海に接するあたりに見える見覚えのない幾つもの岩はまだ新しい断面を見せている。風はそよりとも吹いていないし、かもめも飛んでいない。桟橋は砕けたのか、その名残だけが村から続く道のあたりにほんの少し残っている。小舟も、漁船もない。生簀も。

 海は小波ひとつ立てておらず、どんよりと濁ったじゅうたんのように外海のあたりまで広がっていた。

「岩場の貝もえびも全部もういなくなってた」

 ぼそりとおじさんは呟き、ぼくの寝巻きのすそを隣の女の子がきゅうと掴んだ。

「みんなは? 怪我したみんなは?」

「村のやつらはみんな無事だよ。怪我もたいしたもんじゃない。海の男たちをなめるな」

「ごめんなさい」

 ん? とおじさんは首をかしげてぼくを覗き込んだ。

「ごめんなさい。ぼくおじさんたちが知らない人になったみたいで怖くなったんだ。だから」

「お前が姫様を追いかけて飛び込むのは見えた。姫様は無事か?」

「……わかんない。他の姫様たちが連れて行った」

「じゃあ、そこまでは送り届けられたんだな」

「うん」

「よくやった。もう謝るな」

 おじさんはぼくの頭をがしがしと撫で、荷車をいつも調整してくれるおじさんは「新しい荷車、せっかくだから大きさ測りなおしてつくるぞ」と肩を叩いた。

「ぼくもつくるの手伝わせて」

「おう。頼むわ」

「今日はまだ寝てなきゃだめだよ。後でスープもっていくから早く家にはいんな」

 おばさんはぼくの頬を軽くつねっていった。

 みんなそれぞれの自分の持ち場に戻っていく。ぼくの鼻をつまんだり、頭をこづいたりしながら。




「本当に一緒に来ないのか?」

「うん。誘ってくれてありがとう」

「そうか」

 隣の家の女の子は今では一歳半の赤ちゃんのお母さんだ。ぼくが小さい頃は意地悪だったヤツと夫婦になった。そいつはすっかり逞しく豪快な男に育って、初めての子供に夢中だ。二人はかがんでぼくを抱きしめ、背を軽く叩いた。みんな出て行くときにはこうしてぼくを誘ってくれる。

 小さな子供を抱えた家庭から村を去っていき、村人の数は半分以上減った。風が吹き込まない海辺の村は、土地も痩せ山の木も枯れていった。山の向こう側の木々を少し切り開いて畑は作ったけど、そのみのりはほんのわずかで幼い子供を養うためには村を出て行くしかなかったから。

 十七歳の祭りのときも、二十一歳の祭りのときも、海は澱んだまま姫様たちを迎えることはなかった。

 もう村に残っているのは年寄りたちとぼくくらい。みんな必ず半時ほどは彼方沖を見つめ、思いを振り切るかのように去っていった。

 隣の家の家族を見送ってから、沖に向かって小舟を出した。おじいさんは「わしもそろそろ来年くらいにはお迎えくるだろなぁ」とか言いながらまだ元気だ。今朝はそろそろいんげんがなるころだといって山道を登っていった。


 昔々、おじいさんのおじいさんより何代も前は、祭りに肉は捧げられていなかったらしい。人間の肉が姫様たちの薬になると知った年寄りが、それなら自分が死んだらその肉を喰ってくれ、そんなうれしい弔いはないと、それが始まり。村人たちは祭りの時期まではと命が尽きぬのを願い、祭りの時期に旅立てることを喜ぶようになった。それまでも時折人魚を狙うやつらは現れてはいた。ある祭りのとき血の匂いに気づいた姫様のうちの一人が肉があるだろう、持っておいで、喰うてやろうな、とその肉の出所も聞かずに言ったのだという。

「わしがなぁ、こどもんときはまだ肉がない祭りもたまにあった。肉なくても、いや、肉ないほうが姫様たち機嫌よかったのお」

「姫様がね、私たちはみんな村人全員の顔を覚えてるって言ってたよ」

 そうかそうかとおじいさんはまたうなずいていた。

 おじいさんの家族は、ぼくとおじいさんで見送った。長いことおじいさんも連れて行こうと説得してたみたいだけど、おじいさんは絶対譲らなかった。

「喰うてもらえんかったけど、村からはでていけんわ」

 おじいさんの家族もやっぱり長いこと沖を見つめ続けてから去っていった。


 外海まででてしまえば、魚を釣ることはできた。これは村でのぼくの仕事。今はもうすっかり楽々と外海まで漕ぎ出せる。あともうちょっと釣ればみんなの夜ご飯にちょうどいいくらいかなってところで小舟がこつん、とゆれた。

 釣りがぼくの仕事なのはぼくしか外海に出られないから。ぼく以外の人間が出るとサメに襲われてしまう。普段、サメたちはまるでぼくなんて見えないかのように知らぬ顔で泳いでいるけど、時々こうして尾を舟にあてていく。魚籠から大き目の魚を一匹つかんでそのサメの背びれに向かって放り投げた。何年も前の姫様の言葉が守られているのだろう。サメはお前を食わない。お前は私のものだからなと。

 それに、あの晩のぼくの傷は、岩場に打ち上げられたときにはもうなかったという。怪我ひとつしていなかったと。ぼくの口に無理やりねじ込まれた彼女の肉。老いるのと寿命が延びるだけだといっていたけど、多分あれのおかげでぼくは生き延びたんだ。その肉の持ち主が助からなかったわけはない。


「おまえ、ちゃんと私の名前考えたか?」

 そんなこと言いながら、いつものように前の祭りの次の日にでも会ったみたいな顔して現れるんだと思う。きっと。

 ぼくは今でも姫様のものなのだから。

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[良い点] タイトルや題材から何となく小川未明の「赤い蝋燭と人魚」を連想しながら読み進めました。ハッピーエンドにはならないだろうなと思っていたので終盤の展開は切ないものの納得。足が4本の理由がはっきり…
[良い点] 木登りや血の臭い、戦争に対する考え方など、人間と人魚の考え方の違いがはっきりと出ているところが面白かったです。特に名前に対する考え方の違いが気に入りました。姫が主人公に名前を決めるように言…
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