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春雨チャイルドフッド

作者: ヤトー

一部、ちょっと目につくところがあるかと思いますが、広い心で流していただけると幸いです



 雨の中でも傘を差さなくていいことは自由だったかなんだったか、そんな台詞をどこかで聞いたような気がしたのはいつだったか。とりあえず、そうのたまいやがってくれた人間は死にさらせと、悟は朦朧とした頭で思った。


「馬鹿は風邪ひかないってのは嘘だったんだなぁ……」


 ベッドの脇でしみじみとつぶやく薫も死んでくれと、悟は思う。というか、普段だったら絶対に言っているだろう。それも、そのいがぐり頭を抱え込んで、ヘッドロックをかけながら盛大にだ。しかし熱で渇いた喉からは、


「……うるせえ」


 という、かすれた声しか出なかった。ベッドから身体を起こす気力もなく、でたらめに重い頭は枕に乗せているはずなのに、なんの手ごたえもなく落っこちていきそうだ。

 今朝計った体温は38度を超えて過去最高記録を更新しており、なんというかもう、完膚なきまでに完全無欠な風邪だった。  


「やっぱさ、この前傘使わないで帰ったのが悪いよ。それで入学式休む羽目になるんだから、やっぱ馬鹿だよなぁ、サトルは」

(うるせぇ)


 今度は声すら出なかった。代わりにこほりと咳きが出て、悟は慌てて布団で口元を押さえる。


 薫の言う通り、今日は高校の入学式だった。入学式なんて、どうせつまらない教師や校長、来賓の話を聞くくらいのものだろうと思っていたのだが、悟朗の話では生徒主催の凝ったもので、チア部や応援団のパフォーマンスなど、中学までとは比べ物にならないほど面白いものだったらしい。やたらと上手い薫の説明を聞きながら、つくづくついてないと、悟は呻いた。


 別に、たいしたことではないのだ。ただ、春休み最後の思い出として、同じ高校に入学する奴らと遊んだその帰り。季節外れの土砂降りに会って、傘もささずに帰っただけだ。たったそれだけのことなのに、悟は熱を出して寝込んでしまった。同じように濡れ鼠で帰った薫は平気だったのに。


 幼馴染の健康そのものといった姿に、悟はうらみがましい目を向ける。しかし鈍感な薫は、気付かなかったように話を続けた。


「そうそう、あとクラスにサザンカがいたよ」


 なんだそれは、と、悟は思った。


 サザンカと言えば確か何か植物の名前だった気がするが、それがクラスにいるとはどういうことだろう? 風邪で鈍った頭で、そんなことを考える。そのまま、なんのことか問おうとした瞬間、一つの情景が悟の脳裏によぎった。


――遊び場に向けて大きく窓が開かれた教室の中で、二人の人影がにらみ合っていた。一人は小柄な少女で、癖っ毛なのか、微妙にうねった髪を肩口まで伸ばしている。もう一人は、これまたゆるくパーマがかった髪をした少年で、少女に向かって何事かを言っているようだ。

 次の瞬間、少女の手が閃いて、少年の頭をぽかりと叩いた。それにかっとなったのか、少年も同じように少女の頭を叩き返す。そこから取っ組み合いの喧嘩が始まり――


「……ああ、あれか」

「思い出した?」


 一瞬で過ぎていった風景をもう一度映そうとするように、悟は眼を閉じ、その上に右腕を乗せる。働きの遅い脳細胞にいらつきながら、今度は自覚的に記憶を探ると、先ほどの情景に映っていた少女の姿が、幾分かはっきりと、頭の底から蘇ってきた。


 肩まで伸ばした、ふわふわとした感じのする髪。幾分か色の濃い肌。何より印象的だったのはその目で、猫のようにぱっちりとした目が、肌の色と相まって外国人のようだと思っていたことまで、悟は思い出した。


「三枝か。マジでいんの? あいつが」

「そうだってば」


 薫の言葉を聞き、悟は体勢を変えぬまま呻いた。


 三枝彩夏、通称「サザンカ」。


 薫と同じく、幼稚園時代の悟の同級生だ。あの時はやたらと男女の仲が近かった、というか無いものとして、皆誰とでも遠慮なく遊んでいた。その中でも、彩夏とは特に一緒にいた記憶が悟にはある。

 が、かと言って彼女と仲良かったと言われれば、そうではない。むしろ、最悪に近かったと、悟は記憶している。


「あいつがいんの? あの暴力女が? マジかよ……」

「何回も言わせないでよ。ていうか、そこまで言わなくても良くない? 小学校以来なんだし」


 それはそうなんだけどな、と、声に出せない言葉を悟は思う。


 細かいことまではあまり思い出せないが、とにかく彩夏とは、やたらと喧嘩をしていたような覚えがある。なにせ、互いに「暴力男」「暴力女」と言い合っていたほどなのだ。それだけに、悟の中では彼女に対する嫌悪感がぬぐえなかった。一言でいえば、


「めんどくせぇ」


 この言葉に尽きた。


 三枝の話はそこで終わり、薫は改めてクラスのことを話し始める。ひょろりとした風貌の担任の話や、目立っていた男子生徒の話、薫基準で可愛いめの女子の話など、彼独特のゆっくりとした声で話し続ける。


 そして、窓の外が暗くなってきた辺りで、薫は話を切り上げ、言った。


「それじゃそろそろ帰るよ。風邪伝染されても困るしね」

「いっそもらってくれ」

「やだよ」


 軽いやり取りを終えると、薫は立ち上がった。

 もう少し文句の一つでも言ってやろうと悟は思ったが、風邪で体力が落ちたためか、すでに熱とは違う、ぼんやりとした眠気が頭に満ちてくるのを感じた。


「それじゃぁ」


 待て、と、言えたかどうかもわからず、悟の意識は眠りの底に沈んでいった。





「さて、どうすっか……」


 まだ静かな廊下、教室の扉前に佇みながら、悟は思案を巡らせていた。扉を開けようと手を伸ばすも、静電気にでも触れたように、直前で縮めてしまう。


 悟が回復したのは、入学式のあった週の週末だった。それまでの間、毎日薫が見舞いがてらに学校で何があったかを事細かに話してくれていたが、それだけで全てが分かるわけではない。


 何より、『高校』という、場所も人も、何もかもが初めての場所に、他の同級生より出遅れたという事実は想像以上に悟に緊張を強いていた。その結果が、中学時代でも滅多にしなかった早起きだ。


 現在時間は7時をわずかに過ぎたばかりで、教室に来るまで悟は上級生はともかく同学年は二、三人ほどしか見ていない。まるきり自分が餓鬼の様で、悟は無性に情けなくなってきた。


「……なにやってるの?」

「いや、なんか入りにくくて」


 そんな時にかけられた言葉に無造作に返して、はて、と悟は振り返った。

 どこかで聞いたことのあるような声色の、しかし昔ならありえなかったトーンの声の主が、悟のすぐ目の前に立っていた。


 キレイと評すべきか、可愛いと評すべきか、なんとも言えず、悟はちょっとびっくりしてしまった。

 着ているものは学校指定のブレザータイプの制服で、降ろしたばかりなのか全体的に色が濃く、なんだかピシッとしていた。


 紺色のブレザー、襟元に除く白いブラウスと、そこを彩る臙脂のリボンと、別にどこかボタンをはずしたりアクセサリーをつけたりしているわけでもないのに『着こなしている』なんて言葉が頭によぎったのは、この服があつらえたかのように、目の前の少女に似合っていたからだろう。


 身長は悟より少し小さいくらいで、女子の割には高い方。細すぎず太すぎずの健康的な体に、自己主張する胸のふくらみ。

 すっきりとした髪は背の中ほどまで伸びていて、頭の後ろで一本にくくられて背中の中ほどまで伸びている。。ポニーテールと違い、ちょっとびっくりするくらいにまっすぐだ。

 小さく丸い顔に薄い唇と、どことなくお嬢様めいた可愛らしい顔つきなのに、アーモンド形の瞳が猫のようにぱっちりと開いていて、その印象を一気に勝気なものに変えている。全体的に濃い目の肌の色と相まって、なんだか野生動物のよう。


「……サザンカ」

「……?」


 思わず漏れた言葉に、目の前の少女の目元がつりあがるようにピクリと動く。

 何事か言われるかと身構える悟だったが、


「邪魔」

「えっ?」

「そこ私のクラス。入れないからどいてよ」


 なんというか、そりゃそうだ、という言葉だった。


 虚を突かれた悟は口をもごもごさせながら、場所を開ける。

 ふん、と鼻息でもさせそうな顔で少女は扉を開けると、入りざまに振り返って言った。


「誰だか知らないけど、人のこと変な名前で呼ばないでくれる」


 どちらかといえば、その時の彼女の汚いものでも見るような冷たい視線よりも、その言葉の方が、結構ダメージがでかかったと、悟は後から思うのだった。





 


 さすがにその後ろについて教室に入る気にもなれなかったので、悟は適当に一階の教室をぶらついて、ある程度生徒が登校し始めたタイミングで改めて教室に入った。


 一週間も立つとクラスの中でも徐々に集団ができ始めていて、見慣れない人間である悟にちらほらと遠巻きに見つめる視線が向けられたりしたのだが、その辺りで薫が上手いこと仲良くなっていたメンツを紹介してくれたので、なんとか悟は浮かずに済んだ。


 

 それから一週間、悟は皆と一周遅れの新しい生活になんとか慣れていくのに必死だった。


 授業はどの教科もすでに最初の授業を終えていて、教師の名前はもちろんのこと、最初から宿題を出してくるような教師の授業ではいきなり宿題の量が二倍になった。


 授業の中で一人だけ自己紹介させられたのもかなり恥ずかしかったし、休んでいた理由について詳しく聞かれた時は話をごまかすのに苦労した。


 仮入部期間もすでに始まっていて、クラスメートの大半が興味のある部活には一通り行っていたものだから、彼らが一度行った部活にもう一度行こうとも誘えず、悟は一人で仮入部を回る羽目になっていた。


「疲れた……」

「お疲れー」


 帰り道、お気楽といった表情で返す幼馴染に、悟はげっそりとした顔を向けた。


 悟にとって高校生活最初の金曜日、最後の仮入部を終え、どうにか入りたい部活を決めて入部届を担任まで提出すると、外はすでに夕日が差し込む時間だった。


 一足早くお目当ての部活(写真部だった)に入部した薫は悟の弾丸部活ツアーに参加することなく、しかしなんだかんだ帰りの時間は合わせる妙な律義さを発揮していた。

 やたらとクラスや上級生と思しき女子と仲良く話していた辺り、彼の人当たりの良さはある種の人気になりつつあるらしい。


「別にひと声かければついて行ったのに」

「誰かとつるまなきゃ動けない歳でもねえだろ高校生にもなって」

「そういう意地張るのは変わってないよね」

「うっせ」

「だから三枝さんと話ができないんだよ」


 いつもの憎まれ口の応酬に挟まれた一言に、悟は口をつぐんだ。


 薫の言う通り、あの朝から一言も、彼女とは話はおろか、挨拶すらできていない。

 三枝彩夏は案の定というべきか、その容姿からクラスでは中々人気がある用で、大抵の時間は女子たちに囲まれて楽しそうにしていた。委員会などの役職にはついていないし、授業中の発言も少ないが、それでも十分すぎるほどに、彼女は目立っていた。


 そんな彼女に、いくら元同級生とはいえ、三年ぶりの、それもそのあと特に接点もなかった男子が、わざわざ声をかけに行くのは、中々に難しい。しかも、偶然とはいえ一度会った時に「あんた誰」発言をされたのだ。


 それが嫌味にしろ、本気にしろ、さすがにそんなことを言ってきた相手に話しかけに行くほど、悟は神経が図太くはなかった。


「……別に、関係ないだろ」

「ふーん」


 それでも口ごもった悟の、なんとも言えない内心を見透かしたのか、薫は相槌を返した。


 日が落ちてきてもなお暖かい、昼間の温度がそのまま残っているような夕方の空気の中を男二人、黙って歩いていく。

 その足が、かつて通っていた幼稚園傍の公園に差し掛かったところで、悟はぽつりとつぶやいた。


「別に仲よくしたいわけじゃねえんだよ」


 薫はうなずかない。うなずかないが、促すように歩く足を止めて薫を見た。それにつられて悟も立ち止まる。


「たださ、収まりがつかねえんだよ。なんか落ち着かない」


 地元の中学校に進学した悟たちに対し、彩夏はどこかの私立中学を受験し、そのままそこに行ってしまった。

 その中学は中高大までの一貫校で、エスカレーターでそのまま大学まで行けるから、これであんたとの縁もここまでねと、卒業間近に彼女からそう言われたことを悟は覚えている。

 それがなぜ、またこうして同じ学校に通うようになったのか。気になるといえば気になるが、そこはまあ、別にどうでもいい。

 ただ、納得がいかなかった。

 あの朝のやり取りだけで済ませるには、かつての距離感があまりに近くて、そしてこの再会が、思っていたよりもはるかに早くて。

 どこに感情を置いていいのかわからない、居心地の悪さがずっと、彼女を見るたびに付きまとって付きまとってしょうがないのだ。


「なら早く済ませた方がいいよ。クラスで噂になりかけてるし」

「噂?」


 初めて聞く話に、今度は悟が薫の方を見る。薫はにへ、とした顔で


「うん、噂。サトルが三枝さんを好きなんじゃないかって話」

「はぁ?」


 思いがけない話を聞いて、奇妙な声が出てしまった。それを面白そうに見て、薫がさらに続ける。


「だってサトル、ちらちら三枝さんの方見てるし、その度にしわ寄せた変な顔してるんだもの。結構目立ってるんだよ。ただでさえ風邪で学校来るの遅れてたんだし」


 その噂は誰から聞いたのかと聞きたかったが、その疑問はぐっとこらえた。どうせ薫のことだから、仲の良くなった女子の誰かから聞いたのだろう。


 それはそれとして、そういった噂が立ち始めているのなら、なおさら早く動かなくてはまずいだろう。今でも相当に気まずいのに、悪目立ちしている状態で話しかけに行くなんて、見えている地雷原に突っ込むようなものだった。


「まあ、僕もそれはないんじゃないかなー、って言ってあるけどどこまで抑えられるかわからないし。本人がこのままじゃ説得力皆無だと思うんだよねー」

「わーったよ。早めに何とかする」

「ん、頑張れ」


 気づけば完全に日が落ちて、外灯のオレンジの光が視界を染めていた。さすがに真っ暗になると、春真っ盛りといえど制服の下にぞくぞくとした感覚が忍び寄ってくる。


「じゃあ。また明日ー」

「おう」






 が、悟は結局、次の一週間も彩夏と話すことはできなかった。二週間分の宿題量に加えて、ようやく決めた部活(水泳分)でも他の新入部員と一週間の差が出たせいで練習メニューや施設の確認で時間がかかったのだ。


 おまけに来週のGW明けすぐに中間考査をやるということで小テストの連打が重なり、病み上がりで体力の落ちていた悟は日々の生活をこなすだけで精いっぱいになっていた。とてもではないが、彩夏のことを気にする余裕がなかったのだ。


 そうこうしている内に一週間は過ぎ、気づけばGW前最後の一日になっていた。



「明日からGWに入りますが、既に不順異性交遊に走るような奴はいねぇだろうなぁ」


 強面の担任から、どすの利いた声が放たれる。それが冗談だとわかっているクラスからは、「あ、ばれました?」だの「いや、そんな相手いないっす」だの「先生セクハラ―」だのといった笑いが漏れた。


 担任が言う通り、今日はGW前最後の授業日であり、明日からは長い連休が始まる。

 高校生活最初の大型連休という事で、高校の別れた中学の友達と遊びに行く者、逆に高校で新しくできた友人と遊びに行く者。いきなり部活の大会に連れていかれる者や、大会はなくとも練習漬けにされる者もいる。

 中には、ちょっとした旅行に行く者もいるらしいというのを、悟は薫から聞いていた。


 が、現在進行形で、悟はそんな行楽気分とは完全に無縁な状態でいた。無論、原因は決まっている。


「……はぁ」


 机にもたれたまま、知らずため息が出る。その視界の斜め端で、件の彼女がぴっちりと前を向いて連絡を聞いているのが見えた。


 結局話ができないまま、日にちがたってしまった。

 やることがあり、余裕がなかったのは事実だが、それだけに却って視界に入った際の違和感と焦りは倍増しで、ついでにとうとう悟の耳にまで入るようになった噂の影響もあって、ここのところの悟の機嫌の悪さといったらなかった。

 部活で不用意に聞いてくるような人間もおり、そういった相手をごまかすのも一苦労で、それがさらに悟の不機嫌さを煽っていた。

 結果として、今の悟の眉間には常にしわが寄っているような状態が続いている。多分もう少しそのままなら、取れなくなるのではないかとは薫の言葉だ。


「………連絡事項は、以上になります。ちゃんと休み明けに学校来いよお前ら。すぐにテストだからな」

『は~い』


 ノリがいい人間がそろって返事をし、ついで週番の人間が号令をかける。

 挨拶を終えて三々五々、各自が教室を出ていく中で、ふととある生徒が声を上げた。


「雨じゃん」

「え、嘘―!」


 女子の黄色い声が立ちどころに上がり、皆が窓に駆け寄ると、確かに薄灰色の雲から、ぽたりぽたりと雨粒が降り始めていた。

 最初はぽつん、ぽつん、といったテンポだったそれは、やがてその勢いを増して少し強めのシャワーといった表情で校庭や校舎周りのコンクリートを濡らしていく。


 廊下の窓からそれを見ていた悟は、ポケットの中に入れておいたスマホがぶるりと震えたのを感じた。

 取り出すと、部で一年のまとめ役をやっている奴からのメールだった。雨のため、今日の練習内容が変更になるらしい。

 確認のためのアンケートに返事を返し、スマホをポケットにしまう。と、そこへ薫が声をかけてきた。


「やっほ。雨だけど、悟のところは部活あるの?」

「とりあえず部室にいったん集まれだと。そっちは」

「一応合宿前に集まろう、って話になってたんだけど、多分すぐ帰るんじゃないかな」


 いつも通りの緩い顔でそういうと、薫は辺りを見回すと悟の耳元に顔を寄せる。


「で、今日もこのまま?」

「……そうなる」


 小さな声でそう答えると、顔を話した彼は不機嫌そうに口を尖らせた。


「サトルがここまでヘタレだとは思わなかったよ」

「………」


 言い返したいところだが、さすがに自分の醜態はさすがにそう言われても仕方ないので、無言で相手を見返すだけにとどめる。


「仕方ないね、サトルって昔からそういうところあったし。あ、そういえば傘持ってきてる? また風邪ひいたら笑い事じゃないよ」


 はぁ、とため息をついたあと、確認するようにそう聞いてくる。それにはカバンから黒い持ち運び用の傘を取り出すことで答えた。


「ほらよ。最初に来た時からずっといれっぱ」

「ならよし」

「お前は俺のおふくろかなにかか」

「なわけないでしょ」


 それじゃあ、と手を振って離れていく薫に対して、悟は短く「じゃ」と声をかけ、こちらも部活へ向かおうと踵を返す。

 ふと気になって振り返ると、見慣れたストレートの一本結びが、窓のそばにたたずんでいた。




 部活は結局、他の外活動系の部活との熾烈な争いの結果(悟としては負けてほしかったが)、校舎の一角を使った筋トレ+自主トレになった。


 階段を使った全力ダッシュにペアを組んでの柔軟と筋トレ。そのあとフォームの確認と調整をやり、学校に設営されたウェイトルームで各学年と泳法ごとに配られたメニューに沿ってトレーニング。


 先輩方はそれぞれ専用メニューをがっつりやっていたが、まだ体のできていない新入生たちは軽いストレッチと柔軟、インナーマッスルトレーニングだけで早々に退出した。


 物足りない部分もあったが、早く家に帰ってゆっくりしたかったし、何より水泳部だけでなく他の運動部の先輩たちもウェイトルームにき始めたからだ。


 考えても見てほしい。せまい、それも雨で締めっぽくなった室内で、何人もの男子生徒が汗水たらして筋トレをしている姿を。

 そんな熱気と湿気と臭気がまじりあった暑苦しい空間に、誰が長時間いたいと考えるだろうか。

 そんなことを帰りのロッカーの中で一年組は口々に話していたのだが、悟は気づいていた。

 彼らの姿は、すなわち自分たちの未来の姿だと。


(その辺言ってもしょうがないしなぁ)


 内心でそうぽつりとつぶやくだけにとどめると、宿題やら着替えやらで重くなったカバンを背負って、ロッカールームを出た。


「まだ降ってるか」


 見上げる先には、うっすらと光を放っているようにぼやけた、灰色の雲。雨は霧雨のようになっており、傘をさしていても濡れてしまいそうだった。







 その姿を見つけたのは、以前薫と話をした公園。その並木道の中でひときわ大きな桜の木(だった気がする。すでに花が散って葉が生い茂っていたので、悟に見分けはつかなかった。もしかしたら、銀杏だったかもしれない)の下だった。

 濡れそぼってぺったりと背中に張り付いた長いストレートの髪。ぐっちゃりと重く垂れさがったスカートは黒く、ブラウスの袖も肌に張り付いて下の色を透けさせている。灰のベストも濡れてしまって真っ黒だ。

 霧雨にけぶる景色の中で、彼女のモノトーンの衣服の中、胸元のリボンだけが、鮮やかな色彩となって映えていた。


「………」


 その姿を見て、何を言っていいかもわからず、悟は立ち尽くした。

 いつ止むか気になるのか、彼女は上を向いたまま、こちらに気付いていない。

 木の下で雨宿りをする彼女と、そこから離れた並木道で、その姿を見つめる悟。

 遠い車の音も、公園近くの家からの雑音も、すべて雨音が柔らかく包み込む静寂。


(……なにやってるんだろう、俺)


 考えるまでもない、絶好の機会だ。

 周りにはクラスメートどころか人っ子一人いない、完全な二人きり。

 雨宿りをしている彼女が逃げ出すとも考えにくいし、もしそこまでされたら、それまでの仲だったとあきらめもつく。

 だから、今がチャンスだ。よう、とでも声をかけて、近づいていけば、それで終わる。入学してからの悩み事が、ようやくすっきりするのだ。

 そこまでわかっていて、それでも、悟はそこから一歩も動くことができなかった。まるでこの雨が氷となって全身を覆っているように、微動だにすることができない。氷は喉までを覆っているようで、ちょっとの振動も、自分から発することができなかった。


 ほんの少し、わずかでも音を立てたら、今目に映っているものが、壊れてしまう。

 そう思ったら、悟は完全に動けなくなってしまっていた。今日までの悩みが続くことよりも、今の瞬間が終わってしまう方がいやだった。

 だが、


「っくちっ!」


 一分か、十分か、一瞬か、それとも無限のようにも思えたその時間は、訪れた時と同じようにあっさりと、シャボン玉のように掻き消えた。


「おい、大丈夫か?」


 慌てて駆け寄ると、彩夏は鼻をすすりながら小さな声で「大丈夫です」と言いかける。だが、その目が悟の顔を捉えた瞬間、一気に吊り上がった。


「なに? またあんた?」


 他人行儀な台詞。だが、そこに込められていた感情に、以前には気づかなかった、懐かしくなるような物を悟は感じていた。


「そんなに睨まなくてもいいじゃんよ、『サザンカ』」


 だからもう怖気づかない。目の前にいるのが、見知らぬ誰かじゃない、昔確かに話したことのある人間だと、ようやく実感できたから。

 奇妙な自信をもってそう口にすると、彩夏の吊り上がった眼がさらに吊り上がり、すぐにはぁ、と垂れ下がった。


「男子ってやっぱキモイわ」

「久々にあった奴に初対面づらするのも相当キモイわ」

「あんたと知り合いだったなんて思い出したくなかったからでしょ。それくらい察しなさいよおサル」

「サルは頭が悪いんですぅ~。サルですので~」

「うっざ……」


 おどける悟を見て、彩夏は嫌なものを見たとでも言いたげに顔を背けた。が、やがてこらえきれないように小さく吹き出した。同じように、悟もにやける顔を抑えきれない。

 やがて二人は肩を震わせて笑いだしてしまった。さぁさぁとした雨音に、ハスキーな少女の声と、まだ声変わり前の少年の声が混ざっていく。


「ははは、っくしゅっ!」

「おい、大丈夫か?!」

「さむ……」


 思い出したようにくしゃみをした彩夏の唇は、気づけば少し紫になっていた。慌てて悟は、手持ちのカバンから今日は使わなかったスポーツタオルを取り出す。


「使うか?」

「……ん」


 しばしの逡巡の後、彩夏はタオルを受け取って髪の水分を拭きとっていく。そうしていくと、彼女が髪をかき上げた際に白い首筋があらわになった。


 突然目に飛び込んできたその光景に、悟は慌てて視線を逸らす。思い返すと、遠目に見た時と違って制服がぴったりとくっついているせいで、意外とある胸のふくらみだとか、柔らかい曲線を腰のラインだとかそういうものがわかる上に、着ている袖なしのベストの肩口から透けたブラウスの下に薄桃色のひもが見えたりなんかして……。


「ありがと」

「……お、おう」


 反応が遅れた悟を彩夏が不審な目で見てくるが、悟としてはいきなり頭の中で暴れ出した衝動が記憶をリフレインしてくるのでそれどころではない。


(やばいやばいやばい……!)


 何がやばいのかもわからないが、今頭の中で駆け巡っている情景とそこから飛び出してきそうな想像がとてつもなくよろしくないことぐらいはわかる。


「……キモ」


 耐えきれなくなって顔を背けると、小さく声が聞こえてますますいたたまれなくなる。

 ちらりと目だけをやると、彩夏も彩夏で不機嫌そうに明後日の方を見ていた。


「……そういえば、中高一貫じゃなかったか、サザンカが通ってた中学」


 気まずい空気をなんとかしたくて、気になっていたことを口にする。正直、なにか気をそらしていないとさっきまで頭の中で膨れ上がっていた何かがまた膨張しそうでしょうがないのだ。


「それが?」

「わざわざ、こっち来ることなかったんじゃねーかなと思ったんだよ。そりゃこっちも偏差値高いけど、明女ほどじゃないだろ」


 まだ吹き終わっていないが、話は聞いてくれるようで、悟は気になっていたことを聞くことにした。

 今悟が通っている高校は地元の公立校で、偏差値も進学実績もそこそこな、伝統だけが取り柄のような、よくある高校だ。それでも特にいじめや虐待などの問題が起きたこともなく、ずっと中堅少し上の偏差値を安定して保っている、良くも悪くも穏やかな校風の為、そこそこ人気はあった。

 一方、彩夏が中学時代通っていた明空女子学校は、中高一貫の上に、大学も受験こそ必要だが優遇処置がもらえるようになっていて、実質中高大までをストレートで通える名門校だ。

 それだけに偏差値も高く、確か悟が覚えている限り、小学校で明女子を受けた生徒は何人かいたが、受かったのは彩夏だけだったはずだ。

 わざわざそんな名門から、普通の高校に受験しなおしたことも、悟が彩夏を気にした理由の一つだった。


「そんなの、別になんだっていいでしょ」


 吐き捨てるような言葉に、はっとなる。

 先ほどまでの、悟に対する警戒心や洒落っ気とは異なる、もっと薄暗い強さが、その声に含まれていた。

 気づいたそれを口にするか、迷う。

 言ってもいい気もするし、悪いような気もする。デリケートな話題だという事ぐらい、薫に散々鈍いといわれる悟るにだってわかる。

 それでも、聞きたい気がする一方で、それを聞いてしまったら、ようやく少しは昔の距離感を取り戻した彼女と、また手探りの距離に戻ってしまう気もした。


「……あっそ」


 だから、悟はそれだけを言葉にした。


「そうよ」


 彩夏の返事もまた、そっけないもので。


 またしばらく、二人の間を雨音だけが通り過ぎる。

 やがて薄暗かった周囲はさらに光度を下げ、外灯が灯り始めた。


「やまないな」

「そうね」


 言葉の通り、雨は止まることなく、空から次々に降り注いでいた。更に春の風が周囲に吹き始め、小さい嵐のようになりつつあった。


「正田、帰んないの?」

「そっちこそ」

「私は……傘ないし」


 でなければ、こんなところで雨宿りなどしていないだろう。とはいえ、それならそれで他にやりようがあるのではないだろうか。

 髪を拭いたとはいえ、下がった体温まで戻るわけではない。雨で下がった気温は、強くなった風の影響で、制服を着ている悟でさえ肌寒く感じるほどになっている。服も濡れている彩夏ではなおさら寒いのではないだろうか。


「なら迎え来てもらうとかしろよ」

「母さん仕事だもの。一応LINEは送ったから、帰りに迎えに・、っくしゅっ」


 疑問に答えた彩夏が、また一つくしゃみをする。見ると、若干顔色が悪いようにも見えた。


(仕方ないか……)


 悟は顔をしかめて、手に持った傘を差しだす。頭の中で、薫が肩をすくめて見せた気がするが、それはもう無視することにした。


「使えよ」

「えっ、いいわよ、別にってちょっと!」


 断られるのは予想していたので、無理やり手に握らせる。

 言葉の割に、思いのほか抵抗が弱かったのは、やはり少し、体調を崩しかけているんじゃないだろうか。

 彩夏は困ったような、怒ったような、中途半端に目じりの上がった顔で、手元の傘と悟を交互に見た。


(これで突っ返してこないだろうな……)


 昔の彼女の言動からして、その可能性も十分考えられるのが恐ろしい。正直この場から逃げ出したい気持ちなのだが、背中から投げられたら困るし、ここまでやって結局使わず帰りました、というのも嫌だ。

 ハラハラしながら彩夏を見ていたが、やがて彼女は観念したように傘を胸元に引き寄せた。


「……ありがとう。でも、あんたはどうするのよ?」

「適当にジャージとタオル被ってダッシュするから平気だって。そんなに家遠くないし」


 (前もそう言って風邪ひいたんじゃなかったっけ?)という薫の幻聴が聞こえてきたが無視する。

 ついでに目の前の彩夏が何言ってんだろうこいつ、という視線を向けてきているのも無視だ。

 有言実行と、カバンからジャージを取り出す。


「タオル返して」

「えっ」

「えっ、て……」


 なぜかものすごく睨まれた。が、それがないとさすがにジャージだけでこの雨の中を帰るのは厳しいし、ここで返してもらわないと次にいつ返してもらえるかわからない。


「いや、返せって」

「いやよ」

「なんでだよ」


 それでも強情に返そうとしない彩夏に、若干語気を強める。

 が、彩夏も引こうとしない。後ろ手に隠してしまった。


「……じゃあ、いい」


 ここで力尽く、というのもさすがにどうかと思ったので、悟は引くことにした。ここで借りっぱなしにされたら困るが、そこまで悪い奴ではないので、ちゃんと返してくれるだろう。多分。


「じゃ」


 そう言って、ジャージだけを頭にかぶり、悟は木の下から歩き出す。途端に、全身を容赦なく雨粒が濡らしてくる。風が強すぎて、ただ乗せてるだけではジャージが吹き飛ばされそうだった。


「そうだ、正田」

「(……めんどいな)え?」


 さて、ここから走るかと重心を傾けていた最中の声に、若干ずっこけつつ、悟は振り返る。


「結局、私と何が話したかったの?」

「……あー」


 そういえば、忘れていた。本当は、なぜ彼女が最初にあんな他人行儀だったのかを聞きたかったのだった。


(まぁ、別にいいか)


 が、今日話したら、そんなことは、どうでもいいような気がした。

 理由がどうのよりも、肩ひじ張らずに話せば、案外どうにでもなるものだと、そう思ったのだ。


「忘れた」

「ふふっ、なにそれ」


 さぞ呆れられるだろうと思ったが、彼女の何かにはまったのか、お腹に手を当てて笑いだしてしまった。


「……じゃ、また来週」

「ふふふっ、また……」


 その顔に、何と言えばいいのかまたわからなくなり、悟はぶっきらぼうにそう言って踵を返した。

 立ち止まっていたから、既に全身はずぶぬれで、足はもう靴も靴下も濡れているのかどうか区別がつかなくなっている。

 ところどころにある水たまりも避けずに、大股で飛び越えると、その先にあった水たまりに足が踏み込んだ。ばしゃりと大きな音がして、水が跳ねる。


「……そういえば、LINEも何も聞いてねえ」


 思い出して、ぽつりとつぶやく。

 公園の出口から伸びる緩い坂を降りて、信号のない横断歩道を越えて、また緩い坂を上る。

 そうしてついた突き当りで息を整えるために足を止めると、そんな埒もないことが頭をよぎった。

 同時に、先ほどまでのことが次々に頭によみがえってくる。


――雨の中でたたずんでいた彩夏の姿。

――昔通りの、他愛ないやり取り。

――雨に濡れていた、煽情的な彼女の姿。

――中学時代の話題を避けようとしたこと。


「……また今度聞けばいいだろ」


 全部、頭を振って追い出して、それだけを言って。

 悟は、再度走り出した。


(楽しそうだね)


 多分薫がいたらそう、面白そうな顔で言うほどに、その顔は、すっきりとした笑みを浮かべていた。




 


 


彩夏のあだ名が某ラノベとかぶったのは全くの偶然です。申し訳ございません

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